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サイズ拡張&商品補充のお知らせ  2013/05/19

本日、以下の通りサイズ拡張と商品補充をおこないました。
どうぞよろしくお願いいたします。


1、サイズ 「 X L 」 新設

■ B-29邀撃戦!343空・紫電改「前上方背面垂直攻撃」
■ 松山基地上空大空戦!343空・紫電21型(紫電改)vs グラマン F6F ヘルキャット


2、品切れサイズ補充

■ 1発必中!「99艦爆」Tシャツ : 【サンドカーキ】 サイズ 「L」「XL」 【ブラック】 サイズ 「XL」

三式戦闘機「飛燕」 苦難の足跡  2013/05/24

さて、次回作品モチーフは、
大東亜戦争における日本軍唯一の液冷式戦闘機、
発動機・機体とも川崎航空機の手になる 陸軍三式戦闘機「キ61」( 通称「飛燕」) です。

液冷機ならではの細い胴体にアスペクト比7.2の細長い主翼 ~ スマートなシルエットは
まさに「飛燕」という名がピッタリですが、その実態は想像を絶する苦難に終始しています。

今回は主に発動機および機体の面から三式戦「飛燕」をご紹介させていただきます。



■ 期待の国産液冷式発動機

メッサーシュミットBf109の液冷式エンジン「ダイムラーベンツ DB601A」のライセンス国産版「ハ40」に
空力特性に優れたオリジナル機体を組み合わせた「キ61」は、試作機段階で本家Bf109を上回る性能を発揮、
陸軍の期待を一身に集め、昭和18年初頭から南方方面(ラバウル、ニューギニア)への戦隊配備が始まります。

※ 陸軍による三式戦の制式採用は昭和18年6月
  部隊内では「三式戦」「ロクイチ」「キのロクイチ」などと呼ばれていました。
  愛称「飛燕」の登場はずっと後で、昭和20年1月16日付の朝日新聞紙上にて発表されました。



■ 工業水準の壁

しかし残念ながら・・・
工業国ドイツの最高レベルにあったエンジンを“安定量産”するには
当時の日本の工業水準ではやはり無理があったのでしょう。

フルカン接手(流体クラッチ)による無段階過給機駆動システムや
シリンダーに燃料を安定供給する噴射ポンプなどの先端システムは言うに及ばず、
ニッケル・クローム・モリブデン鋼による精巧なシャフト・歯車類や
クランク軸受けに仕込まれたローラーベアリングなど、
数々の基礎部品求められる高精度は、当時の日本工業界にとってはどれも手に余るものでした。
さらにニッケル使用禁止を始めとする物資窮乏と工員不足がこれに追い打ちをかけることになります。

こうした困難な状況の中、川崎技術陣の血のにじむ努力が続きますが、
川崎・明石工場における「ハ40」の量産スピードは上がらず、
完成品の品質ムラも解消できない状態が続きます。

ダイムラーベンツ「DB601A」エンジン
Daimler-Benz DB601A

第2次大戦勃発時、ドイツの新鋭機Bf109に搭載されていた液冷式エンジン。残念ながら、日本とドイツの工業水準差を体現したエンジンと言えるかもしれません。



■ 駆動率低迷に苦しむ実践部隊

一方、前線部隊では頻発する発動機トラブルに加え、整備体制の不備も浮き彫りとなりました。
扱い慣れた空冷式に比べはるかに複雑な新型発動機の仕組みを十分に知らされていない
前線の整備兵たちにとって、「飛燕」の液冷式発動機は“難物”以外の何者でもなかったのです。

“エンジンが好調なら”「飛燕」は確かに優れた戦闘機でしたが、
フル活動を求められる「兵器」としては不完全だったと言わざるを得ないでしょう。

三式戦部隊はニューギニア、フィリピン、台湾、沖縄と奮戦を続けますが、
著しい駆動率低下のため目立った戦果をあげることは出来ず、操縦者・整備兵とも苦難の日々が続きます。

皮肉なことに、戦闘の舞台が日本本土上空へと移行し始めた昭和19年末以降は、
整備・補給体制の良い国内基地からの運用となったため、徐々に本来の力を発揮し始めるのですが・・・
すでにこの時には進化を続ける米軍戦闘機群との性能差は開いていたのです。

