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船頭多くして船山に登る  2011/03/15

世界最大級の地震発生以来、衝撃的な情報が次々に伝わってきています。
被災地域以外の大半の国民は、直接的に何の支援も出来ない現実に
無力感・焦燥感を募らせているのではないでしょうか。

ここ2~3日の報道や記者発表、特に「福島原発」関連のものを見ていてふと思ったのですが・・・
太平洋戦争に突入していった時代の日本の状態に少し似ているような気がするんです。

「このままではまずい」事態の重大性を漠然と認識していながら、責任回避、組織的保身に走った多数の指導者たちが"場当たり的"な判断を積み重ねたあげく、「対米戦争」という最悪の事態を招いてしまった、ある意味いかにも日本人的とも言える、あの悪夢のような流れです。国際情勢を正しく判断できる強いリーダーが不在だったという悲劇もありました。

福島原発

「情報が少ない」「現状がよくわからない」とマスコミは騒いでおりますが、
事態はもはや、東電にプレッシャーを加えるべき段階ではないでしょう。
そもそも、我々一般人に「原子炉」の話など正しく理解できるはずがありませんし、
これはもう、1部の専門家・プロフェッショナルの方々が対処するしかない事態なのです。
「原発は安全」と謳っていた東電の企業責任は明白ですが、それは後でキッチリやればいい。
今はそれどころではありません。

国民の指導者(政府)にお願いしたいのは、責任論などは後回しにして、
常に「最悪の事態」を想定し、早め早めに的確な現実的指示を国民に出していただきたいということに尽きます。

この重大危機に当り、菅総理にそうした「覚悟」は出来ているか?
また彼にそのような高度な政治判断を下す能力が備わっているのか?
はなはだ不安ではありますが日本の指導者は菅総理なのですから、いかに困難な状況であろうとも、
彼自身が最悪の事態を避ける賢明かつ高度な判断を下さなければならないのです。

現在も原発現場で作業を続けている東電および関連会社社員、自衛隊の方々の決死的尽力に報いるためにも、
今は政府および総理の賢明なリーダーシップを信じ、期待するしかありません。(祈)

次回作品テーマは 川西「紫電21型」( 紫電改 )です。  2011/03/27

久々の店長日記ですが、地震関係で何かあったわけではございません。少し体調を崩しておりました。

さて、現在次の作品をデザイン中ですが、モチーフは 零戦の実質的後継機として戦争末期に一瞬の光芒を放った
川西局地戦闘機「紫電21型」( 通称:紫電改 )です。

戦史がお好きな方は、紫電改とくれば すぐに343空「剣部隊」を思い起こすとともに、
タイプの異なる3人の名飛行隊長たちも脳裏に浮かぶのではないでしょうか?


 
戦闘701「維新隊」飛行隊長
鴛淵 孝(おしぶち たかし)大尉

海兵68期(昭和15年8月卒)昭和17年7月、台南空(ラバウル)配属、ガダルカナル航空戦に参加。11月、消耗した台南空とともに内地帰還。18年5月、251空(旧台南空)分隊長としてラバウルへ再進出し、熾烈なソロモン航空戦を生き抜く。その後253空に転属。19年4月、203空(旧厚木空)戦闘304飛行隊長となり、フィリピンへ進出。11月、レイテ島タクロバン飛行場攻撃時右足を負傷、治療のため12月本土帰還。昭和20年1月、新編343空・戦闘701飛行隊長として松山に着任。7月24日、豊後水道上空の迎撃戦にて未帰還。
 

戦闘407「天誅組」飛行隊長
林 喜重(はやし よししげ)大尉

海兵69期(昭和16年3月卒)初実戦部隊は251空。18年5月、ラバウルに進出しソロモン戦線で出撃を重ね、10月、253空分隊長。11月、厚木空付教官として内地帰還。19年2月、221空に転出、戦闘407飛行隊長となりフィリピン進出。12月内地帰還。鹿児島・出水基地で訓練後、昭和20年1月末、隊を率いて松山基地へ移動、新編343空に合流。4月21日、B29撃墜確認後、鹿児島県出水郡折口海岸に不時着水するも衝撃による頭蓋底骨折により戦死。
 

