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次回作品「ラバウル戦闘機隊」Tシャツ 経過報告(1) 2014/04/15


コンセプト=「ラバウル戦闘機隊」(Rabaul Fighters)に沿って
多数の部隊の中から描画対象を考えておりましたが、ようやくモチーフが決りつつあります。

基地戦闘機隊、水上戦闘機隊に加え、
「い」号作戦 「ろ」号作戦などでソロモン方面に進出した空母搭載戦闘機隊も選んだ結果、
合計23部隊 となりましたが・・・デザイン作業的にはほぼ限界に近いですね。
取りあえず、各機のディティールはほぼ集まりつつあります。


■ 基地戦闘機部隊 : 14部隊

① 千歳空 戦闘機隊  ② 4空 戦闘機隊  ③ 台南空  ④ 251空  ⑤ 2空 戦闘機隊
⑥ 582空 戦闘機隊  ⑦ 6空  ⑧ 204空  ⑨ 3空 ラバウル派遣隊  ⑩ 鹿屋空 戦闘機隊
⑪ 253空  ⑫ 252空  ⑬ 201空  ⑭ 105航空基地隊

2度に渡り台南空へ派遣隊を送った「1空 戦闘機隊」は、本隊がラバウル進出していないため外しました。
⑭ の「105航空基地隊」は主力航空部隊がラバウルを去った後に誕生した部隊ですが、故障機・廃材などから再製した零戦で終戦まで抵抗を続け、再製97艦攻による敵泊地夜間雷撃(!)も実施しています。
※東京国立博物館(上野)に展示されている「複座改造零戦21型」は同隊の貴重な遺産です。

■ 水上戦闘機隊 : 3部隊

ショートランドおよびレカタ基地を拠点に健闘した2式水戦隊です。

① 水上機母艦「神川丸」水戦隊  ② 14空 水戦隊  ③ 802空 水戦隊

■ 空母搭載戦闘機隊 : 6部隊

「い」号作戦、「ろ」号作戦ほか、基地航空部隊支援のためソロモン方面各基地へ進出した部隊です。

① 翔鶴 戦闘機隊  ② 飛鷹 戦闘機隊  ③ 瑞鶴 戦闘機隊
④ 瑞鳳 戦闘機隊  ⑤ 龍鳳 戦闘機隊  ⑥ 隼鷹 戦闘機隊


ところで、
我々が書籍などで目にする戦場写真は当時の報道規制?により尾翼番号などを削除修正しているものが多く、
部隊特定の大きな障害となっていることは間違いありませんね(_ _ ;)
こういった問題も含め、戦場写真の考証は現在も多くの戦史家を悩ませ続けているようです。本当にご苦労様です。

あくまで 『 戦史家さま方のたゆまぬ奮闘努力に感謝を表する 』 という趣旨で一例を挙げさせていただきますと・・・
例えば下の写真、同じ「世界の傑作機」シリーズでも時期により解説が大きく変化しています(真実に近づいた?)


ブイン基地の零戦隊

『 世界の傑作機 』 零式艦上戦闘機11-21型
平成5年8月1日 発行

【 解説要点 】
■ 時期 : 昭和18年11月 「ろ」号作戦
■ 場所 : ブイン飛行場
■ 部隊 : 瑞鶴搭載機と思われるが確証はない
■ クサビ型マーク :
  当時の1航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)を示す
  マークともいわれるが確証はない

『 世界の傑作機 』 スペシャルエディション
零式艦上戦闘機 
平成24年9月5日 発行

【 解説要点 】
■ 時期 : 昭和18年4月 「い」号作戦
■ 場所 : ブイン飛行場
■ 部隊 : 582空 零戦隊
■ クサビ型マーク :
   582空零戦隊の共通識別標識



いろいろと悩ましい問題はありますが・・・
なんとか今月中にはデザインを完成し、5月末~6月初旬の発売を目指して頑張ります。

次回作品「ラバウル戦闘機隊」Tシャツ 経過報告(2) 2014/04/27


ここ10日ほど、ひたすら戦闘機イラストを描き続けておりましたが
昨日ようやく20機に達し、なんとか先が見えてきました。


今回はTシャツ前・背面にわたり合計23機をデザインする予定なのですが、
Tシャツの印刷可能面積から単純計算しますと、1機当たりのスペースは幅13㎝ほど。
「描く」というよりは、いかに効果的に「デフォルメ」するか?~を考える時間が長いですね。
限られたスペースの中で 相反する?以下2つのコンセプト を両立すべく作業しています。

