一応私も「戦史好き」の端くれにつき、昔から関連書籍をそれなりに読んでおりますが、ここ数年はインターネットから情報を得る機会も多くなってきました。
こうして様々なレベルの知識がランダムに蓄積されてきますと、自分として辻褄の合わない情報に疑問を感じる機会もまた増えて来ます。大抵の場合は「?」でスルーしてしまうのですが、たまに自ら確認しないと気がすまない疑問に出会うこともあります。
今回は「343空(2代)」 戦闘701飛行隊長 ・ 鴛淵孝 ( おしぶち たかし ) 大尉 の所属部隊変遷に関する個人的な疑問について書くことにいたします。
■ ラバウル「台南空」の鴛淵中尉
今さらご説明するまでもなく、鴛淵さんといえば紫電改精鋭部隊「343空(2代)」の戦闘701飛行隊長として活躍された方で、大変知名度の高い海軍軍人の一人です。
その鴛淵中尉(当時)の実践部隊初配属は ラバウル「台南空」 であったというのが定説となっており、戦後刊行された多くの戦史著作にその記述が見られます。私が過去に読んだことのある出版物は以下の通りですが、「台南空・鴛淵中尉」に関連するそれぞれの記述内容も簡単にまとめてみました。※言うまでもなく「台南空」とは、坂井三郎さんや西澤廣義さんなどが在籍した、あの「海軍台南航空隊」のことです。
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『 蒼空の器 若き撃墜王の生涯 』
豊田穣著、光人社(1978年12月)
※ 鴛淵さんの伝記「的」読みもの 著者は鴛淵さんと海兵同期(68期) |
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鴛淵中尉はラバウル着任後の昭和17年8月7日、笹井中尉の2番機として初実戦に参加、初撃墜を記録する。8月26日、ムンダ飛行場にて笹井中尉の最期を目撃した。 |
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『 戦話・大空のサムライ 』
坂井三郎著、光人社(1981年7月) |
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鴛淵中尉のラバウル「台南空」着任は昭和17年6月で、坂井さん本人が空戦の手ほどきをした。 |
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『 紫電改の六機 』
碇義朗著、光人社(単行本1987年7月) |
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鴛淵中尉のラバウル「台南空」着任の正確な期日は不明だが、坂井三郎さんの証言から昭和17年7月末か8月はじめあたりと想像される。坂井さんは鴛淵中尉に中隊長としての心構えを説き、ラバウルを去る際には「笹井中尉を頼みますよ」と語ったという。鴛淵中尉は笹井中尉戦死後も、河合四郎大尉らとともに台南空を背負って戦った。 |
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『 局地戦闘機 紫電改 / 歴史群像太平洋戦史シリーズ vol.24 』 収録記事 『 坂井三郎が語る「紫電改」と343空 』 (取材・文=世良光弘)学研(2000年1月) |
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坂井さんはラバウル台南空で鴛淵中尉を直接指導した。また、後に343空で鴛淵大尉と再会した際、「申し訳ありません。私の至らぬことで笹井中
尉を殺してしまいました」と何度も詫びられたという。 |
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『 源田の剣 』
ヘンリー境田・高木晃治 共著 ネコパブリッシング(2003年8月) |
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鴛淵中尉の「台南空」転勤年月は不詳であるが、坂井さんの証言から、昭和17年8月7日(坂井さんがガダルカナル上空で重傷を負った日)以前に着任していたと思われる。 |
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『 最強撃墜王 零戦トップエース西澤廣義の生涯 』
武田信行著、光人社(2004年7月) |
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鴛淵中尉のラバウル着任早々に笹井中尉が戦死(昭和17年8月26日)、中尉本人もマラリアに罹って入院してしまい、ついにラバウルで出撃する機
会はなかった。昭和17年11月、「251空」と改称した「旧・台南空」とともに本土帰還、昭和17年年末以降豊橋基地にて西澤上飛曹らから厳しい指導を受け、ラバウル再進出(昭和18年5月)に備えた。 |
以上、直接的・間接的・引用を含め様々なレベルの記述がなされており、鴛淵中尉がラバウル「台南空」に配属されていたことは間違いないと思われるわけです。
一方、「台南空 飛行機隊戦闘行動調書」(アジア歴史研究センターにてネット閲覧可能)に鴛淵さんの名前は全く見当たりません。つまり、出撃記録が全く無いわけですが、これは 『 最強撃墜王 』 の記述に見られるように、マラリアに罹って入院していたからであろうと解釈することも出来ます。
■ 素朴な疑問
昨年、たまたま台南空・河合四郎大尉について調べていた時、ある好史家の方からネットを通じて以下の様な情報を教えていただきました。
「 発令記録では、鴛淵中尉の251空(旧・台南空)着任は昭和18年3月29日で、
その前は大分航空隊付教官です・・・」
ん?これはおかしい!
