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「CABIN A-2」の森さん  2010/07/04

先日、久々に大阪で飲みました。
お相手はフライトジャケットへの手描きペイントクリエイターの森さんというお方で、大阪で「CABIN A-2」(キャビン A-2)という会社の代表をしておられます。

フライトジャケットへのペイント?と言われてもピンとこない方もいらっしゃると思いますので、以下簡単に解説しましょう。

2次大戦時、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)では制式衣料として「A-2」という革製フライトジャケット(当時ナイロン系生地はまだ無かった)が大量に支給されていました。映画 『大脱走』 で主人公のキャプテン・ヒルツ(スティーブ・マックゥイーン)が着用していたヤツ~といえば思い当たる方も多いのではないでしょうか?

過酷な戦闘に赴く爆撃機クルーや戦闘機パイロット達は、自分たちの乗機やジャケットに様々な手描きペイントをほどこし、連帯感の向上と生還を祈願しました。これらペイントは彼らにとってまさに「護符」(タリスマン)ともいえるもので、ピンナップガールあり、恋人のイラストあり、マンガあり、架空キャラクターあり・・・と、その表現は多岐に渡ります。そして“戦時に生まれ、描かれたデザイン”であるが故に、これらペイントには上手い下手を超越した強烈な「存在感」が宿っているのです。有名なザインとしては、映画化もされた「メンフィス・ベル」(=メンフィスねえちゃん)があげられるでしょう。

A-2メンフィスベル


CABIN A-2」の森さんは、実在したペイントを現在に手描きで復活させる数少ないクリエイターのお一人でして、私個人的には勝手に「日本一」だと思っております。

10数年前、当時フライトジャケットにハマりかかっていた私がたまたま森さんにペイントをお願いしたのがキッカケで、
その後森さんの「
WAR-ART」ファンとなった私は、半ば無理矢理?森さんを説得して「CABIN A-2」のホームページを立ち上げさせていただいたりしました。ちなみにこのサイト、森さん作品の一部を閲覧できる唯一のサイトであり、私が初めて作ったホームページでもあります。
フライトジャケットのバックペイント&カスタム「CABIN A-2


さて、この森さん。
気難しいアーティスト的な人物かと思いきや、見た目も含めてホンマ「いい人」(
正しくは「いいオッサン」 )でして、
凄い腕を持ちながら全く謙虚なんですよ!
しかもこの方、ヨットマンです。それもお金持ちの「お遊びヨット」ではなく、競技会で勝負に執念を燃やすバリバリ体育会的ヨットマンなんですね。

森さんのことを語りだすと長くなりますので今日はこのへんで。
今回もTシャツデザインでありがたいご指摘をいただきました。

プロのデザイナーではない私にとって「色使い」は苦悩の種。難しいけど頑張らんといかんです。(~~;)

