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「伊四〇〇型潜水艦 & 晴嵐」Tシャツ 制作報告 その(8) 2016/04/07


最初の色校正から約1週間が経過しましたが、昨日夜ようやく校正作業が終了いたしました。
「伊四〇〇型潜水艦 & 晴嵐」Tシャツの発売は予定通り4月下旬となる見込みです。


「伊四〇〇型潜水艦&晴嵐」Tシャツの最終校正

今回悩んだのは黒Tシャツのデザイン色調で、私が微妙なバランスにこだわりまくったため異例の Ver.3まで校正刷を重ねることとなりました。雑誌やポスターなどとは違い、コットン地にプリントするTシャツ印刷において微妙な色調再現を要求すること自体に限界があるのは百も承知なのですが、今回はなぜか突然海軍兵学校『五省』が頭をよぎりまして・・・努力に憾み勿なかりしか、不精に亘る勿かりしか・・・妥協を捨ててやってしまいました( ̄ヘ ̄;)  しかし、その甲斐あって色調再現レベルは確実に向上しております。文句ひとつ言わずに頑張っていただいた印刷所さま、取りあえずはご苦労様でございました。

伊四〇〇の鐘?  2016/04/09


今回の「伊四〇〇型潜水艦 & 晴嵐」Tシャツのデザインに当りましては、幸運にも元「伊四〇〇」乗組員T機兵長さまを始め、『 伊四〇〇と晴嵐 全記録 』(学研)著者でいらっしゃる戦史作家Tさま、知る人ぞ知る伊四〇〇型研究家Mさまなど"恐れ多い"方々から貴重なアドバイスをいただき、日々恐縮していた訳ですが、お蔭様で面白い話を知ることとなりましたのでご紹介させていただきます。

先月初旬、ハワイ・オアフ島沖に沈む「伊四〇〇」の残骸から発見されたひとつの「鐘」の話です。



■ 「伊四〇〇」の残骸から青銅の鐘(Bronze Bell)が引き揚げられた。


戦史作家Tさまからメールをいただきこのニュースを知ったのは3月中旬です。鐘を引き揚げたのはハワイ大学の海洋調査機関HURL(The Hawaii Undersea Research Laboratory )で、同大学のニュースサイトには引き揚げ時の映像もリンクされておりました。さらに同記事では、この鐘は伊四〇〇の歴史遺物として真珠湾のボーフィン潜水艦博物館に展示されるであろうとの展望も紹介しています。

● 英文記事:Bronze bell recovered from World War II aircraft-carrying submarine off Oahu coast
引き揚げ映像(YouTube)

ハワイ沖の海底から引き揚げられた鐘

伊四〇〇残骸と発見された鐘の位置

日本における伊四〇〇研究第一人者・Tさまのご見識を持ってしてもこの鐘の設置目的については見当がつかないとのこと。そこで、研究家MさまとT機兵長さまに映像を見ていただき、ご意見を伺いました。


■ 「時鐘」(じしょう)?


研究家Mさまによる考察は以下のような感じでした。

伊四〇〇型の残存図面や写真から鐘は確認できないが、海軍艦艇の多くに装備されていた「時鐘」(じしょう)とも推察できる。「時鐘」であれば艦外(艦橋セイル周辺など)に設置されていた可能性が高いが、伊四〇〇が就役した昭和20年1月頃は時鐘を叩く余裕など無かったはずだし、潜航時には艦内収納の手間がかかるため、あくまで海軍艦艇の慣例装備品として艦内の何処かに安置されていたのかも知れない。その一方、本当に伊四〇〇の遺物なのか?という疑念は大いに残る。