もしその方の情報が真実だとすれば、
鴛淵さんはラバウル「台南空」にいなかったことになるからです。
前述の通り、鴛淵さんは昭和17年夏頃からラバウルの台南空にいたはずで、11月に251空と改称したのち同隊と共に内地帰還し、そのまま251空分隊長として昭和18年5月にラバウル再進出を果たしているはずなのです。
そこで、その方に再度確認したところ、次の様な返答をいただきました。
「 辞令記録は事実です。ですが、辞令だけをもって真実と断定するのは危険でしょう 」
この時、「自分の目で確認したい」という欲求が湧いてきました。
■ 記録の確認
このような流れで、昨年末、わざわざ東京まで出掛けて「 防衛省防衛研究所・戦史研究センター史料室 」(目黒区中目黒)へ行ってまいりました。目的はもちろん、鴛淵さんの所属部隊変遷記録(辞令情報など)の確認です。
上京前から史料室の方と文書にて相談させていただき、私が主に閲覧したのは下記史料です。
① 『 芳名録 』(海軍兵学校第六十八期会発行、昭和42年)
② 『 現役海軍士官名簿 昭和十七年十一月一日調 上巻 』(海軍省)
①の『芳名録』で変遷部隊名を確認し、②の名簿でそれらの発令日付を見ることができましたが、
その結果、やはり 記録上に「台南海軍航空隊」の文字は全く存在しない ことが確認できました。
②の名簿の調査日は昭和17年11月1日ですので、鴛淵さんがラバウル「台南空」に在籍していたのであれば、鴛淵さんの欄の冒頭表記は「251空」又は「台南空」( ※台南空は11月1日付で251空へと改称された )となっているはずですが、そこに書かれていたのは「大分航空隊附教官」でした。
つまり、海軍省によれば、昭和17年11月1日時点での鴛淵さんの所属部隊は大分空であったということです。
因みに閲覧史料によれば、鴛淵さんの部隊変遷は以下の通りとなります。
練習航空隊飛行学生 → 横須賀航空隊附兼教官 → 大分航空隊附兼教官 →
第二五一海軍航空隊分隊長 → 第二五三海軍航空隊分隊長 → 厚木海軍航空隊附 →
厚木海軍航空隊分隊長 → 第二〇三海軍航空隊飛行隊長兼分隊長 → 戦闘第三〇四飛行隊長 →
戦闘第七〇一飛行隊長
坂井さんは、ラバウルで鴛淵さん本人に空戦を教えたと記述されていますし、戦史作家の方々も鴛淵さんはラバウル台南空に在籍したと書かれております。しかしその一方、私にでも調べられる海軍省の発令記録に「台南空」配属の記述は無く、さらに誰でも簡単にネット閲覧可能な「台南空飛行機隊編成調書」にもその名前はありません。日々史料と格闘されている戦史作家の皆さまは当然、このことは昔からご存知です。
う~~ん・・・これはどう理解したらよいのだろうか?
