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明けましておめでとうございます  2011/01/04

正月から初めての青色申告で苦闘しております。
昨年会計ソフトだけ購入し、
「正月2日ほど集中してやればOKだろ。どうせ初年度は大赤字だし♪」
~などと勝手に超楽観視していたのですが・・・全くそ~はいかなかったです。orz



さて、TOPページの「掲示板イメージ」ですが
昨年までの空母「赤城」甲板から、南方前線基地風に変えてみました。

太平洋戦争初期、占領地を転戦しながら急速な南方進出を繰り返す
戦闘機部隊司令部の簡易指揮所をイメージしています。
黒板左の「竹竿」は気象形象標識の吹き流し用。
黒板の前には航空隊司令部の簡易幕舎(テント)が建っていることでしょう。

南方基地

赤城甲板


今年も「Osabetty's」をよろしくお願い申し上げます。

次回作品は、大和と零観です。 2011/01/13

店長日記でお知らせした通り、次は「日本陸軍」の予定でしたが・・・
何がどーなったかわからないうちに?なんと、戦艦大和モチーフになってしまいました (^^;

構図は以下の通りです。

1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦・海上特攻で出撃する第1遊撃部隊の前方対潜哨戒を終え、
バンクしながら大和を見送る零式水上観測機。


海上特攻時の大和を出来る限り正確に描く。
これがひとつの重要ポイントですが、
当時の大和の姿については不明な点が多いようです。



 例えば、昔からよく言われている
楠正成の旗印「非理法権天」(ひりほうけんてん)の幟(のぼり)が掲揚されていたというはなし。
最近の模型でもこの幟が翻っているものがあるようです。
しかし、“最後の大和乗組員”八杉康夫氏によればそのような事実は無かったとのこと。
当時、測的発信手として大和の最も高いところ(主砲射撃塔)にいらっしゃった本人がおっしゃるのだから
まず間違いないと思われますが・・・。どうなんだろうか?

戦艦大和



 また、艦尾の無線アンテナ用・空中線支柱(高さ16m余りの鉄塔)が撤去されていたらしいという事実。
これは米軍撮影の空撮写真等からなんとか確認することが出来ます。
レイテ沖海戦時、自らの対空射撃によってアンテナ線を多数切断してしまった結果、通信力が著しく低下したという
教訓によるものと言われており、代用アンテナ線を前部艦橋から煙突部に渡していたらしいです。

戦艦大和



 さらに、戦闘前、艦尾に軍艦旗(海軍旗)が掲揚されていたかどうか?
これはもう、調べても全然わかりません。Orz
戦闘時には間違いなく降ろされていたとは思われますが。


_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _

さて、いずれにせよ大和を描く以上、
その複雑な構造美の再現が肝要なのですが、
シルクスクリーン印刷でどこまで表現できるのか?
これはこれで、ひとつの勝負です。是非ご期待くださいませ。




戦艦「大和」の沖縄特攻を見送る零式水上観測機 / コットンTシャツ

「零式水上観測機」について  2011/01/16

次回Tシャツ作品モチーフのひとつ、「零式水上観測機」(略称:ゼロカン / 連合軍呼称:Pete)
について概説しておきましょう。


三菱「零式水上観測機」は1940年(昭和15年)制式採用の二座水上機で、
日本海軍最後の複葉機 でもあります。

零式観測機

想定された主要任務は戦艦主砲の着弾確認及び情報偵察でしたが、
太平洋戦争に於いて海軍の想定したいわゆる“ 艦隊決戦 ”はほとんど生起しなかったため、
当機本来の任務で活躍する場はありませんでした。

しかし、優れた飛行安定性と高い格闘戦性能を買われ、
大戦初期に於いては 船団護衛・対潜哨戒に加え、飛行場の無い離島基地防空(戦闘機代わり)に
「二式水上戦闘機」などとともに投入され、空戦でも大いに活躍。
大戦中期以降はさすがに第一線からは退きましたが、船団護衛・対潜哨戒で終戦まで奮闘します。


零式観測機


さらに戦争末期には特攻機としても使われ、天草航空隊・福山航空隊の零観隊は
昭和20年5月以降、数次にわたり沖縄へ出撃しています。( 合掌 )