この「時鐘」(じしょう)とはいかなるものなのか?以下は信頼できるサイトからの抜粋です。

時鐘 (じしょう) : 日本の護衛艦には、艦橋から出た左舷側に時鐘という鐘が下げられているのはご存知でしょうか?いまでこそ飾りになってしまっていますが、元々は実用品だったのです。 時鐘は、その船が就役している限り昼夜を問わず30分毎に当直員が鳴らしていたことからその船のシンボルであり、また船の魂、船霊(ふなだま)がこもり給うところとされています。イギリスの船ではこういった言われから船名ゆかりの個人や年からの献上品によって設置されることが多く、日本の自衛艦もこれにならって使用されないながらも今日の新造艦艇には厳粛に取り付けられ、また退役時には外されて防衛庁長官へ返納するしきたりになっています。また、帝国海軍時代は本来の目的で使用されていました。時鐘番兵というのがいて、30分計の砂時計で時間を正確に測り、転倒する度に鐘を鳴らして時を告げていました。鐘を鳴らす回数は当直時間ごとに最初の30分が1回、次の30分(1時間)で2回、というように鳴らし、それを何直何点鐘と呼んでいました(乗員も何時とか何時半とか言わず、同じように言うのが通例だった。) ちなみに打ちかたにも流儀があり、1点鐘はカン、2点鐘はカンカン、3点鐘はカンカン、カン というように、1点鐘以外は2連区切りというのがならわしで、さらに大晦日の年越しには行く年に8つ、来る年に8つの計16回を打ち鳴らすのだが、これに当たると良縁に恵まれるという言い伝えがあったらしく、こぞってみんなが打ちたがるので乗組員中の最年少者が打ち鳴らす習慣があったそうな。



■ 元乗組員さまはご記憶なし


T機兵長さまは昭和19年末、呉で「伊四〇〇」擬装員を命じられ、そのまま終戦後まで乗組まれた方ですので、艦の装備にはお詳しいはず。もしかしたらこの鐘について何かご記憶があるのでは?と密かに期待していたのですが・・・
実に明快なご回答をいただきました。

全く知らないし、見たことも無い。
仮に艦橋にあったとしても潜航の際艦内へ持ち運びが必要なので考えられない。

う~ん。元乗組員さまのご記憶には無い。しかし、海底に鐘はあった。
しかしこの時点では、「時鐘」の名残として艦内某所に設置されていたのでは?という想いがありました。なぜなら、伊四〇〇型は全長120mに及ぶ世界最大の潜水艦で乗組員数も150名以上、T機兵長さまの担当部署外の何処かに存在していた可能性は否めないからです。


■ 戦後、米軍が持ちこんだ?


その直後、戦史作家Tさまより意外な新情報が入りました。Tさまが数人のアメリカ人戦史研究者に問い合わせたところ、以下のような推測が示されたというのです。

アメリカ海軍は海上で敵艦を拿捕したとき、鐘を持ち込むのが伝統のようなので、伊四〇〇の場合も米海軍が戦後持ち込んだもののようだということで意見が一致した。その鐘の造りをよく調べれば、きっと日本製ではなくアメリカ製ということが判るはず。

米海軍にそのような伝統があったとは全く知りませんでした。伊四〇〇が仙台沖海上で米海軍に拿捕されたのは昭和20年8月27日。その後横須賀で再整備ののち米人クルーのみでハワイへ航海していますので、この間に米軍艦艇から持ちこまれた可能性が高いということなのでしょうか。



以上のような経緯で現在に至るわけですが、もちろん真相は不明です。
歴史の解明というのは慎重のうえにも慎重を要するものなのですね。この鐘の出自につきましては、是非材質チェックも含め、徹底検証をしていただきたいものです。

配送時の包装が一部変わります  2016/04/13


今月(4月)よりヤマト運輸のサイズ測定が厳正化されたため(ヤマトに言わせれば正常化)、今まで60サイズ(縦横高さ 計60cm以内)で通用していたボール紙封筒(デルパック)は1サイズ上の80サイズ料金を取られることとなりました。
現状のままでは配送地域によってバラつきはあるものの、1件当り約¥200のコスト増となってしまいます。

