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敵基地上空で編隊宙返り!  2010/11/01

現在、11月以降リリース作品のモチーフを検討しているのですが・・・
有名な「ポートモレスビー上空 編隊宙返り」!
これをなんとか絵にしたいと考えております。

この話は往年の零戦エース・坂井三郎 元海軍中尉がその著書『大空のサムライ』の中で回想した逸話で、
世界的に高く知られているエピソードです。
ご存知ない方もいらっしゃると思いますので、坂井さん回想の概略を以下に記しておきます。


ニューギニア・ソロモン地図

  1942年(昭和17年)4月、ラバウル海軍航空隊はポートモレスビー攻撃強化の為、
  ニューギニア北岸「Lae(ラエ)」に台南航空隊(台南空)を派遣。
  同航空隊は攻撃・偵察・爆撃援護など連日のようにポートモレスビーブナ方面への出撃を重ねていた。
  そしてこの台南空には「三羽烏」と呼ばれる3人のつわものがいた。
  すなわち、坂井三郎(一飛曹)、西澤廣義(同)、太田敏夫(同)である。
  そして・・・この3人は敵の度肝を抜こうと“ある企て”を行う機会を密かに狙っていた。

  5月27日、その時がやってくる。
  この日 零戦18機でポートモレスビーへ出撃した台南空は敵地で空戦を行った後帰投するのだが、
  「三羽烏」は独断反転し敵地上空へ引き返す。
  そして彼等は事前の打ち合わせ通り、敵基地上空見事な3機編隊宙返りを披露したのである。

  高度4000mから3回連続、さらに高度を下げて2000mからまた3回連続の計6回!

  呆気にとられたのか地上からは1発の反撃も無く、3人は敵基地上空で破顔一笑
  何食わぬ顔で本隊より約20分遅れでラエに帰投した。

  れっきとした「飛行軍紀違反」であるこの悪戯は「三羽烏」だけの秘密だったはずなのだが、
  すぐに搭乗員達の間で話題となり、3人は上司である笹井中尉(中隊長)から大目玉を食らう。

  さらに数日後、思わぬところからも発覚することになる。
  なんと、敵機がラエ飛行場に「果たし状」を投下していったのだ!
  この手紙は怒った笹井中尉が握りつぶしてしまうのだが、
  内容は以下のようなものだったという。

  『先日の宙返り飛行士は、大いにわれわれの気に入った。
  今度やってくるときは緑色のマフラーをつけて来られたい。
  われわれは、こぞってその英雄達たちを歓迎するであろう。
』(原文引用)

この話は有名なエピソードとして世界中の戦史・航空ファンに広く知られています。
また有名であるがゆえに、好史家により多数の「矛盾点」も指摘されています。
私が知る限りでは主に以下の様なポイントがあるようです。

【 正しい出撃日は? 】
台南空の搭乗・編成記録と照らすと5/27ではなく5/17が妥当であるらしく、現在ではほぼ5/17が正しいということになっているようです。つまり、坂井さんの記憶違い?

【 5/17も怪しい? 】
5/17にはエンジン被弾した山口中尉機が帰投中に墜落するという悲劇が起きています。坂井さんは5/17の出来事としてその推移を詳細に述べており、山口機墜落を確認後、本隊とともに帰投したとあります。この悲壮な事故の後に3機が引き返して例の「宙返り」をやったとは到底考えられません。宙返り実施後帰投中の出来事ならば日付を間違えるハズがないと思いますし、いずれにしても本隊に20分遅れて帰投したという記述とは矛盾します。

【 敵側の裏付け証言がない? 】
好史家の調べによると、敵陣に手紙を落とすという印象的な行動をしておきながら、これを裏付ける敵側証言が皆無なのだそうです。ここから進んで、これは事実ではないのでは?(坂井さんの作り話)という考察をする方もいらっしゃる。

※ 因みに、マーチン・ケイデン著『 第2次大戦ブックス 3 / Zero fighter 』にも同エピソードが取り上げられているが、著者は冒頭にこう書いている。(以下引用)
『筆者は、この戦闘の立証については、この当時、ポートモレスビーにいた数人のアメリカ人と話し合った。かれらは坂井三郎氏が筆者に語った、つぎのことをすべて確認したのであった。』  う〜ん、誰に確認したのだろうか?

