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634空「瑞雲」デザイン中です  2013/10/03

現在作業中の次回作、水上偵察・爆撃機「瑞雲」ですが、
背面デザインの基本コンセプトは以下の4点です。

1、マニラ湾キャビテ軍港の「634空」瑞雲隊を描く(時期は昭和19年11月頃)
2、戦闘シーンではなく、帰投時の風景を出来る限り史実通りに描く
3、描画方法は「線画」を基本とする
4、印刷手法は1色または2色のシルクスクリーン印刷とし、全体イメージをシンプル化する

取りあえずモチーフである「瑞雲」の機体線画がほぼ出来上がりました。





しかし、これからが本番でして・・・
この機体を浅瀬に浮かべ、周囲に沢山の人物を描かねばなりません。

とりあえずいつものようにラフ画を描いてイメージを膨らませておりますが、
整備員の服装などは先日お会いした元「瑞雲」偵察員の方にご意見をお伺いできればと思っております。

そして今までの経験から最も難しいと思われるのは海面の描画です。
さざ波や小さなうねりなど、微妙な感じをいかにして1色で表現するか、ですね。
海面はあくまで「背景」ですので、あまり目立ってはいけませんが
「海」であることはしっかり主張しなければなりません。


う〜ん・・・またまた苦悩の日々が続きそうですが、頑張りますよ!(・へ・;;)

634空「瑞雲」デザイン中 その2  2013/10/06


先月から作業に入っております634空「瑞雲」Tシャツの背面デザインですが、
先週機体描画がほぼ出来上がりましたので、この土日から人員配備作業に入っております。



現在、搭乗員2名(操縦員、偵察員)と整備員3名で計5名!すこしづつ現場感が出てきました。
ゴチャゴチャした感じにならないよう注意しながら、あと3〜4名ほど増員する予定です。


一番厄介?な海面描画は最後に回すことにいたしました。

634空「瑞雲」デザイン中 その3  2013/10/17



背面デザイン、ほぼ出来上がりつつあります。
最終的に人員は8名(搭乗員2名、整備員6名)となりました。

実際にはもっと多くの機付き整備員が取りついていた思われますが、
これ以上はデザイン的にマイナスになってしまいそうなのでチョット無理かと(^^;



さて、今一番悩んでいますのは・・・
まず間違いなく対岸に見えていたと想像されるマニラ近郊の遠景を描くか否かです。

ただし、「634空」瑞雲隊の発着所が広いキャビテ軍港のどの辺(あたり)に位置していたかによって
対岸風景は変化しますので、これは当方では判断しようがありません。

う〜〜ん、どうするか (´〜`;)

634空「瑞雲」デザイン中 その4  2013/10/23


毎度悩んでばかりですが、
ここ数日はTシャツカラーで苦悩しておりました。


先月発売させていただきました「飛燕Tシャツ」3色の中で
今のところ「ネイビー」が最も好評につき、今回も使いたかったのですが・・・

今回のデザインを「ネイビー」「ブラック」など濃い色のTシャツに印刷する場合、
濃淡を反転することになりますので、
結果としてネガフィルム?のようなイメージになってしまうのです。

「それなら、デザイン自体の濃淡を逆転すればいいんじゃないか?」
最初は簡単に対応できると楽観しておりましたが・・・
いざデザイン修正を開始しますと途端に行き詰まってしまいました。

皆様には今一つ理解しにくいかも知れませんが、
これは全く新しいデザインをもう一つ創るに等しい作業となってしまうのです。

最初からカラー展開を想定してデザインすればこのような状況にはならないのですが、
『戦争の一場面を切り取る』 を最重要コンセプトとする Osabetty's としましては、
Tシャツカラーによってデザインが左右される、あるいは制限されるという事態は
ある意味 最悪 なんですね。

しかし一方、Tシャツとして販売させていただく以上、
選択肢としてのカラーバリエーションは重要ですし
お客さまから多くのご要望・ご指摘をいただいているのもまた事実です。

