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「真珠湾作戦」最初の一弾はどこに落ちたのか?  2012/03/05


現在「99艦爆」第2弾、「99艦爆−真珠湾作戦Tシャツ」をデザイン中なのですが、
コンセプトは以下の通りに定めています。

1、 最重要ポイント : 真珠湾作戦の初弾を投下する99艦爆の情景を出来る限り史実通りに描く
2、 急降下感・高度感の表現
3、 突撃下令「ト連送」を何らかの形でデザインに組み入れる

さて・・・肝心の初弾が投下された「場所」なのですが、今のところ断定は不能と言わざるを得ません。
真珠湾作戦関連の著作・文章は膨大な量にのぼるため、それらをすべて検証するのは不可能ですが、私が知る限りにおいては“初弾投下場所”については3タイプの記述が見られます。最も記述が多いのは「ヒッカム飛行場」、次に僅差で「フォード島格納庫」、だいぶ落ちて「ホイラー飛行場」が続きます。

真珠湾攻撃画像

▲ 攻撃2か月前の真珠湾
中央が「フォード島」、左上が「ヒッカム飛行場」
▲ 炎上する「ホイラー飛行場」
米陸軍戦闘機が多数展開するオアフ島最大の航空基地で、日本軍は最も警戒していました。

内外戦史家の見解が分かれるということは、
この3か所は “ ほぼ同時に ” 攻撃されたと理解するのが妥当なのでしょう。
しかし、「こだわり」をもってそのすべてとする「Osabetty's」といたしましては、こここそが " こだわりどころ " なんですね。

また、デザインの現実的問題としましても、場所が変われば当然「風景」も変わるわけでして、さらに攻撃機のマーキングも変わってしまいます。すなわち、「ヒッカム飛行場」又は「フォード島格納庫」ならば攻撃機は「翔鶴隊」であり、「ホイラー飛行場」ならば「瑞鶴隊」となるわけです。従いまして本格的デザインに入る前に、この問題には一応の結論をつけておかねばなりませんでした。

ちなみに、第1次攻撃隊・急降下爆撃隊の攻撃目標配分は以下の様に決まっておりました。

■ 第1次攻撃隊・急降下爆撃隊 :
「99艦爆」×51機(翔鶴26機、瑞鶴25機) 爆装:全機「九八式二十五番(250繊卜ν冉弾」×1発

翔鶴隊・・・「フォード島」「ヒッカム航空基地」
瑞鶴隊・・・「ホイラー飛行場」

また、各隊の攻撃順番につきましては、「奇襲」「強襲」を想定し、それぞれ以下のように定められていました。

「奇襲」成功の場合(信号弾1発)・・・・・  雷撃  水平爆撃  急降下爆撃
「強襲」の場合(信号弾連続2発)・・・・・  急降下爆撃  水平爆撃  雷撃


ということで、
3つの候補地?それぞれの「可能性」について、私なりにいくつかの視点で考えてみました。



1,真珠湾作戦のタイムテーブルから考える


下図は第1次攻撃隊各隊の攻撃開始までの行動を示すものですが、「戦史叢書 ハワイ作戦」(朝雲新聞社)を元に私が描き直したものです。

以下、侵入の流れに沿って説明しましょう。


A : 展開下令 0310(ハワイ時間 0740)/ オアフ島最北端・カフク岬上空

奇襲成功を確信した総指揮官・淵田中佐は信号弾1発を発射しますが、最上空に占位する制空隊(零戦隊、指揮官:板谷少佐)が動かなかったため、「見落とし」と判断した中佐は10数秒待ってもう1発発射します。

これを信号弾2発=「強襲」と判断した急降下爆撃隊指揮官・高橋赫一少佐は、隊を率いて一直線に各攻撃位置へ増速移動を開始しました。前述の通り「強襲」の場合、急降下爆撃隊は一刻も早く敵航空基地を叩かなくてはならないからです。※ 高橋少佐は「奇襲」か「強襲」か一瞬迷った末、最悪の場合を想定して判断したもの思われます。

これを見た淵田中佐は一瞬狼狽したと伝えられますが、完全な奇襲であったため大勢に影響はありませんでした。
この事態に最も驚いたのは雷撃隊指揮官・村田重治少佐だったのではないでしょうか?「奇襲」を正しく認識していた村田少佐は、降下爆撃隊の爆煙で雷撃照準に支障がでる可能性を危惧し、大いに焦ったはずです。

この微妙な錯誤?によって・・・
真珠湾作戦第1弾の役回りは急降下爆撃隊に回って来たのでした。


B : 突撃下令「ト連送」 0319(ハワイ時間 0749) / ハレイワ陸軍航空基地沖上空

淵田中佐は突撃下令「ト連送」を発し、これを受けた各隊は直ちに攻撃行動へと移りました。

ここで注目されるのは「ホイラー飛行場」の地勢です。オアフ島中部に位置する同飛行場は急降下爆撃隊の3つの攻撃目標の中で最も近く、展開下令が下されたカフク岬からわずか20数キロしか離れていません。これは99艦爆(最高時速約380キロ)が時速300キロで飛んでも5分で到達できる距離です。

展開下令から突撃下令まで約9分が経過しておりますので、この突撃下令の時点で、「ホイラー飛行場」を攻撃目標とする瑞鶴隊(坂本明大尉指揮)はすでに同飛行場上空に到達しており、上空を旋回し敵情視察しながら攻撃命令を待っていたと推測されます。従って「ト連送」受信と同時に攻撃に移ったと想像することが出来ます。

一方、高橋少佐の翔鶴隊もまた攻撃目標「ヒッカム飛行場」「フォード島」のある真珠湾へ向けて全速で接近していたと思われますが、距離を考えますと、突撃下令(0319)の時点ではまだ到達出来ていなかったと思われます。


C : ワレ奇襲ニ成功セリ 「 トラトラトラ 」 0323(ハワイ時間 0753) / 真珠湾西方バーバース岬沖

淵田中佐の著書 『 真珠湾攻撃 』 (PHP文庫) によれば、バーバースポイントを左下に見ながら真珠湾の状況を観察し、敵機が全く上空に無く、地上砲火も皆無であったことを確認して「トラトラトラ」発信を指示したとのことです。その後間もなく、ヒッカム飛行場とフォード島に爆煙が上がります。