■ ラバウルの海軍病院で撮られた写真
その後、この件に関連する記事が無いかと、暇をみては過去の雑誌・著作などをあてもなく読み返しておりましたが・・・
なんと自宅の書棚(!)にあった「 歴史街道 2010年7月号 / 総力特集 零戦とラバウル航空隊 」(PHP研究所)に興味深い記事を発見いたしました。同号には数人の戦史作家の記事が掲載されており、「 最強撃墜王 」の著者・武田信行氏 が西澤さんに関する文章を寄せておられます。
『 「何機落としたら貰えるのかい?」 長身の魔王、再び死闘の空へ 』 と題したその記事の中に、鴛淵さんに関する記述があったのです。少し長くていろいろな意味で恐縮ですが、興味深い内容ですので以下に引用させていただきます。
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『 鴛淵は、昭和17年7月の半ば頃にラバウルの台南空に配属となったと思われるが、不思議なことに当時の台南空の「編成調書」には、鴛淵の名
は一度も出てこない。おそらく彼は、ラバウルへ来て早々、内地とまったく違うラバウルの風土に適応できずに体調をくずしてしまい、その上、海軍兵学校の先輩で兄貴とも慕っていた笹井醇一中尉を失ったショックも加わって、基地の病院で療養生活に臥せっていたものと思われる。
というのも、長野県小川村の西澤の実家のアルバムの中には、背景から考えて、ラバウルの海軍病院の庭で撮ったものと思われる鴛淵の写真があるからだ。どうして一下士官に過ぎない西澤のアルバムの中に、病気療養中の鴛淵の写真が残されているのか。さらにそのアルバムには飛行服を着て微笑む鴛淵中尉の写真まであった。この二枚の写真を見て、私は「やっぱりそうだったのだ」と納得したものであった。
結局、鴛淵がラバウルでは実戦を経験できずに終わったとすれば、そんな鴛淵中尉の技術指導を内地の豊橋基地で西澤が中島飛行長に託されたというのも、ラバウルでの坂井三郎先任搭乗員と笹井中尉の例もあり、十分想像できることだ。』
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このように武田氏は、鴛淵さんが台南空にいたことを示唆するひとつの根拠として、ラバウルの海軍病院にて撮られたと思しき「写真」の存在をあげておられます。ラバウルの海軍病院への入院はおそらく事実だと思われますが、その時期については、「251空」(旧台南空)がラバウル再進出を果たした昭和18年5月以降である可能性もあるわけですので、その写真をもって鴛淵中尉=台南空と結論するのはあまり納得できない説明ではあります。また、その写真が西澤さんのアルバムに所蔵されていたという事実も、鴛淵さんの入院が台南空時代であったことを説明する理由にはならないと思うのですが・・・?
そこで、
ラバウル進出後の「251空」及びその後転属した「253空」における鴛淵さんの出撃記録を見なおすことにいたしました。
「台南空」同様、同隊の記録は「アジア歴史研究センター」サイトにて誰でも見ることが出来ます。私は過去何度もこれらを閲覧しておりましたが、よく調べる鴛淵さん、林(喜重)さん、西澤さんの3名についてはその記録を書き写しておりますので時間はかかりませんでした。
その結果、鴛淵さんの出撃記録が無い2つのブランク期間があることがわかります。
① 「251空」時代:
昭和18年5月23日「ニューブリテン進撃哨戒」~6月23日「ワウ・ブロロ方面索敵攻撃」間の約1カ月
② 「251空」~「253空」時代:
昭和18年7月21日「レンドバ島敵艦船攻撃艦爆隊支援」~10月2日「セ号作戦 SYS上空哨戒」間の約2カ月半
この間に鴛淵さんがラバウルの海軍病院に入院していた可能性が考えられるわけですが・・・
● まず ① に関しては、ブランクの理由がほぼ判明しています。
碇義朗著「紫電改の六機」および武田信行著「最後の撃墜王」にその原因に関する記述があり、着陸時の転覆事故により右肩を強打してしばらく休養を余儀なくされたことが書かれています。ただし、事故発生時期については相違があり、「紫電改の六機」は「6月はじめ」としているのに対し、「最強撃墜王」では明確に「6月7日」と確定していますが、「251空飛行機隊戦闘行動調書」の6月7日出撃記録(ルッセル島敵機攻撃)に鴛淵さんの名前は見当たりません。また両著ともこの時鴛淵さんが入院したか否かについては触れておりません。