飛行第244戦隊
小林照彦戦隊長の「飛燕」1型丁


胴体側面にB-29撃墜・撃破のスコアマークが多数描かれています。左側が小林大尉、右は鈴木整備中尉。
五式戦への改編も近い昭和20年4月、調布飛行場での写真。



■ 首なし飛燕

以上の様な悪循環ともいえる苦境のなか、
「ハ40」の性能向上型「ハ140」(1500馬力)を搭載する「キ61Ⅱ」(飛燕2型)の開発が進められましたが、
1100馬力級の「ハ40」さえ手に余る状況で、より複雑な「ハ140」の生産が軌道に乗るはずはありませんでした。

こうして機体生産だけが先行し続けた結果、
機体製作の川崎岐阜工場は発動機待ちの“首なし飛燕”であふれ返る事態となりました。



■ 空冷式への換装、五式戦の誕生

状況を苦慮した陸軍は、同じ「ダイムラーベンツ DB601A」のライセンス生産発動機として
海軍が艦爆「彗星」に搭載していた液冷式発動機「アツタ」(愛知航空機製)への換装を検討しますが、
互換性に乏しいため断念せざるを得ませんでした。

そしてついに昭和19年10月、
飛燕の機体に空冷式の三菱「ハ112-Ⅱ」(1500馬力 ※海軍呼称「金星62型」)を装備した
キ100」の開発が命じられます。

「飛燕」の胴体よりも直径で約38cmも太い空冷星形エンジンへの緊急換装!
しかし、この難題に取り組んだ川崎設計陣の努力は見事に結実し、
機体改修を最低限の機首および胴体前部のみにおさえ、結果的に大幅な重量削減に成功したのです。

昭和20年1月に完成した試作機は四式戦「疾風」を上回る上昇力を発揮、
“予想外な高性能”に狂喜した陸軍は、すぐさま「五式戦闘機」(キ100)として制式採用を決定します。

こうして“首なし飛燕”は空冷1500馬力の五式戦として蘇ることとなりました。
2000馬力級“大東亜決戦機”として期待された四式戦「疾風」が発動機不調に低迷するなか、
駆動率が買われた五式戦の量産が決定されますが、空襲被害などにより生産は振るわず、
終戦までの総生産機数は約400にとどまっています。




着陸態勢に入る「五式戦」

細い胴体と太いカウリングの対比がよく
わかる1枚です。

※ 五式戦に対しては陸軍制式戦闘機に命名される「隼」「飛燕」といった「愛称」は発表されていません。
  また、連合軍側は五式戦の存在を認識しておらず、従ってコードネームもありません。



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こうして飛燕の運命を振り返りますと、
陸海軍の不調和がいかに戦争にマイナスに働いたか ~ その一端がよくわかります。
陸海軍それぞれに開発思想・計画があるのは至極当然ですが、同じ液冷式発動機(ダイムラーベンツ DB601A)の製造権を川崎(陸軍)、愛知(海軍)がわざわざ別個に購入し、互換性に乏しい2つの発動機(ハ40 と アツタ)を開発したことは、結果的に「非効率」と言われても仕方がないのかもしれません Orz

しかし・・・「飛燕」はカッコイイですね♪

飛燕Tシャツ デザイン中  2013/06/17

現在制作中の 飛燕Tシャツ ですが、
デザインテーマには、本土防に活躍した三式戦部隊「飛行第244戦隊」および
“超空の要塞”B-29に対して空対空特攻(体当り)をくりひろげた「震天制空隊」を選びました。

前面に「飛行第244戦隊」戦隊長・小林照彦大尉機を、
背面バックプリントにはB-29に体当り攻撃を敢行する「震天制空隊」三式戦の勇姿を描く予定です。


▲ 「飛行第244戦隊」戦隊長・小林照彦大尉
自ら体当たり攻撃を実践するなど強力なリーダーシップで244戦隊を引っ張り、終戦まで本土防空の陣頭に立った。

▲ 244戦隊「はがくれ隊」の勇者
昭和19年12月3日、この日来襲したB-29群に対し、244戦隊は四宮中尉、板垣伍長、中野伍長の3名が体当りを敢行、全員が生還する活躍を見せた。
【左】左翼端を失いながら飛行場へ降着帰還した四宮中尉
【右】落下傘降下した板垣伍長




もはや恒例行事ですが、またまたデザインに悩んでおります。

高度1万mの敵を叩くには、奴ら以上に上昇できなければ話にならん。
武装や防弾を撤去しなければ「そこ」まで行けないのなら、すべて捨てよう。
残された攻撃法は体当りしかないが、上等だ、俺がやってやろうじゃないか!