▼ あまりにも素晴らしい零観CGをYouTubeで発見しましたのでご紹介します。


次回Tシャツ作品の状況  2011/01/22

本日、次回作品「」(仮称)の
校正刷りをチェックいたしました。

なかなかいい出来です。
これから印刷に入りますが、1月中に発売できるかは・・・微妙。
いましばらくお待ちくださいませ。

本作品では「綿Tシャツ」に加え「ドライTシャツ」も制作しますので
ドライ派の方も是非ご期待くださいね。

零式水上観測機と戦艦大和

▲ まだ校正刷りにつき詳細はお見せできませんが、雰囲気だけでもどうぞ。




戦艦「大和」の沖縄特攻を見送る零式水上観測機 / コットンTシャツ

大和隊の出撃決定に深くかかわった人達  2011/01/30

今でこそ振り返れば、戦術的・戦略的にも無謀(無意味ではもちろん無い)であったと言える大和隊の出撃ですが、
この作戦を決定した当時の海軍上層部は何を考えていたのでしょうか?


■ 総責任者その1 : 軍令部総長 及川 古志郎(おいかわ こしろう)大将

及川古志郎
▲ 及川 古志郎大将

沖縄が激しい艦砲射撃を受けつつあった1945年3月29日、
軍令部総長・及川古志郎大将は、天号作戦に基づく航空特攻計画を
天皇陛下に奏上した。
その際、昭和天皇から
しかし海軍はどこにいるのか?艦艇はもういないのか?
という旨ご下問があり、
返答に窮した及川は畏怖退席したと伝えられている。

この頃、連合艦隊では残存艦艇を軍港で砲台化する「艦隊解散論」が主に
議論されていたのだが、これを機に以前より一部で燻っていた大和以下残存艦艇を出撃させる作戦が急速に現実味を帯びてくることになる。

軍令部総長としての作戦認可に際しては、驚くべきことに・・・
後述する連合艦隊首席参謀・神重徳大佐の強硬な承認要求を次長・小沢治三郎中将が承認するのを
同席黙認したのみで、何の意見も述べなかったとされている。

及川大将は昭和15年9月、第2次近衛内閣の海相に就任し、
それまで海軍が拒み続けていた「日独伊3国同盟締結」に同意したことで有名である。
( 陸海軍対立先鋭化による国情混乱を恐れたらしい。)
また開戦直前の10月12日、中国から撤兵するか日米開戦かという基本方針が論議された
近衛首相邸での会談の席上、及川海相は「総理一任」とだけ述べている。
戦後、井上成美大将に なぜ「海軍は戦えぬ」と明言しなかったのか?と詰め寄られた時、
彼は自身の責任を認めた上で理由を2つ挙げたという。
1、故・東郷元帥の申し次により、海軍部内で「海軍は戦えぬ」と言うことはタブーだった。
2、責任逃れだった。


■ 発案・主要推進者 : 連合艦隊首席参謀 神 重徳(かみ しげのり)大佐

事実上同作戦を発案・推進したのは、連合艦隊首席参謀・神重徳大佐である。
4月5日午前、連合艦隊司令部(日吉)における作戦会議の席上、
大佐は唐突に同作戦を提案し、こう述べたという。

神重徳
▲ 神 重徳大佐

『 第二艦隊は明日、菊水一号作戦に参加します。
略号名は天一号作戦になります。
旗艦大和は矢矧、駆逐艦八隻とともに出撃、
4月8日、沖縄沖のアメリカ艦隊と輸送船を攻撃します。
副砲以下をもって陸軍部隊を支援しつつ、
主砲をもって敵に最大限の打撃を与えた後、
大和は海岸に乗り上げ、
余った乗員は上陸して守備隊を増援します。』

この時、艦艇出撃に難色を示していたとされる連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将は
航空特攻打ち合わせのため九州出張中で不在。
燃料問題等で議論はあったが、最終的に司令長官・豊田大将は作戦を承認する。
出張中の草鹿参謀長及び実行部隊となる第2艦隊司令長官・伊藤中将には何の打診もなされていない。

