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復元成った飛燕!神戸で初お披露目  2016/11/04

先日、国内に唯一残存する「飛燕」の雄姿を確認すべく、神戸で無料公開されている 川崎重工創立120周年記念展 へ行ってまいりました。今回はその報告です。

この飛燕は長く知覧特攻平和会館で展示されていた機体ですが、所有者である一般財団法人日本航空協会が産業遺産としての価値を保存すべく 生みの親である川崎重工業に終戦当時の姿への修復を依頼していました。川崎ではこの修復事業を120周年記念プロジェクトの一環と位置づけてグループを挙げて調査&修復作業に取り組み、可能な限り米軍接収当時の状態に戻した、という訳です。

▲  武骨なBf109とは比べものにならない流麗なスタイリング。 やはり飛燕はかっこいい。 ▼



今回復元された機体について少し解説しましょう。


■ 飛燕の最終バージョン

この機体の正式呼称は「キ-61Ⅱ改 試作17号機」といいます。昭和19年9月に制式採用となった飛燕の最終型「Ⅱ型改」のベースとなった試作機の一つで、終戦時は陸軍航空審査部飛行実験部の所属機でした。

「Ⅱ型改」は「Ⅰ型」の水冷式発動機 ハ-40( 離昇1175Hp、ダイムラーベンツDB601のライセンス生産 )を独自に高出力化したハ-140( 離昇1500Hp )と新型過給機を搭載、機体にも大改修を加え、高空性能が著しく向上したといいます。
しかし・・・ハ-40の量産に四苦八苦していた状況で更に複雑化した ハ-140 の生産が軌道に乗るはずもなく、川崎明石工場での発動機生産は停滞します。その結果、機体を生産していた川崎岐阜工場は発動機待ちの「首なし飛燕」約380機で溢れかえる事態となりました。困窮した陸軍は苦肉の策として空冷式発動機(三菱ハ112Ⅱ)への換装を決断し、五式戦(キ-100)が誕生することとなります。「首なし飛燕」の多くは五式戦として生まれ変わり、飛燕「Ⅱ型改」として生産された機体は99機に止まりました。実戦部隊への配備は60機前後と言われ、飛行第55戦隊・第56戦隊の写真などでその存在が確認されています。


■ 戦後の変遷 ~ 60余年に渡る全国展示を経て原点回帰を果たす

終戦後、米軍引渡しのため多摩飛行場(福生)に集められた約180機の日本軍機の中にこの試作17号機も含まれていました。ほとんどの機体が破壊・廃棄処分となるなか、同機はどういう訳かスクラップを免れて米軍横田基地内で屋外展示される運びとなったため、奇跡的に生存することとなります。昭和28年(1953)に日本へ返還(一般財団法人日本航空協会へ譲渡)された後は長年に渡り全国各地のイベント等で展示されましたが、分解・再組立や追加塗装を繰り返すうちに部品の欠損と機体損傷が重なり、次第にその原型は失われていきました。したがって終戦時の状態に限りなく戻した今回の大復元の意義は大きく、同機の航空遺産としての価値もまたほぼ復元されることとなったのです。