戦闘301「新選組」飛行隊長
菅野 直(かんの なおし)大尉

海兵70期(昭和16年11月卒)初実戦部隊は343空(初代)昭和19年3月、分隊長としてテニアン進出。マリアナ沖海戦直前にフィリピン方面へ移動し、201空戦闘306分隊長としてB24など大型機迎撃に活躍。一時内地帰還後、10月フィリピンへ戻り、主に特攻機直掩任務に従事。昭和19年末内地帰還、新編343空・戦闘301飛行隊長に着任。昭和20年8月1日、屋久島近辺にて機銃筒内暴発を起こし未帰還。

343空創設の発案者であり司令でもあった源田実大佐(当時大本営海軍部作戦参謀)は、
同航空隊の意義について自著 『 海軍航空隊始末記 』 の中で以下の様に記しています。

『 戦争に負けているのは、海軍が主役をしている海上戦に負けているからである。海上戦に負けるのは航空戦で圧倒されているからである。航空戦が有利に展開しない原因は、わが戦闘機が制空権を獲得できないからだ。つまり、戦闘機が負けるから戦争に負けるのだ。(中略)何とかして精鋭無比な戦闘機隊を作り上げ、たとい数は少なくても良いから、見つけた敵機を片端から射落して、敵の航空部隊に対する脅威となるような部隊を持ってみたい。この部隊の戦闘を突破口として、怒涛のような敵の進撃を喰止めなければならない。』

実戦部隊・軍令部参謀として海軍航空作戦を主導してきた源田大佐のこの言には首を傾げたくなります。
大佐は作戦のみならず、戦闘機開発にも大きな影響力を及ぼした海軍航空の重要責任者でありましたが、
戦争後期の航空劣勢に至らしめた自らの指導責任を全く認識されていないかのような記述です。
※源田大佐の評価には様々なものがあるようですが、ここで詳しくは述べません。
 

◀ 川西 局地戦闘機「紫電21型」
中翼式だった「紫電11型」を低翼式に再設計し、欠点であった降着装置の不具合と視界不良を改善した。昭和20年1月制式採用。「誉」発動機の不調は相変わらずであったが、600km/h近い速度と20㍉機銃4丁の重武装は、当時の連合軍戦闘機に対抗できるレベルにあった。
写真は昭和20年4月、松山基地の紫電21型群。胴体2本斜帯の「343-A-15」機は戦闘301飛行隊長・菅野大尉の乗機。

 

昭和19年末 松山基地にて開隊した343空は、源田司令の構想通り「局地迎撃機動」に特化した編成となります。
3戦闘飛行隊(701、407、301)に加え、高速偵察機「彩雲」で編成された偵察第4飛行隊(偵4)を編入し、通信隊(空中無線電話)と練成部隊(戦闘401/徳島基地分遣隊)も装備されました。搭乗員は当時フィリピン方面および内地に残存していたベテランパイロットの多くが招集されています。
新鋭戦闘機「紫電改」の優先供給を受け、当時における最強戦闘機部隊の一つであったことは間違いありません。

しかし、343空が戦略的に活動できたのはごく初期だけでした。
圧倒的な物量・技術・人材の総合戦略をもって押し寄せる米軍に対し、その作戦目的は特攻機援護および爆撃機迎撃を中心とした消耗戦へと変貌し、勇敢に戦った精鋭達も1人また1人と大空に散っていったのです。

ちょっと甲子園へ  2011/04/03

震災で世の中大変な時期ですが、そのせいか?ふと親の顔が見たくなり・・・
昨日は実家(西宮市)へ帰りがてら、久々に甲子園へ行ってまいりました。

甲子園球場

実は、子供の頃から数え切れないほど行っておりますが
やっぱり、イイですねぇ~甲子園は。

皆さんもご存知の通り、甲子園球場は2010年春に大改装が完了。
子供の頃から慣れ親しんできた“古くて汚い甲子園”は影も形も残っておりません。
小学生の頃から高校野球観戦に取りつかれた私としましては
甲子園が綺麗になったのは嬉しい限りなのですが、
昔のイメージが全く無くなっているのは少し寂しかったりもします。

昔のイメージはどんなものだったか?
たまたま大昔に私が描いたド下手な絵がありましたので、
現在の様子と比べて見ましょう ww
昭和40年代後半、外野スタンド裏2階通路の食堂でカレーを喰っている少年。
昨日撮った同じ外野スタンド裏2階です。

