さて、次回作品モチーフは、
大東亜戦争における日本軍唯一の液冷式戦闘機、
発動機・機体とも川崎航空機の手になる 陸軍三式戦闘機「キ61」( 通称「飛燕」) です。
液冷機ならではの細い胴体にアスペクト比7.2の細長い主翼 ~ スマートなシルエットは
まさに「飛燕」という名がピッタリですが、その実態は想像を絶する苦難に終始しています。
今回は主に発動機および機体の面から三式戦「飛燕」をご紹介させていただきます。
■ 期待の国産液冷式発動機
メッサーシュミットBf109の液冷式エンジン「ダイムラーベンツ DB601A」のライセンス国産版「ハ40」に
空力特性に優れたオリジナル機体を組み合わせた「キ61」は、試作機段階で本家Bf109を上回る性能を発揮、
陸軍の期待を一身に集め、昭和18年初頭から南方方面(ラバウル、ニューギニア)への戦隊配備が始まります。
※ 陸軍による三式戦の制式採用は昭和18年6月。
部隊内では「三式戦」「ロクイチ」「キのロクイチ」などと呼ばれていました。
愛称「飛燕」の登場はずっと後で、昭和20年1月16日付の朝日新聞紙上にて発表されました。
■ 工業水準の壁
しかし残念ながら・・・
工業国ドイツの最高レベルにあったエンジンを“安定量産”するには
当時の日本の工業水準ではやはり無理があったのでしょう。
フルカン接手(流体クラッチ)による無段階過給機駆動システムや
シリンダーに燃料を安定供給する噴射ポンプなどの先端システムは言うに及ばず、
ニッケル・クローム・モリブデン鋼による精巧なシャフト・歯車類や
クランク軸受けに仕込まれたローラーベアリングなど、
数々の基礎部品求められる高精度は、当時の日本工業界にとってはどれも手に余るものでした。
さらにニッケル使用禁止を始めとする物資窮乏と工員不足がこれに追い打ちをかけることになります。
こうした困難な状況の中、川崎技術陣の血のにじむ努力が続きますが、
川崎・明石工場における「ハ40」の量産スピードは上がらず、
完成品の品質ムラも解消できない状態が続きます。
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ダイムラーベンツ「DB601A」エンジン
Daimler-Benz DB601A
第2次大戦勃発時、ドイツの新鋭機Bf109に搭載されていた液冷式エンジン。残念ながら、日本とドイツの工業水準差を体現したエンジンと言えるかもしれません。
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■ 駆動率低迷に苦しむ実践部隊
一方、前線部隊では頻発する発動機トラブルに加え、整備体制の不備も浮き彫りとなりました。
扱い慣れた空冷式に比べはるかに複雑な新型発動機の仕組みを十分に知らされていない
前線の整備兵たちにとって、「飛燕」の液冷式発動機は“難物”以外の何者でもなかったのです。
“エンジンが好調なら”「飛燕」は確かに優れた戦闘機でしたが、
フル活動を求められる「兵器」としては不完全だったと言わざるを得ないでしょう。
三式戦部隊はニューギニア、フィリピン、台湾、沖縄と奮戦を続けますが、
著しい駆動率低下のため目立った戦果をあげることは出来ず、操縦者・整備兵とも苦難の日々が続きます。
皮肉なことに、戦闘の舞台が日本本土上空へと移行し始めた昭和19年末以降は、
整備・補給体制の良い国内基地からの運用となったため、徐々に本来の力を発揮し始めるのですが・・・
すでにこの時には進化を続ける米軍戦闘機群との性能差は開いていたのです。
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飛行第244戦隊 小林照彦戦隊長の「飛燕」1型丁
胴体側面にB-29撃墜・撃破のスコアマークが多数描かれています。左側が小林大尉、右は鈴木整備中尉。
五式戦への改編も近い昭和20年4月、調布飛行場での写真。
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■ 首なし飛燕
以上の様な悪循環ともいえる苦境のなか、
「ハ40」の性能向上型「ハ140」(1500馬力)を搭載する「キ61Ⅱ」(飛燕2型)の開発が進められましたが、
1100馬力級の「ハ40」さえ手に余る状況で、より複雑な「ハ140」の生産が軌道に乗るはずはありませんでした。
こうして機体生産だけが先行し続けた結果、
機体製作の川崎岐阜工場は発動機待ちの“首なし飛燕”であふれ返る事態となりました。
■ 空冷式への換装、五式戦の誕生
状況を苦慮した陸軍は、同じ「ダイムラーベンツ DB601A」のライセンス生産発動機として
海軍が艦爆「彗星」に搭載していた液冷式発動機「アツタ」(愛知航空機製)への換装を検討しますが、
互換性に乏しいため断念せざるを得ませんでした。
そしてついに昭和19年10月、
飛燕の機体に空冷式の三菱「ハ112-Ⅱ」(1500馬力 ※海軍呼称「金星62型」)を装備した
「キ100」の開発が命じられます。
「飛燕」の胴体よりも直径で約38cmも太い空冷星形エンジンへの緊急換装!
しかし、この難題に取り組んだ川崎設計陣の努力は見事に結実し、
機体改修を最低限の機首および胴体前部のみにおさえ、結果的に大幅な重量削減に成功したのです。
昭和20年1月に完成した試作機は四式戦「疾風」を上回る上昇力を発揮、
“予想外な高性能”に狂喜した陸軍は、すぐさま「五式戦闘機」(キ100)として制式採用を決定します。
こうして“首なし飛燕”は空冷1500馬力の五式戦として蘇ることとなりました。
2000馬力級“大東亜決戦機”として期待された四式戦「疾風」が発動機不調に低迷するなか、
駆動率が買われた五式戦の量産が決定されますが、空襲被害などにより生産は振るわず、
終戦までの総生産機数は約400にとどまっています。
着陸態勢に入る「五式戦」
細い胴体と太いカウリングの対比がよく わかる1枚です。
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※ 五式戦に対しては陸軍制式戦闘機に命名される「隼」「飛燕」といった「愛称」は発表されていません。
また、連合軍側は五式戦の存在を認識しておらず、従ってコードネームもありません。
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こうして飛燕の運命を振り返りますと、
陸海軍の不調和がいかに戦争にマイナスに働いたか ~ その一端がよくわかります。
陸海軍それぞれに開発思想・計画があるのは至極当然ですが、同じ液冷式発動機(ダイムラーベンツ DB601A)の製造権を川崎(陸軍)、愛知(海軍)がわざわざ別個に購入し、互換性に乏しい2つの発動機(ハ40 と アツタ)を開発したことは、結果的に「非効率」と言われても仕方がないのかもしれません Orz
しかし・・・「飛燕」はカッコイイですね♪