つまるところ、私のデザイン能力(センス)の低さが根本原因であることは明白なわけですが
日々悩んでいるうちに少しづつ成長しているのだ・・・と、自身に言い聞かせております (^^;


ということで、今回は「ネイビー」など濃色系Tシャツへの展開は断念いたしました。Orz
ナチュラルホワイト」「ヘザーグレー」の2色展開、
半袖・長袖の2タイプで11月下旬の発売を目指しております。



▼ カラー展開イメージ画像です

遠景左側の頂は、ルソン島の活火山「バナハウ山」のシルエットです。

634空「瑞雲」デザイン中 その5  印刷工場に入りました 2013/11/09


先週末、元海軍中尉 Kさんに今回のデザインを見ていただきました。
そもそも今回「瑞雲」をテーマとしたきっかけはこの方との出会いでしたので、
製版・印刷段階へ進む前に必ず一度チェック?していただくつもりでおりました。


何を仰られるか、内心多少の不安があったのですが・・・
デザインをご覧になった瞬間に一言 「おぉ、瑞雲じゃ!」
誠にホッといたしました。


私が最も心配していた搭乗員・整備員の服装も違和感は殆ど無いとのこと。
また、Kさんのご記憶により、634空の主要発着エリアはキャビテ南側海面であったことがほぼ判明したのは大きな収穫でした。これが逆側(北側)であった場合、ルソン島をバックとする現在の背景デザインは使えなくなってしまうからです。


ということで、デザイン微調整の後、原稿はすでに印刷工場へ入っております。



Kさんとお会いするのは今回で3度目となりますが、相変わらず91歳とは思えない“お元気ぶり”でした。
このよく使われる「お元気」という言葉、Kさんの場合は相応しくないかもしれません。


何故かと言いますと・・・「お元気」どころでは無いからです。
伸びた背筋、しっかりとした足取り、正確な記憶力、明朗快活な口調・・・まさに驚異的!
万一私が90歳まで生存できたとしても、Kさんのようなご老人になるのはまず不可能でしょう。


さて、そのKさんの戦歴を簡単にご紹介しておきましょう。


昭和18年 9月 大学卒業
           海軍飛行予備学生(第13期)合格
           「三重海軍航空隊」入隊(基礎教程)

昭和19年 1月 「青島海軍航空隊」入隊(偵察機の練習航空隊)
        5月 海軍少尉 任官

        7月 第7艦隊 重巡洋艦「最上」
           同艦艦載機「零式水上偵察機」搭乗員(偵察)

      10月 「最上」乗員としてレイテ沖海戦「スリガオ海峡海戦」に参戦(西村艦隊)
           砲戦で大破炎上した「最上」は追撃の航空攻撃によって停止し、その後自沈。
           駆逐艦「曙」に救助され、マニラへ上陸。
           ※ 同艦乗組員1200名、救助されたのは約400名
        

           マニラ湾キャビテに進出していた「第634海軍航空隊」に転籍
           水上偵察・爆撃機「瑞雲」機長として対艦爆撃に多数出撃

      12月 「第1航空艦隊」に転籍

昭和20年 1月 マニラ湾より2式大艇にて台湾東港(とうこう)飛行場へ撤退

       4月 「鹿屋海軍航空隊」に転籍 特攻出撃命令を待つ
           「大井海軍航空隊」(静岡県小笠郡、偵察員養成の練習航空隊)に転籍
           予備訓練生への航法訓練教官に従事

       5月 海軍中尉任官

       8月 終戦、除隊
           基地残務整理に従事


凄まじいご経験をされたKさん、
戦場での生死の境目はただ「運だけ」と実感を込めて仰っておられましたが・・・
様々なお話を聞いておりますと、Kさんの偵察員としての秀逸さが大いに感じ取れるのです。

