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97艦攻 「南太平洋海戦」 雷撃Tシャツ



愛すべき “ 雷撃の神様 ”

村田重治大佐を偲ぶ


対米英戦初期、海軍航空隊には多くの名指揮官・名人搭乗員たちが きら星の如く名を連ねていました。
その中で 雷撃の神様 と呼ばれた男、それが艦攻操縦員・村田重治少佐(戦死後大佐、海兵58期)です。

海軍航空隊屈指の操縦技術を有しながら偉ぶるところは微塵も無く、泰然自若とした「仏」(ほとけ)を思わせる人柄から「ぶつ」「ぶつさん」「ぶつおやじ」 などと呼ばれ、上官・部下の誰からも親しまれ信頼された村田少佐。彼は又、周囲の緊張を和らげるため 常にユーモアを振りまき続けた“気配りの人”でもありました。


今回はそんな村田少佐に敬意を表し、最後の戦闘となった 昭和17年10月26日の 南太平洋海戦 における村田小隊の勇姿を背面バックプリントにデザインさせていただきました。前面ワンポイントデザインは、村田隊長機への航空魚雷取付作業風景を想像で描いています。







前面デザイン解説



隊長機 97艦攻「EI-301」号機へ
「91式魚雷 改三」を取付ける
雷爆員、整備員、搭乗員たち

 

※ 南太平洋海戦時、第3艦隊第1航空戦隊「翔鶴」飛行隊長であった村田少佐の機番号は「EI-301」
と言われていますが、淵田中佐の「AI-301」のように映像などの記録は残っていないようです。

■ 手のかかる最先端精密兵器 「航空魚雷」 ■

▲ 単冠湾の「赤城」艦上、運搬車に載せられた「九一式魚雷 改二」
出撃間際まで生産が続き、真珠湾攻撃部隊には100本が供給されました。
    ※ 画像出典: Wikipedia


▲ 「九一式魚雷」の取付け風景
模擬魚雷による訓練なのか、作業員は1名しか映っていません。実際には5~6人がかりの大仕事でした。

 

重量800㌔を超える 九一式魚雷 の取付けは、労力と経験が要求される大変な作業でした。

まず、チェーン・テークルを人力操作して魚雷を吊り上げ、5~6人がかりで魚雷運搬車に安置固定した後、専門の雷爆員の手で深度調定、エンジン冷却水とケロシンの補充、圧搾空気補填、框板(きょうばん/空中姿勢を安定させる脱落式木製尾翼)の取付け、安定舵への脱落式木製空中安定翼の装着・・・などの最終調整が行われますが、これら作業はすべて空母艦底近くの魚雷庫および魚雷調整場にて行われます。

最終調整が終わると、5~6人で運搬機を動かし、エレベーターを使って飛行機のある格納庫または飛行甲板まで魚雷を運び、ここから取付け作業開始となります。数人がかりで運搬車を動かして魚雷を尾部から機体下へ差し込み、運搬車のジャッキで角度・高さを調節しながら魚雷上部の小さな凸部を機体側投下器の凹部に嵌合させるのですが、短時間でピタリと合わせるには相当な経験が必要だったとのこと。この後、抱締索(だきしめさく)と呼ばれる機体付属のワイヤーで魚雷を胴体下に緊縛固定しますが、ここでも締め具合の加減が難しかったようです。

取付けが完了すると直ぐに 投下試験 が行われます。即ち、搭乗員が機上から投下操作を行い、正常に落下するかどうかを確認するわけですが、この場合 魚雷は運搬車の上に落とされます。この投下試験で問題が無ければ最終装着が行われ、ようやく装備完了です。

自機の装備遅れを嫌う搭乗員が作業を手伝うのは日常風景でしたが、絶えず揺れに悩まされながらの 暗くて狭い格納庫内や日の出前の甲板上での作業は、かなりストレスの溜まるものだったと思われます。




 

背面デザイン解説




昭和17年10月26日
「南太平洋海戦」

対空砲火の中
雷撃を敢行する村田小隊



中央先頭が村田隊長機です
魚雷投下の瞬間を前方より捉えたかったため、
敵空母(ホーネット)の描画は断念しました。


▼  アイコンにカーソルを重ねると解説が出ます ▼


【 97艦攻とともに 雷撃に生き、雷撃に死す / 村田重治大佐 】


 

大東亜戦争前、既に雷撃の第一人者であった彼は、昭和15年秋から横須賀航空隊にて浅海面魚雷発射実験に従事し、後に真珠湾で威力を発揮した「安定器付・九一式魚雷 改二」の開発に貢献します。その後 昭和16年9月、源田参謀の肝入り人事により「臨時飛行隊長兼分隊長(雷撃担当)」として「赤城」に着任、実践部隊を猛訓練で鍛えながら浅海面雷撃法をほぼ完成させ、真珠湾作戦では第一次攻撃隊 / 雷撃隊指揮官としてその責任を見事に果たしたのでした。 →  真珠湾攻撃の雷撃隊