故障  2010/07/09

最近本当に暑いですねぇ。

今夏はNOエアコンで乗り切る決意なんですが

早くも挫折しそうでいけません。

さてその暑いなか、昨夜ウチの洗濯機が故障しました。

具体的被害状況は「排水不能」。

「まぁ適当にイジれば直るだろう」

もう10年以上使い続けているウチの洗濯機、いまだに「2槽式」なんですよ。

最新式のヤツならいざ知らず、たかが「2槽式」。

メカ構造も単純だろうし、ちょっと本気になりゃ簡単よ。

最初は楽観視していたのですが・・・

2槽式

1段階

水圧をかけて流せば詰まっているモノが流れるだろう」ということで、

洗濯槽を満水にしてつまみを「排水」にしたんですが・・・全く流れない。

排水ホースを調べるも、何かが詰まっているということでもないようだ。


もしかしたら重傷か?嫌な雰囲気になってきた。

2段階

詰まっている何かを強引に排除するしかない」ということで、

トイレ用のラバーカップ(吸盤に柄がついてるアレです)で
洗濯槽底部の排水口を何度も
パワープッシュしたんですが・・・なんの変化もない。

やばい、これは業者に修理に来てもらうレベルかも知れん。

“洗濯機にトイレ用品を突っ込むのは如何なものか?”
という当初あった僅かな葛藤感などこの時点では跡形も無く吹っ飛んでいるのは言うまでもない。

コインランドリーで漫画を読む自分の姿が走馬灯の様に頭をよぎる・・・。

ラバーカップ

3段階

こうなったら意地だ。洗濯機の中を強行偵察してやろう」ということで、

満水の水を手桶で全てかい出し、
軽くなった洗濯機を横倒しにして裏面の金属パネルをドライバーで撤去する。

眼前にあっけないほど単純な構造が露出。これはイケルかも!

原因はすぐ分かった。

洗濯槽の「排水」ツマミとベルト連動している半透明プラスチック製の切り替えユニット部の中に
長年の洗濯ゴミが目一杯詰まっているのが目視できる。

しかしこのユニット部、一体成型パーツなのか

どこにも開けられるような部分が見当たらない。

ここまでやって!原因も明確に分かっているのに撤収なのか?

疲れと徒労感が一気に襲いかかって来る。

第4段階

ここまで来て撤退はできん。死守だ!」ということで、

狭く暑苦しい脱衣場で懐中電灯片手に洗濯機の中を調べまわること15分。

例のユニット部に「継ぎ目」のような薄~いラインがあることを発見。

祈るような気持ちで回してみると・・・簡単に外れた!

洗濯機買い替え出費が必要無くなった!という感覚が真っ先に頭に浮かんだのがちょっと情けなくはあったものの、
所要
2時間にして執念の勝利!

  ●

ここでふと思いつくのは戦場での兵器修理です。
過酷な状況で酷使される兵器が故障するのは当たり前。

問題は如何に早く、簡単に修理できるかなんですが、
アメリカ軍は相対的にこの点が優れていたようです。
多少兵器能力が落ちようとも、運用効率を重視するんですね。


対照的?とも言えるのがドイツ軍です。

駆動時の戦闘力は高いものの、専用パーツが多すぎるうえに複雑な修理技術と熟練度が要求されるため、
結局運用効率は極端に落ちてしまう。

ティーガーやパンターなど正にこのパターンでしょう。

でも

何故かドイツ軍兵器の方により興味がわいてしまうんですねぇ。

日本の「ティーガーⅠ」輸入計画  2010/07/21

2次大戦時、日本陸軍がドイツから重戦車「ティーガーⅠ」を輸入する計画を立てていた話は近代戦史の好きな方なら皆さんご存知のことと思います。

1943年(昭和18年)、駐独大使・大島浩(元陸軍中将)がドイツ陸軍兵器局と交渉し、同年10月、「ティーガーⅠ」新造車両1台(8.8cm砲弾、機銃弾、無線機、光学装置、整備工具など含む)と設計図一式および組立説明図を645,000ライヒスマルクで購入することが決定されました。
日本側は国策会社「昭和通商」を通じて代金を支払いましたが(ヘンシェル社による入金確認は1944228
日)戦況悪化で輸送不可能となったため、この日本向けティーガーはドイツ陸軍が貸与という形で使用することとなり、結局ベルギーで編成中だった「第101 SS重戦車大隊」へ供給されました。



ティーガー輸入計画

上の画像 は結構有名な写真でして、『 ティーガー重戦車 パーフェクトバイブル 』 (学習研究社発行)にも掲載されていましたが、戦史研究家・白石光氏によるキャプションは
1943年の冬、ティーガーⅠを検分する2名の日本陸軍士官。撮影場所は不明。』となっております。

右側の人物は大島大使本人という説もあるようなのですが・・・どうなんでしょか?実際に大島大使はロシア北部戦線に502重戦車大隊を訪問しティーガーを実地確認しているのですが、これは194367日と記録されていますので、このキャプションとは合わないんですね。

この2人は一体誰なのか?
こんな事が気になってしょーがない自分が情けないです。(笑)


さて、話を日本向けティーガーに戻しまして

これが仮に日本へ無事到着していたとしたら、どうなったでしょうか?