遭遇する敵機が艦載機か陸上機かによって分かれる対応、常に燃料消費を考慮した飛行計画、
敵艦対空戦闘力の見切り(駆逐艦の対空砲は殆ど当らないが、巡洋艦以上は手ごわい、など)、
そして、爆撃方法はもちろん、偏流測定など当時の航法手法・理論を今でも完璧に記憶されている明晰な頭脳・・・

フィリピン「634空」での激務をくぐり抜けてご生存できたのは、決して「運だけ」ではなく、
Kさんの機長としての冷静な判断力が少なからず影響していた、と私は思っています。
そしてその判断力は同乗する操縦員の命も救ったことになります。

▼ ニュース映像に残る キャビテ水上機基地の「634空」瑞雲隊
昭和19年10月末頃だろうか?

634空「瑞雲」Tシャツ 制作中 その6 色校正チェック終了  2013/11/15


本日の午前中、近所の印刷工場へ寄って 校正刷り をチェックしてまいりました。

例によってかなり細かいデザインのシルクスクリーン印刷ですが、
今回は色数が少ない(3色)のであまり心配しておりませんでした。


予想通り 問題はほとんど無し! =^-^=
来週から本生産工程に入り、予定通り11月末に発売できそうです。

カラーはホワイトとヘザーグレーの2色、
半袖・長袖のラインアップでサイズはS〜XXLまでカバーいたします。
どうかご期待くださいませ <(_ _)>


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ久しく遠ざかっている「零戦もの」へ回帰したいのですが、色々と事情がございまして・・・
次回テーマはまたまた水上機、「零観」(ゼロカン / 零式水上観測機) の予定です。
大東亜戦争前半期、南洋方面で敵戦闘機と渡りあった“下駄ばき機”の勇姿を描きたいと思っております。

634空「瑞雲」Tシャツ 発売は12月2日(月)です 2013/11/29


本日、無事「納品」が完了いたしました!

ということで、一刻も早く発売したいのですが
これから商品撮影や商品ページ制作などで少し時間がかかりまして
販売開始は12月2日(月)の予定です。

今回は長袖も用意しておりますので、どうかよろしくお願いいたします <(_ _)>


▲ 電球色の蛍光灯で撮ったイメージ画像(Tシャツカラーはホワイトです

真珠湾攻撃の雷撃隊  2013/12/12



「12月8日」はもう過ぎてしまいましたが、
毎年この時期になりますと「真珠湾作戦」関連本を読み返したりしております。

攻撃隊総指揮官・淵田美津雄さんの貴重な文献 『 真珠湾攻撃 』 ( 河出書房 )
航空参謀・源田實さんの 『 真珠湾作戦回顧録 』 ( 文春文庫 )
雷撃隊指揮官・村田重治さんの伝記 『 海軍魂 』 ( 山本悌一朗著、光人社 ) などなど


今回少し気になった点がありましたので、以下に記してみます




真珠湾作戦における主要打撃兵力は雷撃、水平爆撃、降下爆撃の3つですが、
この中で最も戦果を期待されていたのは 雷撃 で、奇襲成功時には一番最初に攻撃をかける決まりになっていました。

ただ、攻撃隊が真珠湾に突入する直前まで、雷撃隊を率いる 村田少佐 の胸中には一抹の「気がかり」があったのではないかと思います。それは、目標艦群が 防雷網 を張っていた場合の対処です。

「防雷網」とは 魚雷攻撃から艦艇を守るための金属製ネットで、これを両舷に展張するものであった。19世紀末に英海軍が採用し始めたのが最初だが、展張・収納にかかる膨大な時間・労力と、展張中は低速でしか航行できないこと、攻撃側である魚雷の進化 ( 網切りカッター 「破網器」 の魚雷頭部への装備、さらには火薬の爆発力でカッターを射出する 「 爆発破網器 」 の登場 )、また艦自体で衝撃吸収する技術の発達 ( バルジ装着、液層防御、多縦壁防御など )により、その有効性は徐々に失われ、各国とも第1次大戦を境にほぼ廃止に動いている。「防雷網」衰退後は、単艦防禦からより進んだ港湾・泊地防禦へと進歩し、「防潜網」などがこれに代わることとなっていった。なお、「防雷網」を最後まで採用していたのは日本海軍で、昭和9年頃まで使用されていたようである。