1、シンプルに

多数のイラストによる“ゴチャゴチャ感”を避けるため、
描画色は基本的に1色(多くても2色)とし、イラスト自体もシンプルなものを目指す。


2、詳細に

各部隊機の外見的特徴(部隊標記、機番号、塗装など)を確実に表現する。

ラバウル戦闘機隊イラストサンプル

▲ Tシャツ地色を「アーミーグリーン」に想定した場合のイラスト例です。
  描画色は初期零戦の塗装色ともいわれる「灰緑色」を参考にしました。



肝心の全体デザインは今まさに悩んでいる最中です。
着想当初は「鳥獣戯画」の飛行機版?のようなイメージを漠然と思い浮かべておりましたが、
スペースに余裕が無いため、これはちょっと難しいですね。

そう言いながら、人的要素(搭乗員、整備員など)や
ラバウルの風景(花吹山、指揮所など)などもデザインに入れたいし・・・。


いずれにしても今月中にデザイン作業を終わらせる予定です。

次回作品「ラバウル戦闘機隊」Tシャツ 経過報告(3) 2014/05/04


デザイン作業はやっとこさで、ほぼ終了いたしました。
印刷工場入りはGW明けの5月7日になりそうです。

やっとこさの意味ですが ・・・ パソコンが不調なんです(泣)

いきなりの「NO-SIGNAL」(PCは稼働しているがモニターに何も表示されない)が頻発するようになったため、
グラフィックボードの問題か?などと思っていたら、最近では「突発電源ダウン」も登場する始末。
ただでさえデザイン作業で四苦八苦だというのに、悩ましいことこの上ない。

グラッフィックボードか電源ユニットが怪しいと思うのですが、
現在はデザイン作業中につき交換作業は出来れば避けたい。
なんとかあと4~5日もってくれればよいのですが(^^;

さて、前回日記にも書かせていただいた通り、
今回作品の目標イメージは「飛行機版鳥獣戯画」なのです( ← 身の程知らず)

ということで、このようなイラストも描いてみました。


ラバウル東飛行場

ラバウル東飛行場(ラクナイ)と有名な251空の零戦22型 機番号「105」(UI-105)です。
“桜撃墜マーク”の岩本徹三飛曹長機も捨てがたかったのですが・・・
岩本さんが活躍されていたトベラ飛行場の周辺風景がよく判らないうえ、
何と言ってもトベラだとラバウル名物「花吹山」が描けないんですね。

ということで、251空 機番号「105」!
搭乗員はもちろん西澤廣義上飛曹をイメージしております。

次回作品「ラバウル戦闘機隊」Tシャツ 経過報告(4) 2014/05/12


Tシャツデザインはすでに印刷所に入っており、
現在は色校正(試刷り)待ちの状態です。

当初は23機をレイアウトする予定だったのですが、
スペースの都合や情報不足(機体ディティールが確認できない)などの理由により、
最終的には1機減って22機に落ち着きました。

Tシャツカラーはアーミーグリーンとネイビーの2色を予定しておりますが
試刷りの色具合を見て最終判断いたします。

ラバウル戦闘機隊Tシャツのデザインイメージ

【 前 面 】 12機

【 背 面 】 10機

 ① 千歳空 96式艦戦 17年2月 ラバウル
 ② 4空 零戦21型 17年4月 ラバウル
 ③ 台南空 零戦21型 17年7月 ラエ
 ④ 2空 零戦32型 17年8月 ブナ
 ⑤ 252空 零戦32型 17年秋 ラバウル
 ⑥ 神川丸 2式水戦 17年9月 ショートランド
 ⑦ 鹿屋空 零戦21型 17年9月 カビエン
 ⑧ 3空派遣隊 零戦21型 17年10月 ラバウル
 ⑨ 6空 零戦32型 17年10月 ブイン
 ⑩ 瑞鶴 零戦21型 18年1月 ラバウル
 ⑪ 802空 2式水戦 18年2月 ショートランド
 ⑫ 隼鷹 零戦21型 18年4月 い号作戦

