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厚木基地「302空」第1飛行隊指揮所  2014/09/02


今回の雷電Tシャツでは重要なデザイン要素となった302空・第1飛行隊指揮所ですが、
主に下の画像などを参考にして描かせていただきました。

厚木基地「302空」第1飛行隊指揮所の画像



さて、下の画像をご覧ください。

米軍進出直後の厚木基地指揮所

マッカーサー元帥 厚木進出の2日前、
昭和20年8月28日に撮影された旧・第1飛行隊指揮所です。

当時の厚木基地にお詳しい『海軍倶楽部』 Nさんの解説によりますと・・・
同日朝、沖縄より飛来した米軍先遣隊によって旧指揮所は数時間の内に改造され、
通信隊はハンディトーキーと上空を旋回する機を中継して、直ちに沖縄との通信を開始したとのこと。
※ 因みに、この厚木基地は日本初の航空管制を行った所だそうです。

誠に悔しいですが・・・米軍恐るべし。
沖縄戦時も輸血用「冷凍血液」を大量に積んだ船舶を多数待機させていましたし、
今更ながら米軍の技術力・組織力には驚かざるを得ないですね。



局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ

『源田の剣』 改訂増補版、発売中  2014/09/08


昨日、京都市内で催された「源田の剣 再刊をお祝いする会」に縁あって参加させていただきました。

著者の高木晃治(たかぎ こうじ)さまを含め総勢9名の集いでしたが、
昭和30年代以降の海軍戦闘機ブームの中で生じた素朴な疑問と『源田の剣』に込められた真実追求への想い、
共著者である日系三世の戦史研究家・ヘンリー境田(さかいだ)さんのお人柄、そして今回増補改訂に至った経緯
などなど・・・興味深いお話をたくさん聞かせていただきました。

ところで、『源田の剣』という著作をあまりご存知ない方もいらっしゃると思いますので、簡単に説明したいのですが・・・
永年に渡る膨大な調査・取材活動の一端をお聞きした後では、私ごときが「説明する」などおこがましい限りです。
が、思い切って! 私なりに簡潔に表現させていただきます。

「343空(2代・剣部隊)の作戦行動すべてを
日米両面から正確・公正に検証した貴重な戦史資料」


「決定版」などといった俗語では決して表現し得ない重みをもつ同著作ですが、
これでよろしいのではないでしょうか。

宣伝するつもりは無いのですが、343空や紫電改にご興味のある方は是非ご一読をお勧めいたします。
なぜなら、そこには膨大な調査・検証を経て明らかになった、
剣部隊搭乗員たち、彼らと戦った米軍パイロットたち、双方の真実が記されているからです。

「源田の剣」改訂増補版、発売される
▲ 右 : 2003年初版 『 源田の剣 米軍が見た紫電改戦闘機隊 』 (ネコ・パブリッシング)
  左 : 増補改訂版 『 源田の剣 米軍が見た紫電改戦闘機隊 全記録 』 (双葉社)
改訂増補版ではタイトルに「全記録」が加えられた。共著者の並びが入れ替わっていることにも深い意味があります。



さて、今回の改訂増補版にあたり、個人的に気になっていたことの一つに松山基地見取り図がありました。
実は、既存Tシャツ「松山基地上空大空戦!紫電21型(紫電改)vs グラマン F6F ヘルキャット 」における
松山基地デザインは、初版「源田の剣」82頁に掲載されていた「松山飛行場図」を参考にさせていただいておりまして、
従ってこれが大きく変わると困るのです(^^;

結果、主な変更は以下3点でしたが、
取りあえずデザイン的に緊急変更を要するレベルではないと判断いたしました。

滑走路の形状が若干変わる(南西方向、つまり山側へ少し伸長)
滑走路沿いに建つ格納庫6棟の配置が変わる
予科練兵舎の向きが南北から東西へ変更

ここで詳細は書きませんが、
それぞれの変更理由を実直丁寧に解説してくださった(!)高木さんには感謝と尊敬の念しかありません m(_ _)m


局地戦闘機「雷電」Tシャツ 制作報告(5)  2014/09/10


本日、印刷所で雷電Tシャツの初回色校正(試し刷り)をチェックしてきました。

空(そら)の再現がかなり難しいので内心恐れていたのですが・・・
そこは4年に渡り当店の「面倒なデザイン」?を再現し続ける某印刷所さま、わかっていらっしゃる(^^

ナチュラル、ディープブラックともに想像以上の出来で、
全体としては狙い通りの「世界」がよく再現できております。

が、細部に目をやると、やはり微妙に気になる点が4か所ほど・・・。
これら繊細な調整ポイントの修正方法を担当者と打ち合わせした結果、
再校正にて最終チェックを行うこととなりました。


▲ ナチュラル 前面

▲ ナチュラル 背面

▲ ディープブラック 前面

▲ ディープブラック 背面



最終校正の結果如何ではありますが、発売は9月末〜10月初旬の予定です。
ご期待いただければ幸いでございます m(_ _)m





局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ

97艦攻 「南太平洋海戦」 雷撃Tシャツ、補充しました  2014/09/17


本日、品切れとなっておりましたサイズ「L」「XL」および「XXL」を追加補充いたしました。

お蔭様で2012年7月の販売開始以来、今回で4度目の追加制作となります。
累計販売枚数当店トップのこの作品、零細個人事業の存続を支えている?といっても過言ではありません。
お買い上げいただいた皆様には心より御礼申し上げます m(_ _)m