技術的革新性はそう高くないティーガーではありますが、やはり当時の日本の工業力じゃ「大量生産」は不可能だったでしょう。エンジン、変速機、起動輪、誘導輪などなど随所に使われるボールベアリングの均一精度はマネできないだろうし、なによりもまず「砲身」自体が造れなかったと思われます。

ところで、645,000ライヒスマルク(以下RM)というのは・・・一体ナンボやねん?

ということで、色々調べて超概算してみました。

  1941年の対ドイツ為替相場は 1円=0.582RM だったそうで。

  従って当時の日本円では

  645,000RM ÷ 0.582 1,108,247 (約110万円)ということになる。

  そして、現在の消費者物価指数は当時の約2,000倍ということらしいので

  今日の日本円に換算すると

  1,108,247(戦前円) × 2000 = 2,216,494,845 221,650万円!

これが高いのか安いのか?全く判断基準を持ちませんが、
『ティーガー戦車』(W.J.シュピールベルガー著、津久部茂明・訳、富岡吉勝・監修、1998大日本絵画発行)によれば

ヘンシェル社のドイツ陸軍納入価格が300,000RMだったらしいので・・・2倍以上ですね。

しかし、輸送経費等も考慮するとまぁ妥当なのか?
(分解しての潜水艦輸送を検討していたらしいですが定かではありません。)

ちなみに来年より自衛隊が導入する 国産戦車 「 10(ひとまる)式 」 は初年度で1両約9.5億円だそうです。

有効な「抑止力」の一端となることを、一国民として切に願っております。

自衛隊10型戦車

「ツィタデレ作戦」(クルスクの戦い)について  2010/07/25

「スターリングラード攻防戦」に続き独ソ戦の決定的転換点となったのが、19437月の「クルスクの戦い」である。

独ソ戦3年目の1943年春、中央ロシアにおける独ソ両軍戦線には、幅200キロ奥行き150キロに及ぶ「クルスク突出部」と呼ばれる前線が形成されていた。

ドイツ軍はこの突出部に対する南北からの挟撃包囲作戦 『ツィタデレ(城砦)』 を計画するのだが、これはヒトラー独特の政治的判断によるものであった。実際、ドイツ国防軍中枢で積極的に賛成する者はほとんどおらず、第9軍司令官・モーデル上級大将、装甲兵総監・グデーリアン上級大将、軍需大臣・シュペーアらは攻撃自体行うべきではない(自殺行為である)という見解を示したが、ヒトラーは強引に作戦実施を決定する。

また、ソ連側防備体制をある程度把握していた南方軍集団司令官マンシュタイン元帥は実行延期による状況悪化を危惧し、遅くとも5月中の作戦実施を具申している。

当時の
ヒトラーにとっては東部戦線の主導権を奪回するという戦略的目標もさることながら、当時イギリスと接触していた中立国トルコや東欧枢軸諸国の動揺を抑える政治的戦略としての「大勝利」が必要だったのであり、戦闘の「切り札」としては実戦配備間近だった新型中戦車「パンター」(豹戦車 / Ⅴ号戦車)および重駆逐戦車「フェルディナント」(エレファント)に大きな期待をかけていた。だが、ヒトラー自身この作戦に不安を抱いていたことは明白で、5月の時点で再考を求めたグデーリアンに対してこう答えている。

君の言うことは、全くもって正しい。この計画の事を考えると、私自身も胃がひっくり返りそうになるのだ!

