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「343空」紫電改、鴛淵隊長機の胴体帯について 2011/05/02

ようやく紫電改モチーフの新作Tシャツをアップいたしました。

今回は「戦闘701」飛行隊長・鴛淵大尉機をメインモチーフとしておりますが、
実は隊長機を示す胴体の「斜め2本帯」に関して、結構悩んでおりました。

■ 悩み その1・・・3月19日の空戦時、鴛淵隊長機に「斜め2本帯」はあったのか?

これは誠に基本的な問題でありますが・・・実は、答えは「ノー」でほぼ間違いないようです。
343空で胴体帯が描かれたのは、昭和20年4月に松山から鹿屋へ進出する直前だったというのが定説で、
それ以前のマーキングについての情報はほとんどありません。

■ 悩み その2・・・それでは、「斜め2本帯」無しでデザインするのか?

3月19日の空戦時、鴛淵隊長機に胴体帯が描かれていなかったことはほぼ確実ですが・・・
無印ではやはり「絵」になりません。鴛淵隊長機であることを示す「目印」がデザイン的に必要なんですね。
かなり悩んだあげく、史実には反するのですが胴体帯は描くことに決めました。

■ 悩み その3・・・鴛淵隊長機の帯は何色で描くのが妥当なのか?

「戦闘301」菅野隊長機の黄色2本帯は非常に有名で、これは事実です。
「戦闘701」鴛淵隊長機、「戦闘407」林(喜重)隊長機の帯色について明確な根拠となる情報は無いようですが、
ネット上では鴛淵隊長機=赤色、林隊長機=白色の模型画像が結構見うけられます。

ハセガワ紫電改

 ▲ 赤帯2本の鴛淵隊長機「C-343-45」。スピナー先端が白く塗装されています。

そこで、“343空情報辞典”とも言える 『 源田の剣 』 (ヘンリー境田・高木晃治 共著、ネコパブリッシング)
の登場となるわけですが、やはりマーキングについて分析がなされておりました。以下はその概要です。

源田の剣● 戦闘701分隊長・山田良市大尉によれば、

  帯は胴体日の丸の前に斜めに描かれていて、隊長機は2本、
  分隊長機は1本で、これは3飛行隊に共通していた。
  飛行隊長・分隊長以外の搭乗員の飛行機に帯マークが
  記されることは無かった。
  戦闘301隊長・菅野大尉機の帯は「黄色」であった。
  戦闘701・戦闘407両隊の帯色はともに「白色」であった。

● 戦闘701生存者の何人かが、
  分隊長マークは「白色」だったと記憶している。

● 戦闘301分隊長・松村正二大尉によれば、
  菅野隊長機の帯は間違いなく「黄色」だったが、
  分隊長だった自分の飛行機の帯色は思い出せない。

● ヘンリー境田氏の見解によれば、
  プラモデルの箱絵などに、鴛淵隊長の「C-343-45」機の2本帯が「赤色」で描かれたものがあったが、
  赤色はどの飛行隊にも使われておらず、これは明らかな間違いと断定できる。

● 鴛淵隊長機、林隊長機ともに写真は残っていない。

● 昭和20年7月24日の戦闘で鴛淵機を撃墜したと見なされているVF-49(空母 サン・ハシント)の
  ジャック・A・ギブソン中尉は、帰艦後、胴体に白帯を1本視認したと報告し、同飛行隊の戦闘報告に
  記載されている。

「源田の剣」著者であるヘンリー境田氏、高木晃治氏ほど343空について調査を行った人はいないと思われますが、
「帯」については 『 はっきりしたことを言うのは難しい 』 と結論的に述べておられます。

ここで余談を一つ ・・・
大日本絵画 『 日本海軍航空隊のエース 1937-1945 』 のカラー塗装紹介ページに、
「赤帯2本」で描かれた鴛淵隊長機が掲載されています。
この本は1998年にアメリカで出版された『 Imperial Japanese Navy Aces 1937-45 』を和訳したものですが、
著者はヘンリー境田さんなんですね。カラー塗装図はノータッチだったのかな?
因みに同書の日本初版は2000年1月。『源田の剣』(原題:Genda's Blade)は米日とも2003年8月初版です。


■ 結論・・・「赤帯」が間違いである可能性が高い以上、描くなら「白帯」が最も妥当?
         (結果的に白色しか選択肢がない)

ということで、誠に勝手かつ安直な判断ではありますが、
今回デザインでは鴛淵隊長機の胴体帯を「白色」で描いております。
 


 
この経緯を
お客様の1人で海軍兵学校最後の卒業生(昭和20年4月入校・78期)でもあるSさんにお話したところ、
全くの想像であるとことわられたうえで、以下のようなご意見をいただきました。
※ Sさんは海兵の先輩・鴛淵さん(68期)を大変尊敬されており、何度かお墓参りにも行かれておられます。

飛行隊が3つある以上、識別カラーも3色あったと考えるのが妥当であり、
菅野さんの戦闘301隊長機だけが黄色帯で他の2隊が同じ白色だったとは考えにくい。
赤色に塗る前の“下塗り”として一時的に白帯を描いていた可能性もあるのではないか?

Sさんは戦後、海兵卒業生の集まりで元343空司令・源田實さんに何度か会われています。
「その時源田さんに聞けば、何か判ったかもしれませんね」
能天気な私の質問に、Sさんはこう話されました。

大先輩の源田さんに対し、まぁ変な質問をする勇気はとてもありませんでしたし、
そのような質問をする「理由」を源田さんにどう説明すればよいのでしょうか?
「プラモデルが好きなのでお尋ねいたしますが・・・」なんて聞けないでしょ?
でも、あの時聞いとけば・・・という気持ちはありますね。

因みにSさんは筋金入りの現役モデラーでいらっしゃいます。


私の個人的な想像としましては、菅野さんの“目立ちたがり屋的性格”?を考慮した場合、
菅野隊だけが「黄色」で他の2隊が「白色」だったという状況はあり得たのではないかと思います。
つまり、当初は全隊「白色」の予定だったのだが、個性を主張したい菅野さんは独断で自分の隊=黄色と決めて
サッサと塗ってしまった〜という、これはもう完全な妄想ですね。
さらにこの流れで拡大想像すれば、もっと面白いことも思い浮かびます。


黄色を使っていたのは菅野さん1人だけだったのでは?(笑)

紫電改菅野機

菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その3:海軍兵学校時代全般]  2011/05/06

343空・戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。

第70期海軍兵学校生徒 時代
( 昭和13年12月1日 入校 〜 昭和16年11月15日 卒業 / 教育期間2年11カ月 ) 

■ 戦雲急を告げる中、大東亜戦争直前に卒業の70期

第70期の入校式は通常より約4カ月早められ、昭和13年12月1日に行われました。
その後日本を取り巻く世界情勢は急速に変貌、日米関係悪化とともに新たな戦争危機が迫る中、
第70期は卒業時期もまた繰り上げられ、大東亜戦争勃発直前の昭和16年11月15日に卒業を迎えます。
例年行われていた「遠洋航海」もこの年からは当然中止となり、卒業した434名の少尉候補生たちはただちに各配属艦へと送り込まれました。高速戦艦「比叡」「霧島」に乗り組んだ37名の候補生たちは、何もわからぬまま真珠湾作戦に「参加」しています。

卒業即「実戦投入」という厳しい状況に直面した第70期ですが、航空志望であった菅野さんは戦艦「扶桑」乗り組みを経て、第38期飛行学生として霞ケ浦へ向かうことになります。

海兵67〜73期

▲ 戦没率が最も高いのは鴛淵さんの68期と菅野さんの70期で66%に登ります。それにしても悲惨です(涙)

■ 「海軍兵学校」の生活とは

将来の海軍を担う将校を育成する「海軍兵学校」では手厚くかつ厳しい教育が行われていましたが、その真髄は生徒による自主管理生活にありました。4学年まである兵学校では、1学年は「4号生徒」2学年「3号生徒」3学年「2号生徒」、そして最終4学年は「1号生徒」と呼ばれますが、各学年の立場は次の言葉によく現れています。