97艦攻「南太平洋海戦」雷撃Tシャツ




さて、同Tシャツのモチーフとさせていただきました“雷撃の神様”村田重治大佐ですが、
周囲に笑いをふりまく“ジョーク好き”であったとも伝えられています。

ただ、伝記小説『海軍魂』(山本悌一朗)を読むとなんとなく分かるのですが、
大佐はもともと「茶目な人」ではありましたが、本質は生真面目なところがあり、
皆の緊張をほぐす為にワザと大げさに笑いを振りまいていた?という側面もあったのではないでしょうか。

特にミッドウェイ海戦(MI作戦)の後は、皆がそうであったように
「MIの仇を討ってやる」という悲壮な決意を胸に秘めていたはずです。
そして迎えた南太平洋海戦、多くの搭乗員と共に還らぬ人となったのでした。

それはさて置き・・・今日は様々な場面で発せられた村田大佐のユーモア発言を集めてみました
上記『海軍魂』のほか、真珠湾作戦以来の上官であり、これらジョークを直接見聞きしたと思われる
源田實大佐と淵田美津雄大佐の著書『海軍航空隊始末記』『真珠湾攻撃』などに登場するエピソードです。



■ 「指令、まことにお気の毒でございます」

いつも長靴を履いていた12空指令・三木森彦大佐の「水虫」を心配?して


■ 「淵田さん、元の仕事にもどされて、お気の毒です」
  「オヤジさん、飛行隊長二度のつとめは楽じゃないですな」

昭和16年9月、2度目の赤城飛行隊長として赴任した淵田少佐を気遣う?挨拶


■ 「えっ!じゃキンメルがですね、朝食のコーヒーカップを、
  こういうふうに半分持ち上げたところに、どかんとやらなければならんのですね。
  こりゃ困った。参謀、楽じゃないですよ」

昭和16年11月末頃、真珠湾へ向かう赤城艦内で、
源田参謀の"長官室の真下に魚雷を打ち込め"との叱咤激励に応えて


■ 昭和17年1月、ラバウル方面に移動中の空母赤城での源田航空参謀とのやりとり

村田 「航空参謀、アメリカの軍法会議の話を知っていますか?
源田 「いや、知らんよ。どうしたのだ」
村田 「はぁ、そうですか。では教えましょう。なんでも、キンメルが法廷に呼び出されたそうです
源田 「ほう、それで?」
村田 「ところが、あんまりあわてていたもので、前をよくしめていなかったらしいんです
源田 「・・・・・・」
村田 「そこで裁判長が注意しました。キン見ゆるぞと
源田 「なに!」
村田 「キンメルも負けていなかったようです。
    さっそく、でも帯が解けている(ルーズベルト)のよりよいでしょうと

源田 「馬鹿野郎!」


■ インド洋作戦時、搭乗員たちと雑談中に源田参謀に対して

村田 「明日はお客さん沢山おいでになりますから、
     あなた方はゆっくり、お客さん御馳走でも喰っていてください。
     私たちはなるべく早く発艦し、着艦にはまた、謙譲の美徳を発揮して、敵機が帰ってから着くことに
     しますから

源田 「ひどい奴だ」

赤城飛行隊長、村田重治少佐

村田重治大佐、いろいろな意味で忘れがたいお方です。


空母瑞鶴メモリアルTシャツ改 制作報告(1)  2014/09/18


本年7月に「瑞鶴メモリアルTシャツ」を販売終了とさせていただきましたが、
先週より、前作に続く第2弾「瑞鶴メモリアルTシャツ 改」のデザイン作業に入っております。


「改」の基本構想は以下の2点です。

好評だった前作の「艦橋シルエット」をさらにデザインアップして背面へ移す
前面には新たなデザインを作成する


現在は の新たな前面デザインを制作中ですが、
これに当っては幾つかの目標を設定して作業しております。

■ ワンポイント的
  
前面が「重く」ならないよう、出来る限りワンポイント的なデザインを心掛ける。

■ 立体的デザイン
  
艦橋部分を拡大した背面デザインに対し、前面では瑞鶴の全体像をデザインする。
  ただし空母の場合、横方向からの描画では“単なる平べったい艦艇”と化してしまうため、
  あえて正面側からのアングルに挑戦する。

■ 戦闘艦としてのイメージ
  
搭載機、発艦機、防空装備など、空母本来の「戦闘機能」を表現する。

■ 最後の姿を
  
最後の戦いとなったエンガノ岬沖海戦時の「瑞鶴」の姿を
  艦体・飛行甲板迷彩などを含め、可能な限り忠実に再現する。


現在は50%ほどの進捗状況、下の様な絵を描いております。
かなりデフォルメしておりますが、ワンポイント的デザインとしては・・・ギリギリの精度ですね。
これに発艦機(653空・零戦52型)などを加えていく予定ですが、果たしてどうなることやら(^^;