2,真珠湾作戦時 「飛行機隊戦闘行動調書」 の確認


この記録は各空母ごとにまとめられた調書で、 「アジア歴史資料センター」 などでネット閲覧できるものです。
真珠湾作戦時の各調書を見ると以下の様な記載が見られます。※ハワイ時間は追記しました

空母「赤城」(攻撃隊総指揮官・淵田中佐)

0320(ハワイ時間 0750) 全軍突撃態勢ヲ執ル

空母「翔鶴」(急降下爆撃隊指揮官・高橋少佐)

0320(ハワイ時間 0750) 突撃下令
0325(ハワイ時間 0755) 所定目標ニ対シ爆撃開始 次イデ各飛行場ノ銃撃

空母「瑞鶴」

0315(ハワイ時間 0745) 艦爆隊・ホイラー飛行場ヲ急襲シ地上飛行機及ビ格納庫ヲ爆撃銃撃・・・


翔鶴隊の真珠湾への攻撃開始時刻は0325(ハワイ時間0755)と記録されており、突撃下令0319の6分後です。
そして、驚くのは瑞鶴隊の攻撃時間「0315(ハワイ時間 0745)」です。
これは突撃下令0319より4分も早く、命令無しの攻撃は考えられない為 ほぼ間違いなく「誤記」であると思われますが、先述した距離の条件等を考慮すれば瑞鶴隊の攻撃が一番早かった可能性を示唆しているとも考えられます。



3,攻撃開始時点の総指揮官・淵田中佐の記憶


淵田中佐は前述の『真珠湾攻撃』の中で、攻撃開始時点の模様を次のように述べています。



『 かくてヒッカム飛行場にまず爆煙があがった。ついでフォード飛行場にもあがる。
はるかかなたのホイラー飛行場の方向でも、すでに黒煙が空高くあがっている。』

この時淵田中佐は水平爆撃隊を率いて西南方向から真珠湾へ接近しつつありましたが、当然視線は彼の攻撃目標である真珠湾を睨んでいたと思われます。そして真珠湾での爆煙発生を確認したのですが、この時すでにホイラー飛行場方向では黒煙が高く上がっていたということです。



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以上、長々と書かせていただきましたが・・・
これら私個人の愚考を総合しますと、真珠湾作戦第一弾の可能性が最も高いのは、
瑞鶴・急降下爆撃隊による「ホイラー飛行場」攻撃 と想定することができそうです。


背景となる「ホイラー飛行場」の描画に苦心しておりますが、デザインはようやく完成しつつあります。
また今回は「緻密かつシンプル」なデザインを狙い、「ポートモレスビー編隊宙返りTシャツ」以来の
「シルクスクリーン4色」という暴挙?に挑んでおりますので、是非ご期待下さいませ  m(_ _)m


「99艦爆−真珠湾作戦Tシャツ」  2012/03/09

昨日、次回作品をプリント工場へ入稿いたしました。

今回は「シンプル」かつ「緻密」なデザインを狙って、
久々にモノトーンのシルクスクリーン印刷(4色)を使います。(4色刷り版画と同じですね )

来週から製版 → 色校正となりますが、
1番のポイントはモノトーン4色の全体的なバランス、そして背景・ホイラー飛行場の“存在感”です。
どういうことかと申しますと、飛行場はあくまで「背景」なのであまり目立ってはいけないのですが、
かといってかすんでしまっても駄目という微妙な色調が狙いなんですね。

さぁ、これがどうなるか?ちょっと怖いです www


イラストレーターの原稿画像です ( ↑ )
1941年12月8日 0320(日本時間)、オアフ島「ホイラー飛行場」上空、高度約2600m、
「真珠湾作戦」初弾を投下せんと急降下を開始する空母「瑞鶴」99艦爆隊を描きました。
先頭機は爆弾投下寸前の状態、デザインを斜めに横切る符号は突撃下令 「ト」 ( ・・−・・ ) 連送を示しています。

「真珠湾作戦」最初の一弾はどこに落ちたのか?その2  2012/03/14

この件につきまして、さらにネット上で色々と情報収集をしていたところ
ある方から新しい情報をいただきました。
興味深い話でしたので以下にご紹介いたします。


■ 『 飛行機隊行動調書 』 と 『 戦闘詳報 』

先日の日記でも引用させていただいた各空母の 『 飛行機隊行動調書 』 とは、海軍功績調査部の担当者が各部隊から提出される 『 戦闘詳報 』 に基づき、必要事項を抜粋し作成するので、細部が省略されており、また誤記がないとは断言できません。従って、より真実に近づくためにはハワイ作戦に参加した空母6隻の 『 戦闘詳報 』 を見る必要がありますが、残念ながら空母6隻の詳報は現存していません。


■ 第5航空戦隊(翔鶴・瑞鶴)司令部作成の 『 戦闘詳報 』

前記の通り、ハワイ作戦における各空母の 『 戦闘詳報 』 は現存しないのですが、翔鶴・瑞鶴で形成していた第5航空戦隊の 『 戦闘詳報 』 が残っています。「アジア歴史史料センター」未公開につき、私は確認できませんでしたが、以下の記載が見られるとのことです。※ 「fb」とは降下爆撃機を意味し、ハワイ作戦の場合は、翔鶴fb指揮官機=高橋赫一少佐機、瑞鶴fb指揮官機=阪本明大尉機 を意味します。


   〇三二五乃至〇三四〇敵防禦砲火ヲ冒シ
   「フォード」「ヒッカム」「ホイラー」ノ各飛行場ノ格納庫並ニ地(水)上飛行場ヲ爆撃銃撃 』

◆ 算飴諭察≧督瓧罍盪愆官機発 『 我「フォード」「ヒッカム」ヲ爆撃ス効果甚大 』

 〇三二〇 瑞鶴fb指揮官機発 『 格納庫三棟 地上機五〇炎上 』


は翔鶴・瑞鶴艦爆隊の攻撃全体を総括したものと思われ、攻撃開始時刻は0325となっています。「銃撃」とあるのは、零戦隊の活動を意味しているのでしょう。
※ 第5航空戦隊からは第1次攻撃隊に艦爆51機と零戦11機が参加しています。