『鬼の1号、むっつり2号、おふくろ3号、がき4号』

最上級1号は後輩全体を引き締めながら特に4号を「鬼」の如くしごく、2号は微妙な立場の「むっつり」中堅、、3号は「おふくろ」のように「がき」4号のほぼ全ての面倒をみる〜という感じだそうで、うまく言ったものです。

学校生活の行動単位は各年度生徒が均等に配分編成された「分隊」で、「分隊」は訓練・競技・自習室・寝食を始めほぼ全ての生活を共にしながら、上下関係・連帯責任感覚などを身につけていきました。
最下級の4号には学業・訓練の他に多様な「分隊隊務」が課せられ、海兵生活に慣れない中、先輩たちに怒鳴られながら時間に追いまわされる日々が続きます。

鬼の1号による下級生(特に4号)への「修正」(海軍では主に鉄拳制裁)は日常茶飯事でしたが、期によって大きな違いがあったようです。新入生時に激しく修正を受けた期は最上級の1号になると猛威を振るう傾向にあり、結果3年ごとに「鉄拳クラス」が現れるという現象が起きていました。
 
菅野さんの70期に関連して言えば、入校時の1号生徒は鉄拳制裁禁止を決めていたジェントルマンの67期で、
その下の68期が「鉄拳クラス」でした。従って70期は比較的安泰であったわけですが・・・
67期の繰り上げ卒業によって現れた4か月ほどの“4号不在”時期、68期の猛威にさらされることになります。
このことは菅野さんにも多少影響したようで、1号時代の彼は盛んに殴っていたとも伝えられています。
※68期「鉄拳クラス」(豊田穣氏によれば「土方クラス」)には後に343空で先任隊長となる鴛淵さんがいましたが、
ほとんど殴ることは無く、人格者として早くも独特の存在感を示していたそうです。
 

海軍兵学校生徒館

 ▲ 平成改装後の旧海軍兵学校生徒館。中央の頂は「古鷹山」
   【 左 】 第1生徒館 (現:海上自衛隊第1術科学校 学生館)
   【 右 】 第2生徒館 通称「赤煉瓦」 (現:海上自衛隊幹部候補生学校 庁舎)

  菅野生徒は4〜3号時代は当時新築の第1生徒館、
  最終12部48分隊となった2〜1号時代は右側の「赤煉瓦」で起居していました。
    ■ 海上自衛隊第1術科学校  ■ 海上自衛隊幹部候補生学校

■ 兵学校時代の菅野さん〜飛行機乗りの天性を発揮、航空志望へ

「筋の通らない事は絶対認めない」菅野さんの性格上、上級生徒との激突?が懸念されるわけですが、トラブル的な事は何も起こしていないようです。問題を起こさなかった最も大きな理由は、海兵鉄拳の「質」にあったようです。
つまり、私心や恨み、嫌がらせ的要素が皆無の制裁であり、カラッとした性格の菅野さんにとっては「怒り」に直結しなかったのではないでしょうか。さらに個人的推測ですが、「真剣に反抗しても意味が無い」といった合理的な「達観思考」をしていたのではないかという気もします。ある意味「猫を被っていた」のかも?

同期生などの多くのエピソードによれば、菅野さんの明朗快活な性格は全く健在で、彼らしく元気に海兵生活をおくっています。ハンモックナンバー(成績順)を気にして休日も猛勉強する者が少なくない中、菅野さんは意に介さず、休日はいつも集合時間ギリギリまで帰ってこなかったらしいです。また、体は小さかったものの運動神経が良かった菅野さんは剣道や相撲競技で活躍しており、派手な速攻を中心に「乾坤一擲」的戦法を得意としていました。さらに目がよく利いたため、野外演習では例年斥候部署で活躍しています。
すばしっこくて目が効く」まさに飛行機乗りの適性を備えていたと言えるでしょう。

菅野さんにとって決定的な場面が訪れたのは、4号時の昭和14年3月29・30日に行われた「飛行作業見学」です。
呉航空隊などから飛来した艦爆や戦闘機が兵学校上空でデモンストレーション空戦訓練を繰り広げ、生徒はただ地上から見学するというものでしたが、この時「航空志望」の気持が芽生えたのではないでしょうか。元来「カッコイイ」事好きな性格の菅野さんとって衝撃的だったことは楽に想像できます。その後岩国航空隊での操縦実習などを経て、卒業2か月前に行われた志望調査で正式に「航空志望」を申請しています。

※文学好きな菅野さんは高い確率で日記を付けていたのは?と思われますが、
その存在は確認されていないようです(残念)

次回からは海軍兵学校における菅野さんの逸話などをご紹介していきます。

菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その4:海軍兵学校4号〜3号生徒時代の逸話]  2011/05/08

343空・戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。

以下は『最後の撃墜王』の中で紹介されている兵学校時代の菅野さんのエピソードです。
個人的に印象にのこったものを出来る限り時系列に並べ変え、解説と私なりの感想を加えました。
今回は「海軍兵学校」4号〜3号生徒時代です。※『 』囲みは本書からの引用

■ 4号生徒時代 ( 昭和13年12月1日〜昭和14年7月26日 ) 菅野:2部14分隊

■ 入校日、分隊別に行われた恒例の「出身校姓名申告」で大いに絞られる。(昭和13年12月1日)

新入4号の“娑婆っ気を抜く”目的で行われる最初の行事がこの「出身校姓名申告」であり、
満を持していた「鬼」の1号による最初の“しごき”である。

『 ミヤギケンリツ カクダチューガッコウシュッスン カンノナオ!』

菅野の“角田訛り”に上級生から怒号が飛び交い、床を踏み鳴らす音が鳴り響く!
「聞こえん!」「日本語でやれ!」
必死になって何度やり直してもダメ出しを食らう。
4号全員が例外無く徹底的にしごかれるのだが、菅野はかなり「やられた」ほうであったらしい。

兵学校第66期 山田泰雄氏が作詞した「兵学校の三勇士」という軍歌(替え歌)がありますが、
その2番にこの「出身校姓名申告」の様が出てきます。お国訛りに苦しめられる?のも伝統だったようです。

その後就寝前、これまた兵学校名物の一つであった「就寝起床動作練習」が行われたのだが、
小柄で敏捷な菅野は問題なくこなしたと思われる。

■ 同期先任と対立

14分隊4号生徒の「先任」に指名された掘 吉行氏(39期飛行学生、昭和19年11月レイテ湾にて戦死)の
隊務振り分けが気に入らず、しょっちゅう口喧嘩をしていたらしい。

菅野 『 オレにばっかりいやな役をやらせやがって 』
掘  『 そんなことはない。とにかく決めたんだからやれ 』

上級生に文句は言えないが、同期には遠慮無かったようだ。

■ 居眠り常習犯

授業、訓練、隊務・・・心身ともに休まる時の無い4号生徒の自習室での居眠りは、ある程度容認されていたようであるが、それでも菅野はよく注意されていたらしい。背の低かった彼は教室でも最前列に座っていたため、座学時に睡眠を取れないハンディ?もあったようだ。

海兵_自習室

自習室の様子
前から4号、3号、2号、1号の順に座るため、
後ろから監視?される4号は気が抜けない。

■ 4号生徒を震撼させた「褌(ふんどし)事件」 (昭和13年12月26日)

入浴後に放置されていたという3本の褌(ふんどし)をめぐり、1号生徒が4号生徒全員を激しく叱責。

『 3本の褌がある以上3人の男がいるはずだ 』

あわや全員連帯責任で鉄拳制裁かという時に、4人の4号が進み出た。
3本の褌に4人の申告者!
この奇妙な展開にやや気を良くした1号?は怒りを収め、事なきを得る。(ただし個人的制裁はあった)
この時の菅野の行動は伝えられていないが、70期の仲間内では「褌事件」として深く記憶されているという。