その後、承認を得るため軍令部へ出向いた大佐は、
まず第1部長(作戦担当)富岡定俊少将を説得するが同意を得られなかった。
軍令部次長・小沢冶三郎(おざわ じさぶろう)中将にも
「自殺的作戦、やめたほうが良い。燃料も片道以上供給できない。」と強く反対される。
しかし神大佐は「片道燃料でも決行する」と粘りに粘り、ついに次長から
連合艦隊司令長官がそうされたいと決意されたのなら、いいでしょう。
との苦渋に満ちた言質を引き出し、承諾を得る。
  ※この時既に、連合艦隊側は燃料確保の算段をつけており、
    実際に大和には往復可能な4000tの重油が積まれている。

最後は軍令部総長だが・・・
前述の通り、この時すでに同室していた軍令部総長・及川大将は、終始無言で通して黙認したという。
 
同作戦に関する大佐の発言には以下の様なものも伝わっている。

『 たとえ10%しか見込みが無いにしても、やって見る価値はある。
真の侍は努力が報いられるか否かは問わないのだ。
商人ではないのであり、ただ自分を犠牲にする機会を求めるのだ。』

『 日本海軍は今、練習中の搭乗員や練習機を特攻攻撃に使用しているのに、
何故大和だけが特攻に参加しないのか。
成功の可能性はわずかしかないが、我々は沖縄に出撃し、連合艦隊の最後の死所を得なければならない。
断じて行えば鬼神もこれを退く。天佑は我にあり 』


これらの発言だけ見ると神大佐の参謀としての平衡感覚が疑問視されてしまうのだが、
大佐の作戦立案能力は決して底の浅いものではないようだ。

第1次ソロモン海戦では第八艦隊参謀として艦隊夜襲作戦を成功させ、
多摩艦長として参加したキスカ島撤退作戦では、
躊躇する艦隊長官に即時突入を進言、結果的にではあるが作戦を成功に導いている。
また、囮艦隊を用いてのレイテ湾突入作戦は、制空権喪失下の海上作戦としてアメリカ軍からの評価が高い。
※連合艦隊参謀着任(昭和19年7月)直後、サイパン島へ旧式戦艦部隊を強行突入させる作戦を立案するが、
これは却下されている。
概して“殴り込み”的な作戦立案が目立つが、「勇猛果敢な熱血漢」これが大佐を正しく表現する言葉ではないか?
連合艦隊参謀就任時には戦局自体が破滅しており、実効的な作戦など立案出来る状態ではなかったが、
少なくとも神大佐自身は大和隊の出撃を「無謀な特攻」とは考えていなかったのではないか・・・と私には思える。

戦後昭和20年9月15日、公務で北海道部隊を訪れた帰路に搭乗した飛行機(白菊練習機)が
津軽海峡に不時着し、飛行機とともに海没・殉職している。
他の搭乗員は救助されており、大佐が自ら死を選んだという説もあるが真相は不明。


■ 総責任者その2 : 連合艦隊司令長官 豊田 副武(とよだ そえむ)大将

神重徳首席参謀の提案を受け入れ、作戦に承認を与えている。
もともと水上艦艇出撃に積極的だったと言われる長官の真意は量り難いが、
戦後以下のように語っている。

『 私は、成功率は50%はないだろう、成功の算、絶無だとは考えないが上手くいったら奇跡だと判断した。
けれども、急迫した戦局に置いてまだ働けるものを残しておき、
現地の将兵を見殺しにすることは、どうしても忍び得ない。
多少でも成功の算があれば、できることは何でもしなければならぬという気持ちで決断した。』

成功率云々というのは戦後の言い訳であり、本心ではないと思う。
なぜなら、成功率50%未満の作戦の成功を「奇跡」とは言わないからだ。
沖縄突入はまず不可能と理解しながらも、一方では大和隊が囮になることにより
航空特攻の戦果が期待できると算段していたであろう。

豊田副武02
▲ 昭和19年、連合艦隊日吉司令部における豊田連合艦隊司令長官。
左端:草鹿龍之介中将、右端:航空参謀・淵田美津夫中佐。

その後5月、軍令部総長に転出した豊田大将は、同次長・大西瀧治郎中将とともに
本土決戦・徹底抗戦を主張し、鈴木貫太郎内閣で終戦工作を進める米内海軍大臣と対立。
戦後、戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判では不起訴となっている。