今までボール紙封筒を使用してきました理由は、Tシャツと言えども折り曲げた形でお届けしたくない、という「こだわり」からでしたが、送料を値上げするわけにもいかず・・・事ここに至って包装形態を再検討せざるを得なくなりました。

それでも最初から商品を折り曲げるのは嫌だ!(=`∧´=)
ということで、60サイズの配送袋を模索しておりましたところ、イケそうな素材を発見。

TTOS株式会社から出ている「@eco宅配ビニール袋」のサイズ3というやつです。
サンプルで確認したところ、素材は高密度ポリエチレンで強度、防水性は充分。
問題のサイズは 25cm × 34cm × 厚1cm で、これは折りたたんで透明袋に入れたTシャツとほぼ同一サイズ。同一サイズと言うことは、厳密には「入らない」という理屈になりますが、実験してみたところ2枚まではうまく収まりました。

▲ 左は今まで使っていたデルパック、右が新しい高密度ポリエチレン宅配袋です。


といった経緯がありまして、今後2枚までの配送につきましては、出来る限りこの高密度ポリエチレン袋を使わせていただく予定です。何卒ご理解くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

「伊四〇〇型潜水艦&晴嵐」Tシャツの発売は4月30日(土)となります  2016/04/27


表題の通りでございまして、4月末までに販売開始のつもりが本当に月末最終日(30日)となってしまいました。
どうかご期待下ませ m(_ _)m

さて、今回は特に気合が入っている!という訳ではないのですが(^^; 
来月6日発売の『 歴史群像 7月号 』(学研)に「Osabetty's」の広告が出ます。
GW最中ですが、機会がありましたら是非ご覧くださいませ。
掲載ページは業界用語でいうところの「表3」で、裏表紙の裏面になります。



歴史群像7月号 5月6日発売

「97艦攻」真珠湾フォード島で復元始まる  25016/05/07


先日「海軍倶楽部」会合に参加させていただいた際、とても興味深い話を聞きましたのでご紹介させていただきます。
真珠湾フォード島にある「太平洋航空博物館」(PAM:Pacific Aviation Museum Pearl Harbor )が真珠湾攻撃の立役者 中島97式艦上攻撃機 の復元作業を開始したという話です。


先月4月16日「PAM」で行われた記者発表によれば、復元作業は同博物館79番倉庫内の"テッド・シーリーズ大尉復元工房"で進められており、ベースとなる胴体と左主翼(ともに残骸)や新造パーツなどが続々と運び込まれているとのこと。静止状態展示品質ベースの復元には5年の歳月がかかるそうです。なお、同復元作業に用いられている設計図は日本の模型メーカー「ハセガワ」所蔵のもので、3年前に99艦爆設計図とともに複写されて「PAM」へ無償提供されています。

太平洋航空博物館で97艦攻の復元始まる


さて、気になるのは復元ベースとなる残骸(胴体、左主翼など)の出自ですが、「PAM」は詳細を明らかにしていません。
私の周りの研究家さまがたの話では、戦後ニュージーランド経由でオーストラリアに渡ったものらしく、終戦後ラバウル(ブナカナウ飛行場)から連合軍基地ジャキノットへ飛行した最後の97艦攻 の可能性もあるとのこと。


ラバウル最後の97艦攻
 昭和19年2月下旬、在ラバウル7個航空隊は撤収して同島を去りましたが、約3500名の航空関係要員が残留し、その中には約200名の搭乗員(戦闘機操縦員は30名ほど)が含まれていました。これら残留要員によって「第108航空廠」と航空部隊「第105航空基地隊」が編成され、ラバウルに散在する大破機、放置機、廃材などから零戦7機を再製して飛行訓練を再開します。

一方 連合軍は昭和19年2月、ラバウル東方180kmのグリーン島、同北西550kmのアドミラルティ諸島へ相次いで上陸、ラバウルの孤立化を強めました。これに対し「105航空基地隊」は昭和19年6月以降 再製零戦によるアドミラルティ諸島への偵察を繰り返し、11月9日には零戦3機による飛行場爆撃に成功します。
※ この頃、ラバウルには偵察用に複座改造され、電信・偵察・航法機器を装備した零戦21型が2機あったといわれ、その内の1機は現在「国立科学博物館」に復元展示されています。