瑞鶴Tシャツ(改)前面デザイン制作中


XLサイズを追加しました〜「343空・紫電改 / 戦闘407 vs B-29」Tシャツ  2014/09/19


本日、予てよりご要望をいただいておりましたサイズ「XL」を新設させていただきました。

343空紫電改戦闘407



最近、『源田の剣』著者・高木晃治さまを囲む「再版をお祝いする会」に参加させていただいたことなどもありまして、
またまた紫電改への興味が湧き起りつつあります。


私にとって「戦闘407」でまず想起されるのは、やはり初代飛行隊長・林喜重少佐ですね。
隊長の戦没地、鹿児島県阿久根市にある慰霊碑は最寄駅(肥薩おれんじ鉄道「折口」駅)から徒歩約15分、
天気が良ければなかなか爽やかな散策コースだと思います。

林喜重隊長慰霊碑の地図

戦闘407」林喜重隊長 慰霊碑訪問報告

「雷電」Tシャツ 制作報告(6) 発売は10月7日です  2014/09/25


先日最終校正が無事終了、現在は印刷に入っておりますが、
発売は10月7日(火)予定です。


Tシャツカラーはナチュラル、ディープブラックの2色展開。
前面デザインは共通ですが、背面はTシャツカラーによって異なります。
サイズはいつも通りS〜XXLまで、販売価格は¥3,960の予定です。
ご期待いただければ幸いでございます。 m(_ _)m



【 ナチュラル バージョン 】 背面・・・厚木基地 302空 雷電隊、昼間出撃イメージ



【 ディープブラック バージョン 】 背面・・・厚木基地 302空 雷電隊、黎明(明け方)出撃イメージ





局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ

空母瑞鶴メモリアルTシャツ改 制作報告(2) 漂流中  2014/09/27


先日の制作報告(1)にてご紹介させていただきました前面デザインですが、
その後作業を進めるうちにみるみる肥大化(マニアック化)してしまいまして・・・
もはや「ワンポイント」では収まらない代物へと変貌しつつあります。

瑞鶴Tシャツデザイン中

▲ 「瑞鶴」最後の戦い、エンガノ岬沖海戦(19年10月24〜25日)で敵空母攻撃に発艦する「653空」零戦52型
  囮(おとり)部隊として参加した空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)はこの海戦ですべて失われ、日本海軍
  機動部隊は終焉を迎えることとなった。



う〜〜〜ん
どう考えても前面には重すぎ、かつ細かすぎるこの絵柄、いかに活用するべきか?

悩んだ結果、
当初の基本構想をアッサリ変更し、背面デザインを2タイプとする方向で考えることにいたしました。
これは雷電Tシャツと同じ発想なのですが、どうも引き出しが少なくていけませんね。
前面には「Z旗」をモチーフとした新しいデザインを制作中です。

なにを言ってるのかさっぱりわからん? ・・・ ですよね(^^;
絵にしますと以下のような展開イメージとなります。



【 前 面 】
共通デザイン「Z旗」

【 背 面 タイプ1 】
黎明艦橋シルエット

【 背 面 タイプ2 】
最後の戦い、攻撃隊発艦


来週中にデザインを完成させ、11月の発売を目指します。
制作予算との相談になりますが ( ̄ェ ̄;) 「長袖タイプ」もぜひ創りたいですね。


雷電Tシャツ、発売を開始しました  2014/10/07


昨日10月7日より 局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ の販売を開始させていただきました。

半袖の季節はとっくに終わっておりますので、長袖も制作したかったのですが・・・
なんとも虚しい予算不足により、今回は半袖のみのリリースとなります。


局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ


年内には長袖も追加制作する予定ですので、ご検討いただければ幸いでございます m(_ _)m



【 302空の記号「ヨD」の「D」とは?】

さて、
今回のモチーフとなった帝都防空戦闘機隊「第302海軍航空隊」( さんまるふたくう)ですが
皆様ご存知の通り、部隊記号は有名な「ヨD」ですね。

「ヨ」横須賀鎮守府直属を示しているのですが、
では、「D」にはどのような意味があるのでしょうか?
私は最近ある方から教えていただくまで知りませんでした (^^;

302空の記号「ヨD」

その答えは・・・

302空は横須賀鎮守府で4番目に任命された航空部隊ということで
アルファベット4番目の文字「D」を使った、とのことです。

そこでちょっと調べてみましたところ、
横鎮所属航空隊の記号は以下の通りでした。※( )内は開隊年月と場所

□ 横須賀空 (大正5年 追浜) 記号「ヨ」
館 山 空 (昭和05年06月 館  山) 記号 「タ」
木更津空 (昭和11年04月 木更津) 記号 「キ」
301空   (昭和18年11月 追  浜) 記号 「ヨC」
302空   (昭和19年03月 木更津) 記号 「ヨD」

昭和19年3月から順次導入された「特設飛行隊制」により、
301空は戦闘601となり、記号からカタカナの「ヨ」が消えました。
しかし、302空は鎮守府直属の局地防空専任部隊だったためか(?)
この制度は適用されず、終戦まで「ヨD」を使い続けています。

302空以降、横鎮直属の防空専任部隊は編成されなかったようですが
もし存在していたら、その記号は必然的に左右対称の「ヨE」となるわけで・・・
米軍は面食らったでしょうね(^^

