歴史が動いた日。 昭和16年12月8日
昭和16年12月8日未明、オアフ島北方約420kmに忍び寄った6隻の空母から第一次攻撃隊183機が真珠湾を目指して飛び立っていきました。対米戦早期終結を睨み、狙い通り開戦劈頭に米太平洋艦隊を奇襲した日本海軍でしたが、その思惑は外れ、以後 3年8カ月に渡る総力戦へ突入していくことになります。 今回は、日米両国にとって歴史の転換点となった真珠湾攻撃の最も象徴的なシーンとして、空母赤城から先陣を切って発艦する零式艦上戦闘機と万感の想いで見送る兵員たちの姿をモチーフに取り上げました。日本の命運を背負い、今まさに放たれる精鋭たちと彼らを見送る整備員、指揮官たちの覚悟と使命感を感じていただければ幸いです。 |
【左】 赤城甲板上で発艦を開始する第二次攻撃隊・制空隊の零戦21型
第一次攻撃隊の発艦時刻は日の出1時間前(ホノルル時間午前6時、日の出は午前7時)であったためか、参考となる写真・映像はほとんど(というより一切)残されていないようです。従って残存する第二次攻撃隊の写真や多くの戦史書などを参考に、不明な部分は想像で描かざるを得ませんでした。 |
※ 商品カラーは、半袖:ナチュラル、長袖:ホワイト(白)です。
第一次攻撃隊の先陣を切って滑走発艦を開始する制空隊総指揮官・板谷茂少佐乗機 零戦21型「AI-155」号と、盛大な“帽振れ”“万歳”で見送る整備員、空母乗員たちの姿を想像で描いています。
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■ 零戦21型 「AI-155」号 | ||
第一次攻撃隊 制空隊指揮官・板谷茂少佐の乗機として知られる「AI-155」号は、赤城から最初に発艦した零戦とされています。母艦区別文字「AI 」および胴体の赤帯一本は第一航空戦隊一番艦(=赤城)を意味し、垂直尾翼の黄帯3本は飛行隊長機を示しています。昭和4年、海兵57期を首席で卒業した板谷さんは昭和16年4月からミッドウェー海戦まで赤城飛行隊長として戦い、その後は内地航空隊の参謀などを務めました。昭和19年7月24日、96式陸攻にて北千島方面へ移動中に陸軍戦闘機の誤射により乗機が墜落、悲運の戦死を遂げています。 【右】 「赤城」飛行隊長時代の板谷茂少佐。大東亜戦争前の昭和16年6月頃。 |
■ 補助翼(エルロン)に「マスバランス」を装備した改造型 零戦21型 | ||
【上】 ハワイ出撃直前の昭和16年11月下旬、択捉島単冠湾に停泊する「赤城」甲板上の零戦21型。左翼補助翼下に突き出ているのがマスバランス。 |
昭和15年末に制式採用された零戦21型(A6M2b)は翼端折りたたみ機構と着艦フックを装備した待望の空母運用タイプでしたが、翌16年4月、急降下実験中の空中分解事故により横空戦闘機分隊長・下川大尉が殉職する悲劇が起こります。1ヵ月半に渡る徹底調査の結果、主原因は主翼構造の強度不足と判明。加えて、高速域での補助翼操作を軽くするために導入されていたバランスタブ(補助翼後縁に装着された小翼)による悪影響も指摘され、直ちに改造案 ~ 主翼外板増厚、補助翼へのマスバランス追加 ~ が決定されました。 ハワイ作戦に備え、すでに九州地区で訓練に入っていた各母艦戦闘機隊のほぼ全機が改造対象となりましたが、突貫工事の末、作業は11月初旬になんとか完了。こうして開戦時における21型の補助翼にはカギフックのような形をした「マスバランス」が装備されることとなりました。 |
■ 「Z」信号旗は翻っていたか? | ||
第一次攻撃隊発艦時、旗艦赤城の信号マストには日本海軍伝統の決戦旗 「Z旗」 が掲揚されたと云われますが、「Z旗」そのものだったのか代用の「DG旗」(DとGを組み合わせてZを意味するとのこと)であったかは、写真や映像が存在しないため判然としません。私の感覚では後者とする論調が多いようですので、当デザインでは「DG旗」を描いています。赤城では攻撃日前日にも、山本連合艦隊司令長官からの電令 『皇国の興廃、繁りて此の征戦に在り、・・・』 を受信した際に「Z旗」を揚げていますが、こちらに関しても「Z」「DG」双方の記述が見られます。 |
■ 発着艦指揮官と発着甲板指揮官 | ||