クルスクの戦い

しかし、期待の新型戦車「パンター」の部隊配備は5月末と遅れたうえ、エンジン系初期不良の続発により訓練さえままならない状態に陥ってしまう。この結果、ヒトラーによって作戦開始日は何度も延期され、最終的に75にまでずれ込んでしまうことになる。


一方、連合国側より刻々と情報を入手あるいは巧妙に盗み取っていたソ連側は、ドイツの攻勢計画をほぼ正確に把握しており、クルスク突出部およびその東方地域に幾重ものバックフロント(対戦車陣地)・地雷原を構築しつつ急速な戦力増強を進めていた。同時期に編成された「ステップ軍管区」(ステップ方面軍)は、まさにこのドイツの攻勢に備えた予備軍として新設されたものである。

また「対独単独講和」をカードに米英を揺さぶり、武器貸与法を結ばせた(194110月)スターリンのしたたかな手腕も特筆もので、米国から送り込まれる大量の兵站物資はこの頃から徐々に戦場でその効果を表し始めていた。ソ連軍の機械化・自動車化がドイツ軍をはるかに凌駕していたのも支援による効果が大きい。

さらに、諜報活動によって「日本独ソ戦不介入」を的確に判断し、ソ満国境の精鋭部隊を欧州戦線へ投入できていたこともこの戦力増強に少なからず影響していたと思われる。


つまりは、この時点でドイツ側の目標である「迅速な挟撃包囲殲滅作戦」はすでに幻と化していたといえよう。
しかも両軍中枢ともほぼ正しくその可能性を理解していたという、誠に妙な?状況であった。

75早朝、ドイツ軍は陸・空の総力を挙げて攻撃を開始する。

ドイツ軍が同作戦に投入した主要戦車は以下の通り。

Ⅳ号中戦車 ・・・・・・・・・・・・・・・・841輌

Ⅴ号中戦車「パンター」・・・・・・・・200輌 (南部戦区のみ)

Ⅵ号戦車「テーィーガーⅠ」・・・・・143輌

●重駆逐戦車「フェルディナント」 ・・・ 89輌(北部戦区のみ)


※戦闘詳細は情報不足でとても書けませんので、以下はドイツ軍中心の大まかな推移です。
<(_ _)>


ドイツ軍の激烈な攻勢に対し、用意周到に準備していたソ連軍は執拗に反撃。
北部戦区は攻勢2日目にして早くも膠着状態となる。
南部戦区に於いては、ドイツ軍は巧妙な機動で敵戦車を次々と撃破しつつ見事な戦車整備能力も発揮して前進するが、周到に構築された縦深陣地・地雷原と湯水の如く湧いてくる敵戦車群・空軍の人海戦術的反撃の前に
その前進スピードは鈍り、戦況は急速に泥沼の消耗戦へと変貌してゆく。
(※710地中海戦域において、連合軍のシチリア島上陸作戦が開始される。)
712、“史上最大の戦車戦”とされる「プローホロフカの戦い」が生起。
これによりソ連軍予備兵力「ステップ方面軍」の一部を引きずり出し、痛打を加えたドイツ軍だったが・・・
陸・空を大量の敵味方が交錯する苛烈な戦闘の末、第2SS装甲軍団の進撃は阻止される。
さらに同日、北部戦区全域にわたりソ連軍の総反撃が開始され、もはや作戦目標の達成は絶望的となった。
713、ヒトラーは「ツィタデレ作戦」の中止を発令するとともに、プローホロフカで奮闘中の第2SS装甲軍団(3師団)を即座にシチリアへ送るよう命令を下すが、この無茶な指令は間もなく撤回されている。
(ヒトラーはイタリアの枢軸離脱を極端に恐れていたといわれる。)
その後も南部戦区での戦闘は継続され、南東部ではドイツ軍ケンプフ軍支隊・第3装甲軍団の進撃が続いていたが、
715、ヒトラーは再び南部戦区での攻撃中止を命令。

こうして10日間にわたった「ツィタデレ作戦」はドイツ軍の戦略的完敗で幕を閉じる。

クルスクの戦いクルスクの戦い

以後、東部戦線においてドイツ軍が主導権を奪回する機会は2度と訪れず、終戦まで絶望的な防御撤退戦を余儀なくされることになる。多くの歴史家が指摘しているように、ドイツにとって「ツィタデレ作戦」の実施はまさに『終わりの始まり』だったのかもしれない。