は真珠湾方面へ向かった高橋赫一少佐機発信で、翔鶴・艦爆隊の攻撃完了と戦果を報告したのもと考えられます。

はホイラー飛行場へ向かった「瑞鶴」艦爆隊指揮官・阪本明大尉機の発信と思われますが、これには驚きます。
0320の時点で 「 格納庫三棟 地上機五〇炎上 」 の戦果を確認打電したということは、攻撃開始はもっと前ということになるわけです。淵田中佐の「突撃下令」(ト連送)発信はほぼ間違いなく0319とされていますので、突撃下令を待たずに攻撃を開始していた可能性もあるのではないでしょうか?
こうなると瑞鶴 『 飛行機隊行動調書 』 にある攻撃時間 「0315」 も多少現実味を帯びてくるわけで、「誤記」と決めつけるのは早計なのかもしれません。



▲ 南西方向よりフォード島を望む
中央の戦艦「オクラホマ」に魚雷命中の水柱が高く上がる。翔鶴隊の急降下爆撃により、右端の格納庫からはすでに黒煙が上がっている。写真には入っていないが、右上方向のヒッカム飛行場でも黒煙が上がっているはずである。

▲ 炎上するホイラー飛行場
瑞鶴隊の急降下爆撃により黒煙を上げるホイラー飛行場。同飛行場には戦闘機「P-40」「P-38」を中心に約180機あまりが展開していたが、格納庫前エプロンに集合配置されていたため、甚大な被害を蒙ることとなった。それでも数機が離陸し、日本機撃墜を記録している。



現在の感覚では“突撃命令無しの攻撃”はあり得ないと思われるのですが・・・当時の海軍航空隊、特に真珠湾作戦時の搭乗員達の「意識」や「雰囲気」といった微妙な「空気感」は今からではうかがい知ることはできません。
いずれにせよ、瑞鶴隊の攻撃が一番早かった可能性は相当高いのではないでしょうか?


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そろそろ、「99艦爆−真珠湾作戦Tシャツ」の色校正が上がって来ます。
色の具合が怖い?のですが、また日記にてご紹介させていただきます。

次回作品経過ご報告  2012/03/15

本日「99艦爆−真珠湾作戦 Tシャツ」の色校正が出ました。
いやいや、うまくいきました!ヽ(・∀・)ノ

プリント工場の方でデータ数値ではなく“見た目感覚”で濃度を調整してくれたそうで、
お陰さまでなかなかいい出来になりました。
細かいデザインながら、シルクスクリーン印刷ならではの“切れ味”も十分出ています。



さて、これで本生産といきたいところなのですが・・・
今回色校正の出来が想像以上だったので、もうひとひねり加えてグレードアップを狙うことにいたしました。
現デザインを背面(バックプリント)に回し、表面には背面とイメージ連動するマニアックな「ワンポイント」が入ります。
キーワードは・・・「水木兵曹、発信!全軍突撃せよ!」

一週間後あたりにはデザインの全容をお見せできる予定ですので、是非ご期待下さいませ。

「99艦爆Tシャツ」第2弾、発売は4月上旬です  2012/03/24

昨日、最終校正が終わりました。
来週から本生産に入りますが、Tシャツシーズン直前でプリント工場が多忙を極めておりますので
発売は4月上旬となりそうです。



さて、最終デザインは以下の様な感じになりました。


【 前 面 / 左画像 】
突撃下令「ト(・・−・・)連送」を発信する攻撃隊総指揮官・淵田中佐搭乗の97艦攻、機番号「AI-301」を描きました。
機体下のコピー「 Dec.8 1941 0319AM 」は「ト連送」発信日時を表しています。

【 背 面 / 右画像】
突撃下令受信直後、高度約2600mからホイラー飛行場に急降下を開始する空母「瑞鶴」99艦爆隊を描きました。
中央真ん中に小さく描かれている先頭突入機は250素弾投下寸前の状態、上部の機番号「EII−203」は真珠湾作戦時の写真が存在する瑞鶴隊の1機ですが、搭乗員は不明です。
「瑞鶴」降下爆撃隊はオアフ島への初弾を投下した可能性が高いと思われ、作者(私)の想像する攻撃開始時刻を中央の英文コピーとしました。「 Dec.8 1941 03:20AM 」
デザイン下部の英文コピーは、真珠湾作戦の初弾は空母「瑞鶴」の99艦爆によってホイラー飛行場に落とされた可能性が高い〜といった旨が書かれています。一応英語"下手の横好き"な私の作文なのですが、文法的に大きなミスは無いかと・・・思います(^^;



▲ 前面ワンポイント : 総指揮官機・97艦攻、機番号「AI-301」(空母赤城)
史料によりますと総指揮官機の搭乗員は、操縦:松崎三男大尉、偵察:淵田美津雄中佐、電信:水木徳信一飛曹 となっております。3人を描き分けることはとても無理でしたが、中央偵察席、淵田中佐の「白鉢巻き」はどうにか描くことができました。※ 淵田中佐の著作 『 真珠湾攻撃 』(PHP文庫)によりますと、中佐は発艦直前に整備員先任下士官から白鉢巻きを贈られ、これを飛行帽の上から締めて出撃したとのことです。皆様ご存知の通り、この様子は映画 『 トラ・トラ・トラ! 』 にも描かれておりました。良いシーンでしたね (・∀・)

大好きな甲子園へ  2012/03/28

以前勤めていた会社の同僚と一緒に、現在開催中のセンバツ高校野球を観戦してまいりました。
以前の日記にも少し書かせていただきましたが、私は自他共に認める「甲子園おたく」なのです。

経験上、センバツには「寒い」「雨」といったイメージがあるのですが、
昨日は好天に恵まれたうえ風もほとんど無く、最高の野球日和!
久々に甲子園の臨場感を満喫させていただきました。

▲ 高校野球観戦は外野に限る
  野手全体の動きが見渡せるし、出入り・移動自由、
  なんといっても無料(タダ)ですから!
▲ 左中間スタンドから大阪桐蔭高アルプス席を望む
  遠景の山並みは六甲山脈




さて、その後大阪市内のとある大衆酒場で飲んだのですが・・・
ここが誠に"大阪っぽい"店でしたので、お許しをいただいて写真を撮らせていただきました。
壁面だけではなく、天井にまでメニュー貼りまくっております。