ラバウル周辺マップ

連合軍兵站拠点として急拡大しつつあったアドミラルティ諸島への偵察は軍令部からも注目され、翌昭和20年に入っても偵察は続行されました。そして昭和20年2月、「第108航空廠」で2機の再製97艦攻が完成、アドミラルティ諸島への夜間雷撃が計画されます。作戦は4月28日夜に決行され、1番機が空母雷撃成功を報告しますが、2番機は未帰還となりました。
※ 戦後調査によって魚雷が命中したのは空母では無く組み立て式浮きドックであったことが判明しています。

ラバウル「第105航空基地隊」最後の飛行は、昭和20年10月14日でした。この日、片岡五郎飛行兵曹は1機残った最後の97艦攻でブナカナウを発進、ニュージーランド空軍のコルセア4機による厳重護衛警戒の中、連合軍拠点ジャキノットへ機体空輸を果たしたのです。

ジャキノットに空輸されたラバウル最後の97艦攻

 ▲ ジャキノット湾へ空輸されたラバウル最後の97艦攻。尾翼に機番号「302」が確認できる。
  (ニュージーランド空軍撮影)




97艦攻の復元機は世界でも珍しいため(もしかしたら世界初?)、同機が華々しい戦果を挙げた真珠湾に展示されるのは感慨深いですね。5年後、この零戦21型(↓)の隣に展示されることになるのでしょうか。


太平洋航空博物館の零戦21型

特殊攻撃機「晴嵐」 格納と射出のメカニズム  2016/05/18


「伊四〇〇型」潜水艦における「晴嵐」の格納・射出に関しては多くの戦史書籍で紹介されておりますので、結構知られているようです。 が、これがなかなか・・・文章や画像だけでは上手く説明できないのですね (- _ -;)


伊400型における「晴嵐」格納状態

▲ こんな感じで、主翼、水平・垂直尾翼を折りたたんで格納されていたようです。コンパクト収納の極致と言うべきか。


そこで、ここ3日ほどかけましてFLASHの解説動画を創ってみました。
間違っている部分もあるかと思いますが、私の知りうる限りの範囲ですので・・・その点はご了解ください <(_ _)>
ご感想・ご指摘等ございましたら、是非下のコメント欄か「お問い合わせメール」にてご連絡くださいませ。出来る限り真実に近づけるべく、修正を加えていきたいと考えております。

▼ ボタンを押すと動画がスタートします ▼

慰霊祭に行ってきます  2015/05/28


明日5月29日(日)、「第49回予科練戦没者慰霊祭」参加のため 日帰りで霞ケ浦へ行ってまいります。大東亜戦争を戦われた海軍搭乗員の多くが予科練ご出身者であることは皆様ご存知の通り。英霊にしっかりと感謝を申し上げてきたいと思います。個人的には、昨年の慰霊祭でご紹介いただきました空母翔鶴雷撃隊員のご遺族さまや、関東在住の戦史研究家さま方に会えるのも楽しみですね。


昨年までは招待者のみで開催されてきた同慰霊祭ですが、今49回からは一般参加も可能になりました。当日は慰霊祭会場に隣接する「予科練平和記念館」が無料解放されますし、零戦21型の実物大模型も見ることができます。

公益財団法人 海原会 (うなばらかい)
予科練平和記念館

第49回予科練戦没者慰霊祭

天気晴朗なれど  2016/06/03


昨日は早朝0500に大阪を出発、「関西零戦搭乗員会」Uさんの車に厚かましく便乗させていただき、南紀白浜へと向いました。

目的はもちろん、当日 南紀白浜空港に飛来着陸する「予定」となっていた零戦22型の勇姿を目撃するためですが・・・
実は機体整備に伴う飛行計画変更により既に予定は1日延期されておりまして、当日やってくるかどうかも五分五分という 誠に微妙な状況だったのです。しかし、行かないことには見ることは出来ない!ということで、朝10時過ぎには「関西零戦搭乗員会」有志9名が快晴の南紀白浜空港に集結しておりました。