 ① 251空 零戦22型 17年5月 ラバウル東飛行場
 ② 飛鷹 零戦22型 18年4月 い号作戦
 ③ 瑞鳳 零戦21型 18年4月 い号作戦
 ④ 582空 零戦22型 18年春 ブイン
 ⑤ 204空 零戦22型 18年6月 ラバウル
 ⑥ 201空 零戦22型 18年後半 ラバウル
 ⑦ 251空 月光初期型 18年9月 バラレ
 ⑧ 翔鶴 零戦21型 18年11月 ろ号作戦
 ⑨ 253空 零戦52型 19年1月 ラバウル
 ⑩ 105航空基地隊 複座改造 零戦21型
               19年11月 ラバウル

パソコントラブル  2014/05/13


今回は軍事要素ゼロ、パソコンの話でございます。


ここ1カ月ほど挙動不審三昧だった我が家のパソコンですが、
3日前、ついに 起動不能 に陥りました。

ただし、電源投入時に正常なビープ音が鳴っておりますので、
BIOSとマザーボードは無事である可能性が高く、決して御臨終ではないようです。


ビープ音のパターンから、メモリーかグラッフィックボード(以下GB)に不具合が生じている可能性が高いと考え、
まず試しにメモリーを周波数の近いバルクものに差し替えてみましたが ・・・ 状況は変わりません。

が、これにより主要原因がGBにある可能性が高まりました。
GB付属の冷却ファンは普通に回転していますので、内部のICチップが故障したと思われるのですが、
GBの中を見る勇気はないので ( 分解は出来ても、元に戻す自信は無い ) 確定はできません。

取りあえずマザーボードから外して観察しますと、やっぱり冷却ファンは埃だらけ!
購入以来、約5年が経過していますので当然と言えば当然なのですが、
内部のヒートシンクなどは掃除する手段が無いんです。(分解→再組立の自信があれば別ですが)

おそらくは、ヒートシンクの埃詰りによる冷却機能低下によってICチップの高温化が恒常的に繰り返されたあげく、
ついに耐えきれず 焼け死んだ(又は溶けた)のではないか・・・と推測されます(合掌)


当面、他に試す手段も見当たりませんので、次はGBを新品に交換してみるしかないですね。
私の場合、動画編集や3DゲームなどGBに強い負荷がかかる作業はほとんどやりませんので、
安価な低スペックもので十分いけるかと思いますが、それでも¥4~5000くらいはするようです。

取りあえず、早急にGBを買いに行かねば。
ただし、交換しても状況が変わらなかった場合は・・・お手上げですな。
まぁ、今からそんなことは考えないようにしよう(^^;

故障中のパソコン

▲ 中央やや下、緑色の基盤が見えているのが問題のグラフイックボード



ということで、現在自宅パソコンが使えませんので
ここ数日の日記も大阪市内某所より更新しております。

パソコンもち直す  2014/05/15


起動不能に陥っていた我が家のパソコンですが、
本日 グラフイックボードを新品と交換してみたところ、
予想通りなんとか蘇りました

やれやれ一安心といったところです (´ヘ`;) 



使命を終えた旧グラフイックボードを 分解 してみましたが、
驚いたのはその ネジの多さ、なんと大小各種あわせて 52個!

さて、内部はどうなっていたかといいますと・・・
ヒートシンクは想像通り大量の埃で閉塞状態となっておりましたが、
中枢部品(ICチップやコンデンサー類)に外見上のダメージは見受けられませんでした。

ということは・・・
内部の埃さえ適切に除去できていれば、まだまだ使えたのかも?