■ 実行部隊司令官 : 第2艦隊司令長官 伊藤 整一(いとう せいいち)中将

海上特攻隊司令官・伊藤整一中将は「航空援護皆無では艦隊の消滅は必至である」として、
同艦隊の多くの幕僚とともに最後まで作戦に反対を唱えたとされるが、
出撃当日大和艦上の作戦会議において、連合艦隊参謀長・草鹿中将の
一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい
という苦渋の言葉を聞いて「納得」した、と伝えられている。

伊藤整一

▲ 伊藤整一 中将

第2艦隊首脳
▲ 大和艦上の第2艦隊首脳。出撃前日、4月5日の撮影。
前列左3:伊藤整一中将(戦死)、中央:艦長 有賀幸作中将(戦死)
右3:前大和艦長 第2艦隊参謀長 森下信衛少将(生還)

伊藤中将は軍令部次長時代、
航空特攻や桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)などの特攻兵器導入に異を唱えず黙認決裁しており、
今度は自らが出撃命令を受けるという皮肉な運命を背負うこととなった。

彼の本心は全く量りかねるが、副官であった石田恒夫少佐が戦後語った話では、
息子が特攻隊員なんだ。もうじき死ぬんだよ。俺も生きていたって仕方がない
と苦渋の心境を吐露したという。

この発言だけを取り上げれば、素直に本音を語っているという判断もできる一方、
決死の部下を率いて困難な戦闘に向かう総指揮官の言としては少々寂しいものでもある。
また、多くの特攻隊員を送り出した責任者の一人としての自覚も感じられないのだが・・・。

 ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━


同作戦決定に関わった多くの方々の内、
今回はごくわずかな重要人物にスポットを当てて考えてみました。

いかにも日本人的とも取れる曖昧な決定思考とともに、
末期海軍における複雑なセクショナリズムの一端が見えたような気がします。

また、大和隊は「特攻」だったのか否か?という点に於いても大いに疑問が残ります。
『1億総特攻の魁になってほしい 』と命令された以上、「特攻」であるはずです。
しかし、第1遊撃部隊の戦没者には特攻死に与えられる「2階級特進」措置は全く取られていないのです。


※主な参考文献

「丸」'97 2月号付録「海戦大辞典」
「丸」平成7年4月別冊 戦争と人物14 「太平洋海戦辞典」
歴史群像シリーズ「決定版 大和型戦艦」
「戦艦 大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録」秋元健治 / 現代書館
「連合艦隊」黒田吉郎 / 剄文社
別冊歴史読本 戦記シリーズ30 「日米海軍海戦総覧」/ 新人物往来社
別冊歴史読本 戦記シリーズ33 「戦艦大和と艦隊戦史」/ 新人物往来社
別冊歴史読本 特別増刊70号  「沖縄 日本軍最後の決戦」/ 新人物往来社   
「日本軍艦戦記」半藤利一 / 文春文庫


次回作品は2月5日になります  2011/01/31

結局2月に、しかも5日になってしまいました。<(_ _)>

前に日記で書きましたが、今回はTシャツ2タイプで制作しております。

1、通常のコットンTシャツ / シルクスクリーン印刷 4色
2、ポリエステルのドライTシャツ / 淡色インクジェット印刷

印刷手法が違うのはそれぞれの素材に合わせたからですが、両方ともなかなかイイ感じで出来あがりそうです。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■


さて、今回のモチーフ、戦艦「大和」の知名度について考えてみました。現在において「大和」は誰でも知っております。しかし、戦時中はどうだったのでしょうか?