【 全国展示の概要 】 ※ インターネット航空雑誌「ヒコーキ雲」の記事を参考にさせていただきました。

昭和28年(1953) 12月 東京都 日比谷公園「航空五十周年記念大会」 屋外展示
 ※ 横田基地から陸送の際、道路幅の関係で主翼を切断。
昭和29年(1954) 10月~11月 熊本市 「市電開通30周年記念 交通観光博覧会」 屋外展示
昭和30年(1955) 03月~05月
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名古屋市「名古屋城再建資金造成のりものフェアーと花人形」 屋外展示
習志野市 谷津遊園地 屋外展示
昭和31年(1956) 03月~05月 奈良市 近鉄あやめ池遊園地航空広場 屋外展示
昭和37年(1962) 12月 【 修理のため米第5空軍に引き渡し 】
昭和38年(1963) 03月~06月 東京都 二子玉川園 「航空博覧会」
昭和39年(1964) 04月 熊谷市 空自熊谷基地開庁記念祭
 春頃? 宝塚市 屋外展示
11月 狭山市 空自入間基地 「第3回入間基地航空祭」
昭和40年(1965) 03月 熊谷市 空自熊谷基地
 夏 東京都 京王百貨店地下 「戦争資料展」
10月 大阪市 阪神百貨店屋上 屋外展示
昭和41年(1966) 04月 姫路市 「防衛博覧会」
昭和42年(1967) 04月~06月 仙台市 「東北大博覧会」
昭和43年(1968) 03月~05月 東京都 よみうりランド 「航空科学博覧会」
10月 入間市 「第2回東京航空宇宙ショー」 屋外展示
昭和45年(1970)
  ~46年(1971)
空自岐阜基地で屋外展示
昭和47年(1972) 03月~06月 今治市 唐子浜観光センター 「大航空博覧会」
10月 空自岐阜基地 航空祭
昭和48年(1973) 05月 名古屋市 栄公園 「わんぱく祭り」
09月 空自岐阜基地 航空祭
昭和50年(1975) 04月~05月 藤沢市 志沢百貨店屋上 屋外展示
11月 空自岐阜基地 航空祭
昭和51年(1976) 10月 空自入間基地 「国際航空宇宙ショー」
昭和52年(1977)  秋 空自岐阜基地 航空祭
昭和53年(1978) 05月 広島県佐伯郡 ナタリー遊園地 「航空博」 屋外展示
11月 空自岐阜基地 航空祭
昭和54年(1979) 09月~11月 犬山市 犬山ラインパーク 「航空博」
昭和55年(1980) 03月~06月 熊本県荒尾市 三井グリーンランド遊園地 「航空博」
 ※ 塗装が暗緑色に変貌
07月~09月 東京都 池袋三越百貨店 「航空博覧会」 屋外展示
昭和56年(1981) 08月 埼玉県比企郡 桶川飛行場 「空のフェスティバル」 屋外展示
 時期不明 河口湖自動車博物館で2年間ほど展示 屋内吊り下げ展示
昭和60年(1985) 09月 空自岐阜基地 航空祭
昭和61年(1985)~ 知覧市へ各年契約で貸与され、知覧特攻平和会館にて展示。
 ※ 何故か244戦隊塗装となり、翼下に爆弾と増槽を装備している。

【 機体復元へ 】

平成27年(2015)  夏 機体修復のため川崎重工岐阜工場へ移送
平成28年(2016) 10/15
~11/03
「川崎重工業創立120周年記念展」(神戸ポートターミナル大ホール)で修復後の姿を初公開。



■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



▲ 「ハ-140」水冷V型12気筒発動機 試作17号機に搭載されていた実物が展示されていました。先端に装着されていたと思われる過給機(スーパーチャージャー)は欠損していたとのこと。米軍が過給機のみ接収したのかもしれません。


▲ 水・滑油冷却器(復元品) 胴体下部に突き出した冷却器は飛燕の特徴の一つですが、試作17号機では当初から失われており、カバーと整流板のみだったとのこと。写真の冷却器は残存する設計資料を基に川崎が製作した復元品で、正6角形のコアが精密に再現されています。


▲ 復元された試作17号機の計器盤 本機が川崎岐阜工場へ移った時点の調査によって、開度指示器と一部金具を除き、計器のほとんどが米軍地上訓練機器のものであることが判明したそうです。そこで川崎では設計資料や海外展示機の情報を元に試作17号機の計器配置を究明し、飛燕Ⅰ型と五式戦の中間に位置する形態であったと結論しました。計器盤再現に当たっては協力者からの部品譲渡やネットオークションなどで現物パーツを収集する一方、不足部分は海外展示機を参考にして製作した精密レプリカを充当しています。



当機は今後、「かかみがはら航空宇宙科学博物館」(岐阜県各務原市)にて展示される予定です。

疾風 と 紫電改  2016/12/21

このところ私的に色々と重なりまして、Tシャツデザインになかなか時間が取れない状況が続いております。
我ながらキャパシティの少なさを痛感しているところですが、決して完全中断している訳ではございませんので、どうか今後とも気長に見守ってくださいませ <(_ _)>


などと言いながら、いま一番気になっていることは・・・

なぜ陸軍四式戦闘機「疾風」の認知度は低いのか?

だったりします (^^;


零戦や隼の人気に敵わないのは当然と言えますが、同じエンジン(ハ45、海軍呼称:誉)を搭載した紫電改(紫電二一型)に水をあけられている現状は ちょっと寂しいですね。

戦後巻き起こった戦記・零戦ブームから派生した343空・紫電改人気は今も健在で、個性的な3人の飛行隊長や隊員たちにも興味が集まり、毎年戦史書籍・雑誌などで話題を提供し続けています。一方、疾風は実質的にレイテ航空決戦の主力戦闘機であったにもかかわらず、その認知度はかなり低いのです。

ということで、両機をザックリと大雑把かつ無分別に比較してみました。

陸軍 「疾 風」

海軍 「紫電改」

制式採用

昭和19年4月

昭和20年1月

生産機数

約 3500機

約400機
※ 紫電(紫電11型)は約1000機

実戦参加時期

昭和19年8月~終戦

昭和20年3月~終戦

作戦地域

中国大陸、台湾、フィリピン、蘭印
仏印、ビルマ、本土(沖縄特攻含む)

本土

配備部隊数

30個戦隊以上

ほぼ343空のみ(戦闘301、701、407)

