今でこそ振り返れば、戦術的・戦略的にも無謀(無意味ではもちろん無い)であったと言える大和隊の出撃ですが、
この作戦を決定した当時の海軍上層部は何を考えていたのでしょうか?
■ 総責任者その1 : 軍令部総長 及川 古志郎(おいかわ こしろう)大将
▲ 及川 古志郎大将
| 沖縄が激しい艦砲射撃を受けつつあった1945年3月29日、 軍令部総長・及川古志郎大将は、天号作戦に基づく航空特攻計画を 天皇陛下に奏上した。 その際、昭和天皇から 『 しかし海軍はどこにいるのか?艦艇はもういないのか? 』 という旨ご下問があり、 返答に窮した及川は畏怖退席したと伝えられている。
この頃、連合艦隊では残存艦艇を軍港で砲台化する「艦隊解散論」が主に 議論されていたのだが、これを機に以前より一部で燻っていた大和以下残存艦艇を出撃させる作戦が急速に現実味を帯びてくることになる。 |
軍令部総長としての作戦認可に際しては、驚くべきことに・・・
後述する連合艦隊首席参謀・神重徳大佐の強硬な承認要求を次長・小沢治三郎中将が承認するのを
同席黙認したのみで、何の意見も述べなかったとされている。
及川大将は昭和15年9月、第2次近衛内閣の海相に就任し、
それまで海軍が拒み続けていた「日独伊3国同盟締結」に同意したことで有名である。
( 陸海軍対立先鋭化による国情混乱を恐れたらしい。)
また開戦直前の10月12日、中国から撤兵するか日米開戦かという基本方針が論議された
近衛首相邸での会談の席上、及川海相は「総理一任」とだけ述べている。
戦後、井上成美大将に なぜ「海軍は戦えぬ」と明言しなかったのか?と詰め寄られた時、
彼は自身の責任を認めた上で理由を2つ挙げたという。
1、故・東郷元帥の申し次により、海軍部内で「海軍は戦えぬ」と言うことはタブーだった。
2、責任逃れだった。
■ 発案・主要推進者 : 連合艦隊首席参謀 神 重徳(かみ しげのり)大佐
事実上同作戦を発案・推進したのは、連合艦隊首席参謀・神重徳大佐である。
4月5日午前、連合艦隊司令部(日吉)における作戦会議の席上、
大佐は唐突に同作戦を提案し、こう述べたという。
▲ 神 重徳大佐
| 『 第二艦隊は明日、菊水一号作戦に参加します。 略号名は天一号作戦になります。 旗艦大和は矢矧、駆逐艦八隻とともに出撃、 4月8日、沖縄沖のアメリカ艦隊と輸送船を攻撃します。 副砲以下をもって陸軍部隊を支援しつつ、 主砲をもって敵に最大限の打撃を与えた後、 大和は海岸に乗り上げ、 余った乗員は上陸して守備隊を増援します。』 |
この時、艦艇出撃に難色を示していたとされる連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将は
航空特攻打ち合わせのため九州出張中で不在。
燃料問題等で議論はあったが、最終的に司令長官・豊田大将は作戦を承認する。
出張中の草鹿参謀長及び実行部隊となる第2艦隊司令長官・伊藤中将には何の打診もなされていない。
その後、承認を得るため軍令部へ出向いた大佐は、
まず第1部長(作戦担当)
富岡定俊少将を説得するが同意を得られなかった。
軍令部次長・
小沢冶三郎(おざわ じさぶろう)中将にも
「自殺的作戦、やめたほうが良い。燃料も片道以上供給できない。
※」と強く反対される。
しかし神大佐は「片道燃料でも決行する
※」と粘りに粘り、ついに次長から
「
連合艦隊司令長官がそうされたいと決意されたのなら、いいでしょう。」
との苦渋に満ちた言質を引き出し、承諾を得る。
※この時既に、連合艦隊側は燃料確保の算段をつけており、
実際に大和には往復可能な4000tの重油が積まれている。
最後は軍令部総長だが・・・
前述の通り、この時すでに同室していた軍令部総長・及川大将は、終始無言で通して黙認したという。
同作戦に関する大佐の発言には以下の様なものも伝わっている。
『 たとえ10%しか見込みが無いにしても、やって見る価値はある。
真の侍は努力が報いられるか否かは問わないのだ。
商人ではないのであり、ただ自分を犠牲にする機会を求めるのだ。』
『 日本海軍は今、練習中の搭乗員や練習機を特攻攻撃に使用しているのに、
何故大和だけが特攻に参加しないのか。
成功の可能性はわずかしかないが、我々は沖縄に出撃し、連合艦隊の最後の死所を得なければならない。
断じて行えば鬼神もこれを退く。天佑は我にあり 』これらの発言だけ見ると神大佐の参謀としての平衡感覚が疑問視されてしまうのだが、
大佐の作戦立案能力は決して底の浅いものではないようだ。
第1次ソロモン海戦では第八艦隊参謀として艦隊夜襲作戦を成功させ、
多摩艦長として参加した
キスカ島撤退作戦では、
躊躇する艦隊長官に即時突入を進言、結果的にではあるが作戦を成功に導いている。
また、囮艦隊を用いての
レイテ湾突入作戦は、制空権喪失下の海上作戦としてアメリカ軍からの評価が高い。
※連合艦隊参謀着任(昭和19年7月)直後、サイパン島へ旧式戦艦部隊を強行突入させる作戦を立案するが、
これは却下されている。
概して“殴り込み”的な作戦立案が目立つが、「
勇猛果敢な熱血漢」これが大佐を正しく表現する言葉ではないか?