まぁ、こーいった店は大阪には結構多いのですが、
この店の「偉大」?なところは、トイレまでメニューで埋め尽くされているところですな。
用を足す場でも次の注文を考えさせようという「商魂」!いい意味で正に大阪的ですね(笑)

やっと発売です  2012/04/09


「99艦爆 / 布哇作戦(真珠湾攻撃)Tシャツ」ようやく本日発売となりました!
いつも以上に「マニアック」ながら、結構スッキリした感じに仕上げられたかと思っておりますが・・・いかがでしょうか?
何卒よろしくお願い申し上げます <(_ _)>

さて、次回作ですが
99艦爆の後は「97艦攻」でしょう!〜ということで、現在構想中ですが、
今のところ以下の2方向で検討しております。

1、雷撃Tシャツ・・・「南太平洋海戦」の村田重治少佐機
2、空母艦上の97艦攻・・・出来れば主翼展張(または折り畳み)作業中のシーン

なんとか2作品でいきたいのですが、私のデザイン能力で果たして出来るかどうか・・・(ー_ー;)



▲ 昭和18年3月、トラック諸島上空を飛行する空母「瑞鳳」の97式3号艦攻。
下方の戦艦は連合艦隊旗艦「武蔵」である。制空権を失いつつあったソロモン・
ニューギニア方面では、97艦攻・99艦爆の被害は増大する一方であった。

鹿児島へ行ってまいりました  2012/04/22

昨日、「4月21日」は何の日かご存知でしょうか?
実は 「343空」戦闘407・ 初代飛行隊帳、林喜重大尉(戦死後少佐)の御命日であります。

隊長をイメージした作品を創らせていただいた昨年末以降、
「慰霊碑」(鹿児島県阿久根市折口)にお参りせねば・・・と漠然と考えておりましたが、
最近ちょっとしたきっかけもありまして、一昨日・昨日と1泊2日で鹿児島へ行ってまいりました。



▲ 1番右が林隊長の慰霊碑 『 故林少佐戦死之地 』(4月21日撮影)

隊長慰霊碑の横には2つの碑銘が並んで建っております。
: 林隊長と戦闘407および清水俊信上飛曹(戦闘301)の英霊を鎮魂する碑銘
: 戦闘407飛行隊英霊、ご生存隊員ご氏名、および碑銘建立にご尽力された方々のお名前が刻まれた碑文



皆様ご存じの通り、九州、特に鹿児島県には大東亜戦争関係の慰霊碑・史跡が多数存在しております。
今回は林隊長関連ということで下記2ヶ所も訪ねてまいりました。

■ 「第一国分飛行場」跡 (霧島市国分)

昭和20年4月21日早朝、林隊長最後の出撃地

■ 「海軍出水基地」跡 (出水市)

松山合流直前の約1か月間、林隊長率いる戦闘407が練成を重ねた基地


鹿児島での詳細は順次ご報告させていただきますね

鹿児島報告(その1) 「第一国分基地」跡  2012/04/27

4月20日、大阪(伊丹空港)から鹿児島空港へ飛び、最初に訪れたのが「第一国分基地」跡地(現在の陸上自衛隊国分駐屯地を含む霧島市国分広瀬・国分福島一帯)です。
昭和20年4月17日、鹿屋から「第一国分基地」へ移動した「343空」を待っていたのは、約1か月に渡るB−29邀撃戦でした。4月21日早朝、戦闘407・林隊長を含む紫電改23機が同基地から飛び立っていきました。そしてこれが林隊長最後の空戦となったのです。

◂ 鹿児島空港周辺は特攻基地
「第二国分飛行場」の跡地なのですが、今回は“343空と林隊長ゆかりの地”である「第一国分基地」優先ということで・・・展望デッキから旧滑走路方向(南東端)を望見するに止めました。

鹿児島空港から空港バスでJR国分駅へ移動(約25分)、
さらに私バスにて「陸上自衛隊国分駐屯地」へと移動いたしました。( いわさきバス?「自衛隊前」バス停下車)


より大きな地図で 鹿児島空港 → 国分 を表示

◂ 「第一国分基地」跡
昭和17年、約300ヘクタール(甲子園球場グラウンドの約270倍)に及ぶ航空基地が構築されました。
1600×1000mの滑走路と33基の掩体壕を持ち、176名の士官と約2300名の兵員を収容できたとのこと。現在の「陸上自衛隊国分駐屯地」敷地はほとんどが滑走路であったと思われます。

事前に調べたところでは、残念ながら旧基地の名残りは殆ど現存しておらず、
住宅地内に残る 「発電施設」跡 が唯一の史跡とのことなので、まずはそちらへ向かいました。

自衛隊駐屯地正門から歩くこと10分ほどで “そのあたり” に着いたのですが、案内板の様なものは一切なく、それらしき物は見当たりません(焦) 幸い、近くに郵便局(福島簡易郵便局)がありましたので尋ねてみますと・・・なんと目と鼻の先にありました!昔から「探し物下手」といわれますが、本領発揮ですな(^^;

幹線道路をはさんで郵便局向かい側の細い辻を入ると、すぐに見えてきました。案内板などが皆無だったのは、私有地内にあるからなのですね。

写真撮影の許可をいただくため、史跡に隣接する所有者さま宅を訪ねますと、たまたまご主人さま、奥さまがご在宅で快く了解していただきました。さらに幸運なことに、お二人から史跡に関するいろいろな話を聞かせていただくことができました。以下はその概要です。

■ ご主人は幼少の頃から同地にいらっしゃるため、施設内部の様子を熟知されている。
■ 子供が遊ぶと危険なため、北側に開いていた出入り口(?)は私費で埋めてしまったとのこと。
  従って現在は内部に入ることはほぼ不可能
■ 数年前、市役所の役人が突然現れ、無断で史跡を柵で囲い「立入禁止」にしようとしたことがあった。
■ 付近には機関銃陣地跡が残っていたが現在は撤去されており、当発電所が最後の残存史跡かもしれない。
■ 現在も小学生が授業で見学に来ることがある。また、地方からの一般見学者もたまにやって来る。
■ 周辺一帯には多様な史跡物が埋まっており、小学校の砂場を掘ると航空機の破片らしきものが出土する。