■ 海兵恒例「厳冬訓練」 (昭和14年1月7日〜24日)

海兵訓練の年間計画は、まずに相撲などで足腰を鍛え、に水泳で柔軟性と肺を強化、に駆け足登山で鍛え上げたのち、もっとも過酷な「厳冬訓練」と早春の武道週間・短艇週間で仕上げるというものだった。
しかし、70期の入学は12月だったため、いきなり“もっとも過酷な”「厳冬訓練」に直面することとなる。

この時期は起床が30分繰り上がり(5時半起床)、短艇、柔・剣道、銃剣術などの早朝訓練が行われるのだが、基礎体力の無い4号にはやはり無理があったようで、風邪や凍傷などで体調を崩すものが続出し、なんと死亡者も1名出している。

菅野も一時風邪をこじらせて校内病室送りとなり、相当参っていたのでは・・・と思いきや、
明るさは相変わらずだったようだ。
この時、菅野と校内病室で一緒だった同期生徒・武藤敏雄氏(伊号第三潜水艦乗り組み)の回想。

『 風邪をこじらせた私は、訓練終了とともに校内病室に入室を命ぜられ、ガックリして独りもの想いにふけっていたとき、1日おくれて何かニコニコとして、さわやかな感じの患者が隣のベッドにやって来ました。・・・あとは風邪もどこへやら、ペチャクチャしゃべりまくりました。』

「厳冬訓練」締めくくりの「武道競技」では剣道でかなり勝ち抜いたらしい。
体ごと飛び込むように踏み込んで一気に技を決めるのが菅野の戦法で、得意技は「胴」であったという。
同期生徒は菅野の剣道についてこう語っている。

『 ハデというか思い切りがいいというか、スカッとした決め技だった。』

■ 同期生徒が回想する、4号時代の菅野

『 菅野直、若き海軍戦闘機隊のエース、最後の撃墜王などと読んだり聞いたりして久しい。
しかし、ざっくばらんに言わしてもらえば、私にそのイメージはピンとこない。
・・・色白で細身、いささか茶目っ気のある男だったという印象を持っている。
白晰紅顔の美少年といったところだろう。・・・まさか撃墜王になろうとは夢にも思わなかった 』

『 1号のときはかなり彼の個性がよく出て来たように思うが、
後年のあのがむしゃらな菅野君とはかなりかけ離れていた。・・・彼の印象を一口でいうと牛若丸。
やさ男で小柄だったし、それでいてすばしこく戦争にもつよかった・・・
器械体操が抜群にうまく、相撲も強かった 』

型にはまった海兵教育の中で、在校中に突出した個性を発揮する者は非常に少ない。
菅野は随所に個性を発揮していたようではあるが、卒業後の活躍を予感していた者は皆無だったようだ。

■ 「飛行作業見学」 (昭和14年3月29・30日)

呉・大分の両航空隊の艦爆や戦闘機が兵学校上空で模擬空戦デモンストレーションを繰り広げ、
生徒はこれを地上から見学した。カッコイイこと好きの菅野の心が躍ったことはまず間違いない。

『 おそらく菅野なんかはすごく感激しただろう 』 とは、同期生徒の推測である。

■ 相撲稽古で本領発揮? (昭和14年6月)

剣道同様、体の大きな相手に対しては素早く懐に飛び込み、足を取って倒すという戦法で活躍。
カッコ良く勝つことが好きだった一方、“勝つためにはなりふり構わず”といった負けん気の強さも見せている。

■ 酷暑日課の水泳訓練 (昭和14年7月4日〜9月2日)

夏期休暇をはさんだ約2か月間の訓練はほとんどが水泳にあてられた。
中学時代、阿武隈川の濁流?で鍛えた菅野にとっては楽しい季節であったろう。

水泳が苦手だったある同期性は、その頃の菅野をこのように語る。

『 泳ぎの上手なものにとっては、午前のみ授業、午後は半分が水泳の訓練、
あとの半分は午睡や自由時間という兵学校の夏の生活は快適だったのだろう。
東北なまりで元気にしゃべる彼(菅野)をうらやましく思った 』

■ 1号生徒(67期)卒業 (昭和14年7月25日)

■ 70期、2学年(3号生徒)へ進級 (7月26日)

■ 3号生徒時代(昭和14年7月26日 〜 昭和15年8月6日)

■ 「鉄拳クラス」68期の徹底修正を受け、硬派タイプに? (昭和14年8月〜11月)

3号生徒となった70期だが、新入4号生徒(71期)は12月まで入ってこない。
この間、3号でありながら相変わらず最下級であった70期に対し、
新1号となった「鉄拳クラス」68期が大いに猛威をふるったようだ。
こうして菅野の70期はジェントルマン67期と鉄拳68期という、「軟硬両方」の指導を受けることになり、
そのせいかこの期には両タイプの人柄が出たらしい。
菅野はどちらかと言えば鉄拳クラスの影響を強く受けたようで、1号の時は下級生を盛んに殴っていたという。

■ 鴛淵生徒(68期)との接点は?

菅野と鴛淵は在校中、同部編成になったことはなかったようであるが、
入学初年度、菅野は2部14分隊、鴛淵は4部16分隊であり、
これは自習室が2つ置いた隣り合わせであったことを示している。
従って、菅野は鴛淵の存在を間違いなく知っていたはずだが、どのような印象をもっていたかは不明である。

海兵分隊

この頃、鴛淵は早くも人格者としての存在感を醸し出していたようで、
菅野の同期生の多くが2期先輩・鴛淵の印象を以下の様に語っている。

『 68期の中には鴛淵(孝)さんのようにほとんど殴らない人もいた。(中略)
スラッとしたジェントルマンだったことを憶えている 』

『 鴛淵さんは殴らずに身をもって範をたれた。(中略)
海軍士官はジェントルマンであれというイギリス海軍のよき伝統を受け継いでいたように思う 』

『すこしも威張ることなく、ほとんど殴らなかったのでは 』

■ 初めての帰郷「夏期休暇」 (昭和14年8月1日〜21日)

名古屋在住の姉・かほるさんを訪ね2泊した後、角田へ帰郷。
友人たちとの再会で大忙しだったようだが、ちょっと近所に出る時でもわざわざ海兵制服に着替え、
短剣を下げて出掛けていたらしく、いかにも“カッコいいこと好き”な菅野らしい。

海兵_制服

◀ 兵学校生徒の短ジャケットと短剣姿は
当時の若者の憧れの的であったらしい。

友人や兄たちと海岸で1週間ほどのキャンプを計画するが、
まだ小学生で女の子という理由で両親から参加を許されなかった妹・和子(敬称略)は大泣き!
そんな彼女を菅野は独断でキャンプに連れていき、水泳を教えている。
真っ黒に日焼けして帰ってきた和子は周囲から
「女の子のくせに黒ん坊みたいでみっともない」
とからかわれて泣いていたそうだが、慰めたのはやっぱり菅野だった。
家族想いの菅野だが、自分とよく似た「勝気さ」を持つ和子には特に気をかけていたようだ。

■ すぐれた索敵能力を発揮

広島県原村(現在の西条町あたり)で例年行われる野外演習の際、菅野はその視力を買われて
夜間斥候」に選ばれることが多かった。
単に目が良いだけではなく、敵を早く発見する能力にも優れていたようで、戦闘機乗りとして大きな素質であろう。

海兵_原村演習◀ 「原村演習」
例年秋に実施された野外陸戦演習

■ 分隊編成替え (昭和14年11月18日) 菅野:5部・17分隊

12月の新入生入学に備えた分隊編成替えにより菅野は5部・17分隊となるが、これには理由があった。
多くの生徒が英語を選ぶ中、菅野はフランス語専修を希望していたためで、
学科の運営上少数派のフランス語専修者は第5部に集められたというわけである。
しかし、なんでまたフランス語なのだろうか。中学時代のフランス文学好きが影響していたのか?

