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菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その3:海軍兵学校時代全般]  2011/05/06

343空・戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。

第70期海軍兵学校生徒 時代
( 昭和13年12月1日 入校 〜 昭和16年11月15日 卒業 / 教育期間2年11カ月 ) 

■ 戦雲急を告げる中、大東亜戦争直前に卒業の70期

第70期の入校式は通常より約4カ月早められ、昭和13年12月1日に行われました。
その後日本を取り巻く世界情勢は急速に変貌、日米関係悪化とともに新たな戦争危機が迫る中、
第70期は卒業時期もまた繰り上げられ、大東亜戦争勃発直前の昭和16年11月15日に卒業を迎えます。
例年行われていた「遠洋航海」もこの年からは当然中止となり、卒業した434名の少尉候補生たちはただちに各配属艦へと送り込まれました。高速戦艦「比叡」「霧島」に乗り組んだ37名の候補生たちは、何もわからぬまま真珠湾作戦に「参加」しています。

卒業即「実戦投入」という厳しい状況に直面した第70期ですが、航空志望であった菅野さんは戦艦「扶桑」乗り組みを経て、第38期飛行学生として霞ケ浦へ向かうことになります。

海兵67〜73期

▲ 戦没率が最も高いのは鴛淵さんの68期と菅野さんの70期で66%に登ります。それにしても悲惨です(涙)

■ 「海軍兵学校」の生活とは

将来の海軍を担う将校を育成する「海軍兵学校」では手厚くかつ厳しい教育が行われていましたが、その真髄は生徒による自主管理生活にありました。4学年まである兵学校では、1学年は「4号生徒」2学年「3号生徒」3学年「2号生徒」、そして最終4学年は「1号生徒」と呼ばれますが、各学年の立場は次の言葉によく現れています。

『鬼の1号、むっつり2号、おふくろ3号、がき4号』

最上級1号は後輩全体を引き締めながら特に4号を「鬼」の如くしごく、2号は微妙な立場の「むっつり」中堅、、3号は「おふくろ」のように「がき」4号のほぼ全ての面倒をみる〜という感じだそうで、うまく言ったものです。

学校生活の行動単位は各年度生徒が均等に配分編成された「分隊」で、「分隊」は訓練・競技・自習室・寝食を始めほぼ全ての生活を共にしながら、上下関係・連帯責任感覚などを身につけていきました。
最下級の4号には学業・訓練の他に多様な「分隊隊務」が課せられ、海兵生活に慣れない中、先輩たちに怒鳴られながら時間に追いまわされる日々が続きます。

鬼の1号による下級生(特に4号)への「修正」(海軍では主に鉄拳制裁)は日常茶飯事でしたが、期によって大きな違いがあったようです。新入生時に激しく修正を受けた期は最上級の1号になると猛威を振るう傾向にあり、結果3年ごとに「鉄拳クラス」が現れるという現象が起きていました。
 
菅野さんの70期に関連して言えば、入校時の1号生徒は鉄拳制裁禁止を決めていたジェントルマンの67期で、
その下の68期が「鉄拳クラス」でした。従って70期は比較的安泰であったわけですが・・・
67期の繰り上げ卒業によって現れた4か月ほどの“4号不在”時期、68期の猛威にさらされることになります。
このことは菅野さんにも多少影響したようで、1号時代の彼は盛んに殴っていたとも伝えられています。
※68期「鉄拳クラス」(豊田穣氏によれば「土方クラス」)には後に343空で先任隊長となる鴛淵さんがいましたが、
ほとんど殴ることは無く、人格者として早くも独特の存在感を示していたそうです。
 

海軍兵学校生徒館

 ▲ 平成改装後の旧海軍兵学校生徒館。中央の頂は「古鷹山」
   【 左 】 第1生徒館 (現:海上自衛隊第1術科学校 学生館)
   【 右 】 第2生徒館 通称「赤煉瓦」 (現:海上自衛隊幹部候補生学校 庁舎)

  菅野生徒は4〜3号時代は当時新築の第1生徒館、
  最終12部48分隊となった2〜1号時代は右側の「赤煉瓦」で起居していました。
    ■ 海上自衛隊第1術科学校  ■ 海上自衛隊幹部候補生学校

■ 兵学校時代の菅野さん〜飛行機乗りの天性を発揮、航空志望へ

「筋の通らない事は絶対認めない」菅野さんの性格上、上級生徒との激突?が懸念されるわけですが、トラブル的な事は何も起こしていないようです。問題を起こさなかった最も大きな理由は、海兵鉄拳の「質」にあったようです。
つまり、私心や恨み、嫌がらせ的要素が皆無の制裁であり、カラッとした性格の菅野さんにとっては「怒り」に直結しなかったのではないでしょうか。さらに個人的推測ですが、「真剣に反抗しても意味が無い」といった合理的な「達観思考」をしていたのではないかという気もします。ある意味「猫を被っていた」のかも?

同期生などの多くのエピソードによれば、菅野さんの明朗快活な性格は全く健在で、彼らしく元気に海兵生活をおくっています。ハンモックナンバー(成績順)を気にして休日も猛勉強する者が少なくない中、菅野さんは意に介さず、休日はいつも集合時間ギリギリまで帰ってこなかったらしいです。また、体は小さかったものの運動神経が良かった菅野さんは剣道や相撲競技で活躍しており、派手な速攻を中心に「乾坤一擲」的戦法を得意としていました。さらに目がよく利いたため、野外演習では例年斥候部署で活躍しています。
すばしっこくて目が効く」まさに飛行機乗りの適性を備えていたと言えるでしょう。

菅野さんにとって決定的な場面が訪れたのは、4号時の昭和14年3月29・30日に行われた「飛行作業見学」です。
呉航空隊などから飛来した艦爆や戦闘機が兵学校上空でデモンストレーション空戦訓練を繰り広げ、生徒はただ地上から見学するというものでしたが、この時「航空志望」の気持が芽生えたのではないでしょうか。元来「カッコイイ」事好きな性格の菅野さんとって衝撃的だったことは楽に想像できます。その後岩国航空隊での操縦実習などを経て、卒業2か月前に行われた志望調査で正式に「航空志望」を申請しています。

※文学好きな菅野さんは高い確率で日記を付けていたのは?と思われますが、
その存在は確認されていないようです(残念)

次回からは海軍兵学校における菅野さんの逸話などをご紹介していきます。

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