▲ 南側

▲ 危険防止のため埋められた出入り口

▲ 東側から:左上に煙突の跡が見えます

▲ 北側へ回ると・・・

▲ もう一つの煙突が確認できます

▲ 同じく北側の壁面

「第一国分飛行場」が存在したことを示す、唯一?の貴重な「史跡」ですので、なんとか霧島市で管理していただきたいと思うのですが、市で保全するとなると予算的なことも含めいろいろ問題もあるようです。一方、社団法人霧島市観光協会・霧島市特産品協会・妙見温泉振興会・鹿児島県ホテル旅館生活衛生同業組合 霧島支部・霧島商工会議所の5団体が共同運営する観光サイト 「まるごと霧島.com」 では「遊ぶ・巡る」というタグ内で当史跡が紹介されていたりします。

最後に、ご主人がわざわざ描いてくださった「見取り図」を掲載させていただきます。私の聞き取り情報などを赤字で加えました。

所有者ご夫妻さまには、突然お邪魔したにもかかわらず丁重なご対応をいただき、感謝いたしております。
本当にありがとうございました <(_ _)>

このようなご時世ですから、戦争時代の史跡に対する一般的意識が低いのはやむを得ないのかもしれませんが・・・
「そこ」には国や親族のために命懸けで戦った方々がいらっしゃったのですから、今流行りの“実効支配”ではありませんが、その「形」は残す必要があるでしょう。なんとか霧島市で正式に管理していただく運びになればとささやかながら願っております。

※ 「探し物下手」の私が申し上げるのも恥ずかしいのですが、わかりにくい場所であることは間違いありませんので、簡単な地図を作成いたしました。ご参考になれば幸いです。→ MAP表示



■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 



さて、第一国分基地の司令部壕があった自衛隊駐屯地正門前には、
同基地から特攻出撃していった英霊を鎮魂する石碑 『 特攻機発進之地 』 が建っております。

「国分海軍航空隊」は昭和19年8月15日に「出水海軍航空隊国分分遣隊」から独立して開隊した練習部隊でしたが、翌20年3月に解隊し「観音寺海軍航空隊」として香川県に移転しています。その後沖縄戦を前にした3月中旬以降、第一・第二国分基地には各地航空隊から特攻隊が進出、400名余の英霊が沖縄へ飛び立っていきました。
※ 343空の第一国分展開時期は4月中〜下旬の半月間ほどでしたが、この間も同基地からは彗星10機(13名)零戦2機(2名)が特攻出撃しています(合掌)

同記念碑は自衛隊駐屯地開設9年後の昭和39年に建てられたもので、毎年4月22日に霧島市主催の慰霊祭が行われています。私が訪れたのは4月20日でしたが、翌々日の慰霊祭に向け、すでにテント設営などが進んでおりました。

▲ 国分駐屯地正門

▲ 駐屯地正門より慰霊碑を見る

▲ 慰霊祭の準備中






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午後からは林隊長が戦闘407を率いて錬成を重ねた地「出水基地」跡へと移動することにしましたが、どう行けば一番早いのか(安いのか?)がよくわからず・・・ 結局 JR「国分」から日豊本線、鹿児島本線を乗り継いで「川内」まで行き、そこから肥薩オレンジ鉄道にて「出水」へと移動しましたが、バスで行く手もあったのかも?

途中、林隊長戦死の地の最寄駅「折口」を通過したのですが、お参りするのは翌4月21日(御命日)と決めておりましたので、失礼ながら車窓より祈らせていただきました。

▶ 次回は「出水基地」跡をご紹介いたします。

鹿児島報告(その2) 「出水基地」跡  2012/05/04

4月20日午後遅く 肥薩オレンジ鉄道「出水」駅に到着後、
2kmほど西方にある 旧海軍出水基地跡 へと向かいました。

出水基地は、日中戦争拡大に伴う航空要員の大量養成を目的として、昭和12年に建設準備が始まり、昭和18年4月15日、練習航空隊「海軍出水航空隊」が設置されました。いわゆる予科練や、学徒動員された予備学生の操縦教育が開始されたのです。

昭和16年9月以降、在九州飛行場では「布哇作戦」(真珠湾攻撃)に備えた各航空部隊の猛訓練が行われていますが、出水基地には「第2航空戦隊」( 空母「蒼龍」「飛龍」基幹 )雷撃隊(97艦攻)が進出し、連日、訓練地・鹿児島湾へ向けて飛び立っていきました。

しかし、戦局悪化により作戦基地へと転用され、昭和20年3月1日、練習航空隊は朝鮮・光州へ移動し、宇垣纏中将率いる第五航空艦隊の、攻撃405、406飛行隊(新鋭爆撃機銀河装備)が配置されました。この両飛行隊及び全国各基地から飛来する特攻機によって壮絶な作戦が展開され、多くの英霊が当地より飛び立っていったのです(合掌)

林隊長率いる戦闘407 は昭和19年12月中旬からこの地で「紫電」による練成を重ね、翌20年1月26日、ダグラス輸送機3機に分乗して松山へ進出しています。




より大きな地図で 出水、折口一帯 を表示


同地一帯には戦闘指揮所地下壕跡、衛兵塔跡、掩体壕跡ほかの史跡に加え、戦後に発見・再建された「特攻神社」などが点在しているのですが、現地到着後すぐに日没を迎えてしまったため、この日は特攻慰霊碑のある「特攻碑公園」しか見ることができませんでした。

そこで翌4月21日、林隊長の碑へお参りしたのち、再び戻って散策を続行しましたが、この日は午後から天候が悪化、写真撮影のカメラ保持にも難儀するほどの「強風下」の見学行(徘徊?)となってしまいました。それでも執念で歩き回っておりましたが・・・最後には雨も降り始め、コンディションは最悪に。ついに午後3時過ぎ、誠に不本意ながら見学続行を断念いたしました。

ということで、すべての残存史跡や記念碑を巡ることが出来なかったのが残念ですが、以下にご報告させていただきます。


  ▲ 出水基地が存在した地域 ※ クリックで拡大画像

  ▲ 出水基地略図 ※ クリックで拡大画像




■ 特攻碑公園


「特攻碑公園」は旧出水基地の一角、現・出水市平和町にひっそりと佇む 小さな公園です。
当時の「戦闘指揮所地下壕」(通路約50mくらいか)がほぼ完全な形で保存されており、その地下壕の上に同基地より特攻出撃された英霊の慰霊碑 など、石碑が3つ建っています。