さて、Tシャツの方ですが
先日「紫電改」モチーフ作品をプリント工場へ入稿いたしました。
さらに「紫電改」2作品目をデザイン中ですが、
昭和20年当時の松山基地や滑走路の様子が良く分からずちょっと苦戦中 (‐ω‐;)

343空の初陣、松山上空大空戦


343空「剣」部隊の最も有名な戦闘と言えば、昭和20年3月19日の米海軍・第58機動部隊艦載機群に対する迎撃戦でしょう。これは同航空隊の“デビュー戦”でもあります。この空戦について概要を述べておきましょう。



昭和20年3月19日未明
、四国南方及び九州東方に接近した第58機動部隊・主力空母9隻より戦爆功連合約350機が発艦。豊後水道、四国中央の2方向から呉軍港を目指した。

これを迎え撃ったのが、松山基地に展開する「343航空隊」3個戦闘飛行隊(戦闘701、戦闘407、戦闘301)を中心とした「紫電改」及び「紫電」約60機である。「彩雲」4号機の偵察により敵進路を把握した343空では、0700全機発進を完了し、高空で待ち受ける優位戦の形を作ることに成功する。

343空戦闘マップ

▲ 『 源田の剣 』(旧版) 63頁掲載の地図を元に、細かい情報を書き加えて作成したMAPです。

豊後水道での接敵に始まり、伊予灘、松山上空、四国北西部上空、呉上空まで広範囲に渡る空域で戦闘機戦が繰り広げられ、343空による戦果報告は空戦撃墜52機、地上砲火撃墜5機の計57機撃墜にのぼり、久々の快勝と伝えられた。しかし、実際の米軍損失は飛行機喪失14機(着艦後機体廃棄4機含む)、搭乗員戦死・行方不明8名(捕虜3名含む)であった。

一方、米軍側記録によれば、343空と戦闘したことが確実な6飛行隊の報告戦果合計は撃墜64機にのぼるが、343空の実際の損害は飛行機喪失16機(偵察機「彩雲」1機含む)、搭乗員戦死16名(偵察機「彩雲」の3名含む)である。

空戦につきものの「過大戦果報告」が双方によってなされているが、このことは当空戦がいかに激戦・乱戦であったかを如実に表わしているとも言えるだろう。

また、343空搭乗員の技量の高さもさることながら、統制された編隊戦闘に米海軍パイロット達は少なからず衝撃を受けていたことも間違いないようだ。この日、VBF-17(第17戦闘爆撃飛行隊/空母ホーネット搭載)を率い、グラマンF6Fを駆って戦闘701、407と戦った、エドウィン・S・コナント隊長(大尉)は以下の様に語っている。

『 彼らは巧みに飛行機を操り、甚だしく攻撃的であり、良好な組織性と紀律と空中戦技を誇示していた。
彼らの空戦方法はアメリカ海軍のそれとそっくりだった。
この部隊は、戦闘飛行の訓練と経験をよく積んでいると窺えた 』

同隊の戦闘報告には以下のように記されている。

『 かって経験したことの無い恐るべき反撃を受けた 』



■ 主要参照資料

● 『 海軍航空隊始末記 』源田 實 著(文春文庫)
● 『 源田の剣 米軍が見た「紫電改」戦闘機隊 』 ヘンリー境田・高木晃治 共著(ネコ・パブリッシング、2003年)
● 『 最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長 菅野直の生涯 』碇 義朗 著、光人社NF文庫
● 『 最強戦闘機 紫電改 』 「丸」編集部、2010年
● 『 源田の剣 米軍が見た「紫電改」戦闘機隊 』改訂増補版 高木晃治・ヘンリー境田 共著(双葉社、2014年)

紫電改1作品目発売は下旬頃になりそうです  2011/04/13

昨日、紫電改Tシャツ1作品目の校正刷りが上がってきました。

色の濃淡・明暗で修正点多数ありますので、
もう一度校正チェックの後本生産に入ることにしました。
この感じだと発売は下旬かも・・・はぁ(焦)

紫電改Tシャツ校正刷り

 

さて、この作品の構図は
「B29に前上方背面垂直攻撃をかけ、下方へ抜ける紫電改」

紫電改モチーフは、同攻撃法の開発者であり、343空で最も有名な男、
戦闘301「新選組」隊長・菅野 直(かんの なおし)大尉の愛機です。
(胴体に隊長機を示す黄色帯2本、胴体日の丸内に機番号「15」、垂直尾翼表記 A-343-15)

