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菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その7:大分空・戦闘機専修飛行学生 時代] 2011/06/05

紫電改精鋭部隊「343空」戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯を順次ご紹介しています。
※『』囲みは同著からの引用です。


□ 第38期戦闘機専修飛行学生 時代 (大分空:昭和18年2月1日〜9月15日)

霞ケ浦航空隊での実用機教程を修了した菅野は、昭和18年2月1日、同期生徒36名とともに第38期戦闘機専修飛行学生として大分航空隊に入隊しました。同期入隊には後に343空で共に戦うこととなる林啓次郎(林喜重大尉戦死後、戦闘407飛行隊長)、光本卓雄(戦闘407分隊長)のほか、マリアナ沖海戦を経て601空・戦闘310飛行隊長として活躍した香取穎男(かとり ひでお)がいます。

菅野を担当した飛行教官は兵学校1年先輩(69期)の岩下邦雄中尉で、兵学校1号生徒時代に菅野と同分隊で分隊伍長(室長)を務めており、約9カ月に渡り寝食を共にしています。
従って最初は「おう、来たか菅野!」といった感じだったのではないでしょうか。

岩下中尉が兵学校時代、1年後輩の菅野に抱いていたイメージは次のようなものでした。

『大体、東北の人は朴訥で無口だから目立たないが、彼(菅野)も同様でどちらかといえばおとなしく、目立たないという点ではウチのクラスの林喜重(343空・戦闘407飛行隊長)と似ていた。』

おとなしくて目立たない男・・・?先輩に対しては見事に猫を被っていたようです(笑)
その後、教程が進むにつれて明らかになる菅野の本性に、岩下中尉は大いに驚かされることになります。
※教程使用機は実用戦闘機の基本を「二式練習戦闘機」で行った後、「96式艦戦」「零戦」へと移行していたようです。

96式艦戦

■ 空戦訓練のルール無視!岩下教官を激怒させる

単機空戦訓練は教官機とペアで行う“模擬空戦”ですが、当然ながら学生はまず勝つことができません。
同位戦はもちろん、優位戦からスタートしても、何度か回る内にいつの間にか教官に背後を取られ、
「はい、貴様撃墜!」となるわけです。
超負けず嫌いの菅野が相当に悔しがったことは想像に難くありません。
何としても教官に勝ちたい!」兵学校時代、相撲で“足取り戦法”を多用したように、“勝つためにはなりふり構わず”といったところがある菅野はついにある秘策を思いつくのでした。

その秘策とは、相手機にわざとぶつけるように自機を持っていくという戦法で、危険を感じた教官が操作を緩めたすきを突いて後ろを取るという過激なものでした。岩下教官との空戦訓練でこの戦法を実施した菅野は狙い通りに教官機の背後を取ることに成功するのですが、地上に降りた後、カミナリを落とされます。

『 あれは一体、何だ。貴様とはもう一緒に上がらん 』

普通、教官にここまで言われれば学生は真っ青になるはずなのですが・・・
怒り心頭で立ち去る先輩・岩下教官を尻目に、菅野はニヤリと笑っていたらしいです。

岩下中尉は昭和19年「301空」で初戦闘(硫黄島)を行ったあと、「341空」紫電隊でフィリピンに進出、
その後空中指揮官として沖縄戦、本土防空(横空)を戦い、終戦時は横空分隊長でした。
現在はNPO法人「零戦の会」会長を務めておられます。大分空での菅野のイメージはある意味強烈だったようで、戦後光人社が主催した笠井智一上飛曹(戦闘301)との座談会で以下の様に語っておられます。

『 菅野とは兵学校でも同じ分隊で、あんまり目立たない男でしたが、大分の空戦訓練で追躡(ついじょう)をやっているときは、ぶつかるかと思うくらいグイグイ接近してくる。そのやり方がいかにも乱暴に見えて、その時の印象が強かったせいか、わたしには、何だかひどく乱暴な男のように思えましたね。』
※『最強戦闘機 紫電改』(「丸」編集部編、2010年2月1日発行)170頁より引用