大和型戦艦2艦(大和、武蔵)の存在は超軍機であったため、海軍関係者を除き、その存在を知る者はごくわずかであったと考えられます。そのため、一般国民が報道によって初めて「大和」「武蔵」の存在を知ったのは、戦後1カ月あまりたった昭和20年9月29日の新聞記事だと言われています。

以下はその紙面です。

戦艦大和新聞記事

偲ぶ六万噸の二巨艦 新鋭「武蔵」「大和」壮烈に果つ

昭和11年の軍縮条約廃棄とともにわが海軍は取り敢えず四隻の新型戦艦の建造実現に移った。即ち第一号艦「大和」が昭和十二年十二月八日呉海軍工廠の船台に最初の龍骨が据えられ、さらに越えて昭和十三年三月二十九日長崎三菱造船所で第二号艦「武蔵」が着工された。

(第三号艦、第四号艦は途中空母に改造された)新鋭戦艦の建造は当時世界の視聴をあつめたが、海軍部内でも極秘に附され呉工廠の船台の周囲には巨大な金網が張られ建造に従事した工員たちは秘密保持のために宣誓が行われるなど厳重を極めたものであったが、一部工員たちの間には「怪物」といふあだなで呼ばれていた。

これが建造にあたってはわが艦政本部の知能が総動員され、建造には四ケ年の長年月と莫大な費用を要し、第一号艦は海戦直前の十二月中旬竣工「大和」と命名され、第二号艦「武蔵」は開戦二年目の昭和十七年八月五日竣工「大和」「武蔵」の二新鋭をもって第一戦隊が編成された。

 当時大平洋戦は漸く苛烈の度を加へ、わが戦艦陣は十七年秋の数次にわたるソロモン海戦で「比叡」「霧島」二戦艦を喪なひ、さらに十八年春、戦艦「陸奥」が瀬戸内海で謎の爆沈を遂げ、さらに「日向」が後部砲塔の爆破事件など相次ぐ事件で相当の痛手を蒙ってゐた際であり、二新鋭戦艦の第一戦参加は海軍初のホープとして絶大の清新味を加へたのであった。

 両艦の要目について海軍部内限りの発表によれば、排水量四万二千噸、速力二十五ノット、四十センチ砲九門、十五・五センチ副砲十二門、十二・七センチ高角砲十二門、探照灯八基、馬力九万馬力、機関艦本式十二基、タービン四軸、と発表されたが、実際の排水量は六万二千噸、速力三十二ノットで主砲は十八インチに近い巨砲をのせていた。両艦とも見た目は極めて巨大艦といった感じがするが、その後方に曲線を描いた線とスマートな前橋は遠望すればよく重巡と間違はれたといはれる。

 中前砲塔側はじめ総ての重要な部分は強靱な装甲に覆はれ絶対不沈と称され特にその有する対空砲火は空軍に対しても絶対威力をもつともいはれてゐた。これは「大和」がサイパン海戦の際主砲弾を以て一挙に十数機の編隊を撃墜したと伝へられるが、しかし数々の武勲を秘めた両戦艦も優秀なる米空軍の前には絶対不沈といふことがあり得やうもなく「武蔵」は昭和十九年十月二十六日比島近海「大和」は本年四月二十九日沖縄近海でそれぞれ米空軍により壮烈な最期を遂げた。

 沖縄海上特攻隊は「大和」を旗艦(伊藤整一中将[当時]坐乗)の小数部隊であり米空軍の攻撃は「大和」に」集中され蜂の巣のやうになった同艦は最期に大爆発を起こし一瞬のうちに沈没したが九死に一生を得て生還した M少将 の話によれば「当時私は前橋の戦闘艦橋にゐたが沈没の最後の一瞬まで傾斜を感じなかった」とその壮烈な最期を語ってゐる。




起工日、就役日、排水量に事実と多少の食い違いがありますが、1番大きな違いは沈没日です。「武蔵」の沈没は昭和19年10月24日ですが、記事では26日となっており、「大和」(4月7日沈没)の場合はもっとズレが大きく、4月29日と記されています。

また、記事中で証言されているM少将とは、大和前艦長で当時 第2艦隊参謀長だった 森下信衛(もりした のぶえ)少将のことでしょう。森下少将は大和沈没が決定的な状況となった時、伊藤整一中将に「総員上甲板」を具申した人で、艦とともに沈もうとする部下達を殴りつけて退艦させました。駆逐艦「冬月」に救助されて生還しています。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■

ちなみに、4月6日~7日の水上特攻部隊に関する大本営発表は以下の通り。

■ 大本営発表(昭和二十年四月八日十七時)