【左】
防雷網(Anti-Torpedo Nets)を展張する英国艦艇

かなり手のかかる装備であったことが一目で判ります。

従って、真珠湾攻撃時において「防雷網」自体はすでに“時代遅れ”ではあったのですが・・・
敵が艦隊防禦に完璧を期すると想定した場合、その可能性は否定できないものだったのかも知れません。


源田航空参謀、淵田総隊長の両名ともこの「防雷網」対策にかなり頭を悩ませていました。
※ 抜粋が長いため心苦しいのですが、以下にご紹介させていただきます。

  ■ 源田航空参謀 : 「真珠湾作戦回顧録」より抜粋

『 雷撃に関するもう一つの難問は、敵が舷側に魚雷防御網を張っていた場合と、もう一つは、真珠湾内に阻塞気球を揚げていた場合である。〜(略)〜 防御網を展張されていたならば、まず手はない。網切器については、航空技術廠や横須賀航空隊に依頼して、いろいろと実験研究をしてもらったのであるが、どうしても沈度が大きくなり、真珠湾攻撃には間に合わなかったのである。〜(略)〜 飛行機隊としては、前衛機が防禦網に穴をあけ、後続機がその穴を通して魚雷を走らせることまで考えたのであるが、もし実際に防御網が展張されていたとすれば、雷撃の成功は望み得なかったであろう。』

  ■ 淵田総隊長 : 「真珠湾攻撃」より抜粋

『 この雷撃はだれでもやれるというものではない。
また、敵が防御網をはっていたら、その計画は水泡に帰してしまう。』

そして、雷撃隊指揮官・村田少佐の伝記『海軍魂』(山本悌一朗著、光人社)には、以下の記述が見られます。

『 魚雷防御網を張っている敵艦への雷撃が、効果がないのは当然である。
その時の方法はただ一つ、先頭機が肉弾となって防御網を爆破するか、全機が敵艦に体当たり攻撃をする。
つまり肉弾特攻攻撃を敢行するよりほかに方法がなく、この攻撃方法については、当初から村田重治の腹は決まっていた。源田航空参謀も、淵田、村田の考えに承認を与えたが、これは源田、淵田、村田という三人の男だけの了解事項とし、上層部にはいっさい相談しなかった。』


一方、ホノルル総領事館の森村正書記生(吉川猛夫 予備役少尉)からは刻々と真珠湾の状況が送られ、「A情報」として機動部隊へ伝えられていました。攻撃前日、すなわちハワイ時間12月6日、森村さんは2つの電報(午前の第1報、および最終の総領事電第254号「至急報」)を発信していますが、最初の第1報に 防雷網に関する報告 が見られます。
『 阻塞気球ナシ。戦艦ハ魚雷防御網ヲ有セズ。』


この報告が村田少佐を喜ばせたことは容易に推測できます。しかしこれは攻撃前日の流動的敵情に過ぎず、目標艦を自ら目視確認するまではやはり「気がかり」だったのではないでしょうか。実際、第1報にて真珠湾在泊を確認されていた空母2隻は、最終「至急報」では夕方までに出港して不在であることが報告されています。



ここで、ハワイ攻撃集団・第一波の編成表(↓)を見てふと気付くことがありました。
雷撃隊だけ頭に「特」の標記があるのです。



真珠湾の地形・水深(約12m)を想定し、雷撃隊が猛訓練の末に辿り着いた 浅海面雷撃法 は以下の2つで、
この方法以外では真珠湾での雷撃成功は困難というギリギリの判断でした。

■ 第一法 ・・・ 発射高度 : 10〜20m 発射時機速 : 160ノット(時速約300km) 機首角度 : 0度
■ 第二法 ・・・ 発射高度 :  7m    発射時機速 : 100ノット(時速約190km) 機首角度 : 上4.5度