上の文はもちろん私が勝手にでっち上げた作文ですが、
決死的体当たりに向き合う震天隊員の心情・・・私ごときには全く想像もつきません。
しかし、そういった鬼気迫る「何か」を少しでも意識してデザインしたいのですね。

そのためには、出来れば「体当り寸前」かまたは「体当り直後」を描きたいところです。

しかし、ここで問題が!

相手(B-29)がとにかく巨大なんです。
主役はもちろん「飛燕」ですから、可能な限り大きくデザインしたいのですが、
そうするとB-29の全体を描くことはほぼ不可能となってしまいます。
なんといっても大きさが桁違い過ぎる。

でも、よく考えてみれば・・・
B-29に関してはその巨大感や存在感さえ出せれば、必ずしも全体像を描く必要は無いわけか・・・?

う~~~ん。
本来直観的であるべき「デザイン」を理屈でこねまわしているだけなのかも知れません。
デザイン力に乏しいとこんなことで悩んでしまうんですね (~ヘ~;)

震天制空隊(震天隊) その1  2013/06/22



戦史にその名を残す「震天制空隊」(震天隊)とは、どのような部隊だったのでしょうか?
今回以降、数回に分けてその経緯と概略を紹介させていただきましょう。

初回は、マリアナ失陥から空対空特攻編成までです。



■ B-29 マリアナ諸島に進出


昭和19年夏 マリアナ諸島を占領した米軍は、対日戦の決定打としてかねてより計画されていた超戦略兵器
B-29
による日本本土への大規模空襲作戦を実行すべく、その準備を一気に加速させる。

対日空襲を担うのは米陸軍航空隊「第20空軍」(20AF)隷下の「第21爆撃集団」(21BC / 司令官:ハンセル准将 )で、インド・中国を拠点に作戦中の「第20爆撃集団」(20BC)から転配された「第73爆撃団」( 73 BW )
B-29 約100機がその初期戦力だった。

飛行場整備、人員・物資集積が進む中、東京方面への本格的空襲を前に、航法・爆撃訓練を兼ねたウォーミングアップとして、10月末~11月中旬にかけてトラック島、硫黄島に対し計6回に渡る小規模空襲が実施される。

一方11月上旬には、偵察型B-29 「F-13」 による関東地方への高高度偵察飛行が繰り返され、撮影された大量の航空写真を元に爆撃目標の精査・分類および優先順位の設定が進められた。


▲ 21BC司令官 ヘイウッド・S・ハンセル准将
軍需産業への精密爆撃に執着したが、ワシントンが期待する成果は上げられず、昭和20年1月に更迭される。
※ その後、後任のルメイ少将は都市無差別爆撃へ戦略変更することになる。ルメイが日本人から非難されるのは当然だが・・・B-29作戦に“即効的・破壊的効果”を強く要求する上層部(20AF司令官アーノルド将軍やルーズベルト大統領)の意向に従った~という側面も強かったと思われる。
▲ テニアン島ノースフィールド基地をタキシングする
 「超空の要塞」 群。恐怖を感じさせる光景である。


11月11日、20AFは初回空襲のターゲットを決定、これを受けた21BCはいよいよ作戦を発動する。
初回空襲予定日は11月17日、目標は当時「誉」発動機( 陸軍呼称:ハ45)を全力生産していた中島飛行機・武蔵製作所、攻撃方法は高度9000m以上からの昼間精密爆撃と決定された。
片道2300キロにおよぶ長距離作戦に帯同可能な掩護戦闘機はもちろん無いため、B-29の高高度性能と強力な編隊火網によって日本機の邀撃を一気に振り切る作戦であった。



■ 本土本格空襲迫る ~ 空対空特攻発令


すでに昭和19年6月以降、中国・成都から北九州・満州へ来襲するB-29群(20AF)と戦闘を交えていた日本陸海軍防空部隊は、“超空の要塞”の恐るべき性能をほぼ正確に把握しており、特にその優れた高高度能力は大きな脅威として認識されていた。しかし、11月1日、5日、7日、10日と関東上空 1万m超の高高度で侵入する偵察型B-29「F-13」を補足出来ず、防空部隊の邀撃力不足が露呈されることとなる。
特に7日は陸海軍計300機超の全力邀撃にもかかわらず 高度1万2000mの「F-13」には全く手が出せず、敵機は悠々と離脱していった。