 

紫電改菅野大尉機

▲ 343空 「A-343-15」」機 ( 日本陸海軍機大百科フィギュア )
菅野さんの機体、出てたんですね!買っておけばよかった。

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紫電改Tシャツ 2作品目、やっと最終入稿  2011/04/22

紫電改2作品目、昨日校正刷りが上がってきましたが・・・
背景描写に凝り過ぎたため、主役の飛行機たちがやや「弱い」感じです。
これはある程度予測していた事態ですので、まぁ想定内!
このあたりの修正を加え、来週から最終プリントに入ります。

今回の様に多色で細かく描画したデザインの場合、
いくらパソコン画面で見ても、また紙に印刷して見ても、
Tシャツに印刷した時の色調は想像できないんですよ。

紫電改Tシャツ校正刷

▲ 「松山基地」上空 高度3000m、戦闘701・鴛淵隊長機とVBF-17・グラマンF6F-5の空中戦 

そんな微妙なデザイン、作らなければいいのですが。。。
今回は紫電改に加え、当時の「松山基地」も想像で描いておりまして・・・
そうなると背景の四国北西部も“それなり”に描かなくてはならない訳で、
まぁ自業自得ですか(笑)

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菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ(その1)  2011/04/25

「343空で最も有名な男」、戦闘301飛行隊長・菅野 直(かんの なおし)大尉

10数年前に伝記 『 最後の撃墜王 』 (碇 義朗 著、光人社)を読んで以来、
この人のことは気になってしょうがありません。

最後の撃墜王・菅野直

戦闘に於いては勇猛果敢、度胸満点。
筋の通らぬことを極端に嫌うが故に
その行動は奔放そのもの。
行きすぎて「粗暴」といえる面があるけれど、
一方では沈着冷静・頭脳明晰、
部下想いで茶目っ気旺盛。
さらに基本に潜む繊細な文学少年・・・。

 
相反する要素が混在するその気性、
かなり複雑であったように思えます。
が、そこが不思議な魅力となっていたことも
間違いのないところ。

 
『最後の撃墜王』に紹介されている
菅野さんのエピソードは本当に数多いのですが、
私の印象に特に残っているものを
次回から順次ご紹介していきたいと思います。

■ まずは菅野さんの「基本データ」から

菅野さんは大正10年9月23日、警察署長の父・浪治さんと母・すみえさんの次男として
父の任地であった朝鮮・竜口(平壌の近く)で生まれました。

大正13年、父が健康を害した為、一家は父母の故郷である宮城県枝野村(現:角田市枝野)へ引揚げます。
その後妹が2人生まれ、菅野家は7人家族となりました。
[敬称略:両親、長女・かほる、長男・巌(いわお)、次男・直(なおし)、次女・志げ子、末娘・和子]

父が元警察署長の菅野家は、地元で一目置かれる存在であり、裕福な家庭でもありました。
努力家の父と頭の良い母の血を引き、菅野家の子供たちはみな成績がよかったようです。
特に長男・巌は評判が高かったとのことですが、兄弟仲はすこぶる良く、喧嘩一つなかったとのこと。
学業優秀・品行方正の兄に対し、菅野さんも成績はトップクラスでしたが、
素行の方は明朗快活な餓鬼大将だったそうで、彼の周りにはいつも多くの友人が集まっていました。
恵まれた家庭環境の中で大らかに育った“面倒見の良いヤンチャ坊主”といった感じでしょうか。

そして昭和9年4月、菅野少年は「角田中学校」(現:宮城県角田高等学校)へ入学します。

次回は中学時代の菅野さんです。

菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その2:中学時代]  2011/04/26

343空・戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。


□ 宮城県「角田中学校」時代
(昭和9年4月入学 ~ 13年11月 海軍兵学校合格まで)

この時期、世界恐慌による不景気はなお尾を引き、さらに昭和12年7月の「盧溝橋事件」を発端に日中は全面戦争へと突入していきます。本格的戦時体制へと社会が移行してゆく中、菅野少年は最終的に「海軍兵学校」と「陸軍士官学校」をW受験することになるのですが、いわゆる“熱血軍国少年”では全然なかったようです。