ありがとうとうございました  2014/10/12

ここ一週間のあいだに、二人のお客さまから相次いで書籍が届きました。
いずれも「デザインの参考に!」とのことで、本当に感謝しております。
が、プレッシャーに弱い小心者の私は・・・すでに相当ビビッております ((((;゚Д゚))))

ということで今回は感謝を込めて、いただきもの書籍のご紹介です。



「写真史」302空 / 渡辺洋二・全解説
航空ファン イラストレイテッド 97-10
(1997年 文林堂)

こんな貴重なものをいただけるとは!実はず〜っと探していた写真集なのです。

当時の厚木基地の様子はもちろん、雷電、零夜戦、月光、銀河、彗星、彩雲など、私が今まで目にしたことのない写真がてんこ盛りのうえ、搭乗員の写真も驚くほど多い。しかも全写真、渡辺洋二さんの詳細解説付き。「凄い」の一言です。

あの“辣腕”赤松貞明少尉が「302空 笠ノ原派遣隊」の一員として派遣された鹿児島で、防空壕避難の際に後続者にのしかかられて肋骨を骨折していたとは知りませんでした。




「日本軍傑作機 3DCGアーカイブ」
(2014年 双葉社)

流行りのCGものですが、最近のは精度が凄いですねぇ。

構図的には大いに参考になりそうですが、これらはあくまで「CG再現」であって「デザイン」ではない・・・などと自分に言い聞かせております(^^;




ここまでは「いただきもの」ですが、ご紹介ついでに新刊雑誌をもう一つ。


歴史発見
[完全保存版]日本人なら知っておきたい帝國海軍

(学研・2014年7月)

これまた流行りの「完全保存版」ものですが、日本海軍の歴史、組織、戦略、
軍備などを幅広くカバーしながらも、海軍兵学校試験問題や艦艇の厠(トイレ)
再現イラストなど、妙に細かい部分?まで掘り下げているのが特徴ですね。

そして何といっても、
綴じ込み付録「海軍志願兵徴募」ポスター復刻版が素晴らしい ♪
早速部屋に飾っております。



▲ 大東亜戦争中のポスター復刻版 ※ モチーフは高雄型巡洋艦と一式陸攻

帝都防空の要「302空」 その(1) 2014/10/18


雷電Tシャツのモチーフとさせていたたいた海軍初の防空戦闘機部隊「302空」ですが、
本日から2回に分けてその概要を書きたいと思います。
1回目は、編成(昭和19年3月)から昭和20年3月頃までです。



帝都防空の要「海軍第302航空隊」(さんまるふた) その(1)



■ 「302空」編成 B-29本土空襲迫る

昭和19年7月のサイパン島陥落によって、マリアナ諸島からの超兵器B-29による本土空襲が急速に現実味を帯びてきます。しかしその一方、陸海軍ともに限られた航空戦力を捷一号作戦(フィリピン決戦)に優先投入せざるを得ない切迫状況にあり、結果的に本土防空は後回しにされた感がありました。そして、本土防空を担う陸軍が防空組織の改編を進めつつあった昭和19年春〜夏にかけて、海軍では3つの本土防空戦闘機隊が誕生します。関東防空「302空」、呉地区防空「332空」および佐世保・長崎・大村地区防空「352空」がそれで、小園安名中佐(後に大佐)を指令とする302空(厚木基地)は最も強力な防空戦闘機隊として期待されていました。

これら3つの防空戦闘機隊へは昭和19年4月以降「雷電」の配備が進められましたが、エンジンや主脚の故障多発、視界不良、高い着陸速度などから操縦員に敬遠され、習熟訓練は思うように進展しない状況が続きます。

マリアナ基地発のB-29空襲が始まった昭和19年11月時点における302空の戦力は以下の通りで、陸軍も含めた首都防空部隊中最大の戦力を有していたと思われます。

302空戦力表

【 左 】 302空指令・小園安名大佐(海兵51期)

ラバウル「251空」指令時代に夜間戦闘機「月光」を誕生させた小園大佐は、斜め銃の発案者であるとともに熱烈な信奉者として知られています。302空では小園指令の命によって夜戦隊すべての機体に斜め銃が装備され、さらに昼間邀撃担当の雷電、零戦にまで装備を要求して周囲を惑わせました。その異常なまでの想い入れは搭乗員を集めて言い放ったと伝わる次の言葉に表れています。
 「斜め銃に反対の者はこの基地から出ていけ」



■ 北九州で上った対B-29初戦果

関東防空が主任務の302空ですが、その初戦果は北九州で上がります。昭和19年6月、中国・成都発のB-29による北九州空襲が始まると、302空は佐世保空の要請を受けて夜間戦闘機「月光」3機を大村に派遣、8月20日の夜間邀撃において日中戦争以来のベテラン・遠藤幸男大尉機が撃墜2機、不確実撃墜1機、中破2機の戦果を挙げました。これは海軍防空戦闘機隊による対B-29初戦果であり、遠藤大尉は「B-29撃墜王」として一躍マスコミの寵児となります。しかし大尉の実際の報告は中破3機、小破2機であり、陸軍に対抗した佐世保鎮守府による戦果水増しが指摘されています。