イメージとしては、
高度約40mで水平直進 → 発射直前に海面ギリギリまで降下 → 同時に魚雷発射( 目標距離 500〜600m )
というもので、一連の機速は時速200〜300kmの低速飛行ということになります。

このことは地上砲火や敵戦闘機の格好の目標になることを意味しています。
(※ それを防ぐために零戦隊、艦爆隊があるわけですが)
従ってよほどの奇襲に成功しない限り、雷撃隊は魚雷投下前に壊滅的ダメージを負う可能性が多分にありました。



ただでさえリスクの高い攻撃法に加え、万一「防雷網」展張の場合は体当りも辞さない覚悟!
なぜ雷撃隊だけ「特」なのか?その理由を私は知らないのですが・・・
そこには様々な意味が込められているような気がしてなりません。
「特」の意味をご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教授いただきたく思っております <(_ _)>



「 ワレ、敵主力ヲ雷撃ス、効果甚大 」

源田さんは 村田隊長の電文に接した時の気持ちを回想し、以下のように書かれています。
『 この電報を受け取った時ほどうれしかったことは、私の過去にはない。』

「飛龍」艦攻隊員の講演 2013/12/21


一昨日の12月19日、大阪市内で催された講演会 『 真珠湾攻撃の飛行士が語る 』 へ行ってまいりました。
お話をいただいたのは元空母「飛龍」艦攻隊搭乗員 城武夫( しろ たけお )さまです。


昭和9年、15歳で「海軍予科練習生」(後の乙種飛行予科練習生)に合格され、「霞ヶ浦航空隊」「大村航空隊」での飛行訓練を経て、昭和13年「第14航空隊」配属となり中国・広東省で初実戦(艦攻)、その後 巡洋艦「妙高」水偵隊員、「鈴鹿海軍航空隊」教官を務められた後、爆撃専修に進まれました。

大東亜戦争では空母「飛龍」艦攻搭乗員(偵察)として「真珠湾攻撃」(雷撃隊)、「インド洋作戦」に参加され、昭和17年4月9日「トリンコマリー空襲」時に右目を負傷(失明)、内地療養後は教官として「大井海軍航空隊」「徳島航空隊」で後進の指導に尽力されました。


真珠湾攻撃では「特第四攻撃隊」 第一中隊一番機 (操縦 : 分隊長・松村平太大尉) 偵察員として出撃、戦艦 「 ウエストバージニア 」 へ魚雷を命中させておられますが、『非常に攻撃しやすかった』 と冷静に回想されていらっしゃいました。
“最後の戦い”となったトリンコマリー空襲の模様を淡々と語られていた城さんですが・・・その内容は壮絶なものです。

零戦隊が低空に降下した隙を突いて襲ってきた「ホーカーハリケーン」の攻撃により、城さんの97艦攻は
30発以上被弾してしまいます。後席の電信員、同郷の稲毛一飛曹は腹部を撃たれたのか、前方に伏したまま
動きません。操縦員・高橋一飛曹は頭を負傷、城さんも右目に破片を浴び大量出血する非常事態に・・・!
瞬間、城さんは 『 死を覚悟した 』 そうです。

幸い、燃料タンク火災は起きなかったため、機は白煙を吐きながらも低空飛行で「飛龍」への帰還を目指します。

しかし、遠方に母艦を視認した直後 ついに発動機が停止し、洋上不時着を余儀なくされました。急速に沈み始める機体、操縦員と協力して重症の稲毛一飛曹を電信席から引っ張り上げて脱出しますが、駆逐艦に救助されるまで約30分漂流することになります。

救助された駆逐艦で疲労から眠りに落ちた3名ですが、目覚めた時、稲毛一飛曹はすでに亡くなられていました。

その後「飛龍」へ戻った城さんは右目に重傷を負っていたため、眼科を看られる軍医長が乗る「赤城」へ移ることとなりました。退艦の際、山口多聞司令官、加来止男艦長から握手と激励を受け感激されたとのこと。