【左】 南紀白浜空港の展望デッキより
    滑走路を望む

滑走路は長いのが1本。

「どっちから来るのかな?」
「風向きによるんじゃないの?」

などと期待が膨らんだのですが・・・。

結局、岡山・岡南(こうなん)飛行場から離陸の見込みが立たず、昼前には中止が決定的に Orz
みなさん微妙な状況はご存知でしたので、ショックは少なかったようです。
【零戦里帰りプロジェクトの最新情報はこちら】



さて、天気は最高、場所は紀伊半島南端ということで ・・・・・・ 午後は皆で白浜観光を満喫してまいりました。
日頃は大阪の下町でパソコンに向かっている私にとって潮風に吹かれるのは久しぶりのこと。気持ち良かったなぁ。

【左】
その名の通り、美しい海岸「白良浜」(しららはま)

水上機基地にはもってこいの環境ですな。

この美しいパノラマを眼前にしたある搭乗員会会員さまは「西澤さ~~ん!」と叫びながら走って行かれました。う~~ん、搭乗員愛は強し!個人的に本日一番の感動シーンとなりました(^^

白浜空港での零戦受け入れ準備やマスコミ・地元対応を一手に引き受け、おそらく大変なプレッシャーを感じておられたであろうKさま、そんな労苦はおくびにも出さず観光案内をしていただき、本当に感謝しております。ありがとうございました m(_ _)m



気分を一新したところで、次のデザインテーマは大東亜決戦機、陸軍4式戦「疾風」です!

相変わらず驚きの「関西零戦搭乗員会」  2016/06/13


去る土曜日、兵庫県西宮市でおこなわれました「関西零戦搭乗員会総会」に参加させていだきました。
相変わらず意気軒昂かつ記憶力明晰な元343空 笠井上飛曹さまは頼もしい限り。お話させていただくとすぐに判るのですが、上飛曹の魅力はなんといっても人間としての「素直さ」にあるのですね。ミーハーではありますが、ますます「ファン」になってしまいました。

さて、戦争ご体験者や海軍航空を愛する方々とのお話を通じて勉強させていただく関零会、今回の私的トッピクスは大体以下の通りでした。



■ 元343空 笠井智一上飛曹さまの講演

201空「戦闘306」時代の昭和19年7月、ヤップ島において菅野分隊がB-24邀撃に多用した「直上方背面攻撃」の詳細を模型なども使って丁寧にご説明いただきました。笠井さん自身は同攻撃を10数回敢行されたそうです。ヤップ島 最後の出撃となった7月24日、被弾不時着水ののちサメの徘徊する海を2~3時間泳ぎ続けて原住民に助けられた時の状況や、その原住民の方と戦後再会された逸話なども懐かしそうに語っておられました。そしてやはり強調されていたのは紫電改の優秀性です。零戦21型から52型、紫電、紫電改と乗り継いで戦い続けた笠井さんの実感としては、紫電改は最高で「これでグラマンに勝てる!」と確信されたとのこと。



【左】
模型を使って「直上方背面攻撃」を解説中の
笠井上飛曹さま

手前味噌で恐縮至極ですが、敢えて言わせてください・・・「Tシャツにご注目!」


■ 元725空「桜花43乙型」搭乗員、尾上洲廣さま

本土決戦となった場合、比叡山基地から特攻出撃する運命にあった甲飛13期の尾上さま。2年前初めてお会いした時から毎回親しくお話させていただいておりますが、それには理由がありまして・・・実は尾上さまは私の叔父(故人)と旧制中学で同級生だったのです。今回は郷土史に寄稿された手記をわざわざコピーしてお持ちいただきました。弱冠17歳で死と向かい合う葛藤とはいかなる感情だったのか?ありがたく読ませていただきました。