【左写真】
偵察型 B-29 「F-13」 の1機、
「TOKYO ROSE」号


同機は昭和19年11月1日、初めて東京上空を飛んだB-29として有名。その機体名は日本の対米プロパガンダ放送「Zero Hour」の女性アナウンサーの一人で米兵から人気?があったアイバ・戸栗・タキノ女史に米軍兵士が付けたニックネーム「TOKYO ROSE」(東京ローズ)から取られている。機首には彼女を想像したイラストがノーズアートとして描かれていた。



高高度性能の鍵を握るのは「排気タービン過給機」(ターボ過給機)だが、この時点でアメリカより約10年遅れていた日本ではまだ実用生産に至っていない。2速過給機エンジンと酸素マスクで対抗せざるを得ない日本機にとって高度1万m超への上昇はほぼ性能限界に近く、個人の操縦技量によってかろうじてこなし得る「特殊飛行」と言っても過言ではなかった。

こうした状況下の11月7日、高空戦の実情に無理解な参謀本部、防衛総司令部など陸軍中枢からの圧力を受けた関東防空を担う 陸軍 「第10飛行師団」 師団長・吉田少将は隷下5個戦隊に対し、各戦隊4機づつの空対空特攻隊選出を下令する。すなわち、

武装・防弾装備などを撤去した軽量機によって
B-29と同程度かそれ以上の高度まで上昇し、
「体当り」によって攻撃せよ

~との指令であった。

この苛酷な特攻指令に対し、各戦隊ではほとんど全員が志願したと伝えられる(!)
任務の特殊性からある程度の技量優秀者を選抜せざるを得ないのだが、彼らは各戦隊にとっては貴重な中核戦力であった。そこで操縦者には 体当り後に脱出可能ならば落下傘降下による生還 が指示されたのである。
※ これより約1か月前の10月中旬、53戦隊(屠龍)ではすでに同様の体当り戦法が独自に考案され、希望者を
募っていたという。


簡単に「体当り」とは言っても、実践するには高度な操縦能力が必要とされる。

まず高度1万mまで出来る限り短時間で上昇する必要があるが、エンジン快調機を駆る熟練者でも
40~50分はかかるのである。そして、空気の薄い1万mの高空では舵の効きがにぶくエンジン出力も
低下するため、上昇姿勢のままでの高度維持が精一杯となり、僅かな旋回機動でもたちまち数百m高度を失ってしまう。また、酸素吸入をしていても高高度における判断力低下は避けられない。

つまりは“浮いているのがやっと”に近い状態なのだ。さらに、関東高空には時速200Km超の猛烈な
ジェットストリーム
(偏西風帯の中の特に強い気流)が吹き荒れる。

このような極限状況下で、自機より優速な敵編隊を目視索敵・発見し、敵の進路を瞬時に判断し、猛烈な編隊火網をかわしつつ、巧妙な機動で未来の「衝突位置」へと自機を誘導しなければならないのである。
至難の業」とは正にこのことで、高度な操縦技量、強靭な体力・精神力に加え、「運」もまた重要な要件であった。

▲ 飛行第53戦隊・空対空特攻「千早隊」の二式複戦「屠龍」
金属板によって閉じられたという後部風防は見えないが、短く切断されたアンテナが確認できる。胴体側面には楠正成の子、正行の出陣歌からとった「鏑矢」(かぶらや)のマークが鮮やかに描かれている。


こうして「第10飛行師団」隷下各戦隊では特攻隊員4名が緊急選抜され、直ちに特攻専門機による 高空体当り訓練 が開始された。特攻専用機の軽量化は各戦隊がそれぞれ工夫をこらしたが、基本的に武装・防弾鋼板は
完全撤去されていたようである。なお、この時点ではまだ空対空特攻隊の統一名称はなく、各戦隊で自由に命名していた。


◎ 次回は、本土空襲と日本軍の邀撃、体当り隊の戦果などについて書かせていただきます。

※ 主要参考文献
 ● 「本土防空戦」(渡辺洋二、朝日ソノラマ、1997)
 ● オスプレイ軍用機シリーズ47「B-29対日本陸軍戦闘機」(高木晃治、ヘンリー・サカイダ)
 ● 「液冷戦闘機 飛燕」(渡辺洋二、文春文庫)
 ● 世界の傑作機「陸軍3式戦闘機 飛燕」(文林堂)
 ● 「双発戦闘機 屠龍」(渡辺洋二、文春文庫)
 ● 第二次世界大戦ブックス4 「B29」(サンケイ新聞出版局)
 ● 航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」(酣燈社、1973)   などなど



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