発着艦指揮所の発着艦指揮官と甲板上の発着甲板指揮官による進行手順には様々な記述があり、正直よく判りません。ただ、第一次攻撃隊の発進時刻は日の出1時間前ですので、両指揮官は手旗ではなく懐中電灯によって合図を送っていたのではないでしょうか?ちなみに、1970年公開の日米合作映画 『 トラ!トラ!トラ!』 では、発着艦指揮官は電灯(青色)によって「発艦はじめ」を合図しています。また同作品には信号マストに赤地白丸の三角旗が揚がり、しばらく止まって降ろされる印象的なシーンがありましたので(発艦開始の合図?)、勝手ながら今回デザインにも流用させていただきました。 |
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■ 車輪止め(チョーク)を押さえる機付整備員たち | ||
機付整備員は1機につき7~8名いたそうです。彼らは担当機をエレベーターに載せて飛行甲板へ揚げると直ちに所定位置まで押して係止索と車輪止め(チョーク)によって機体を固定した後、エンジンの試運転を行って搭乗員を待ちます。搭乗員が乗り込み、「発進準備完了」を経て「発進用意」がかかると係止索を外し、2名を残して退去。この2名は激しいプロペラ後流を受けつつ、担当機の発進直前まで左右の車輪止めを押さえ続けます。兵頭二十八氏の 『 パールハーバーの真実 』 ( PHP ) によれば、整備員は「発艦はじめ」が発せられた後、搭乗員の合図で車輪止めを外し、速やかに舷のポケットへ退避する決まりだったとのこと。 |
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板谷少佐の2番機として出撃し、第一次攻撃隊・赤城戦闘機隊唯一の未帰還となった平野崟(たかし)一飛曹機 「AI-154」 の機体銘板を、米軍写真などを参考にして復刻いたしました。 |
※ 各記載データの意味は以下の通り (・・・だと思います)
型式 : 零式一號艦上戦闘機二型 |
簡単に言えば零戦21型のことです。 |
製造番号 : 三菱第5289號 |
11型以降、三菱が製造した零戦の通し番号を示しています。 |
製造年月日 : 1-8-9 |
製造年は皇紀で表示されていました。先頭数字 「1」 は皇紀2601年(昭和16年)を意味しますので、昭和16年8月9日製造ということになります。 |
■ 米軍写真に残る平野一飛曹機 「AI-154」 ■
史料や伝聞情報などによれば、対空砲火に被弾した平野機はヒッカム飛行場近くの工場前道路に墜落したとのこと。風防を境に胴体が真っ二つに折れているのが判ります(合掌) 墜落地点には米軍の手で記録銘板が設置されていますが、ヒッカム空軍基地の高度警戒エリア内であるため、一般人が見学するのは少し難しいようです。 |
飛行科を示す青色の兵科識別桜徽章と機体銘板風の零戦ロゴをワンポイントでデザインしました。 |
零戦ロゴは、戦後ココポ(ラバウル南東 約30km)の海岸で発見された零戦22型の残骸から復元したと思われる機体銘板(↓)の書体を参考にしました。
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■ 旧海軍 各科識別桜徽章 ■
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兵科色はもともと准士官以上が対象でしたが、昭和17年11月の改正により下士官兵の兵科も階級章の桜徽章の色で識別するよう変更されました。主な兵科色は以下の通り。 |
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■ カラー : ナチュラル ■ サイズ : S~XXXL ■ 価 格 : S~XXL・・・¥4000(税込)、XXXL・・・¥4200(税込) ■ 使用Tシャツ:クロスステッチOE1116 ■ 素材 : 綿100% 6.2オンス 16/_ 天竺 ■ プリント手法 :右袖=シルクスクリーン、前面・背面=淡色インクジェット | |
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■ カラー : ホワイト ■ サイズ : S~XXL ■ 価 格 : ¥4400(税込) ■ 使用Tシャツ:クロスステッチRL1216 袖口リブ付き ■ 素材 : 綿100% 6.2オンス 16/_ 天竺 ■ プリント手法 :右袖=シルクスクリーン、前面・背面=淡色インクジェット | |
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