▲ 中央に見えるのが特攻碑。この地下に地下壕が広がっています。

また同公園はが有名で、例年4月第1土日曜日には「いずみ さくら祭り」が開催され多くの人出があるとのこと。英霊が散っていった時期も春ですから・・・毎年この時期に賑わうというのは嬉しいことです。私が訪問したのは4月20日でしたので桜の満開期は終わっていましたが、樹上に残る桜花と地面に多数散落した花びらのコントラストが何とも言えない雰囲気を醸し出しておりました。



□ 戦闘指揮所地下壕 跡


空襲を生き延びて残存する2か所の出入り口から自由に見学できます。かなり地下深くまで掘られており、非常にしっかりした造りでした。

▲ 地下壕入口

▲ 案内板です

▲ 入口には千羽鶴が

▲ 階段を降りると・・・さらに下へと続いています

▲ 左側に見えるのが戦闘指揮所入口

▲ 戦闘指揮所内部 結構広い

▲ 反対側から見た戦闘指揮所

▲ 指揮所を通過して階段を上ると別の出入り口へ出ます



□ 特攻碑 ( 碑文 : 阿川弘之 )


出水基地より出撃した特攻隊員の英霊を鎮魂する石碑として昭和35年に建立され、碑には阿川弘之氏の小説
『 雲の墓標 』 の一節が刻まれています。『 雲の墓標 』は特攻で散華する学徒出陣兵の生きざまを描いた小説なのですが、なぜここに碑文として登場するのかはよくわかりません。時間があれば一度調べてみたいと思います。

同碑下段には出撃隊員名が刻まれておりますが、出水市のHPでは以下のように説明されています。

『 200人以上と推定される出水からの出撃隊員のうち、確実に判明した60余名だけの氏名が刻まれ、
不確実なほかの百数十名については、残念ながら刻まれておりません。
当時の出水基地は、空襲下の混乱の中、全国の基地から、入れかわり立ちかわり飛んできては出撃する
という状況だったからです。 』

 正面から見た特攻碑
  『 雲の墓標 』 からの碑文は以下の通りです










▲ 反対側(碑陰)の碑文
「書」 は一瞬 高木惣吉 元海軍少将かと思ってしまいましたが・・・そうではなく、高木秀吉という鹿児島県の郷土詩人の方だそうです。



□ 慰霊碑 『 海軍航空隊出水基地 陸攻隊銀河隊 出撃之地 』


特攻碑の右側に建つ石碑で、昭和19年10月に出水で開隊した「763空」攻撃405・攻撃406及び、昭和20年4月同基地に進出した松島空・豊橋空の陸攻部隊の英霊を鎮魂する慰霊碑です。

「763空」攻撃405攻撃406は当時の新鋭機「銀河」を装備した陸爆隊で、出水基地で半月間ほど錬成の後、昭和19年10月下旬クラーク基地へ進出し、翌20年1月に台湾へ撤退するまで、フィリピン決戦唯一の陸爆隊として特攻を含む作戦に従事しました。その後「762空」に編入され、3月以降南九州に展開します。出水基地に展開した攻撃406は、3月19・21日に九州沖の敵機動部隊に特攻攻撃を敢行、さらに沖縄戦が始まると菊水3号作戦に参加し、4月16・17両日「第7銀河隊」「第8銀河隊」が喜界島方面の米艦隊に向けて飛び立っていきました。

松島航空隊(宮城)、豊橋航空隊(愛知)はともに開戦後に開隊された一式陸攻・九六式陸攻の教育錬成部隊でしたが、昭和20年4月、沖縄戦勃発に伴い実践部隊として出水基地へ進出、出水部隊陸攻隊として沖縄方面へ夜間攻撃を繰り返しました。

▲ 同公園の慰霊碑はすべて「南」を向いています

  ▲ 反対側の碑文




□ 慰霊碑 『 鎮魂 殉国の英霊 』


特攻碑の左側に建つ石碑 『 鎮魂 殉国の英霊 』 には、攻撃405、攻撃406の英霊名がびっしりと・・・。
あまりに多すぎて正確な数は確認できませんでしたが、両隊あわせて約650名近くのお名前が刻まれておりました!




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


▲ 左:「出水海軍航空隊無名戦士墓」
  右:「 慰霊塔 櫓木山中に眠る十勇士の霊 」

▲ 特攻碑後方にあった「遺族献碑」

▲ 公園入口に残る「哨舎」(しょうしゃ)

▲ 戦後、出水近海の魚網にかかって引き揚げられた友軍機プロペラ



・・・・・・・・・  「特攻碑公園」はここまでです  ・・・・・・・・・





■ 掩体壕跡



「特攻碑公園」前の通りを南下すると県道373号に出ます。
ここを右折して西向きに10分ほど歩きますと、右側の畑の中にふたつの掩体壕を発見することができました。

一つは道沿いにあるため簡単に内部まで観察できましたが、もう一つは畑(私有地)のど真ん中に「島」のように孤立しておりまして、あいにく畑に人影は見当たらず・・・近寄って見るのは断念いたしました。

▲ 道沿いにあった掩体壕

▲ 爆撃によって開いた穴

▲ 案内板

▲ もう一つは畑の真ん中に・・・

「案内板」(平成14年記)の文言によると、掩体壕は3基残存しているとのことですが、あと1基は何処なのだろうか?