故障したグラフィックボードを分解

▲ 右側はヒートシンク部の拡大画像。こうなってしまっては、ファンが回っていても効果的放熱はできない


しかし、今回のような密閉型グラフイックボードの場合、
定期的に内部清掃を行うことは現実的に不可能。
まぁ、5年近く使い倒したのだから・・・良しとしよう。



今回のグラッフイックボードに限らず、
CPUクーラーのヒートシンクや各種冷却装置・ファンなどは
パソコンの寿命を大きく左右する重要パーツですので、
できる限り日常的に清掃可能な仕様にしてほしいものです。



ラバウル戦闘機隊Tシャツ デザイン機解説 ①千歳空 ②4空  2014/05/18


零戦を中心に戦闘機22機をデザインした「ラバウル戦闘機隊Tシャツ」ですが、
印刷工場に入っている間に各デザイン機および部隊の解説などご紹介していきたいと思います。



① 千歳空 96式艦戦

千歳航空隊 は陸攻・艦戦の混成部隊として昭和14年10月、
北海道・千歳で開隊しました。昭和16年に入り第4艦隊24航戦に編入され、10月以降、対米戦に備え内南洋へ進出します。マーシャル諸島ルオット島(クェゼリン環礁)を本拠に、タロア島(マロエラップ環礁)、トラック島へ分遣隊を送りましたが、当時の最新鋭機・零戦は空母部隊および3空、台南空など主力侵攻部隊へ優先配備されていたため、千歳空艦戦隊の装備機はすべて96式艦戦でした。

なお、トラック派遣隊(岡本晴年大尉指揮、96式艦戦1個中隊)には、実戦未経験の西澤廣義一飛曹が含まれています。

大東亜戦争が始まると、千歳空陸攻隊はウェーク島爆撃を開始しますが、戦闘機隊は航続距離不足のためこれに随伴できず、基地上空哨戒に回りました。一方、トラック派遣の1個分隊は昭和17年1月31日、占領直後のラバウルへ前進、先着していた3空・台南空抽出のペリリュー派遣隊(パラオ防空の後ラバウルへ進出した96式艦戦1個中隊。指揮官:河合四郎大尉 )と合流し、直ちに基地上空哨戒を開始します。

そして2月3日、初戦果がもたらされます。この日の夜20時半頃、夜間爆撃に来襲した双発飛行艇数機に対して緊急発進した96艦戦2機は暗夜の中で果敢に邀撃し、撃墜1機、不確実1機を報告しました。撃墜者は西澤一飛曹、大エースの初撃墜はラバウル上空、96式艦戦によって記録されたのでした。その後零戦への機種変更が進む中、2月10日、在ラバウル千歳空戦闘機隊は新編の4空へ編入されます。


【デザイン機解説】

ラバウル進出直後とされる写真で確認されている千歳空96式4号艦戦「S-123」の塗装図(※)などを参考にいたしました。「S」は千歳空の識別記号、ラバウル進出時も尾翼周辺の保安塗装は戦前通常色(赤)のままだったとも言われています。
(※) 『 モデルアート / 新版 日本海軍機の塗装とマーキング 戦闘機編 』(1998年、モデルアート社)149頁


なお、マーシャルの千歳空本隊(陸攻隊・艦戦隊)は同方面の防空任務を果たしながら、戦闘が激化する南東方面へ搭乗員を送り出す“錬成部隊”として機能していましたが、17年10月ラバウルへ全力進出した陸攻隊は1カ月弱の戦闘で消耗し、12月に本土帰還となります。一方、戦闘機隊は昭和17年12月、内南洋にあった752空(旧1空)戦闘機隊を吸収して201空を編成、翌昭和18年3月に内地帰還するまで殆ど戦闘は無く、ウェーク島、マーシャル諸島で再編訓練に励みました。201空のラバウル進出は約4か月後の昭和18年7月になります。



② 4空 零戦21型

第4航空隊 は昭和17年2月10日付でトラックにて編成された陸攻・艦戦の混成部隊です。 陸攻隊は1空、千歳空、高雄空より各1個中隊を抽出して編成し、2月中旬よりラバウル西飛行場(ブナカナウ)へ進出を開始します。 艦戦隊はラバウルの千歳空戦闘機隊がそのまま編入されました。

その後、4空戦闘機隊は陸攻隊と共にポートモレスビー攻撃を繰り返し、3月上旬に一部がニューギニア東岸のラエに進出、3月14日には豪州東北端のホーン島へ戦爆連合攻撃をかけています。

4月1日付で4空は陸攻のみの航空隊へ改編され、4空戦闘機隊は間もなく進出してくる台南空へ編入されることとなります。

【デザイン機解説】

昭和17年4月、ラバウルにおける西澤廣義一飛曹の乗機とされる零戦21型「F-108」の塗装図(※)を参考にしています。「F」は4空の識別記号です。
(※) 『 日本海軍戦闘機隊2 エース列伝 』(2011年、大日本絵画)28頁