■ 同分隊同期が回想する、3号時代の菅野

『 ものすごくはにかみ屋だった。顔もどちらかといえば女性的で、何でこの男が撃墜王かと思えるくらい。
からだも小さく、そんなにガッチリしたほうではなかったが、すごくすばしこかった 』

『 剣道が強く、・・・とうてい歯が立たず、口惜しい思いをした 』

■ 71期生徒入校 (昭和14年12月1日)

待望の下級生が入学し、名実共に3号生徒となる。
3号生徒は4号生徒を丁寧に指導する責任があるのだが、雑多膨大な隊務から解放された喜びは大きく、
もともと面倒見の良い菅野にとっては結構楽しかったのではないだろうか。
また今まで70期を殴りまくっていた「鉄拳クラス」68期も、新入生の前では殴らなくなったという。

■ 「鉄拳クラス」68期卒業、3学年(2号生徒)へ進級 (昭和15年8月7日)

◎ 次回は2号〜1号生徒時代、海軍兵学校卒業までの菅野さんの逸話です。

菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その5:海軍兵学校2号〜1号生徒時代の逸話] 2011/05/11

菅野たち70期が江田島で2〜1号生徒時代を過ごしていた昭和15年夏〜16年秋の間、
日本を取り巻く国際情勢は急速に悪化し、対米英戦へと転がり落ちていくことになります。

昭和15年初頭、「日米通商航海条約」の失効など、中国を巡る日米関係は悪化の一途をたどっていました。
国難打開に軍・官の期待を背負って成立した「第2次近衛内閣」は「大東亜新秩序建設」を掲げ、日中戦争収拾と対米関係修復に乗り出しますが、援蒋ルート遮断のため9月22日に開始された「北部仏印進駐」と、それに続く「日独伊三国同盟」締結(9月27日)によって米国の対日敵視は決定的となり、屑鉄・鉄鋼の対日禁輸が決定されます。
翌16年4月、「日ソ中立条約」締結で“時の人”となった松岡外相の壮大な外交構想(日独伊+ソ連の4国で米国を牽制)も所詮はドイツ頼みの他力本願戦略に過ぎず、その甘い見通しは6月の「独ソ開戦」により吹き飛んでしまいます。
この頃すでに米国は対日戦を期した政策にシフトしていたと思われ、7月28日の「南部仏印進駐」開始は米国にさらなる制裁のキッカケを与えることとなり、米国は石油禁輸を決定。いわゆる「ABCD包囲網」が形成されるに至り、日本の指導者たちは、自衛のための対米英戦しか道は残されていない〜という判断を下すことになります。

日米関係
ルーズベルト   蒋介石     宋慶齢     スターリン    毛沢東     松岡洋右    近衛文麿

日中戦争泥沼化に始まったこの流れは、日本外交および国策決定の稚拙さを体現するものですが、一方では、ソ連と深く連動して日本を中国大陸の消耗戦に引きずり込んだ中国国民党(蒋介石)・中国共産党(毛沢東)のしたたかな動きと、米国の冷徹な戦略に振り回された(してやられた)という見方もできるのではないでしょうか。

今回は3学年(2号生徒)、4学年(1号生徒)時代です。

以下は『最後の撃墜王』の中で紹介されている兵学校時代の菅野さんのエピソードです。
印象にのこったものを出来る限り時系列に並べ変え、解説と私なりの感想を加えました。
※『 』囲みは本書からの引用
 

□ 2号生徒時代 (昭和15年8月〜16年5月)

■ 夏期休暇(昭和15年8月)

後輩や近所の子供たちを相手に、阿武隈川で水泳指導に精を出す。
弱いものをかばう優しさや面倒見の良さは相変わらずで、皆が「直さん」と慕っていた。

■ 「日独伊三国条約」締結の詔書奉読式 (昭和15年9月30日)

『 9月30日、兵学校では日独伊三国条約締結の詔書奉読式が行われ、
吉田善吾海軍大臣の訓示が伝達された 』


  ▲ 吉田海軍大臣
吉田海軍大臣は9月3日海軍病院へ緊急入院し、5日に辞任。
後を継いだ及川大将が三国同盟に同意しています。
一般に、吉田は最後まで三国同盟に反対し、陸軍との軋轢による心労で倒れたと言われておりますが、真相は不明。
この時期、6月のフランス降伏を受け、米国では「第3次ビンソン法案」及び「スターク案」が成立しており、米海軍の大増強が現実のものとなります。すなわち、同年7月〜9月にかけて正規空母(エセックス級)11隻、軽空母(インディペンデンス級)9隻が発注されたわけですが、海軍大臣として米海軍大拡張への対応策に苦悩したことが吉田を病院送りにした主要因だったのではないでしょうか?
なお、吉田の病気は一般に「神経衰弱」などと言われますが、
「自殺未遂」の可能性も取り沙汰されています。

兵学校生徒に政治的教育はなされませんが、日中戦争長期化、日米関係悪化、そして欧州戦線の推移など、激動する世界情勢に生徒たちが興味を持っていたことは明白で、図書館や休日の倶楽部で新聞・雑誌等を通じてある程度の情報は入手していたはずです。
菅野はヒトラーをどう見ていたか?非常に興味深いのですが、碇義朗氏は以下の様に記しています。

『 菅野がこの日の行事をどう受けとめたかは知る由もないが、おそらくシラケた気分だったのではないか。
このときからおよそ2年前の中学時代の日記に、菅野はフランスの英雄ナポレオンについて
「もののあわれを知らない唯物論者だから嫌い」と書いており、日独伊三国同盟の実質的なリーダーである
ドイツ総統のヒトラーもこの点で彼のテイストには合わないはずだし、形式的で内容の空疎な大臣訓示なるものも菅野の心を打ちはしないからだ 』

■ 分隊編成替え (昭和15年11月)菅野:12部・48分隊(赤レンガ生徒館へ移動)

生徒採用数大幅増への対応で、12個教班(部)は変わらずだが1部の編成が3分隊から4分隊となり、
総分隊数は36分隊から48分隊へと増加した。
菅野は最終の12部・48分隊となり、卒業まで同分隊で過ごすこととなる。

■ 72期生徒入校 (昭和15年12月1日)

兵学校では各学年をこう呼んでいた 〜
「鬼の1号、むっつり2号、おふくろ3号、がき4号」
つまり、「がき」の4号の世話をするのは「おふくろ」3号の役割で、「鬼」の1号は全てに睨みを効かせながら特に「がき」4号をしごく。2号はいわゆる「中堅」で比較的気楽な立場であり、これが「むっつり2号」の所以であった。

72期の入学で4号の指導から解放された70期は、1号からの制裁も少なくなった。
2号から1号にかけて、菅野は徐々に本来の茶目っ気を発揮し始める。

■ 48分隊の「3人組」

菅野の48分隊には同期が9人いたが、津屋寛氏、渋谷勝哉氏と特に仲がよかったようである。

同分隊同期のひとりは次のように回想する。

『(同分隊は)総じて言えばおとなしい人間が集まっていただけに、
菅野(チョク)津屋寛(ツヤカン)渋谷勝哉(シブカツ)の小柄な3人組の活発さが目立った。
子供のような人なつっこい笑顔が特徴だった菅野は、才気煥発な津屋寛とともに機敏で運動神経が発達し、
この2人はすでに兵学校時代からパイロットの適性を備えていた。・・・
この3人は仲がよく、よくからかい合ったりしていた。東北弁で菅野が悪口を言うと、津屋寛や渋谷がやり返すが、菅野のほうが口が達者で2人束になってもかなわない。すると見ていておかしいくらい2人はムキになったが、この3人のおかげでわれわれの間には笑いが絶えなかった。
1号になってから、他分隊の3号を盛んに殴っていたのもこの3人だった 』

■ 「航空派遣教育 / 第1回」初めて飛行機操縦を体験 (昭和16年2月 於:岩国航空隊)