【左】
戦後米軍に接収された桜花43乙型複座練習機

尾上さんが725空配属となったのは昭和20年7月、比叡山基地への移動は7月20日頃だったとのこと。搭乗予定だった「桜花43乙型」はそれまでの母機発進型とは異なり、地上基地からカタパルト射出できるよう改造されたタイプで、ジェットエンジンを搭載して200km近い航続距離を持ち、射出実験にも成功して実戦機の量産体制への計画も進んでいたといいます。発進基地は比叡山のほかに房総半島(千葉県安房郡三芳村)にも整備されていました。


■ ガンカメラ映像試写会

米軍ガンカメラ映像の分析・研究で大きな成果を上げておられる「宇佐市塾」のご担当者さまより、最新の未公開映像を見せていただきました。未公開ゆえ詳細は書けないのですが、343空紫電改の喜界島空戦を皮切りに、桜花を空中投棄して不時着水する神雷部隊の一式陸攻、見事な機動で射弾をかわす佐世保空(父島派遣隊)の二式水戦などなど、まさに驚きの連続。

【左】上映時の様子です

ガンカメラ映像につき日本軍機の被弾シーンが多く、我々日本人にとっては悲痛映像オンパレードとなるわけですが、これらは空戦の真実をありのままに伝える「映像」であるが故に貴重な歴史資料たりえるのです。ですから、これらを瞼に焼き付けたうえで今、そして未来をどう考えるかが大切なのでしょうね。
この日は航空自衛隊若手操縦員の方々も数名参加されていたのですが、如何なるお気持ちで見ておられたのか・・・少し気になってしまいました。

海兵の卒業アルバム  2016/06/21


先月末「予科練戦没者慰霊祭」に参加させていただいた際、ある地元の戦史愛好家さまと3時間ほどお話をしたのですが、たまたまその方が所有されていた海軍兵学校67期の卒業アルバムを見せていただきました。約10年ほど前に東京の古書店で購入されたとのこと。海兵67期と言えば、個人的にまず思い浮かぶのは台南空の笹井醇一中尉、そして真珠湾軍神のお二人、横山正治中尉古野繁實中尉でしょうか。


【左】 笹井さんが写る分隊写真

右から3番目が笹井生徒。みんな本当に若い!そして爽やかな笑顔が眩しいですね。

この後 戦闘機操縦員を目指した笹井さんは開戦直前に飛行学生35期を卒業、直ちに台南空へ配属されます。ラバウル台南空での奮闘は坂井三郎さんの「大空のサムライ」によって広く知られることとなりました。


この67期は海兵史上 最も戦死率が高かった期として知られています。海兵68期の直木賞作家 豊田譲氏の『同期の桜』によれば、海兵卒業生の戦死率は以下の通り。67期~70期の消耗率が特に高かったことが判ります。



卒業アルバムは卒業者にのみ贈呈される記念品ですので、同アルバムの持ち主=海兵67期卒業者であることはほぼ間違いないのですが、個人を特定・推定できる痕跡や書き込みなどは全く残っていないようです。

ただ、最終ページに本当に小さな写真が一枚、挟まれておりました。


一見したところ女学校の体育祭?のように見えますね。この写真がいつから“そこ”に存在していたのかは知る由もありませんが、戦前規格の小さいプリントサイズと画質から想像するに、アルバムと同時代のものと思われます。海兵生徒が当時お付き合いされていた女性が写っているのか、またはご家族の誰かなのか・・・。

海兵67期の在校期間は昭和11年4月~昭和14年7月。支那事変の勃発・長期化によって本格的戦時体制に突入していった時代とはいうものの、わずか2年後に対米戦に発展、自らが前線指揮官として戦うことになろうとは誰も想像出来なかったのではないでしょうか。



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