ラバウル戦闘機隊Tシャツ

ラバウル戦闘機隊Tシャツ デザイン機解説 ③ 台南空 ④ 2空  2014/05/19


「ラバウル戦闘機隊Tシャツ」のデザイン機解説、2回目の本日は台南空と2空です。
全部で22機ありますので・・・まだまだ続きます(^^;


③ 台南空 零戦21型



台南航空隊 は大東亜戦争直前の昭和16年10月、台湾南部の台南で編成された戦闘機隊で、開戦後は3空とともにフィリピン、蘭印(インドネシア)方面の制空権を確保して第1段作戦成功の立役者となりました。

昭和17年4月1日の改編で南東方面25航戦に編入され、4月16日までにラバウル進出を完了、現地の旧4空戦闘機隊を編入して活動を開始します。主力をニューギニア北東のラエに派遣してポートモレスビー方面への侵攻を繰り返し、4~7月で撃墜246機(不確実45機含む)を記録しました。しかし8月7日、米軍のガダルカナル島上陸により南東方面の戦況は一変、台南空はラバウル~ガダルカナル間を往復する長距離侵攻作戦に従事することとなります。長時間飛行による疲労、ガ島上空での限られた戦闘時間、優位な体制で待ち受ける敵戦闘機群などの悪条件に悩まされながらも、東ニューギニア戦線も含め、8月~10月末までの3ヶ月間に撃墜201機(不確実37機含む)を記録しますが、台南空も開戦以来の精鋭搭乗員を次々に失い、定数の6割を超える32名が戦死しました。

急速に消耗した台南空は昭和17年11月1日付け改編で251空へ改称され、搭乗員は本土帰還し豊橋航空隊で再建に入りました。人員・機材を新たにした251空がラバウル進出を果たすのは翌昭和18年5月です。

台南空は多数撃墜者を輩出した部隊として知られ、西澤廣義、坂井三郎、奥村武雄、太田敏夫、笹井醇一、羽藤一志、岡野博ほか多くの名人が名を連ねています。

【 左 】台南空の精鋭たち
前列左より 太田敏夫一飛曹、西澤廣義一飛曹
後列左より 高塚寅一飛曹長、笹井醇一中尉、
        坂井三郎一飛曹
背景に花吹山が見えるのでラバウル東飛行場での1枚とわかる。この中で苛酷なソロモン航空戦を生き残ることができたのは坂井さん、西澤さんの2名のみ(合掌)


【 デザイン機解説 】

開隊以来、先任下士官として台南空の中心的存在だった坂井三郎一飛曹乗機のひとつとされる、零戦21型「V-107」を描いています。尾翼機番号の「V」は台南空の部隊符号。胴体の斜め帯は色によって識別されていた分隊区分、尾翼機番号上の帯は小隊長を示すと言われます。台南空に限らず、大戦初期の基地零戦隊では、感度の悪かった無線機を降ろしアンテナ支柱も切除した機体が多かったようです。




④ 2空 零戦32型



第2航空隊 は昭和17年5月に横須賀で編成された艦戦・艦爆混成の特設航空隊です。

昭和17年8月6日、ソロモン諸島南方に位置するニューカレドニアおよびニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ共和国)方面に配備予定でラバウルへ進出しますが、直後の翌7日、米軍のガダルカナル島上陸によってソロモン方面の状況が一変したためラバウルに止まることとなります。2空装備の新型「2号零戦」(32型)は航続力が劣るためガ島作戦には投入できず、2空零戦隊は台南空の一部と共にラエ、ブナを拠点に東部ニューギニア方面の作戦に従事しました。9月以降ガ島攻撃に投入され始め、9月28日には使用可能となったブーゲンビル島北端のブカ基地へ全力進出、数次のガ島攻撃に参加します。

昭和17年11月1日付けの改編で2空は582空に改称されますが、同隊のソロモン方面での奮戦は続き、翌昭和18年にはブインおよび最前線のムンダに進出して米軍と死闘を繰り広げることとなります。