1週間に渡る飛行訓練で最終的に「単独飛行」を許された者は各分隊2名程度だったそうだが、
1週間で単独とは何という早さ!全く驚きである。
菅野がこの中に入っていたかは不明であるが、多分ダメだったのでは?
しかし、菅野はこの時、航空志望を明確に決意したに違いない。

■ 69期の卒業繰り上げ決定 (昭和16年2月)

本来7月だった69期の卒業だが、日米関係緊迫化にともなって4カ月早まり、3月25日と決定される。
70期の4学年進級は約2カ月後の5月30日となったが、これは69期の急な卒業で70期の学科進度が
追いつかなかったことによる。

■ 69期繰り上げ卒業 (昭和16年3月25日)

■ 草鹿 任一(くさか じんいち)中将、校長着任 (昭和16年4月12日)

中将の着任訓示。
『(兵学校教育の目的は)戦に強い軍人をつくり上げることにある』
『単に強いだけではいけない。それにはまず正しい心を養うことが第一である』


▲ 校長時代の草鹿中将

 
草鹿中将は今までの校長とは違い生徒との触れ合いを心掛け、
訓練にもよく顔を出した。そのため、生徒からは“任(じん)ちゃん”と呼ばれて親しまれたらしい。

※草鹿中将は大東亜戦争勃発後、「第11航空艦隊司令長官 兼 南東方面艦隊司令長官」としてラバウルに赴任。終戦までラバウルで指揮しています。

□ 1号生徒時代 (昭和16年5月30日〜11月15日)

■ 70期、4学年(1号)へ進級 (昭和16年5月30日)

最上級となった70期だが、肝心の4号生徒となる73期は12月まで入ってこない為、
4号生徒不在の変則状態がしばらく続くことになる。

■ 乗艦実習 (昭和16年6月9日より1週間) 軽巡「北上」

■ 潜水艦実習 (昭和16年6月17日)

■ 「航空第1次身体検査」 (昭和16年7月18日)

■ 「航空派遣教育 / 第2回 」 様々な機上作業を体験 (昭和16年7月21日〜25日、於:岩国航空隊)

1人でも多くの学生を航空科に引っ張るために行われた、ある意味「サービス的」な体験訓練である。
前回の操縦作業に続き、今回は索敵・偏流測定・射撃・雷爆撃などの機上作業を体験し、
菅野の航空志望はますます強くなったに違いない。

90式2号機上作業練習機
 ▲ 菅野たちが訓練に使用した 三菱「90式2号機上作業練習機」

■ 70期の繰り上げ卒業決定 (昭和16年7月31日)

この日の「内示」により70期の卒業は11月15日と決定される。
ほぼ予想されていた事態で生徒たちに動揺は無く、むしろ「いよいよやるぞ!」という気分であったようだ。

一方、73期の入学予定は12月で変更無く、鍛えるべき4号生徒を迎える前に卒業することとなった70期は、
73期を「幻の4号」と呼んだ。
後に飛行学校などで偶然顔を合わせた時、ここぞとばかりに「修正」を加えた者もいたようだ。

同期生徒の回想
『 このため73期が飛行学生で霞ケ浦航空隊にやって来たとき、幻の4号を鍛えてやるといって
教官になっていた関(行男)や脇(延清)がだいぶ彼らをやったらしい 』

■ 最後の夏期休暇 (10日間)

■ 「弥山(みせん)登山係」として分隊を指揮

宮島の主峰「弥山」(海抜530m)を分隊別競争で駈け登る「弥山登山」は海兵名物の一つであり、各分隊とも2か月ほど前から訓練を重ねてこれに備える。48分隊「弥山係」だった菅野は11月の本番に向けて分隊を指揮し、兵学校裏の「古鷹山」で休日返上の猛訓練を繰り返していたようである。

■ 「航空第2次身体検査」〜 航空志望を正式申請 (昭和16年9月13日 於:岩国航空隊)

肺活量、脈拍、血圧、視力、聴力、立体視覚のほか、台に乗って回される平衡感覚?検査なども行われる。
検査終了後に航空志望調査が行われたが、採用してもらおうと必死の生徒たちの中には
超熱望」「白熱的熱望」「太平洋海戦的熱望」などと書き込んだ者がいたという。

ここで菅野は何と書いたか?文才溢れる彼のことだから、かなり個性的な文言を書いたことは想像できるのだが、今となっては知る術は無い。

■ 艦隊実習 (昭和16年10月5日〜)

■ 原村野外演習 (昭和16年10月27日〜11月1日)

広島県原村の演習場で最後の陸戦訓練を行う。
最上級の菅野は斥候長として下級生を指揮している。

■ 最後の分隊別競技「弥山(みせん)登山」 (昭和16年11月5日)

「弥山係」として分隊を鍛えてきた菅野は相当張り切ったに違いない(競技結果は記載なし)

43分隊3号生徒の回想
『 弥山登山がそれほど苦痛なくやれたのは、菅野さんに鍛えてもらったおかげ 』

海兵_弥山MAP
 ▲ 現在の「宮島・弥山マップ」 ※「宮島松大汽船」様サイトより転載
兵学校生徒たちは宮島桟橋に上陸後、「もみじ歩道」(紅葉谷公園)あたりに整列し、
時間をずらして分隊ごとにスタート。山頂までの到達時間で順位を競ったと思われます。
紅葉谷公園の茶屋「もみじ荘」には「海軍兵学校御用達」の古い木看板が残っています。

※この日、御前会議で対米交渉最終案が決定され、軍令部は連合艦隊に対し作戦準備実施を命じる
大海指第一号」を発令しているのだが、もちろん兵学校生徒たちは知る由もない。

■ 70期生徒卒業 (昭和16年11月15日)

天皇陛下名代の高松宮殿下臨席の元、第70期の卒業式が行われる。
恩賜の短剣”を授与された成績優秀者6人の内、最優秀(クラスヘッド)は平柳育郎生徒であった。

菅野の成績は如何に?と考えるが・・・
1号時、菅野は48分隊であったが、「分隊伍長」(室長)「伍長補」(副室長)には任命されておらず、
430余名の中で100位以内には入っていなかった可能性が高い。出世に無関心?な菅野はハンモックナンバーを気にしていなかったようであるし、ガリ勉はやらなかったようだが、それでも結構上位にはいたのではないか?
 

勝利の基礎_DVD
70期の卒業式や学校生活の様子は、
国策映画『勝利の基礎』(昭和17年)に収録されていますが、
残念ながらこの中に菅野さんを発見することは出来ませんでした。
海兵名物「棒倒し」のシーンなどではどこかに映っているはずなのですが、
人数が多いのと、画質が悪いため全く判別不能です(ガッカリ)

◀ DVD 『 空の少年兵 / 勝利の基礎 』(角川エンタテインメント)

少尉候補生となった70期卒業生は表桟橋より戦艦「榛名」および練習艦「阿多田」に分乗し、各配属艦へと送られた。菅野は「榛名」に乗船し、同期生20名とともに佐伯湾の戦艦「扶桑」に乗り組んでいる。

真珠湾作戦に参加する高速戦艦「比叡」「霧島」配属の候補生37名(「比叡」18名、「霧島」19名)は、
夜行列車で横須賀へ向かい、ひとまず全員が「比叡」に乗艦した。
その後11月19日、東京湾外で会合した「霧島」に候補生を移乗、そのまま両艦とも単冠湾へ向かっている。
※この時「比叡」には真珠湾作戦の新兵器「浅海面航空魚雷」の尾部(フィン)が搭載されていたという。


◎ 次回は霞ヶ浦航空隊「第38期飛行学生」時代の菅野さんです。

菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その6:戦艦「扶桑」〜霞ケ浦航空隊 時代] 2011/05/21

紫電改精鋭部隊「343空」戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。
※『』囲みは引用

□ 戦艦「扶桑」乗組み時代(昭和16年11月15日〜17年5月頃)