漫画化

「紫電改のタカ」(1963~65 少年マガジン)
「紫電改のマキ」(2013~ 月刊チャンピオンRED)

映画化

「太平洋の翼」(東宝、1963)

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ヒット数

キーワード 「疾風 陸軍」 
144,000件

キーワード 「紫電改 海軍」
473,000件


■ 陸軍の期待を背負い、レイテ航空決戦に臨んだ「疾風」 ■


海軍の紫電改は3個戦闘機隊(戦闘301、701、407)から成る343空(剣部隊)での集中運用体制が整備・後方支援も含めて高く評価されています。一方、疾風の本格デビューはフィリピン航空戦で、この時陸軍は、少数機出撃を余儀なくされたニューギニアでの戦訓を活かし、戦闘機機種ごとの集中運用によって決戦に臨もうとしていました。具体的には、各戦隊の疾風、隼を機種別に再編し、使用飛行場群を区別して補給・整備の効率化を図ることにより 多数機同時出撃を実現しようという構想です。象徴的な疾風部隊としては、レイテ決戦最中の昭和19年10月末、ネグロス島に集結した第30戦闘飛行集団が挙げられるでしょう。「皇(すめら)部隊」と称された飛行第200戦隊を中核に、飛行第1、第11、第22戦隊などの5個戦隊から成る同集団は100機以上の疾風を集中運用することになっていました。


フィリピン航空決戦要図

しかし陸軍航空隊にとっての誤算は、これら戦闘機部隊の進出が天候不良や機体トラブルなどによって遅延してしまい、肝心の初期航空戦に集中投入できなかったことでした。( もちろん、最大の責任はルソン決戦からレイテ決戦へ急遽方針変更した大本営にあるのですが・・・ ) 10月20日にレイテ湾に上陸を開始した米軍はタクロバン飛行場などの滑走路整備に約一週間を費やしており、P-38などの陸軍機が本格的に進出を開始したのは10月27日でした。この間、レイテ湾を守る米航空兵力の主力は護送空母群のF4F、アベンジャーといった比較的組しやすい?相手だっただけに・・・出遅れの代償は大きかったと言えましょう。  ※ 歴史に If は禁物ですが、もしこの時期に大規模な戦爆連合によってレイテ湾を反復強襲し、敵輸送船団や物資集積所に大損害を与えることができていれば、レイテ島争奪戦の様相は少し変わっていたかも知れません。

さらに、初動の遅れにより 戦場が近かったことが裏目に出てしまいました。 レイテ決戦における陸軍航空部隊の根拠地・ネグロス島からレイテ島までは 220km余しかなく、疾風部隊が集結しつつあった頃、海軍航空隊の根拠地・セブ島を含めたレイテ島西方一帯はすでに激しい空戦場と化していたのです。このため、第30戦闘飛行集団の整備員多数を乗せてマニラを飛び立った輸送機がF4Fに撃墜される悲劇が起こります。もともとトラブルの多い発動機(ハ45)に加えて貴重な整備員の喪失、整備器具・部品・機関砲弾・落下増槽・通信機器など戦略物資を載せた輸送船も次々と海没し、さらに連日の飛行場爆撃を受けて疾風部隊の稼働率は急激に低下していきました。特攻が常態化する中、 レイテ方面の日本陸海軍戦闘機隊は増援を受けつつ必死の奮戦を展開、昭和19年12月初旬まではP-38 L、B24を中心とる米陸軍 第5空軍を相手に有効な戦闘を続行しています。しかしその後、米38機動部隊のF6F、さらに海兵隊のF4U も参入するに至り、彼我の戦力差は開く一方となりました。そして12月15日、米軍はセブ島、ネグロス島をスルーしてミンドロ島へ上陸を開始します。こうして大本営の甘い見通しから発動されたレイテ決戦構想はわずか1か月で崩壊、米軍のルソン島西岸・リンガエン湾への上陸はもはや避けられない事態となったのです。


■  ■  ■  ■


昭和20年3月19日のデビュー戦(松山上空航空戦)が今も語り継がれる紫電改に対し、過酷なレイテ島争奪戦で本格的初実戦を迎えたがために、目立った戦果を上げることが出来なかった疾風・・・やはり不運だったのでしょうか。



商品補充&サイズ拡張のお知らせ   2016/12/22


■ 『 B-29邀撃戦!343空・紫電改 前上方背面垂直攻撃 Tシャツ


欠品となっていましたディープブラックの サイズS、XL を補充するとともに
XXLXXXL(3XL)を新設いたしました。

紫電改 対 B-29 Tシャツ 紫電改 対 B-29 Tシャツ

紫電改 対 B-29 Tシャツ


同商品の補充はおそらく今回が最後になると思います。



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