一、我航空部隊並ニ水上部隊ハ四月五日夜来
  反復沖縄本島周辺ノ敵艦船並ニ機動部隊ヲ攻撃セリ
  本攻撃ニ於テ
 (一)我方ノ収メタル戦果
   撃沈 特設空母母艦二隻、戦艦一隻、
       艦種不詳六隻、駆逐艦一隻、輸送船五隻
   撃破 戦艦三隻、巡洋艦三隻、艦種不詳六隻、輸送船七隻
 (二)我方ノ損害
   沈没戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻

二、右攻撃ニ参加セル航空部隊並ニ水上部隊ハ
   孰レモ特別攻撃隊ニシテ右戦果以外ソノ戦果
   ノ確認セラザルモノ尠(すく)ナカラズ  


戦果に関しては相変わらずの“大本営発表”ですが、
大和隊の損害についてはほぼ正しく発表しております。

(二)我方ノ損害 にある沈没戦艦一隻 というのが「大和」、巡洋艦一隻が 軽巡洋艦「矢矧」のことでしょう。駆逐艦三隻 これは4隻が正しい。

また、注目は「二」でして、
航空部隊・水上部隊とも「特別攻撃隊」すなわち「特攻」であると発表していることです。
前回日記にも少し書きましたように、特攻死は「二階級特進」が通常措置ですが、大和隊戦没者にはこの適用はなされておりません。人数が膨大であり、航空特攻に比べて戦没者名の確認が困難という事情もあるのかと思われますが、やはりこの処置はおかしいですね。




戦艦「大和」の沖縄特攻を見送る零式水上観測機 / コットンTシャツ

シルクスクリーン印刷の妙な魅力  2011/02/07

「Osabetty's」Tシャツのほとんどは「シルクスクリーン印刷」です。
色の異なる「版」を重ね刷りする手法で、原理的に「版画」となんら変わらない技術ですね。

さて、いわゆる「手法」と呼ばれるものには必ず短所と長所がありまして、
この「シルクスクリーン印刷」について、あくまで私なりの感覚で「短所」「長所」を述べてみます。

■ 短所

細かいマイナス要素が多々あるように感じます。

1、色数だけ「版」を制作するため、多色刷りになるほど原価が高くなってしまう。

2、グラデーションが表現できない。

3、全体のデザインを描いた後、全てのカラーを3色刷りなら3色、4色刷りなら4色に集約するわけですが、
このカラー集約・配分作業に素人の私はいつも苦悩します。

4、細かい表現(細い線など)には不向きな為、細かい部分はある程度簡略化(デフォルメ)してゆく必要が生じます。しかしその結果、「モチーフ」の造形上の特徴が消えてしまってはコンセプトに反しますので「細かさ」と「簡略化」とのせめぎ合い?となり、ここでまた悩みます。

5、カラー指定はDICやPANTONEなどの「カラー番号」で指定するのですが、
パソコン画面上でデザインしているときに表示されている色と、
実際にTシャツに印刷した時の色は、当然ながらかなり違う場合が多いわけです。
パソコン画面の「色」はモニター設定によって全然変わってしまいますしね。
そこで、カラーチップのような「印刷色見本」を参照したりするのですが・・・
これまた当然ながら?実際に印刷するとかなり違ったりするのですね。つまり、またまた悩むことに。

▼ 以下の画像はシルクスクリーン印刷4色の各版と重ね刷りの状態を示しています。

① ライトグレー版

+

 
 
② ダークグレー版

+

 
③ ブラック版

+

 
④ レッド版 


こんなに悩むのなら、インクジェット系の印刷にしてしまえばよいのですが・・・。
ちなみに「インクジェット印刷」は版を作りませんので比較的安価ですし、どんな色を何色使おうと問題ありません。

しかし、" 出来る限りシルクスクリーン印刷を使いたい " というのが現時点の感覚です。
なぜなら、「シルクスクリーン印刷」に大きな長所を感じているからです。
※また正直に申し上げれば、「悩む」ことも結構楽しかったりします。(笑)

■ 長所

「各色がしっかり主張するので、全体として“切れ味のよい”表現となる。」



モノトーン系配色が多い「Osabetty's」Tシャツでは、この「切れ味」効果はなかなか得難いものです。
現在のところ、シルクスクリーン印刷を多用する理由はほぼこの1点に集約されているわけですが、
印刷技法もまだまだ不勉強ですので・・・きっと「木を見て森を見ず」状態なのでしょうww