■ 成績のよかった空中実弾射撃訓練

曳的機が曳航(えいこう)する「吹き流し」を標的にして射撃を行う訓練では、菅野はかなり命中率がよかったのですが、ここでもやはり目立っていたようです。
菅野は特に標的ギリギリまで接近して射撃していたため、曳的機の操縦員は気が気ではなかったとのこと。
つまり、射角が浅いために曳的機が被弾する恐れがあったんですね。

■ 菅野デストロイヤー

あまりにも有名な逸話ですが、菅野は大分空での飛行学生時代に多くの飛行機を壊しており、その結果ついたあだ名が「菅野デストロイヤー」でした。

以下は「最後の撃墜王」に記述されているある事例の概略です。

[ 着陸禁止の滑走路でひっくり返るも、かすり傷で脱出 ]

大分航空隊には真ん中にコンクリート製の滑走路があったが、学生の降着は堅く禁止されていた。訓練に主に使われていた96式艦戦は、左右脚の間隔が狭いうえにブレーキのききも良くないため、着陸時に事故が起こりやすかったためである。
ある日、菅野はそれを承知の上であえて着陸を敢行するのだが、着陸直後、機は片側に回されたあと逆さまにひっくり返り、そのまま火花を散らしながら滑走路上を30mほど滑って停止する。この一部始終を目撃していた多くの学生・教官たちは騒然となった。こういったケースでは、操縦者は地面に頭を潰されて即死する場合が多かったからだ。学生たちがあわてて大破した機に駈けつけると、操縦席は無人であった。
驚いた皆がまわりを見渡した時、菅野はずっと離れたところでゲラゲラ笑いながら立っていたという。怪我は額のコブだけであった。
なんと菅野は転倒する瞬間に座席を一杯まで下げて頭部を守り、さらに出火の危険性を考慮して停止直後に素早く脱出していたのだ。とっさの危機管理判断力と即応行動力は尋常ではなく、まさに戦闘機乗りの天性を備えていたといえるのではないか。


「菅野デストロイヤー」の異名は、艦爆・艦攻の専修学生たちが訓練していた宇佐航空隊 ( 大分県・国東半島をはさんで大分航空隊の北側に位置 )にまで聞こえていたそうです。
飛行学生同期たちの証言を紹介しましょう。

▶ 岩井滉三
『 彼(菅野)は戦闘機専修で大分、小生は偵察機専修で宇佐とに分かれ・・・(中略)・・・ほとんど会っていません。ただ“菅野デストロイヤー”の名が私のところまで伝わってきたことからして、大分では96練戦を何機も壊したのではないでしょうか 』

▶ 香取穎男(かとり ひでお ※ 前出)
『 学生のうちに4、5機は壊している 』
『 96艦戦を2、3機。ほかに零戦も壊した。
いずれも着陸のときで、命取りになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい 』

菅野中尉大分空まず驚くのは、これだけ事故を起こしておきながらまったく大怪我をしていないという事実です。

また、飛行学生数の増加に練習機、教官の数が追いつかない状況にあった当時、1人でこれだけ多数の飛行機を損傷しても飛行学生をクビにならなかったことも不思議です。もし坂井三郎少尉が教官だったらどうなっていたことか・・・などと考えるのは私だけでしょうか?

まぁ、クビにならないところもまた“菅野さんらしい”と言えるのかも知れません。

◀ 大分空時代、零戦の前でポーズをとる「デストロイヤー」菅野中尉。
 その表情には自信がみなぎっている。

このように、戦闘機専修訓練における菅野は過激そのものであったわけですが・・・どうも彼は「訓練」ではなく「実戦」を意識して行動していたように思えてなりません。
つまり、教官・生徒の多くが「訓練教程」を消化している中で、菅野だけはすべてに於いて「実戦」を想定し、彼なりの合理性を試しながら行動していたのではないでしょうか?
こう考えると、結果として飛行機を壊しまくったのも何となく理解できないでもありません。

昭和18年9月15日、菅野たち第38期戦闘機専修飛行学生37名は大分での実用機教程を卒業しますが、実戦投入はまだ先で、陸上組と母艦組に分かれ、内地部隊でさらに実戦訓練が続くのです。陸上組の菅野は厚木航空隊へ入隊します。

菅野さん実戦配備まであと約5カ月


次回はいよいよ実戦部隊配属へ!初代343空時代の菅野さんです。

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