【 左 】 遠藤幸男大尉(乙飛1期)

遠藤大尉はラバウル「251空」以来の月光操縦員で、302空では昭和19年8月20日の北九州邀撃戦において海軍防空戦闘機隊初のB-29撃墜を記録しました。以後は戦果を重ねる度に新聞・雑誌などで報道され、同航空隊きっての有名人となります。しかし昭和20年1月14日、遠州灘上空でB-29撃墜1機を報告後に被弾炎上、偵察員・西尾治上飛曹とともに脱出しましたが落下傘が開かず墜落、2名とも壮烈な戦死を遂げました。戦死後二階級特進で中佐、享年29歳。遠藤ペアの対B-29総戦果は撃墜6機・撃破10機とされています。



■ 八丈島派遣隊、前進邀撃ならず

昭和19年11月に入り、関東上空に偵察型B-29「F13」が姿を現し始めると、302空は陸軍の早期警戒レーダー「電波警戒乙」が設置されていた八丈島月光3機(11月中旬に1機追加して4機となる)を派遣します。敵機群が本土へ達する前に洋上で一撃を加えようという理にかなった戦術で、月光隊は翌20年1月まで約2ヵ月間に渡り同島に駐留を続けましたが、レーダーの精度不足、月光の機数不足や天候不良などにより遂に交戦機会は訪れず、前進邀撃は空振りに終わっています。



■ 関東上空、高空の苦闘

昭和19年11月24日を皮切りにマリアナ基地発のB-29による昼間空襲が本格化すると、302空は陸軍防空戦隊とともに全力邀撃を続け、高空戦闘に慣れるとともに戦果を拡大していきました。12月3日の邀撃戦では雷電隊がB-29撃墜3機を報告、さらに敵の爆撃目標が中京地区へと拡大したことで足の長い月光隊も戦果を挙げ始めます。しかし、レーダー警戒網が本土に近すぎるため初動が遅れてしまう致命的要因に加え、1万メートル前後の高空を高速飛来する敵編隊の補足攻撃は全ての日本機にとって至難の業であり、毎回の全力出撃にもかかわらずB-29群に決定的ダメージを与えることは出来ませんでした。この時期、陸軍防空戦隊は“空対空体当り”を目指す「震天制空隊」を編成して決死的邀撃を敢行しましたが、302空では採用されていません。

【 左 】 坪井庸三大尉(飛行予備学生9期)

雷電を乗りこなした坪井大尉は302空でも指折りの活躍を見せました。昭和19年12月3日の邀撃戦においてB-29初撃墜を記録、翌昭和20年2月12日には犬吠岬上空で偵察型B-29「F13」を撃墜する殊勲を上げます。さらに米艦載機群が大量来襲した2月16日にはF6F撃墜2機(協同撃墜1含む)を記録して雷電が戦闘機戦をこなし得ることを実証しました。4月1日、またも「F13」を撃破した坪井大尉でしたが、離脱中に被弾して墜落、戦死を遂げます。



■ 米軍、戦術を変更

当初は航空機工場を主目標とした昼間高々度精密爆撃に徹していた米軍ですが、日本側の執拗な反撃に加え、曇天が多く天候にも恵まれなかったこと、さらに偏西風(ジェットストリーム)による異常高速化に秘密兵器・ノルデン爆撃照準器が対応できないなど、一向に満足な爆撃効果を上げることができませんでした。その一方、B-29の損失は決して少ないものではなく、昭和20年1月27日の中島飛行機・武蔵製作所への昼間空襲で9機、2月10日の中島飛行機・太田製作所への昼間爆撃では空襲開始以来最悪の12機を喪失しています。そして、サイパンの第21爆撃集団(21thBG)司令官がハンセルからルメイへと交代した昭和20年3月頃から爆撃戦術を転換し、夜間低高度焼夷弾爆撃を多用し始めます。



■ 敵戦闘機に苦戦

ここで、今まで活躍の場が少なかった302空の夜戦隊(斜め銃装備の零夜戦・月光・銀河・彗星夜戦)が徐々に本来の力を発揮して戦果を挙げ始めます。しかし、硫黄島をめぐる戦闘が始まるとF6Fを中心とした米艦載機群が関東に大挙して来襲、さらに同島陥落以降はP-51ムスタング編隊が飛来するに至って、斜め銃しか持たない夜戦隊は昼間作戦には使えなくなり、雷電、零戦の被害もまた増大していきました。当初は航法能力の関係でB-29に随伴していたP-51ですが、徐々に戦闘機隊単独の昼間襲撃も常態化していくこととなります。対戦闘機空戦に不慣れだった日本軍防空部隊は苦境に追い込まれましたが、302空・赤松貞明少尉(のちに中尉)など一部ベテラン操縦員たちは例外的な活躍を見せています。

米艦載機が大挙して関東に来襲した昭和20年2月16〜17日の両日、零戦隊を指揮して邀撃に上った赤松少尉F6F撃墜4機、撃破2機を記録、後日には雷電でP-51撃墜も記録しており、その空戦技量は伝説的とさえ言われています。


【 左 】 赤松貞明中尉(操練17期)