【 海外メディアの詳細記事? 】
海外サイトの坂井さん関連記事は大量に存在し、著書内容と食い違う詳細な記述が多々みられる。
※これは坂井さんが受けた多数の海外メディア取材・インタビューなどによる拡散効果と思われる。

 「笹井中尉が3人の前で手紙を見せ、内容を話して聞かせた」という記述が結構ある。
 手紙にはポートモレスビー戦闘機パイロット一同のサインがしてあったとする記述もある。


坂井・西澤・太田・笹井 ← 「当事者」3人+笹井中尉が一緒に写っている唯一の写真?

色々な意味でまさに「伝説」ともいえるこのエピソード。
何とか「デザイン」に仕立て上げたいのだが、果たして?(^^;


これらの商品は販売終了しております。

次回作品のテーマは「硫黄島上空迎撃戦」です。  2010/11/19

ようやくTシャツデザインが終わり、先日プリント工場へ入稿いたしました。
これから校正刷りなので、製品UPは12月上旬の予定です。

またしても制作が遅れてしまったのですが、
今回は時代考証?に時間がかかってしまったのが痛かったです。


坂井三郎元海軍中尉(当時横須賀航空隊所属)の零戦が「1対15」でグラマンF6Fヘルキャットと戦った
有名な逸話が生起した、1944年(昭和19年)6月24日早朝の「硫黄島上空迎撃戦」がテーマなのですが、
デザインを進めるにあたり幾つか確認すべき点がありました。
最も重要なポイントはもちろん、

この時の坂井さんの搭乗機、零戦の型式は何だったか?です。

坂井さん自身は著書『坂井三郎空戦記録/下巻』の中で「52型」と書かれておられますが、
「零戦52型」には「52型」(A6M5)、「52甲型」(A6M5a)、「52乙型」(A6M5b)、「52丙型」(A6M5c)という
4種類がありまして、それを確定する必要があったんですね。

資料探しをしていた私を混乱させたのが、たまたまWEB上で目にした佐竹政夫画伯による1枚のアート画でした。

これは同画伯筆による『ザ・サムライ イラスト坂井三郎空戦記録』に収録されている1作品だそうで、
06/24硫黄島迎撃戦における坂井機とF6Fの空中戦闘を描かれたものですが・・・

硫黄島上空零戦

なんと!
坂井機の零戦が「52丙型」(主翼に機銃4丁が特徴)で描かれております。

「52丙型」は初めて主翼に機銃を4丁(20mm×2、13.2mm×2)装備したいわば“重武装零戦”なのですが、
その生産スタートは1944年(昭和19年)9月以降とされています。
したがって、6月24日の時点で「52丙型」が戦場に登場することは絶対あり得ないはずなのです。

がしかし、描かれた方は「タミヤ模型」箱絵や「世界の傑作機」表紙画等、戦争画で名高い画伯・・・!
私ごとき素人がご本人に確認を入れさせていただくわけにもいきませんので、
とりあえず大戦に詳しいサイト War Birds で好史家の皆さまのご意見を伺いました。
その結果、数人の方から貴重な情報をいただくことが出来ました。

●「52乙型」生産極初期の三菱5046号他数機が鈴鹿(※)から横空へ空輸されたのが昭和19年7月22日なので、
「52乙型」は6月24日にはまだ戦地に間に合っていない可能性が高い。
 ※三菱で生産された零戦はいったん三重県の鈴鹿基地に集められ、ここから各部隊に空輸配備されていた。

●マリアナで戦後見つかった残骸には「52甲型」もあるものの生産番号が若く、数の上では「52型」の方が多数派だったと考えられる。

●横空と共に硫黄島で戦った301空の戦闘601は雷電から中島製零戦「52型」に乗り換えて硫黄島に進出したとのこと。

みなさまありがとうございます <(_ _)><(_ _)>
〜ということで、確定というわけには勿論いきませんが、
この時の坂井さんの搭乗機を描くなら「零戦52型(A6M5)」が最も妥当である という、私なりの結論に至りました。

この坂井さん乗機確認にほぼ10日近くを費やしてしまいました。トホホホ
でも勉強になったから、まぁいいや!