■ 滑走路の面影


「出水ゴルフクラブ」を横断北進し、のどかな風景を楽しみながら散策していると、一つだけ方向の異なる広い道路にぶつかりました。近くの工機会社の方に尋ねると、やはり旧滑走路または誘導路の名残りとのこと。

田畑が広がるこの辺り一帯は「東西南北」方向に道路が伸びているのですが、ここだけ妙な感じ?になっており、
通れば必ず気づきます。

左側(広い道)=斜めに走る旧滑走路の道  右側=南北に走る普通の道路




■ 特攻神社


「特攻碑公園」前の大通りを北に200mほど行きますと、右手に「特攻神社」の鳥居が見えてきます。

案内板には神社の由来などが以下の通りに示されておりました。

これを読めばわかる通り、ここは「史跡」ではなく「神社」なのですが、戦後45年を経て同じ地に建立された関係者のご尽力とその「由緒」を想えば、誠に深い意義を有していると言えましょう。

さて、境内で圧倒的な存在感を示すのは、南の空をにらむ特攻隊員立像「南方のかなた」です。大きいですね!
また、昭和19年8月 出水基地内に開隊した「出水第二海軍航空隊」の戦死者を鎮魂する石碑があり、その前には同隊の正門門柱が対で鎮座しています。

▲ 南空をにらむ巨大な特攻隊員の立像 『 南方のかなた 』

▲ 出水第二海軍航空隊の正門門柱

▲ 出水第二海軍航空隊「英霊之碑」



 まったくもって長々とした駄文となってしまいました。何卒ご容赦を (^^;
次回は「鹿児島報告」最終回、いよいよ 戦闘407・林隊長の戦没地と慰霊碑 をご紹介いたします。

鹿児島報告(その3) 戦闘407・林喜重隊長 慰霊碑訪問  2012/05/08

去る4月21日、阿久根市折口の林隊長慰霊碑にお参りさせていただきました。
隊長が戦死されたのは昭和20年4月21日ですので、この日は67回目の祥月命日ということになります。

今回は林隊長の慰霊碑訪問のために鹿児島へ飛んだのですが、実はこのことを決めたのは4月に入ってからでした。 昨年末、林隊長最後の戦いをテーマにしたTシャツを制作して以来、漠然と「いつかお参りに」と考えておりましたが、日々の生活に流されて時間だけが経過していきました。そんな4月の初め頃、林隊長の御親族の方からTシャツの件でお問い合わせをいただき、お電話でお話をさせていただく機会がありました。
林隊長は生前、「桜のように潔く散るんだ」といった意味のことを語られていたとのこと・・・。「 御命日にお参りに行こう 」 このとき決意いたしました。

午前9時過ぎ、肥薩おれんじ鉄道「折口」駅 に到着しました。
慰霊碑の場所は先人方のブログ情報などから大体掴んでおりまして、キーワードは3つ、 「石船神社」「テレビアンテナ塔」、そして「バックネット裏」です。 つまり、「石船神社」「テレビアンテナ塔」の近くにグラウンドがあり、その「バックネット裏」に慰霊碑が存在するということですね。 さっそく駅の陸橋から北西方向を望見しますと・・・
あったあった!遠くに「テレビアンテナ塔」らしきモノが見えます!

▲ 肥薩おれんじ鉄道「折口」駅

▲ 中央右寄り方向にアンテナ塔が見えます

▲ やっぱり・・・「無人駅」でした

折口駅前の道を西へ向かいます。( 駅前には東西の道1本しかありません )
のどかな風景を眺めながら小さな石橋を2つ渡り、さらに行きますと信号付交差点「折口」に出ます。 この交差点は三叉路なのですが、左前方にやや細い道が出ていますのでこちらへ進みます。アンテナ塔はもう目前に迫っています。 ただ、こんなところに野球ができるような「グラウンド」があるのでしょうか?

▲ 道は1本、のどかな風景です

▲ このような橋を2つ渡ります

▲ さらに進みますと

▲ 「折口三叉路」 左側に見える坂道を登ります


細い坂道をしばらく登りますと、意外にも、車が何台も停まっている開けた広場に出ました。
目の前には「テレビアンテ塔」、右手には・・・こじんまりした「グラウンド」があるではないですか!
そしてここに慰霊碑への案内板が立っていました。

▲ アンテナ塔は目の前です

▲ 慰霊碑の案内板を発見


グラウンドに出ますと、地元のお年寄りの方々が大勢でゲートボールに興じておられました。
バックネットはちょうど反対側に見えるのですが、後方には木々が生い茂り、それらしき雰囲気はまるでありません。 しかし、ちゃんとここにも案内板が出ていました。

▲ちょうど反対側にバックネットが

▲ 左側のフェンスに案内板がありました

ちょっとドキドキしながらバックネット裏へ回りますと・・・
突加として視界が開け、舗装された小径が目に入ってきました。その先には慰霊碑らしきものが見えています。

▲ きれいに手入れされた小径です

▲ 慰霊碑が見えてきました

着きました!
先人様方のネット情報のお蔭で結構楽に到達することができました。
到着時刻は朝の9時20分、「折口」駅から徒歩12〜3分といったところでしょうか。

道すがら、誰か先人がいらっしゃるか?などと考えておりましたが、私が訪ねた時に人影は無く、慰霊碑は静寂の中にたたずんでおりました。 が・・・やはりというべきか!すでに林隊長の慰霊碑には新しいお花とご供物がちゃんとお供えされておりました。 しかも周囲は掃き清められたようにキレイで、屋外にありがちなゴミのようなものは何一つ見えません。 やっぱり「仁の人」は違うなぁ

低いコンクリート塀で囲まれた四角いスペースの中央に林隊長の慰霊碑、それを真横から見守るように2つの石碑板が並んでいます。 石碑の経緯 につきましては、碇義郎さんが「最後の撃墜王」(光人社)内で述べておられますので、以下に引用いたしましょう。

『 警備団員たちによって収容された林大尉の遺体は、氏名を確認したあと、海岸の松林の中で引き上げられた機体とともに火葬に付され、翌日、駆けつけた隊員たちに遺骨が渡された。
後日談になるが、その場所に地元の人たちの手で石碑が建立された。残念なことに、このことは生き残った部下たちに知られないまま、石碑はその後、生い茂るやぶに覆われ、訪れる人もなかった。
それから約三十年後、折口浜の石碑の存在を知った戦闘四〇七飛行隊分隊長 高牟礼春男大尉(飛行予備学生十三期、熊本県植木町在住)ら元部下たちの手で慰霊祭が行われた。その後、高牟礼らの発案で碑の周辺を整備するとともに、四〇七飛行隊全員の慰霊碑もあらたにつくられた。』

また、林隊長の石碑が造られる以前、その場所には「故林隊長弔火葬之跡」と記された木の墓標が立っていました。『源田の剣』(ヘンリー境田・高木晃治 共著)274頁にその写真が掲載されおります。