菅野少年は中学末期の約2年間日記をつけており、その人間像を知る上で大きな資料となっています。
その中で最も鮮やかに浮かび上がるのは「文学少年」としての姿であり、仲間たちと文学論・人生論などを語り合う日々が生き生きと記されています。また、同じ東北出身の歌人・詩人である石川啄木(明治19年~45年)への憧憬は非常に深く、『 啄木という人は自分のような人ではなかったか 』とまで記す傾倒ぶりでした。
約2年間の日記中に短歌124首、詩10篇近くを残し、河北新報(東北地方最大の新聞)歌壇へも多数投稿する入れ込みようで、「文学の道」に進むことを熱望していたのは明らかだったと思われます。

そんな菅野少年に軍人になる決心をさせたのは、主に家庭の事情だったとされています。
兄が米沢高等工業へ進学、妹2人も高等女学校へ進学する予定であり、裕福な菅野家でもこの負担は大きかった。
学費のかからない学校への進学を模索する菅野少年は、中学4年時に満州国立「建国大学」への推薦入学を希望しますが、中学校側に受理されず、ひと悶着起こしています。この時、彼の頭の中で「海軍兵学校」「陸軍士官学校」受験がほぼ確定されるのですが、海軍志望や飛行機への関心などは全く無かったようです。

このように学業優秀な文学少年でもあった菅野さんですが、
生来の明朗快活さと奔放な行動力、純粋な信念に基ずく正義感は相変わらずでありまして、
ある下級生は当時の菅野少年を次のように評しています。
『 やることが奇抜で、我々の想像もつかないことをやった。
ケンカをすれば絶対負けなかったし、修身とか素行の点はあまりよくなかったかも知れないが、人気は絶大だった。』

以下は『最後の撃墜王』に記されている中学時代の出来事から個人的に印象深いものを選び、
出来る限り時系列に並べ替え、私なりに解説・感想を加えたものです。
※ ■は文学的事象、□はそれ以外の出来事。『 』囲みは引用

■ 中学1年から短歌をつくり始める ( 昭和9年、中学1年 )

既に石川啄木の影響を受け始めていたていたと思われ、
文学仲間の友人たちと互いの作品を評価しあっていた。

□ 運動会で先生を振り切る ( 学年不明 )

運動会でサボっていた?菅野少年。
風紀係の体育の先生に見つかり追いかけられるが、
観衆環視の中、グラウンド3周余を全力疾走して「追手」を振り切る。
体は小さかったがとてもすばしっこく、運動神経抜群だったとのこと。
この当り、後の戦闘機乗りとしての適性に通じるものが感じられる。

□ 肝試しで奇行的?悪戯 ( 学年不明 )

学校生徒の親睦組織「尚友会」主催の「試胆会」(いわゆる肝試し)に参加する。
夜、お寺に行って自分の名前を筆で書き、字が震えていなければ合格という趣向であったが、
菅野少年が寺に行くと、硯(すずり)と筆はあったが水が無い。
そこで、なんと硯に小便!をして墨をすり、立派に署名して帰ってきたとのこと。
行動が大胆というよりも、その発想が尋常ではない。まさに「奇抜」とはこのことか?

■ かっこいい軍人への憧れ? ( 昭和12年1月1日の日記、中学3年 )

正月、学校の軍事教練教官・井上少佐の盛装に感銘を受ける。
『 僕も一つ軍人にならんと志を堅くした 』
石川啄木はかつて海軍兵学校生徒の軍服姿を見て軍人志望を志した事があり、
これを知っていた菅野少年の心も啄木同様に?揺れ動いたのかも知れない。

■ 友情論を記す ( 昭和12年1月3日の日記 )

『 我々は喜びは共にせずとも、悲しみだけでも共にするようになりたきものなり 』
この頃、菅野少年の周りには多くの「親友」がおり、それはまた文学サークル的色彩の濃い仲間たちであった。

■ 中学4年生進級。進学組へ進む ( 昭和12年4月14日の日記、中学4年 )

『 勉強できる身は幸福だと思う 』
困窮する東北地方の農村事情を知っていたのであろう。

□ 先生を袋叩き ( 学年不明 )

人格者として尊敬していた井上少佐(軍事教練教官)の悪口を言ったある先生に抗議した菅野少年、
どのような経緯をたどったか定かではないが、最終的にその先生を袋叩きにしてしまう。
父が呼ばれて厳重注意を受けるも、最後まで「自分は悪くない」と主張した。
学校側に権威があった当時では信じられない「大事件」だったが、何故か数日の停学処分で済んでいる。
父が元警察署長ということも影響したのだろうが、この軽い処分、不思議ではある。
信念のためには相手が誰であろうとも暴力も辞さず、ある意味心根が「純粋」なのだろう。