喜ばしいことに、広い講演会場は聴講者で一杯!推定ですが300名以上いらっしゃったと思います。
講演後、ご親族様の許可を得てほんの少しだけですが、お話をさせていただく幸運(!)に恵まれましたが、
とても96歳とは思えない元気なお姿には感銘を受けました。

「戦争」とは何か?「戦場」で若者たちは如何に戦ったのか?
本や資料では決して伝わらない実情を語っていただいた城さま、本当にありがとうございました。

みなさま良いお年を  2013/12/31

今年も残すところあと1日となりました。

デザインのプロと言うにはほど遠い私の作品をご購入いただいたみなさま、
そして、コメント、メール、手紙、葉書、電話などでご意見・アドバイスしてくださったみなさま、
本当に感謝しております。ありがとうございました <(_ _)><(_ _)>
お蔭様で来年も「Osabetty's」をなんとか続けていくことが出来そうです。



さて、歳末の話題と言えば 安倍首相の靖国神社参拝 です。
年末ご挨拶の後に述べるのも変なのですが、
私が感じる"素朴な疑問"についてお話させていただきましょう。


朝日新聞、中国、韓国の主張は概ね
「A級戦犯を祀る靖国神社への国家代表者(首相)の参拝は、日本の過去の戦争責任を否定するすものだ。」
といった調子であり、その根拠が東京裁判によって確定された「A級戦犯」にあることは明白です。

ここで毎度話題となるのは日本が独立を回復した 「 サンフランシスコ平和条約 」 第11条 内に明記されている
ある一文の解釈問題です。即ち、同条約文中の 『 Japan accepts the judgments ・・・ 』 をどう解するかでありまして、
皆様ご存知のように以下の2説を中心に論争・非難合戦が延々と続いております。

1、 「judgments = 裁判 」

「日本は東京裁判を受諾する」と訳し、日本は東京裁判の“すべて”すなわち判決はもちろん、その理念、価値観や思想すべてを受け入れる、という解釈。つまり、日本は満州事変以来一貫して侵略戦争を遂行したと認めたことになる。同解釈を広めたのは主に朝日新聞で、これに着目した中国が反日根拠の一つとして活用するに至ったと思われる。 ※ 外務省による日本語訳には「裁判」と表記されている。

2、 「judgments = 諸判決」

「日本は東京裁判の諸判決(又は判決)を受諾する」と訳し、日本は東京裁判の「判決」を受け入れる、それ以上でも以下でもなく、同条項は東京裁判の理念・思想に関してはなんら拘束力を有するものではない〜という捉え方。国内外を問わず、多くの法学者が支持する解釈で、渡部昇一氏、桜井よしこ氏なども近い説を唱えていたと記憶している。


「受託したのは裁判だ」 「いや判決だ」 といった論議を見聞きするとき、私はいつも素朴な疑問を感じてしまいます。


そもそも、
人類が紛争解決の一手段として発達させてきた司法手続き(裁判)というものに
一国(または複数国)の一時期および一時代の歴史認識や歴史観を確定・拘束するといった神のような権限が付与されているのだろうか?


私は法学者ではありませんので専門的な理屈は解らないのですが・・・

「普通」に考えれば、司法にそこまでの権限は許されていない、と考えるのが人間社会の常識ではないでしょうか?
いわゆる「歴史認識」は、各国家、各個人により異なるのが当然ですから、いかなる裁判といえども、一国の(それも他国の)歴史認識を「確定する」などという決定は下せないはずです。なぜなら、それは人間の基本的人権(言論、思想の自由)に反する非文明的行為であると同時に、歴史への冒涜でもあるからです。
ということで、私個人的には、上述の「 裁判 or 判決 」論議はほぼ無意味に思えてしまうのです。

とは言うものの、なにぶん私は法律素人ですので・・・
この点に関して専門家の方々のご意見・ご教授を是非伺ってみたいところです。



それではみなさま、良いお年を!




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