大阪市も雪  2011/02/11

大阪市もついに雪です。

といっても、午前中に5センチほど積もった程度ですが・・・。
ただ大阪人にとっては、これでも十分インパクトがあるんですよ。

豪雪地帯にお住まいの方には不謹慎かもしれませんが、大阪は本当にめったに降雪のない地勢でして、
京都・奈良・滋賀など関西の他県では降っても、大阪市内はまず降らないんです
ですから今日の様に家々の屋根が白く染まるのは、私の記憶では10数年無かったような気がします。

大坂の雪20110211
▲ 降雪の中、新大阪付近を通過する のぼり新幹線。午前11時ごろ東淀川区の自宅より撮影。

この雪を見ていてふと頭をよぎったのは・・・戦時中アリューシャン方面で作戦した「第5艦隊」の苦闘です。
荒天の中、艦体に降り積もる雪・付着する氷を黙々と掻き落とす乗組員達。
一歩間違えれば厳寒の荒海に転落する恐怖と闘いながらの必死の業務、
しかし放っておくわけにはいかない。
雪と氷の重みで艦の重心がずれ、転覆の危険があるからです。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

さて、次のTシャツですが、モチーフはもう決まっています。
前回の「零式水上観測機」に続き、またまた地味?な存在ですが、
水上機王国・日本海軍の中核的存在「零式3座水上偵察機」です。
出来れば「整備員」をテーマにしたいのですが、さぁどうなりますか。

零式三座水上偵察機
▲ 昭和17年5月、北太平洋アリューシャン列島のツンドラ地帯を作戦飛行する
  「君川丸」搭載の零式水上偵察機。

次回Tシャツは多色カラーで  2011/02/17

本日、次回作品を印刷工場へ入稿いたしました。

Tシャツモチーフは前回日記でご報告の通り「零式水上偵察機」なのですが、水上機と言えば「海」。
「海」といえばやはり「南洋」ということで、今回作品の背景設定は
連合艦隊最大の南洋根拠地、トラック諸島(Truk Islands)にいたしました。
現在のミクロネシア連邦・チューク諸島で、世界最大級の大環礁です。
また、戦時中に沈んだ多数の艦船は屈指のダイビングポイントとして知られているとのこと。

ほぼ東京都の面積に相当する直径30海里(約55km)の大ラグーン内側には
四季諸島(春島、夏島、秋島、冬島)、七曜諸島(日曜島~土曜島)ほか大小様々な島々・小環礁が点在し、
水深も大部分が17m以上と大艦艇の泊地としても適していました。

トラック諸島

▲ 日本統治時代のトラック島概要図。アメリカ太平洋艦隊に対抗する前進拠点として急速に武装化され、
太平洋戦争中期まで連合艦隊の最重要策源地として機能した。1942年(昭和17年)夏~44年(昭和19年)2月の間、大和、武蔵、瑞鶴など主力艦艇が進出し、連合艦隊司令部も置かれている。
※海軍御用達の料亭まで進出していた。
 

トラック諸島
▲現在のチューク諸島。
旧「夏島」(現デュプロン島)を旧「竹島」から望見する。中央左側当たり?に夏島水上機基地があったと思われます。

 
『 対潜哨戒任務を終え 夏島水上機基地に帰投する零式水上偵察機と、
それを迎える整備員達 』
というのが今回デザインの設定です。

これまでの様な「モノトーン系」では南洋感?は表現し難いため、
今回は多色使用のインクジェット印刷を使います。
戦前のカラー絵葉書のようなレトロ的色彩を出したいのですが・・・
さぁ、どうなるだろうか?


次回Tシャツは3月上旬です  2011/02/26

本日、次回作品の校正刷りが上がってきました。

今回も多くのマニアック要素に溢れているのですが、
舞台が南洋根拠地「トラック諸島」ということで
最重要ポイントは何と言っても「南洋感」の表現です。


0-011サンプル


なかなかいい感じです。
戦前の絵葉書風レトロ感もよく出ています。

海面の色調パターンに少し修正を加えて最終発注しますので、
発売時期は3月上旬といったところでしょうか。
是非期待してくださいね♪




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