【 左 】 昭和17年末、ニューギニア東部ブナ基地で連合軍によって撮影された2空の零戦32型「Q-102」。

【 デザイン機解説 】

昭和17年末、連合軍に制圧された東部ニューギニア・ブナ基地に放置されていた2空の零戦32型「Q-102 / 報國-872」(上の画像参照)をデザインいたしました。「Q」は2空の部隊符号、「報國-872」の下の献納者名(方義錫號)は小さすぎるため再現できませんでした。同機の画像は戦史雑誌多数に掲載されており、大変有名な機体の一つです。






ラバウル戦闘機隊Tシャツ

ラバウル戦闘機隊Tシャツ デザイン機解説 ⑤ 252空 ⑥ 神川丸 水戦隊  2014/05/20



連日続く 「ラバウル戦闘機隊Tシャツ」デザイン機解説、本日は252空と「神川丸」水戦隊です。



⑤ 252空 零戦32型


第252航空隊 は昭和17年9月、元山空・艦戦隊が独立して館山で編成された定数60機の大戦闘機隊でした。

編成後すぐにラバウルへ進出、昭和17年11月から内南洋へ転進する翌18年2月頃まで約5ヵ月にわたり、ソロモン・東部ニューギニア方面で奮戦しました。ラバウル、バラレ、ラエ、ムンダの各基地を転戦して撃墜145機を記録しています(戦死16名)。

その後 昭和18年2月に内南洋防空を命じられ、逐次ウェーク島、マーシャル諸島方面へ移動。しばらくは本格的戦闘が無く、哨戒・錬成に励んだ252空でしたが、9月以降勃発したマーシャル方面航空戦で壊滅的打撃を受け、さらに昭和19年2月1日の米軍クェゼリン上陸に至って、タロア、ウォッゼなどに散在していた残存搭乗員はトラック島へ脱出、本土へ帰還しました。

【 左 】 「大刀洗平和記念館」の252空 零戦32型
昭和53年 マーシャル諸島マロエラップ環礁タロア島で発見され、日本で復元された機体。零戦32型唯一の復元現存機とされています。

【 デザイン機解説 】
上の画像、大刀洗平和記念館に展示されている252空 零戦32型「Y2-128」を参考にデザインいたしました。
部隊符号「Y2」は、昭和17年9月の編成以来、内南洋移動後の18年6月頃まで使用されていたとのこと。「Y」の意味は、ソロモン ~ マーシャルでの激闘を指揮した初代指令・柳村義種大佐の頭文字を取ったという説もあるようです。



⑥ 神川丸 二式水戦


特設水上機母艦「神川丸」 は、その水偵隊が日中戦争で3度の感状を受けて勇名をはせました。

大東亜戦争初期の南方侵攻作戦では、基地零戦隊進出までの“つなぎ役”として最前線で大いに活躍し、昭和17年6~7月はアリューシャン方面で作戦の後、昭和17年9月、新鋭「二式水戦」水上戦闘機隊を搭載してブーゲンビル島南端のショートランドへ進出しました。

神川丸水戦隊はガダルカナル島奪回作戦を支援すべく編成された水上機隊「R方面航空部隊」の中核戦力として基地上空哨戒、船団掩護、ガ島爆撃などに連日奮戦しますが、零戦でさえ苦戦を強いられるソロモン空域での不利は避けられず、ついに11月7日、増援部隊上空掩護の際のF4F、SDBとの戦闘で「神川丸」水戦隊の搭乗員はゼロとなります。その後は補充も無く、12月7日付けで「神川丸」水戦隊は解隊となりました。

3ヶ月にわたるソロモン作戦での出撃回数は実に200回を超え、撃墜15機(不確実1含む)が報告されています(戦死、行方不明9名)

【 左 】 「神川丸」艦上の二式水戦
昭和17年8月下旬、ショートランドを目指して南太平洋を航行する水上機母艦「神川丸」艦上の二式水戦群。長期航海では定期的に行われていたという発動機試運転の様子。

【 デザイン機解説 】
ソロモンでの「神川丸」水戦隊、二式水戦 「YII-107」 の塗装図(※)などを参考にいたしました。 「R方面航空部隊」編成当時の部隊記号は、水上機母艦「千歳」飛行機隊=「 Y I 」、「神川丸」飛行機隊=「 Y I I 」 であったと思われます。
(※) 『 日本海軍戦闘機隊 』 ( 大日本絵画、2010年7月 )145頁