● 次に ② に関してですが、
実はこの時期に鴛淵さんがマラリアで入院していたとの証言を呈している著作が存在します。
それは、582空の主計中尉としてラバウルに滞在されていた守屋清さんによる手記 『 回想のラバウル航空隊 』
(光人社、2002年)で、163~164頁に以下の記述が見られます。
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『 発熱5日目の30日※、また40度ちかくに熱が上がったので、とうとう八病※の麻雀部屋ならぬ士官病室に収容された。( 略 )私が入院したとき、となりのベッドに251空の鴛淵孝大尉がマラリアで入室していた。( 略 )病院における鴛淵大尉は、じつに穏やかで礼儀正しく、真の海軍軍人に接した思いがした。』
※ 30日とは昭和18年8月30日、「八病」とはラバウルの「第八海軍病院」を意味します。
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これによりますと、鴛淵さんは昭和18年8月30日には既にマラリア治療のためラバウル「第八海軍病院」に入院していたわけで、この時期はブランク時期 ② ( 7月22日~10月1日 )と合致しています。
従って、武田信行氏が述べた“ラバウルの海軍病院での鴛淵さんの写真”は、この時期に撮影された可能性もあるのではないでしょうか?
また、2か月半に渡る鴛淵さんのブランクの間、昭和18年9月1日付で251空は夜戦隊へ改編され、それにともなって鴛淵さんは253空に転属となりますが、西澤さんもまた同部隊へ異動しておりますので、ラバウル再進出以来ずっと同隊であった西澤さんがその「写真」を所持していたとしても特に不思議はないように思えます。
■ 結局真相は不明?
今現在、私個人としましては、何となく 「 鴛淵さんは台南空にはいなかった 」 という気がするのですが・・・
そこに大きく立ちはだかるのは、やはり坂井さんの記述&証言なんですね。
特に以下ふたつは「当事者」としての坂井さんの証言であり、明らかに鴛淵さんが台南空にいたことを示しています。
従って決定的な意味を持っているように思えます。
① ラバウル「台南空」に配属されてきた鴛淵中尉に空戦の手ほどきをした(『戦話・大空のサムライ』の記述 )
② 「343空(2代)」戦闘701で鴛淵大尉と再会した際、笹井中尉戦死の件で何度も詫びられた
(「局地戦闘機 紫電改 / 歴史群像大変要戦争シリーズ 24」収録記事内での取材証言 )
余談ですが、 以前「ポートモレスビー編隊宙返り」Tシャツを作製した際に宙返りの実施日を調べたことがありましたが、
「大空のサムライ」での坂井さんの記述 ( 宙返り実施日=昭和17年5月27日 および当日の編成など ) は 「 台南空飛行機隊行動調書 」 の記録と全く合致しておらず、非常に面食らった記憶があります。このようなことを書くのは誠にもって僭越至極かつ失礼千万極まりないのですが・・・私個人といたしましては、細かい日時や編成に関する坂井さんの記憶には時々「?」なところが混在しているという感覚がございます m(_ _;)m
とまぁここまで考えて・・・
結局、鴛淵さんは台南空にいたのかいなかったのか?もちろん現時点で「真相」は全然わからないわけでございますorz
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「100年経たないと歴史は固まらない」
たしか司馬遼太郎さんの言葉と記憶しておりますが、ふと頭を過りました。
大東戦争終結から67年が経ちますが、未だに戦争に至った重要な部分は多くが不透明なままです。
人間が紡ぎ出す歴史には間違いなく「表」と「裏」があり、個人の人権・名誉や各国家の体面・戦略などが複雑に作用しているからでしょうが、ある意味「重要な真実ほど後から出てくる」ということが言えるのかもしれません。
一方、当事者としてその時代を生きてこられた方々の老齢化・物故は容赦なく進み、その貴重な記憶もどんどん希薄化していくわけで・・・このような状況に得体の知れない焦燥感を感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
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