カートをみる マイページ ご利用案内 お問い合せ お客様の声 サイトマップ
RSS
 

ラバウル戦闘機隊Tシャツ デザイン機解説  鹿屋空  3空派遣隊  2014/05/21


今日で4日目となる「ラバウル戦闘機隊Tシャツ」デザイン解説。本日は 鹿屋空 と3空派遣隊 です。



鹿屋空 零戦21型

鹿屋航空隊 は昭和11年編成の陸攻隊です。
昭和12年の支那事変では台湾から渡洋爆撃を実施、さらに上海に進出して漢口、南昌などを爆撃して活躍し、大東亜戦争では開戦劈頭のマレー沖海戦で英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈する偉功を立てました。

支那事変以降、戦闘機隊を持たなかった鹿屋空ですが、昭和17年4月、南西方面復帰とともに旧22航戦司令部付戦闘機隊からの転入者によって鹿屋空戦闘機隊が復活編成されます。

ガダルカナル島争奪戦により南東方面が緊迫すると、昭和17年9月中旬、陸攻隊とともにラバウル北方のニューアイルランド島 カビエンに進出、9月21日のポートモレスビー攻撃を皮切りに、激化の一途をたどるソロモン航空戦へ加入しました。

その後10月1日付けで鹿屋空は751空へ改称され、さらに11月1日の改編で戦闘機隊は分離独立して253空となります。253空は翌昭和18年5月にサイパンへ後退するまでソロモン航空戦を戦い、同年9月ラバウル再進出の後は、航空部隊が総撤退する19年2月までラバウルに残ることとなります。
※ 22航戦司令部付戦闘機隊 → 鹿屋空・戦闘機隊 → 253空 のご生存者としては、後に343空(剣部隊)でも活躍された本田稔少尉が有名で、『 本田稔 空戦記 』(光人社)にその詳細が記されています。

【 デザイン機解説 】
鹿屋空戦闘機隊 零戦21型「K−112」の塗装図(※)などを参考にいたしました。「K」は鹿屋空の部隊符号
(※) 『日本海軍戦闘機隊』(大日本絵画、2010年)163頁




3空派遣隊 零戦21型




第3航空隊 は台南空とともに初期南進作戦を成功に導いた精鋭戦闘機隊です。ジャワ作戦完了後の昭和17年4月、台南空が南東方面(ラバウル)へ転進する一方、3空は蘭印にとどまってセレベス島ケンダリー、チモール島クーパンを主要拠点として制空権を堅持し、数次のダーウィン攻撃も実施しました。

昭和17年9月、南東方面作戦を支援するため 飛行長・榊原少佐を長とするラバウル派遣隊(搭乗員27名と地上員、零戦21機、陸偵4機)を編成、9月17日にラバウルへ進出して台南空の指揮下に入りました。その後11月上旬に南西方面へ復帰するまでの約2ヵ月間、ガ島攻撃、船団護衛、ラバウル防空に連日のように出撃し、撃墜68機を報告しています。南東方面の戦いで8名が戦死、ラバウルで他部隊へ転籍した搭乗員も多く、原隊復帰を果たした搭乗員は6名でした。

11月1日付けの改編で3空は202空に改称されます。蘭印方面へ完全復帰した202空は翌18年春から豪州北部・ダーウィンへの攻撃を再開、待ち構えていたスピットファイア部隊と相見えることとなります。

【 左 】 ラバウル東飛行場の「3空」零戦21型
胴体帯は分隊識別、垂直尾翼の横帯は小隊識別と言われており、写真の機体は胴体と尾翼の帯を1本づつ消した跡が見られるため、元は中隊長機であった?とも推測できます。「搭乗員の墓場」とも揶揄された南東方面で作戦した部隊に比べ、南西方面を主舞台とした3空、202空の写真は比較的多く残っているような気がします。

【 デザイン機解説 】
ラバウル東飛行場での写真が残存する3空の零戦21型「X-182」を参考にいたしました。
「X」は3空の部隊符号、202空改称後は「X2」となります。







ラバウル戦闘機隊Tシャツ

コメント

[コメント記入欄はこちら]

コメントはまだありません。
名前:
URL:
コメント:
 

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://blog.shopserve.jp/cgi-bin/tb.pl?bid=100003854&eid=189

ページトップへ