連合艦隊参謀就任時には戦局自体が破滅しており、実効的な作戦など立案出来る状態ではなかったが、
少なくとも神大佐自身は大和隊の出撃を「無謀な特攻」とは考えていなかったのではないか・・・と私には思える。
戦後昭和20年9月15日、公務で北海道部隊を訪れた帰路に搭乗した飛行機(白菊練習機)が
津軽海峡に不時着し、飛行機とともに海没・殉職している。
他の搭乗員は救助されており、大佐が自ら死を選んだという説もあるが真相は不明。
■ 総責任者その2 : 連合艦隊司令長官 豊田 副武(とよだ そえむ)大将
神重徳首席参謀の提案を受け入れ、作戦に承認を与えている。
もともと水上艦艇出撃に積極的だったと言われる長官の真意は量り難いが、
戦後以下のように語っている。
『 私は、成功率は50%はないだろう、成功の算、絶無だとは考えないが上手くいったら奇跡だと判断した。
けれども、急迫した戦局に置いてまだ働けるものを残しておき、
現地の将兵を見殺しにすることは、どうしても忍び得ない。
多少でも成功の算があれば、できることは何でもしなければならぬという気持ちで決断した。』
成功率云々というのは戦後の言い訳であり、本心ではないと思う。
なぜなら、成功率50%未満の作戦の成功を「奇跡」とは言わないからだ。
沖縄突入はまず不可能と理解しながらも、一方では大和隊が囮になることにより
航空特攻の戦果が期待できると算段していたであろう。
▲ 昭和19年、連合艦隊日吉司令部における豊田連合艦隊司令長官。
左端:草鹿龍之介中将、右端:航空参謀・淵田美津夫中佐。
その後5月、軍令部総長に転出した豊田大将は、同次長・大西瀧治郎中将とともに
本土決戦・徹底抗戦を主張し、鈴木貫太郎内閣で終戦工作を進める米内海軍大臣と対立。
戦後、戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判では不起訴となっている。
■ 実行部隊司令官 : 第2艦隊司令長官 伊藤 整一(いとう せいいち)中将
海上特攻隊司令官・伊藤整一中将は「航空援護皆無では艦隊の消滅は必至である」として、
同艦隊の多くの幕僚とともに最後まで作戦に反対を唱えたとされるが、
出撃当日大和艦上の作戦会議において、連合艦隊参謀長・草鹿中将の
「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」
という苦渋の言葉を聞いて「納得」した、と伝えられている。
▲ 伊藤整一 中将 | ▲ 大和艦上の第2艦隊首脳。出撃前日、4月5日の撮影。 前列左3:伊藤整一中将(戦死)、中央:艦長 有賀幸作中将(戦死) 右3:前大和艦長 第2艦隊参謀長 森下信衛少将(生還) |
伊藤中将は軍令部次長時代、
航空特攻や桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)などの特攻兵器導入に異を唱えず黙認決裁しており、
今度は自らが出撃命令を受けるという皮肉な運命を背負うこととなった。
彼の本心は全く量りかねるが、副官であった石田恒夫少佐が戦後語った話では、
『 息子が特攻隊員なんだ。もうじき死ぬんだよ。俺も生きていたって仕方がない 』と苦渋の心境を吐露したという。
この発言だけを取り上げれば、素直に本音を語っているという判断もできる一方、
決死の部下を率いて困難な戦闘に向かう総指揮官の言としては少々寂しいものでもある。
また、多くの特攻隊員を送り出した責任者の一人としての自覚も感じられないのだが・・・。
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同作戦決定に関わった多くの方々の内、
今回はごくわずかな重要人物にスポットを当てて考えてみました。
いかにも日本人的とも取れる曖昧な決定思考とともに、
末期海軍における複雑なセクショナリズムの一端が見えたような気がします。
また、大和隊は「特攻」だったのか否か?という点に於いても大いに疑問が残ります。
『1億総特攻の魁になってほしい 』と命令された以上、「特攻」であるはずです。
しかし、第1遊撃部隊の戦没者には特攻死に与えられる「2階級特進」措置は全く取られていないのです。
※主な参考文献
「丸」'97 2月号付録「海戦大辞典」
「丸」平成7年4月別冊 戦争と人物14 「太平洋海戦辞典」
歴史群像シリーズ「決定版 大和型戦艦」
「戦艦 大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録」秋元健治 / 現代書館
「連合艦隊」黒田吉郎 / 剄文社
別冊歴史読本 戦記シリーズ30 「日米海軍海戦総覧」/ 新人物往来社
別冊歴史読本 戦記シリーズ33 「戦艦大和と艦隊戦史」/ 新人物往来社
別冊歴史読本 特別増刊70号 「沖縄 日本軍最後の決戦」/ 新人物往来社
「日本軍艦戦記」半藤利一 / 文春文庫