ラバウル戦闘機隊Tシャツ

ラバウル戦闘機隊Tシャツ デザイン機解説 ⑦ 鹿屋空 ⑧ 3空派遣隊  2014/05/21


今日で4日目となる「ラバウル戦闘機隊Tシャツ」デザイン解説。本日は 鹿屋空 と3空派遣隊 です。



⑦ 鹿屋空 零戦21型

鹿屋航空隊 は昭和11年編成の陸攻隊です。
昭和12年の支那事変では台湾から渡洋爆撃を実施、さらに上海に進出して漢口、南昌などを爆撃して活躍し、大東亜戦争では開戦劈頭のマレー沖海戦で英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈する偉功を立てました。

支那事変以降、戦闘機隊を持たなかった鹿屋空ですが、昭和17年4月、南西方面復帰とともに旧22航戦司令部付戦闘機隊からの転入者によって鹿屋空戦闘機隊が復活編成されます。

ガダルカナル島争奪戦により南東方面が緊迫すると、昭和17年9月中旬、陸攻隊とともにラバウル北方のニューアイルランド島 カビエンに進出、9月21日のポートモレスビー攻撃を皮切りに、激化の一途をたどるソロモン航空戦へ加入しました。

その後10月1日付けで鹿屋空は751空へ改称され、さらに11月1日の改編で戦闘機隊は分離独立して253空となります。253空は翌昭和18年5月にサイパンへ後退するまでソロモン航空戦を戦い、同年9月ラバウル再進出の後は、航空部隊が総撤退する19年2月までラバウルに残ることとなります。
※ 22航戦司令部付戦闘機隊 → 鹿屋空・戦闘機隊 → 253空 のご生存者としては、後に343空(剣部隊)でも活躍された本田稔少尉が有名で、『 本田稔 空戦記 』(光人社)にその詳細が記されています。

【 デザイン機解説 】
鹿屋空戦闘機隊 零戦21型「K-112」の塗装図(※)などを参考にいたしました。「K」は鹿屋空の部隊符号
(※) 『日本海軍戦闘機隊』(大日本絵画、2010年)163頁




⑧ 3空派遣隊 零戦21型




第3航空隊 は台南空とともに初期南進作戦を成功に導いた精鋭戦闘機隊です。ジャワ作戦完了後の昭和17年4月、台南空が南東方面(ラバウル)へ転進する一方、3空は蘭印にとどまってセレベス島ケンダリー、チモール島クーパンを主要拠点として制空権を堅持し、数次のダーウィン攻撃も実施しました。

昭和17年9月、南東方面作戦を支援するため 飛行長・榊原少佐を長とするラバウル派遣隊(搭乗員27名と地上員、零戦21機、陸偵4機)を編成、9月17日にラバウルへ進出して台南空の指揮下に入りました。その後11月上旬に南西方面へ復帰するまでの約2ヵ月間、ガ島攻撃、船団護衛、ラバウル防空に連日のように出撃し、撃墜68機を報告しています。南東方面の戦いで8名が戦死、ラバウルで他部隊へ転籍した搭乗員も多く、原隊復帰を果たした搭乗員は6名でした。

11月1日付けの改編で3空は202空に改称されます。蘭印方面へ完全復帰した202空は翌18年春から豪州北部・ダーウィンへの攻撃を再開、待ち構えていたスピットファイア部隊と相見えることとなります。

【 左 】 ラバウル東飛行場の「3空」零戦21型
胴体帯は分隊識別、垂直尾翼の横帯は小隊識別と言われており、写真の機体は胴体と尾翼の帯を1本づつ消した跡が見られるため、元は中隊長機であった?とも推測できます。「搭乗員の墓場」とも揶揄された南東方面で作戦した部隊に比べ、南西方面を主舞台とした3空、202空の写真は比較的多く残っているような気がします。

【 デザイン機解説 】
ラバウル東飛行場での写真が残存する3空の零戦21型「X-182」を参考にいたしました。
「X」は3空の部隊符号、202空改称後は「X2」となります。







ラバウル戦闘機隊Tシャツ

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