日中戦争を13空・12空などで過ごし大東亜戦争勃発時は3空に所属していた歴戦の兵・赤松中尉は、その抜群の空戦技量に粗野な素行?も相まって、士官からも一目置かれる“知る人ぞ知る”存在でした。302空では雷電を熟知した操縦員の一人として出撃するかたわら、磯崎千利中尉などとともにその操縦法を指導しました。赤松中尉が最も口やかましく言ったのは「速度を落とすな」で、雷電の持つ優れた加速性と上昇力を活かす一方、零戦の感覚でスロットルを絞ればたちまち失速・墜落の危険性が増すことを指摘しています。また、「深追いするな」「俺から離れるな」といった口癖は、空戦に対する膨大な経験値と絶対的自信を示すものでしょう。14年に渡る戦闘機生活を生き抜いた赤松中尉の飛行時間は6000時間を超え、撃墜総数は自称350機(!)ですが、実数は27機程度と判定されているようです。

★ 長くなるので本日はここまでです。明日は終戦までの戦いを概説させていただきます。

主要参考文献

  ■ 『 本土防空戦 』(渡辺洋二、1997、朝日ソノラマ)
  ■ 『 迎撃戦闘機 雷電 』(碇義朗、2006、光人社)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊 』(秦郁彦・伊沢保穂、2010、大日本絵画)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊2 エース列伝 』(秦郁彦・伊沢保穂、2011、大日本絵画)
  ■ 『 世界の傑作機 海軍局地戦闘機「雷電」』(1996、文林堂)
  ■ 『 世界の傑作機 ボーイングB-29』(1995、文林堂)
  ■ 『 航空ファンイラストレイテッド「写真史」 302空 』(渡辺洋二解説、1997、文林堂)
  ■ 『歴史群像 太平洋戦争シリーズ 局地戦闘機 雷電』(2000、学研)
  ほか

局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ

帝都防空の要「302空」 その(2)  2014/10/19


302空概説、2回目は沖縄戦勃発から終戦までを追います。


帝都防空の要「海軍第302航空隊」(さんまるふた) その(2)



■ 沖縄戦勃発、相次ぐ九州への派遣

4月、沖縄戦勃発とともに菊水特攻作戦が始まると、同作戦援護のため関東防空専任の302空に対しても相次いで派遣命令が下ります。まず4月上旬〜中旬にかけて零戦1個分隊が笠ノ原へ派遣されて南西諸島方面制空に従事、次いで九州全域の航空基地へ集中爆撃を開始したB-29群に対抗するため、4月下旬〜5月中旬にかけて雷電19機が鹿屋基地へ進出します。B-29邀撃に有効とされた雷電は332空、352空からも派遣され、集成雷電隊「竜巻部隊」を名乗りました。竜巻部隊はエンジン不調に悩まされながらも健闘し、P-51がほとんど現れなかった幸運も奏功してB-29撃墜確実8機(ほぼ確実4機含む)、撃破46機を報告していますが、302空雷電隊はその半数を超えるB-29撃墜確実5機(不確実2含む)、撃破31機を報告して気を吐きました。

【 左 】 笹沢等一飛曹(甲飛11期)

302空雷電隊・鹿屋派遣隊の中でも出色の活躍を見せたのが笹沢一飛曹でした。まず4月28日に鹿屋上空でB-29を1機撃墜の後、さらに撃墜確実1機を追加、そして翌29日にも3機に白煙を曳かせて撃破3を追加しています。

左の画像は終戦間際の7月に上映された最後の「日本ニュース」の一コマで、笹沢一飛曹が空戦方法を質問している場面です。※ この後に赤松貞明中尉の空戦指導が収録されています。
NHKアーカイブス「日本ニュース 第254号」海の荒鷲「雷電」戦闘機隊



■ 必死の防戦も空しく

一方、帝都防空では5月24未明および25〜26日深夜にかけての夜間迎撃で大戦果が挙がりました。東京西部地区を襲ったB-29延べ1000機に対して陸海軍防空戦隊は全力で邀撃、302空夜戦隊(月光、銀河、彗星夜戦、零夜戦)が撃墜24機、撃破14機を報告したのです。しかし、必死の反撃にもかかわらず東京はほぼ全域が焼野原と化すこととなりました。この3日に渡る作戦で実に40機以上のB-29を喪失した米軍でしたが、その後も5月末〜6月中旬にかけて主要都市への空襲は続き、横浜、大阪、神戸が相次いで灰塵に帰していきます。

【 左 】 中芳光上飛曹(丙飛4期)

零式水上観測機(ゼロカン)操縦者として熾烈なソロモン航空戦を戦い抜いた中上飛曹は、経験に裏打ちされた空戦技術と不屈の闘志を併せ持った強者でした。本土帰還後は陸上機に転科して直ぐに彗星を乗りこなし、「302空」彗星夜戦隊トップの戦果を上げるとともに下士官搭乗員の要として精神的支柱の役割も果たしています。常にコンビを組んだ偵察員・金沢久雄中尉(飛行予備学生13期)との「中−金沢ペア」の活躍は有名で、昭和20年2月10日の彗星12戊型によるB-29初撃墜を皮切りに、終戦までの累計戦果はB-29撃墜5機、撃破4機に達し、302空でも3本の指に入る功績を上げました。