昭和16年11月15日「海軍兵学校」を卒業して少尉候補生となった菅野は、翌昭和17年6月1日に第38期飛行学生として「霞ケ浦航空隊」に入隊するまでの約半年ほどの間、第1艦隊・第2戦隊の戦艦「扶桑」に同期20名とともに乗り組んでいます。
12月8日ついに太平洋戦争が始まりますが、「扶桑」を含め足の遅い第1・第2戦隊の戦艦群は作戦参加せず、
柱島で待機しました。真珠湾攻撃直後、「扶桑」は機動部隊帰路警戒のため「長門」「陸奥」「山城」「伊勢」「日向」などとともに出撃しますが、支援不要となり小笠原列島付近で反転、柱島へ帰投します。その後も第1戦隊、第2戦隊に実戦出動は無く、ときおり瀬戸内海近海で砲術訓練を実施する程度でした。それでも「警戒態勢」につき半年近く上陸は許可されず、菅野ら候補生たちは元気を持てあましていたことでしょう。

戦艦「扶桑」

▲ 昭和16年4月、呉にて注排水試験中の戦艦「扶桑」
「捷1号作戦」で西村艦隊に編入され、比島沖海戦で初めて実戦参加する。昭和19年10月25日 スリガオ海峡で魚雷数本を受けて沈没(合掌)

「扶桑」での菅野の配置は砲術科で右舷機銃群指揮官でした。
自ら簡易射撃計算盤を考案するなど活躍していたようですが、大艦艇での組織的職務は自由奔放な菅野にとって
あまり面白くなかったかも知れません。心はすでに「飛行学生」に飛んでいたのかも・・・

■ やんちゃぶり発揮〜内規を破ってこっそり酒盛り

候補生は艦内禁酒であったにもかかわらず、同期の小島光造氏などを自室に誘っては従兵に「口止め」して
酒を楽しんでいた。

角田中学校からの同期・小島光造氏の回想
『 彼のおかげではじめて酒を飲んだが、少しの酒ですっかり酔ってしまい、クルクル目がまわった。
菅野は平然としていて、どうやらだいぶ以前から飲んでいたらしかった 』

意義を感じない規則や形式は平気で無視する!菅野の性分がよく出ています。
米英戦勃発直後の緊迫感の中・・・相当なリラックスぶりですが、上官にばれないところも“菅野らしい”です。
兵学校時代の休日、そうとう鍛えていたに違いない。


■ 一匹狼?

扶桑乗組み同期生の回想
『 「扶桑」での菅野はやや一匹狼的なところがあり、
グループ行動に加わったという印象はもとより、その種の写真も残っていない 』

大勢の乗組員達とともに組織的に動くというのは菅野の性分に合わなかったのでしょうか。

□ 第38期飛行学生・霞ケ浦航空隊 時代(昭和17年6月1日〜昭和18年1月末)

昭和17年6月1日、菅野を含む70期候補生139名は少尉任官とともに第38期飛行学生として霞ケ浦航空隊に入隊しました。※飛行学生急増に練習機の数が追いつかないため、70期候補生の内41名が半年後入隊の第39期へ回されていますが、この中には関行男大尉、中津留達雄大尉などが含まれています。
入隊直後の6月5〜7日、海軍はミッドウェーで大敗北を喫しますが、飛行学生に真実は伝えられなかったでしょう。

飛行学生は第1飛行隊・第2飛行隊に分けられ、それぞれ飛行場中央格納庫から北側半分、南側半分を使用して訓練を実施しました。飛行長は佐多直大中佐、飛行隊長は第1飛行隊が岩城邦宏少佐(海兵59期)、第2飛行隊は桧貝襄治少佐(海兵57期)。教官として指導に当ったのは海兵の先輩67〜69期の飛行学生優秀修了者たちでした。
菅野は第2飛行隊に配属され、後に343空で一緒に戦うことになる光本卓雄氏と同隊となっています。

霞ヶ浦航空隊マップ

   ▲ ネット上の画像や資料を元に描いた“想像図”ですので、正しいかどうかは・・・責任が持てません(謝) 

93式中間陸上練習機、赤トンボ教程は最初の3カ月ほど座学が続き、9月頃から飛行訓練に入ります。
訓練機「93式陸上中間練習機」(通称:赤トンボ)は複座・複操縦機構を備えており、前席に学生、後席に教官が搭乗して訓練が進められました。1か月ほどで全員が単独飛行へ移行し、その後「基本特殊飛行」「編隊飛行」「計器飛行」「応用特殊飛行」と進み、翌年(昭和18年)正月の長距離移動訓練(伊勢神宮参拝を兼ねた1泊2日の教程)の後、教程卒業となります。

菅野は徐々に本領を発揮し始めてはいますが、操縦の基礎を学ぶこの段階ではまだ大人しかったようです。

菅野飛行学生

▲ 笑顔で訓練の順番を待つ 菅野少尉と菅井努少尉(右)

■ 特殊飛行訓練で疲労困憊

特殊飛行とは、垂直旋回、宙返り、失速反転、急反転、横転、錐揉み等のいわゆる「スタント飛行」です。操作が複雑なうえ強烈なGがかかるため、肉体的疲労は想像以上。
さすがの菅野も少々参っていたようで、当時撮った写真(◀ 左)の裏に次のように書き込んでいます。

『 Stant ハ終ワッタ アーヘバッタ 目ガクラム 』

■ 訓練中に「遊覧飛行」を楽しむ!

学生ペアによる訓練時、菅野はとんでもない事をやらかしています。
その日の訓練は、学生同士が操縦と航法を交代で行うというものでしたが・・・
なんと菅野は独断で“東京遊覧飛行”をやってしまうのです。

同期生・村上武氏の回想
『 霞が浦で菅野とペアで飛びました。で、彼が操縦で私が同乗して訓練飛行をやっていたとき、
菅野が 『 村上、ちょっと東京方面へ遊覧飛行をやってこようじゃないか 』 といい出した。
普段は訓練空域が決まっていて、それより外に出てはいけないことになっている。それを出て行ったわけです。訓練の時は、学生だから70ノットとか75ノットの巡航速度しか出さないのを、彼はエンジンを全開にして翼を風にゆるがせながら全速力で飛んで時間までに帰ってくるというのをやった。
それで本人は 『 飛行機というのは最大限まで性能を活用せんといかんのだ 』 といってケロッとしている。
大胆不敵な奴だなぁと思いました 』

普通の人間ならば「時間内に帰れなかったら?」「規則違反をして万一事故でも起こしたら?」〜といった抑制思考が働くのでしょうが、菅野は違うようです。全て計算したうえで、絶対に事故は起こさないし、必ず時間内に戻ってこれる十分な自信が菅野にはあったのでしょう。こういったケースではアクシデントが起きやすいものですが、アッサリやってのけてしまうところは正に本領発揮といったところです。

また、飛行機は目的を達成するための機械にすぎない〜という合理的戦略思考がすでに形成されている事も驚きです。「畏れ多くも大元帥陛下から下賜された飛行機を・・・」などと諭す者が隊内に存在したかもしれませんが、菅野は鼻で笑っていたことでしょう。


昭和18年1月末、菅野は霞ケ浦航空隊での第38期飛行学生を卒業。
2月1日、戦闘機専攻学生として大分航空隊へ入隊します。
※同期入隊には、後に「剣部隊」で一緒になる林啓次郎(林喜重大尉戦死後、戦闘407飛行隊長)と光本卓雄(戦闘407分隊長)がいます。