□ 軍人になると宣言 ( 時期不明、中学4年進級後のある日 )

家族と進路を話し合った際、
『 お兄ちゃんは大学に進んだ方がいい。僕は軍人になるから・・・ 』 と宣言する。
しかし、心底から軍人志望だったかは大いに疑わしい。
家計に負担をかけまいとする、菅野少年なりの決意表明だったのでは?

■ 尊敬する井上教官、中国戦線へ応召される ( 昭和12年9月10日の日記 )

師を想う短歌8首を記している。
※この数週間後の10月18日、井上少佐は上海で戦死するのだが、
不思議なことに菅野少年の日記に関連する記載は無い。

■ 啄木への想い ( 昭和12年9月14日の日記 )

『 「吸」という字を書きければ、啄木の「啄」という字に似てしまうかも 』
友人によれば、菅野少年の啄木論は「浪漫的感傷詩人」といった一般的評価レベルではなく、相当に深いものであったらしい。

菅野直_啄木◀ 明治の詩人、石川啄木。
   何となく菅野さんに似ていないでもない。

□ 新設の満州国立「建国大学」への推薦入学を希望 ( 昭和12年秋頃? )

級友・小島光造氏(後に菅野と共に海兵へ進む)と2人で、 次春より開学される満州国立「建国大学」への推薦入学を希望するが、5年生を優先する学校側はこれを受理せず、断念を余儀なくされる。
この時、学校側に敢然と抗議した菅野少年は自宅謹慎処分に・・・!
「建国大学」は推薦入学制をとっており、もし推薦されていれば成績優秀な菅野少年は間違いなく合格していたと思われる。
学費免除以外に、なぜ「建国大学」を選んだのか?
その理由は定かでは無いが、国外に新天地を求めるあたりはいかにも菅野さんらしい発想と言えそうだ。
この挫折により、いよいよ「海軍士官学校」「陸軍士官学校」受験が現実味を帯びてくる。

菅野直_建国大学

 ◀ 満州国立「建国大学」 1940年(昭和15年)の写真。

  1938年(昭和13年)5月、新京(現:長春)に開学された
  満州国直轄国立大学。民族協和を掲げ、満州国を担う
  エリート育成が目的とされた。1945年(昭和20年)8月、
  満州国崩壊とともに閉学。卒業生約1500名。

■ さらに深まる啄木への想い ( 昭和13年1月の日記 )

『 大きいことをいうかも知れぬが、啄木という人は 自分のような人ではなかったか 』
ここまで入れ込むとは、全くもって凄い境地である。

□ 海士・陸士へ入学出願 ( 昭和13年6月頃、中学5年 )

■ 明治維新の志士を想う ( 昭和13年7月2日の日記 )

自己を顧みずに国事に奔走した維新の志士3名(吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲濱)を挙げ、功績を讃える。

□ 「海兵」身体検査に合格 ( 昭和13年7月25日 )

この日、全国48か所の試験場にて一斉に行われる。
菅野少年は仙台市の宮城県立・宮城男子師範学校にて受験。

□ 「海兵」学術・口頭試験に合格 ( 昭和13年8月5日~9日、宮城試験場 )

5日間に渡って実施された「数学Ⅰ」「数学Ⅱ」「英語」「物理・化学」「国語・漢文」「日本史」「作文」「口頭試問」試験にパスし、「最終試験継続者」となる。ここから家庭調査などでさらに絞り込まれるため、まだ正式合格ではない。因みに、宮城試験場での受験者総数・約200名に対し、「最終試験継続者」は42名。狭き門である。

□ 氾濫する阿武隈川を決死の渡泳横断 ( 昭和13年8月31日・9月1日 )

台風で阿武隈川が氾濫する中、戸惑う生徒達の渡橋(木造の角田橋)を助けた後、自分は橋から激流に飛び込み対岸まで約300mを泳ぎ渡って登校。下校時にはさらに増水した濁流をまたも泳ぎ切って帰宅。
菅野少年は日記に『 決死的渡泳断行、コースを変じて辛くも帰る 』と淡々と記しているが・・・
この翌日、警察官2人が視察中に濁流にのまれて死亡しており、本当の意味で「決死的」な行動であったと思われる。何故あえてこのような無茶を決行したのだろうか?