■ 最後の戦い 〜 終戦

沖縄特攻に“最後の一撃”を託した海軍でしたが米軍に大損害を与えるには至らず、沖縄戦終盤以降は本土決戦に備えた戦力温存体勢へと移行します。302空でも出撃は極度に制限され、小松、前橋などへの戦力分散温存が進められました。ところが、原爆投下、ソ連参戦と急速に悪化する戦況下において、大本営海軍部は戦力温存から機動部隊攻撃へと方針を変更、東北〜関東沖の敵機動部隊への特攻攻撃を命じます。302空には通常攻撃による夜間爆撃が下令され、8月13日夜、月光、銀河、彗星約20機が800舛よび250素弾を抱いて関東沖の敵機動部隊に向かいましたが、目標を発見できずに3機が未帰還となりました。

帝都防空を自負する302空搭乗員たちの戦意は最後まで衰えず、終戦日の8月15日午前、森岡寛(ゆたか)大尉指揮の零夜戦8機と別働の雷電4機が神奈川県上空でF6F群と交戦して撃墜1機を記録(未帰還3機)、これが最後の空戦となりました。



【 左 】 森岡寛(ゆたか)大尉(海兵70期)

艦爆操縦員(宇佐空)から戦闘機に転科した森岡大尉が302空に着任したのは昭和19年4月でした。厳しい戦闘機訓練を経て零夜戦隊分隊士となった大尉は昭和19年11月5日の初空戦で偵察型B-29「F-13」に一連射を加え、302空で初めて「F-13」に攻撃を加えた操縦者となります。しかし翌昭和20年1月23日、豊橋上空のB-29邀撃戦で左手のひらを吹き飛ばされる重傷を負ってしまいます。片手操縦で陸軍飛行場に不時着した大尉は病院で左手首より下を切断されますが、傷口の完治しないうちに厚木基地へと戻り、302空残留を訴えました。2月末、小園指令の計らいで異例の零夜戦分隊地上指揮官(分隊長)として302空に残留することとなった大尉は左手に義手を付けて再起を目指し、わずか2ヵ月後の4月23日、義手での零戦操縦を成功させて執念の返り咲きを果たします。義手の空中指揮官として復帰した大尉の活躍は凄まじく、終戦までの約4ヶ月間のあいだに撃墜2機(P-51、F6F)、協同撃墜1機(カタリナ飛行艇)、撃破2機(B-29、PB4Y)を報告しました。8月15日、玉音放送の約1時間前に森岡大尉が藤沢上空で上げたF6F撃墜1機は 302空最後の戦果として記録されています。



■ 小園司令、徹底抗戦を叫ぶ

玉音放送直後、降伏を断固拒否する小園指令は厚木航空部隊の「独立」を宣言、陸海軍全部隊に徹底抗戦を呼びかけました。俗に言う「厚木航空隊事件」の勃発です。天皇陛下のご意向を受けた海軍上層部による説得が繰り返されましたが、結局大佐は強制連行・病院監禁となり、事態は約1週間で収束することとなりました。厚木から離陸・脱出して最後まで抵抗した零戦・彗星・彩雲など32機の搭乗員たちもほどなく原隊に戻されています。

※ 10月に行われた海軍最後の軍法会議において、小園大佐には無期禁錮刑が言い渡されます。7年後の1952年、平和条約発効とともに大赦令によって赦免・釈放となり、故郷・鹿児島で農業を営みながら余生を過ごしました。1960年11月25日、脳溢血にて死去(享年58)



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302空の累計戦果は撃墜破150機以上と伝えられ、
その奮戦は陸海軍防空戦闘機部隊の中でも特筆されるものであったと言えるでしょう。

主要参考文献

  ■ 『 本土防空戦 』(渡辺洋二、1997、朝日ソノラマ)
  ■ 『 迎撃戦闘機 雷電 』(碇義朗、2006、光人社)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊 』(秦郁彦・伊沢保穂、2010、大日本絵画)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊2 エース列伝 』(秦郁彦・伊沢保穂、2011、大日本絵画)
  ■ 『 世界の傑作機 海軍局地戦闘機「雷電」』(1996、文林堂)
  ■ 『 世界の傑作機 ボーイングB-29』(1995、文林堂)
  ■ 『 航空ファンイラストレイテッド「写真史」 302空 』(渡辺洋二解説、1997、文林堂)
  ■ 『歴史群像 太平洋戦争シリーズ 局地戦闘機 雷電』(2000、学研)
   ほか

局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ

スリガオ海峡に眠る英霊 2014/10/20


昨日の日曜日、戦艦扶桑、山城 戦没70周年慰霊祭に参加させていただきました。
場所は両戦艦「艦内神社」の氏神さま「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう / 京都府八幡市)、
爽やかな秋晴れの下、参拝者40名を超える盛況でした。

戦艦「山城」「扶桑」の氏神さま、石清水八幡宮

キッカケは元「瑞雲」搭乗員のK元海軍中尉(以降K中尉と略させていただきます)から届いた案内状でした。
K中尉には「瑞雲Tシャツ」制作時にアドバイスをいただくなど大変お世話になりました。
その後、幾度か慰霊祭へのお誘いをいただいたのですが、私の怠慢から参加できず、
内心恥ずかしく思っていたところでしたので・・・今回は救われた想いです。