主な参考資料

『クルスクの戦い / 戦場写真集 南部戦区 19437月』(J・ルスタン+N・モレル著、大日本絵画発行)

『「歴史群像 2007 2月号No81 / ツィタデレ作戦』

『第2次世界大戦ブックス15 ドイツ機甲師団』(ケネス・マクセイ著、加登川幸太郎・訳、サンケイ出版)


原爆の教訓とは?  2010/08/07

この季節がやってきました。
私が戦争や歴史に興味を持つキッカケとなったのが
実は「原子爆弾」なんです。

小学生3~4年生頃だったと記憶していますが、
社会の授業で担任の先生から教わりました。
世界を敵に回して戦争した日本は、原子爆弾を落とされて負けた
何も分かっていないのに無性に悲しくなったのを覚えています。
そして同じ頃、たまたま見ていたテレビで決定的なトラウマ映像を観ました。
アメリカ軍が空撮した広島原爆炸裂の記録映像で、これは本当にショックでした。
これが原子爆弾!あの雲の下にいた人達はどうなったんやろう?


皆さんご存知の通り、原子爆弾に関しては様々な議論がなされてきました。
日本人なら誰でもアメリカ人の理屈は頭にきます。
「戦争を早期終結させるために原爆投下はやむをえなかった」
「原爆で失われた人命より、原爆で救われた人命の方が多い」
誠に残念ですが、アメリカ人にはいまだにこれを正々堂々と唱える輩が多数存在しています。
米軍兵士の命を守るためなら、日本人一般市民を大量殺戮していいのか?!


さて、淵田美津雄という海軍軍人をご存知でしょう?
真珠湾攻撃空襲部隊の総指揮官を務め、ミッドウェイ海戦において赤城艦上で負傷(両足骨折)、
海大教官を経て角田中将の第一航空艦隊参謀、連合艦隊航空参謀を歴任し、戦後牧師になった人ですが、
彼は被爆直後の広島を視察した数少ない海軍軍人の1人でもあります。

その彼が、戦後正直にこう語ったということです。
仮に日本が先に原爆を開発したならば、我々はそれをアメリカに向かって躊躇無く投下しただろう。
連合艦隊の航空作戦参謀として、マリアナやアメリカ本土に投下する責任をもっただろう。
私はむしろ、喜んでそれをやったに違いない。 そして、そのことに、誇りすら持っただろう。

※甲斐克彦・著『 真珠湾のサムライ 淵田美津雄―伝道者となったパールハーバー攻撃隊長の生涯 』
光人社刊 / 291頁より

淵田

より根本的な問題の本質は、人類を原爆投下に至らしめた「戦争状態」にあるのかも知れません。
「戦争状態」というものは人間の英知を破壊し、通常では考えられない様な行動を取らせてしまうんですね。

アメリカの原爆投下をどう捉えるか?
人類は広島・長崎からどの様な未来への教訓を感じ取るべきなのか?
長年興味を持って思考錯誤を続けておりますが、未だに頭の整理は出来ません。

冷却効果  2010/08/23

いや~暑いですねぇ

ついに、とうとう買ってしまいました。

エコポイントについて執拗に質問したせいか、

ヨドバシの店員さんを著しく不機嫌にさせてしまうオマケつき。

が、いままで34度の「温室」で汗だくになって色々やっていたのが

これで環境一変しましたです!

この快適環境で次回作品もサクサク進んでいるかというと・・・

いつものことなのですが「リアル」と「シンプル」の狭間で悩んでおります。

そうそう、先日小さな発見をしました。

初期零戦の塗装カラーと言われている「灰緑褐色」と呼ばれる色ですが

DICの「DIC441s」が結構しっくり来るみたいです。

でもTシャツに印刷すると・・・違う感じになるのかな (_;)




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