■ 林隊長慰霊碑 『 故林少佐戦死之地 』

▲ 台座正面には詩文を刻んだ石板がつけられております。後から加えられたものかも知れません。

▲ 台座側面には「火葬之跡」という文字


▲ 台座正面の詩文
隊長の故郷・鎌倉のことも詠われています


■ 左側の碑 ・・・ 林隊長と戦闘407および清水俊信上飛曹(戦闘301)の英霊を鎮魂する碑銘です。
                343空の沿革と4月21日の戦闘についても銘記されておりました。
                ※ 林隊長、清水上飛曹の37回忌御命日、昭和57年4月21日に右側の碑
                  とともに建立されました。

▲ 画像クリックで碑文詳細を表示します
  ※ 旧字・略字等を正確に再現するため「画像」に変換しました。


■ 右側の碑 ・・・ 戦闘407飛行隊英霊、ご生存隊員ご氏名、および碑銘建立にご尽力された方々のお名前が
                刻まれた碑文です。整備科の方のお名前もみえます。

▲ クリックで碑文の拡大画像を表示します

大切なものを守るために命を落とされた林隊長と戦闘407の皆様、清水上飛曹・・・ありがとうございました。
3つの碑銘を眺め、「形」として残すことの大切さを深く実感させていただきました。
碑銘建立にご尽力された皆様には敬意を表さずにはおれません。



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帰り際 バックネットの方を見ますと、グラウンドの主はいつの間にかゲートボール軍団から少年サッカーチームに
代わっておりました。平和溢れるこの風景、林隊長もきっと笑顔で眺めていることでしょう




最後に、折口浜 へ降りて隊長機が墜落したと思われる方角を眺めました。

そうそう、折口浜といえば・・・
たまたま近所の商店(よろずやみたいな店)でお会いした ある「お婆ちゃん」からちょっと面白い話を聞かせていただきましたので以下に書いておきましょう。

■ 折口海岸は遠浅で、昭和30年代までは潮が引くと隊長機の一部が海面から顔を出し、浜からも確認できた。

■ 地元の子供たちは飛行機まで泳ぎ、機上?で一服の後、泳いで戻るという遊びに興じていた。

■ その後、機体引き揚げの話が持ち上がったが、予算が付かなかったのか、物理的に困難だったのか、結果的に作業は実施されなかったらしい。ただ地元の人の中には、「試みたが失敗した」と言う方もいる。詳しく知りたければ「南日本新聞」か「阿久根商工会議所」に聞きなさい。

■ 現在も機体は存在すると思うが、バラバラになり砂に深く埋まってる状態ではないか

■ 前阿久根市長の竹原さんはいい人だったが、根本的に狂っていた(・・・?!)

実は、前夜の天気予報は本日昼前から風雨で大荒れと伝えておりましたので、朝から不安だったのですが・・・
やや曇り気味ながら昼を過ぎても天は明るく、雨は一滴も落ちてきませんでした。これも隊長の仁徳のお蔭でしょうか?







★ 林隊長の慰霊碑へは肥薩おれんじ鉄道「折口」駅から徒歩15分ほどで簡単に行くことが出来ます。

うれしい話  2012/05/27

前回日記にて、「三四三空」戦闘四〇七初代飛行隊長、林喜重少佐の慰霊碑について書かせていただきましたが、
先週あるお客様から嬉しいmailをいただきました。

なんと私の日記をご参考にされ、慰霊碑にお参りに行かれたとのこと。
許可をいただきましたので、以下にその一部をご紹介させていただきます。


『 私も5月6日に同所に初めて参りました。
 あの手前グランドでは、ミニサッカーが行われており、子供たちの元気な声が・・・
 書かれておられましたように、お墓の周りはとても整然とし、
 生花がまだみずみずしいままで残っておりました。
 林大尉もあの場所は、子供らの声、平和の中での、皆の日常を喜ばれておられるかもなあ〜と思いつつ、
 頭を下げさせていただいたことでした。
 砂浜に降りて、30分程、墜落された海を眺めて降りました。
 友人に場所を説明する時に、長部様の写真・地図付ブログ記事は大変に重宝しそうです。
 鹿児島の遠方までいらしていただき、またブログ記事紹介、どうもありがとうございました。』


おぉ〜・・・私ごときのブログ記事でもお役に立っていたのですねぇ (´へ`; 感慨


やや手前味噌的(?)で気恥ずかしいのですが・・・

先月私がお参りさせていただいた時、「絶対にやろう」と心に決めたことが一つありました。
それが「 駅から慰霊碑までのわかり易いオリジナル地図 」の作成だったのです。
私自身が簡単に辿り着くことが出来たのは、まさに先人様方のブログ情報のお蔭でしたから、
感謝の意味も込めまして「それじゃぁ、次は自分が地図を作ろう」と思ったわけですね。

・・・ と、このような個人的経緯もありましたので、このお知らせをいただいただけで もう満足100%でございます。
わざわざご連絡をくださった鹿児島のお客様、本当にありがとうございました。


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さて、次回作品は97艦攻の「雷撃Tシャツ」なのですが、
実は魚雷発射直後における投下器の状態がよくわからず、デザイン段階で少々苦戦しております。

「魚雷を緊縛懸架している抱締索 ( だきしめさく )と呼ばれるワイヤー は、魚雷発射後、
機体側に残存するのか? はたまた魚雷投下と同時に落下廃棄されるのか?」

これが最大かつ唯一の問題なのですが・・・

幾つかの関連著作に見られる解釈と、たまたまネット上でご教授いただくこととなった元97艦攻搭乗員(!)の方よりいただいた情報とが大きく食い違う結果となってしまい、困惑しております。



▲ 「97艦攻」取扱説明書草案に添付されているという写真

九一式航空魚雷中央に見える3本のワイヤーの内、前2本が問題?の「抱締索(だきしめさく)」
今回の件で魚雷についてそれなりに勉強させていただきましたが、当時の超高額精密兵器=魚雷は、その構造からシステムまでまさに精緻を極めた技術の結晶であったことが少し理解できました。製造はもちろん、調整・取付にかかる手間と労力も半端ではなかったようです。


細かいところにこだわるのが「Osabetty's」唯一?の取り得とはいうものの、
もうこれ以上デザインに時間はかけられませんので、そろそろ決断しなければなりません。



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