K中尉は 昭和18年9月、大学卒業とともに「海軍飛行予備学生 第13期」に応募され、
国家国民を守るため自ら海軍航空隊を志願された方です。

三重空、青島空での訓練を経て、昭和19年7月 重巡「最上」水偵偵察員(零式水上偵察機)として着任、同艦とともにレイテ沖海戦に参加しました。戦艦「山城」「扶桑」重巡「最上」を中核とする西村艦隊は、10月24日深夜〜翌黎明にかけてスリガオ海峡突破に猛進しましたが、米海軍の待ち伏せ攻撃を受けて「扶桑」「山城」は沈没、多数被弾した「最上」も翌朝の航空攻撃で航行不能となり処分(自沈)されます。K中尉を含む「最上」生存者約700名は駆逐艦「曙」に救助されてマニラへ移送されました。

上陸後、K中尉はマニラ湾キャビテ水上機基地に展開中だった「634空瑞雲隊に転籍となり、今度は水上爆撃・偵察機「瑞雲」の機長(偵察員)としてレイテ方面への出撃を重ねることとなります。2か月余りで100名以上の瑞雲搭乗員が戦死したと言われる苛酷な状況の中でK中尉は辛くも生き残り、台湾(東港)を経て昭和20年4月に内地帰還を果たしました。しかし、そこで待っていたのは鹿屋基地での特攻待機でした。死を覚悟したK中尉でしたが、航法訓練教官として大井空への転籍が決り、九死に一生を得て終戦を迎えます。


今年で92歳(のはず)となられたK中尉ですが、
記憶力、語り口ともに微塵の衰えも無く、その意気軒昂ぶりにはただ驚くばかりです。
慰霊祭後の懇親会では訓示も含め貴重なお話を聞かせていただきました。
ランダムですが、以下は私の記憶に基づくその概要です。

■ 実戦初配属が連合艦隊だったが、同期ではごく僅か(6名ほど)であり光栄に思った。

■ スリガオ海峡への進撃中、乗艦「最上」から見た「山城」「扶桑」はどうしてもその劣速が目立ち、
どこか頼りなげに映った。
 ※ 資料を見ると、当時「山城」「扶桑」両戦艦の速度は24〜25ノット、対して最上は37ノットとある。

■ ある映画で、攻撃を受けた空母艦上で服に火がついた搭乗員が転げまわる〜といったシーンがあったが、そのような光景を見たことは無い。実際の戦闘ははるかに凄惨で、爆弾や機銃が当たれば人間は肉塊・肉片となって飛散し、周囲は血の海、手足や首の無い戦死者や瀕死の重傷者がそこかしこに転がっている、というのが現実だった。

■ キャビテで「瑞雲」搭乗と決まった時は、最新鋭機で戦える喜びを感じた。
 ※ 「瑞雲」は水上機でありながら両翼に20正―藤可髻後席に13正―藤営鬚箸い戦闘機並みの武装を持ち、
   降下爆撃も可能だった。

■ 瑞雲の戦闘では正直何度も「恐怖」を感じたが、P−38に出くわさなかったのは幸運だった。
艦上機F6Fは数度やり過ごせば母艦に戻っていくが、陸上機のP−38はしつこく追ってくる傾向があった。

■ 戦場における生死の分かれ目は、艦艇乗組みの場合は運が100%、航空機の場合は運70%、技量30%だと感じた。航空機の場合は、相手(機種や艦種)と自機の状況(燃料残量や機位)を冷静に判断・対処する技量があれば切り抜けられる。この技量とはいわゆる「要領」も多分に含む。

■ 女性の社会進出奨励は結構だが、やはり日本女性の基本は良妻賢母。
そして、今の日本人はまず男がしっかりしなければならない。
「男が女を守る」これこそが日本人社会の良き伝統であり、基本である。

■ 戦後70年に至っても日本人は過去への反省を続けるばかりだが、もう「前」を向いていかねばならない。
 ※ 歴史捏造に対しては決然とした態度を取らねばならない、という意味だと解しました。



「スリガオ海峡海戦」で壊滅した西村艦隊の沈没艦艇は以下の通り。

◆ 戦 艦・・・「扶桑」「山城」
重 巡・・・「最上」
駆逐艦・・・「満潮」「朝雲」「山雲」

乗組員半数以上の約700名が救助された「最上」を除いて各艦艇の生存者は極端に少なく、
「扶桑」「山城」では乗員のほぼ全員、約3000名が戦死したと言われます。


今もスリガオ海峡に眠る英霊に感謝。




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戦艦山城の進水式

【 左 】 戦艦「山城」進水式の奉納写真

今回の慰霊祭では、昨年「石清水八幡宮」の倉庫で発見された「山城」の奉納写真2枚を見ることができました。ひとつは進水式時の「山城」(左画像)、もう一つは完成後の艦体全貌を捉えたものです。

「扶桑」「山城」は日本海軍が初めて建造した“超ド級戦艦”で、完成時の大正初期においては、排水量はもちろん、艦型、兵装ともに世界最大・最強の戦艦でした。



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