菅野直_角田橋

▲ 菅野直少年の「決死的渡泳横断」現場、現在の様子。確かに300mはありそうだ。
  当時木造だった角田橋も、今は立派な鉄橋となっている。

■ 仙台で文芸書大量購入 ( 昭和13年9月4日の日記 )

『 我が心の文学的潤いの欠乏に由る 』
海兵の受験勉強でやや疲れたのだろうか?
読書に飢えていたようであるが、
「文学的潤いの欠乏」とは・・・文章が上手すぎる。

□ 「陸士」身体検査に落ちる ( 昭和13年9月 )

陸士の方は身体検査で引っかかり、学科試験へ進めなかった菅野少年。
ただ、海兵の方がうまくいっていたせいか、気落ちは無かったようで、
日記での言及はほとんどなく、級友の健闘を祈る旨が淡々と記されているのみ。 

■ ナポレオンを鋭く批評 ( 昭和13年9月14日の日記 )

『 ナポレオンが自分の興味を湧き立たせない理由は、彼は物のあわれを知らない唯物論者であるからだ。』
少年にして恐ろしい程の洞察力とは言えまいか?

□ 海兵合格をほぼ確信 ( 昭和13年9月20日 )

身元調査の為、自宅に憲兵が来訪。

■ キリストに興味? ( 昭和13年9月24日の日記 )

『 キリストを研究すればある程度彼の偉大な精神言行を認めざるを得なくなる。・・・機会があればバイブルを読んでみようと思う。』

■ 文学への想い ( 昭和13年9月26日の日記 )

オスカー・ワイルド『 獄中記 』に触れ、
『 自分が感動した句は、“我に自由と花と書物と月があれば、我は幸福なり”である。』 と記す。
どこまでも文学好きな菅野少年の本音であろう。

■ 漢口陥落に心躍るも・・・ ( 昭和13年10月27日の日記 )

中国の要衝・漢口陥落を祝う提灯行列に参加する。
軍を讃える詩「詠漢口陥落」を記す一方、
「こころ」と題した詩の中で 『 自分の心は文を好む 』 と微妙な心情を吐露している。

菅野直_提灯行列

▲ 漢口占領を提灯行列で祝う大坂市民。【 写真週報・1938年11月9日号 掲載 】
[左] 街に繰り出し、万歳を叫ぶ若者たち。 [右] 大阪城の祝賀イルミネーションと提灯行列の灯り。
南京占領~漢口攻略と、国民挙げての大騒ぎであったらしい。

□ 海兵合格電報来る ( 昭和13年11月3日 )

「明治節」(現:文化の日)のこの日、海兵合格電報が届く。『カイヘイゴウカク イインチョウ』
角田中学からの「最終試験継続者」3名の内、最終合格者は菅野と小島光造氏の2名であった。

□ 「海兵採用予定通知書」届く ( 昭和13年11月9日の日記 )

日記に海兵合格に関する記述は全く無い。
ただ、親戚の方?より合格祈念の腕時計を贈られたことが記されているのみ。
そしてこれが最後の日記であった。

こうして、菅野少年は晴れて海軍兵学校第70期生徒に合格したわけですが・・・
日中戦争長期化のおり、士官の早期大量養成を要した海軍の決定により、
この第70期から入校日が12月1日に繰り上げられていました
通常であれば翌年春入校のところですが、第70期は採用から入校まで3週間ほどしか猶予がなく、
菅野少年は親族や友人達への挨拶や送別会など、慌ただしい時を過ごしたようです。

昭和13年11月末、菅野少年は小島光造氏とともに夜行列車を2本乗り継ぎ、2昼夜かけて呉へ移動、
12月1日の海兵入校式を迎えることになります。

この時点で菅野少年の頭の中にあったのは、「海軍で国の為に尽力するのだ」という漠然とした決意のみであって、
ましてや航空への興味などはまったく存在しなかったと思われます。
無論、中国との戦争が将来「大戦争」(対米英戦)へ発展しようなどとは、
菅野少年のみならず殆どの一般国民には考えも及ばなかったことでしょう。

次回は「海軍兵学校」時代の菅野さんです。

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