【 左 】 昭和16年10月、「赤城」 臨時飛行隊長当時の村田少佐
機動部隊出港まであと1か月、伝説となった鹿児島湾での雷撃訓練が繰り広げられていた時期である。この時、「布哇作戦」成否の鍵は 雷撃隊の練度向上にかかっていたと言っても過言ではなかった。

快進撃を続けた機動部隊も 昭和17年6月、ミッドウェイで大敗北を喫します。「赤城」被弾時、村田少佐は発艦直前の第2次攻撃隊・雷撃隊指揮官として甲板上にありましたが幸い怪我は無く、部下とともに消火活動に尽力した後「総員退去」とともに海へ飛び込んでいます。

その後「翔鶴」飛行隊長へ転身した村田少佐を待っていたのは、ガダルカナル争奪戦でした。8月の「第2次ソロモン海戦」では、艦爆隊の活躍で「エンタープライズ」を中破させるも沈没には至らず、結局 雷撃隊に出撃命令は下りませんでした。少佐は “ 爆撃だけでは敵空母にとどめを刺し得ない ”旨、航空参謀に進言しています。800㌔雷装の97艦攻は行動半径が限られ、また魚雷自体が貴重な兵器であったことから、その運用は慎重にならざるを得ないというのが司令部側の偽らざる心境だったでしょう。第3艦隊情報参謀だった中島親孝少佐(当時)は著書「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」(光人社NF文庫)の中で、この時の状況を以下の様に記しています。『 距離が三百カイリあって、艦攻には無理なので、艦爆と零戦だけで攻撃することにし、艦爆二十七機、零戦十機を発進させた 』

そして10月26日、ガダルカナル島の東方サンタクルーズ諸島沖で、4度目の日米空母決戦となる「南太平洋海戦」が勃発します。第一次攻撃隊指揮官として「翔鶴」を飛び立った少佐は、雷撃隊を率いて米空母「ホーネット」に肉薄攻撃を敢行しましたが、魚雷投下直前(または直後)に被弾炎上し、「ホーネット」右舷前方へ体当たり自爆したと伝えられています。雷撃に生き、雷撃に死した34歳の生涯でした。

少佐機は魚雷を放ったか否か、またそれが命中したか否かについては異なる記述が見られ 真相は不明のようですが、誰よりも雷撃を熟知していた少佐が射点を外すはずは無く、彼が投下レバーを引いた以上、それは間違いなく命中したのだ・・・と作者は信じたいです(合掌)



【 主要参考文献 】
● 世界の傑作機 32「97式艦上攻撃機」(文林堂) ● 図解・軍用機シリーズ 14 「九七艦攻 / 天山」(「丸」編集部) ●「雷撃機出動」(森捨三 著・河出書房) ●「海軍魂」(山本悌一朗 著・光人社NF文庫) ●「奇跡の雷撃隊」(森捨三 著・光人社NF文庫) ● 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 13「翔鶴型空母」(学研) ● 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 59「ソロモンの激闘」(学研) ●「真珠湾攻撃」(淵田美津雄 著・河出書房) ● 別冊宝島 1496 「連合艦隊激戦史」(宝島社) ●「開戦前夜の荒鷲たち / 第一巻」(秋本実 著・グリーンアロー出版社) ● 歴史群像「南太平洋海戦」(学研) ●「真珠湾攻撃 全記録」(秋元健治 著・現代書館) ● 歴史と旅「特集 真珠湾奇襲攻撃」(秋田書店) ●「日本の空母 / CG動画DVD付」(双葉社) ● 別冊 歴史読本「日米海軍海戦総覧」(新人物往来社) ● 歴史群像 太平洋戦史シリーズ 66「海軍航空技術廠」(学研) ● 歴史群像「ガダルカナル奪回作戦」(学研) ●「第2次大戦海戦大辞典」97新春2月特別号別冊付録 ●「パールハーバーの真実」(兵頭二十八 著・PHP研究所) ●「空母雷撃隊」(金沢秀利 著・光人社NF文庫) ●「海軍航空隊始末記」(源田實 著・文春文庫)



オープンエンド系のざっくりした風合いのヘビーウエイトTシャツ。リブはダブルステッチ


■ サイズ : S・M・L・XL・XXL・XXXL ■ カラー : ナチュラル
■ 使用Tシャツ : クロスステッチOE1116 ■ 素材 : 綿100% 6.2オンス 16/_ 天竺
■ プリント手法 : シルクスクリーン印刷4色




97艦攻 「南太平洋海戦」 雷撃Tシャツ

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3,960円 (税込)

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