菅野さん実戦配備まで、まだあと1年。

◎ 次回は大分航空隊・戦闘機専攻学生時代です。つまり「デストロイヤー」菅野さん

次回作品「瑞鶴」Tシャツ デザイン完成しました 2011/05/30

やっと次回作デザイン完成しました。

今回のモチーフは日本空母最高の武勲艦ともいわれる翔鶴型空母2番艦『瑞鶴』なのですが、
武勲艦と呼ばれるその訳は以下2点に尽きるでしょう。

  1. 珊瑚海海戦において姉妹艦「翔鶴」とともに世界初の空母機動部隊同士の戦闘を演じ、
    相手空母「レキシントン」を沈没に至らしめる。
     
  2. 太平洋戦争全期を通じ、最も多くの作戦・海戦に参加した空母である。

● 真珠湾作戦 ● ラバウル・ラエ攻撃 ● インド洋作戦 ● MO作戦〜珊瑚海海戦 
● 第2次ソロモン海戦 ● 南太平洋海戦 ● い号作戦(艦載機派遣) ● ろ号作戦(艦載機派遣) 
● マリアナ沖海戦 ※初被弾(爆弾1発)、姉妹艦「翔鶴」沈没
● レイテ沖海戦〜エンガノ岬沖海戦 ※ 沈没(魚雷7本、爆弾7〜9発)

空母瑞鶴最期の万歳1944年10月25日

▲ 昭和19年(1944年)10月25日、最期の万歳を叫ぶ「瑞鶴」乗組員たち

さて、今回デザインにあたってインスピレーションを受けたのが下の写真です。

空母瑞鶴1942年秋

昭和17年秋頃、ガダルカナル島周辺海域にて僚艦「翔鶴」から撮影されたとされる1枚ですが・・・
この美しいシルエット!私にとってこれは「カラーで見たい写真」ナンバーワンかもしれません。

ということで、今回デザインのキーポイントは「シルエット」です。
例によって「シンプル」と「ディテール」のバランス調整で右往左往いたしましたが、
やっとプリント工場入稿にこぎつけました(疲)
色校正の具合にもよりますが、来月中旬までに発売出来るかは・・・ちょっと微妙?

空母「瑞鶴」校正刷り  2011/06/10

本日、次回作品 空母「瑞鶴」の色校正刷りが上がってきました。

この作品のタイトルは
「FIGHTING LEGEND / 空母瑞鶴 激闘伝説」(仮称)
といった感じになる予定ですが、表現上の重要ポイントは以下の2点です。

  1. 艦上機発艦準備中の艦橋シルエットを出来る限り正確に表現する
  2. 黎明(れいめい:夜明け前〜日の出)の空の感じを表現する

ナチュラルカラーTシャツは「淡色インクジェット」、
ブラックTシャツは「濃色インクジェット」で印刷していますので
両者に色調差が見られますが、双方ともそれなりの感じが出せているようです(安堵)

空母瑞鶴Tシャツ

空のグラデーションを微妙に調整して、来週から生産に入ります。
この時期はプリント工場さんも繁忙期で大変ですが、
うまくいけば来週末にアップできるかも知れません。
是非ご期待くださいませ。

菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その7:大分空・戦闘機専修飛行学生 時代] 2011/06/05

紫電改精鋭部隊「343空」戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯を順次ご紹介しています。
※『』囲みは同著からの引用です。


□ 第38期戦闘機専修飛行学生 時代 (大分空:昭和18年2月1日〜9月15日)

霞ケ浦航空隊での実用機教程を修了した菅野は、昭和18年2月1日、同期生徒36名とともに第38期戦闘機専修飛行学生として大分航空隊に入隊しました。同期入隊には後に343空で共に戦うこととなる林啓次郎(林喜重大尉戦死後、戦闘407飛行隊長)、光本卓雄(戦闘407分隊長)のほか、マリアナ沖海戦を経て601空・戦闘310飛行隊長として活躍した香取穎男(かとり ひでお)がいます。

菅野を担当した飛行教官は兵学校1年先輩(69期)の岩下邦雄中尉で、兵学校1号生徒時代に菅野と同分隊で分隊伍長(室長)を務めており、約9カ月に渡り寝食を共にしています。
従って最初は「おう、来たか菅野!」といった感じだったのではないでしょうか。

岩下中尉が兵学校時代、1年後輩の菅野に抱いていたイメージは次のようなものでした。

『大体、東北の人は朴訥で無口だから目立たないが、彼(菅野)も同様でどちらかといえばおとなしく、目立たないという点ではウチのクラスの林喜重(343空・戦闘407飛行隊長)と似ていた。』

おとなしくて目立たない男・・・?先輩に対しては見事に猫を被っていたようです(笑)
その後、教程が進むにつれて明らかになる菅野の本性に、岩下中尉は大いに驚かされることになります。
※教程使用機は実用戦闘機の基本を「二式練習戦闘機」で行った後、「96式艦戦」「零戦」へと移行していたようです。

96式艦戦

■ 空戦訓練のルール無視!岩下教官を激怒させる

単機空戦訓練は教官機とペアで行う“模擬空戦”ですが、当然ながら学生はまず勝つことができません。
同位戦はもちろん、優位戦からスタートしても、何度か回る内にいつの間にか教官に背後を取られ、
「はい、貴様撃墜!」となるわけです。
超負けず嫌いの菅野が相当に悔しがったことは想像に難くありません。
何としても教官に勝ちたい!」兵学校時代、相撲で“足取り戦法”を多用したように、“勝つためにはなりふり構わず”といったところがある菅野はついにある秘策を思いつくのでした。

その秘策とは、相手機にわざとぶつけるように自機を持っていくという戦法で、危険を感じた教官が操作を緩めたすきを突いて後ろを取るという過激なものでした。岩下教官との空戦訓練でこの戦法を実施した菅野は狙い通りに教官機の背後を取ることに成功するのですが、地上に降りた後、カミナリを落とされます。

『 あれは一体、何だ。貴様とはもう一緒に上がらん 』

普通、教官にここまで言われれば学生は真っ青になるはずなのですが・・・
怒り心頭で立ち去る先輩・岩下教官を尻目に、菅野はニヤリと笑っていたらしいです。

岩下中尉は昭和19年「301空」で初戦闘(硫黄島)を行ったあと、「341空」紫電隊でフィリピンに進出、
その後空中指揮官として沖縄戦、本土防空(横空)を戦い、終戦時は横空分隊長でした。
現在はNPO法人「零戦の会」会長を務めておられます。大分空での菅野のイメージはある意味強烈だったようで、戦後光人社が主催した笠井智一上飛曹(戦闘301)との座談会で以下の様に語っておられます。

『 菅野とは兵学校でも同じ分隊で、あんまり目立たない男でしたが、大分の空戦訓練で追躡(ついじょう)をやっているときは、ぶつかるかと思うくらいグイグイ接近してくる。そのやり方がいかにも乱暴に見えて、その時の印象が強かったせいか、わたしには、何だかひどく乱暴な男のように思えましたね。』
※『最強戦闘機 紫電改』(「丸」編集部編、2010年2月1日発行)170頁より引用

■ 成績のよかった空中実弾射撃訓練

曳的機が曳航(えいこう)する「吹き流し」を標的にして射撃を行う訓練では、菅野はかなり命中率がよかったのですが、ここでもやはり目立っていたようです。
菅野は特に標的ギリギリまで接近して射撃していたため、曳的機の操縦員は気が気ではなかったとのこと。
つまり、射角が浅いために曳的機が被弾する恐れがあったんですね。

■ 菅野デストロイヤー

あまりにも有名な逸話ですが、菅野は大分空での飛行学生時代に多くの飛行機を壊しており、その結果ついたあだ名が「菅野デストロイヤー」でした。

以下は「最後の撃墜王」に記述されているある事例の概略です。

[ 着陸禁止の滑走路でひっくり返るも、かすり傷で脱出 ]

大分航空隊には真ん中にコンクリート製の滑走路があったが、学生の降着は堅く禁止されていた。訓練に主に使われていた96式艦戦は、左右脚の間隔が狭いうえにブレーキのききも良くないため、着陸時に事故が起こりやすかったためである。
ある日、菅野はそれを承知の上であえて着陸を敢行するのだが、着陸直後、機は片側に回されたあと逆さまにひっくり返り、そのまま火花を散らしながら滑走路上を30mほど滑って停止する。この一部始終を目撃していた多くの学生・教官たちは騒然となった。こういったケースでは、操縦者は地面に頭を潰されて即死する場合が多かったからだ。学生たちがあわてて大破した機に駈けつけると、操縦席は無人であった。
驚いた皆がまわりを見渡した時、菅野はずっと離れたところでゲラゲラ笑いながら立っていたという。怪我は額のコブだけであった。
なんと菅野は転倒する瞬間に座席を一杯まで下げて頭部を守り、さらに出火の危険性を考慮して停止直後に素早く脱出していたのだ。とっさの危機管理判断力と即応行動力は尋常ではなく、まさに戦闘機乗りの天性を備えていたといえるのではないか。


「菅野デストロイヤー」の異名は、艦爆・艦攻の専修学生たちが訓練していた宇佐航空隊 ( 大分県・国東半島をはさんで大分航空隊の北側に位置 )にまで聞こえていたそうです。
飛行学生同期たちの証言を紹介しましょう。

▶ 岩井滉三
『 彼(菅野)は戦闘機専修で大分、小生は偵察機専修で宇佐とに分かれ・・・(中略)・・・ほとんど会っていません。ただ“菅野デストロイヤー”の名が私のところまで伝わってきたことからして、大分では96練戦を何機も壊したのではないでしょうか 』

▶ 香取穎男(かとり ひでお ※ 前出)
『 学生のうちに4、5機は壊している 』
『 96艦戦を2、3機。ほかに零戦も壊した。
いずれも着陸のときで、命取りになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい 』

菅野中尉大分空まず驚くのは、これだけ事故を起こしておきながらまったく大怪我をしていないという事実です。

また、飛行学生数の増加に練習機、教官の数が追いつかない状況にあった当時、1人でこれだけ多数の飛行機を損傷しても飛行学生をクビにならなかったことも不思議です。もし坂井三郎少尉が教官だったらどうなっていたことか・・・などと考えるのは私だけでしょうか?

まぁ、クビにならないところもまた“菅野さんらしい”と言えるのかも知れません。

◀ 大分空時代、零戦の前でポーズをとる「デストロイヤー」菅野中尉。
 その表情には自信がみなぎっている。

このように、戦闘機専修訓練における菅野は過激そのものであったわけですが・・・どうも彼は「訓練」ではなく「実戦」を意識して行動していたように思えてなりません。
つまり、教官・生徒の多くが「訓練教程」を消化している中で、菅野だけはすべてに於いて「実戦」を想定し、彼なりの合理性を試しながら行動していたのではないでしょうか?
こう考えると、結果として飛行機を壊しまくったのも何となく理解できないでもありません。

昭和18年9月15日、菅野たち第38期戦闘機専修飛行学生37名は大分での実用機教程を卒業しますが、実戦投入はまだ先で、陸上組と母艦組に分かれ、内地部隊でさらに実戦訓練が続くのです。陸上組の菅野は厚木航空隊へ入隊します。

菅野さん実戦配備まであと約5カ月


次回はいよいよ実戦部隊配属へ!初代343空時代の菅野さんです。

「瑞鶴」Tシャツ発売予定日  2011/06/16

現在製作中の「瑞鶴」Tシャツですが、ようやく発売の目途がたちました。

カラー2色(ナチュラル、ディープブラック)なのですが、
今回はそれぞれ発売日がわかれます。

□ ナチュラル色 ・・・6月19日(日)発売
■ ディープブラック色 ・・・6月26日(日)発売

空母瑞鶴Tシャツ発売日

デザインは同じなのですが、「印刷手法」が違うためこのような結果となってしまいました。
なんか紛らわしくて申し訳ありません(謝)

訂正とお詫び  2011/06/18

福助02

申し訳ございません!

前回日記で次回作品「瑞鶴」の発売予定日を書いたのですが、
昨晩遅くプリント会社さんに確認をしたところ・・・
一部に当方の勘違いがあったことが判明いたしました。

正確な発売日は以下の通りでございます。

空母瑞鶴Tシャツ発売日2

まったく、自分で勝手に思い込むというのは怖いですね
新入社員級の凡ミスでございました。

自分への戒め?として
前回の日記はそのまま残しております。

土下座ねこ2

瑞鶴Tシャツ発売日、またまた訂正です  2011/06/25

本日、ようやく「瑞鶴Tシャツ」がプリント工場から納品されてきました!

・・・が!


信じられないようなミスが発覚してしまいました


詳細はここでは書けませんが、
一部デザインが間違って印刷されておりました。

本当に申し訳ないのですが
明日(06/26)の発売は、全く問題の無かった「ナチュラルカラー」バージョンだけとなります。

※「ディープブラック」バージョンにつきましては来週から再プリントになりますので、発売日はおってご報告いたします。

次回作品は「零戦メモリアル」ですが・・・  2011/07/11

今年は「零戦誕生70周年」と言われておりますが・・・
零戦の制式採用は昭和15年(1940年)7月24日ですから、
正確には昨年(2010年)の7月24日で70周年を迎えたということですね。

昨年から今年にかけて、ミリタリー雑誌や歴史系雑誌では「零戦特集」が多く掲載されておりますし、
70周年記念のジオラマやプラモデルなども発売されていたようですが、
あらためて考えるとこれは なかなか凄いことですね。
戦後60数年経過してもなお失われることの無い存在感といいますか、
「大和」同様、「零戦」には 日本人の心に響く何か があるのでしょう。

さて・・・
実は2ヵ月ほど前から零戦メモリアルTシャツの制作を考えていたのですが
なんとまだデザインがまとまっておりません。

デザイン上の課題は2つ

1、歴代零戦すべての型をデザインに入れる

2、各機をただ並べたような単純な構図ではなく、
  空中機動の連続性の中にすべての機体をデザインする

ちなみに、零戦のすべての「型」とは以下の12タイプです。

    1. 12試艦上戦闘機
    2. 零戦11型
    3. 零戦21型
    4. 零戦32型
    5. 零戦22型
    6. 零戦22甲型
    7. 零戦52型
    8. 零戦52甲型
    9. 零戦52乙型
    10. 零戦52丙型
    11. 零戦62型
    12. 零戦54型

ということは、12機のデザインが必要になるということですね。
しかし!12機では済まないことがすぐに判明しました。

どういうことかと言いますと、
例えば零戦21型の場合、
個人的にどうしても外せない機体が最低でも3つあるんですね。

■ 空母「赤城」戦闘機隊(昭和16年・真珠湾作戦時)
■ ラバウル 台南空 / 坂井三郎 機(昭和17年)
■ ラバウル 253空 / 岩本徹三 機(昭和19年)

同様に零戦22型の場合でも、以下の2機はなんとしても描きたい

■ ラバウル 204空 / 杉田 庄一 機(昭和18年)
■ ラバウル 251空(旧 台南空)/ 西澤 廣義 機(昭和18年)


なんやかんやで15〜16機ほどになりそうです。

零戦の有名写真

真珠湾作戦時、空母「赤城」から発艦する
 零戦21型
最も有名かつ美しいといわれる零戦写真
昭和18年5〜6月頃、ソロモン空域を編隊飛行する
251空(旧台南空)の零戦22型
当時の海軍報道班員で、もと日映カメラマンの"ぴんさん"こと吉田一氏が陸功より撮影した傑作写真です。

当然ですが、ここでデザイン上の矛盾も出てきます。

1枚のTシャツに10数機を描くとすれば、各機のサイズはある程度小さくならざるを得ないのですが、
小さすぎると肝心の特徴(マーキングなど)が出せなくなってしまうんですね (← 当たり前 )

ぐぁ〜〜〜〜〜 ◎¢*〜〜

今までの作品でも結構悩んできましたが、今回はMAXです。
暑さが身にしみる今日この頃、果たしてどうなることやら www

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