※ 因みにF6FはVF-2(USSホーネット搭載)の「F6F-3」でデザインいたしました。


これらの商品は販売を終了しております

硫黄島の次は、伝説の編隊宙返り  2010/11/22

現在さらに次のデザインが出来上がりつつあります。

モチーフは・・・ついに個人的念願の
零戦21型 台南空三羽烏 ポートモレスビー上空3機編隊宙返り!

「硫黄島」に続いて またまた坂井三郎さんがらみ。
好きなんですよ、坂井さんと台南空の精鋭達が。www
この痛快逸話の詳細は店長日記で書きましたので是非読んでくださいね。
敵基地上空で編隊宙返り!

さて、
デザインで一番苦労しているのが、背景となる飛行場俯瞰(ふかん)です。
なにしろ1942年当時の「セブンマイル飛行場」( 現在の ポートモレスビー・ジャクソン国際空港 )の
空撮写真なんてどこを探しても無いんですよ。Orz

が、そこは執念。
苦労の末アメリカの戦史サイトから1943年当時の記録写真を探し出しましたが、サイズ小さめ。

セブンマイル飛行場

これを元にどうやってデザインイラストを描くか?
あくまで「背景」なんで目立っては駄目なのですが、
伝説の舞台となった飛行場は出来るだけ正しく描かねばなりませんし、
こーいうところで史実にこだわるのが Osabetty's Tシャツの真髄ではなかろうか〜などと考えております。

しかしむずかしいですね。これは




台南空三羽烏 ポートモレスビー編隊宙返りの決行日は? 2010/12/07

前回の日記にも書きましたが、台南空3羽烏(坂井・西澤・太田)によるこの痛快エピソード、
どうも決行された日付が不明なようです。

そこで、
同エピソードに言及している以下3点の著作を読み直してみました。

  1、坂井三郎空戦記録』 坂井三郎著・1992年・講談社+α文庫
    ( ※「大空のサムライ」の原著。初版は昭和28年・出版協同社刊 )
  2、大空のサムライ』 坂井三郎著・光人社NF文庫・2003年5月新装改訂版
  3、最強撃墜王』 武田信行著・2009年8月・光人社( ※ 西澤氏の人生を描いた伝記 )

すると以下の様な大きな違いが見られるわけです。

著作

日付

編成に関する記述

その他の記述

坂井三郎空戦記録

記述なし

● 指揮官:中島少佐
● 坂井:1中隊1小隊2番機
西澤:  同   3番機
 ※太田の編成、記述なし。

● 0800 ラエ基地発
● 参加零戦18機
● 敵機40〜50機と短時間戦闘 ● 敵機の機種記述なし
● 坂井:1機撃墜
  ほか数機撃墜目撃。

大空のサムライ

5月27日

     ↑
※ 0620 ラエ基地発
● 0814 敵基地上空進入

最強撃墜王

5月20日

● 指揮官:中島少佐
● 太田:1中隊1小隊2番機
    (指揮官直衛)
  西澤:2中隊1小隊2番機
    (笹井中尉直衛)
  坂井:2中隊2小隊1番機
    (小隊長)

● 参加零戦15機
● P-39エアラコブラ40機以上と
短時間空戦。
● 西澤・坂井各1機撃墜

もちろん『最強撃墜王』は西澤氏本人の著作ではありませんので、
“当事者”坂井氏の著書は圧倒的な信憑性を持っておりますが、共通するのは
当日の指揮官が中島正少佐であったということで、これはどうやら間違いがなさそうです。

 ________

ここで気になるのは台南航空隊の出撃記録ですが、
現在は資料探しも便利な時代となっておりまして、
「国立公文書館 アジア歴史資料センター」(通称・アジ歴)からネット上で簡単に検索・閲覧することが可能です。

早速1942年5月の『台南空飛行機隊 戦闘行動調書』をすべて調べたところ、

中島少佐が指揮官となってポートモレスビーへ出撃した日は、
5/6、5/9、5/17、5/20、5/28の5日しかありませんでした。

■次に、坂井・西澤・太田の3氏が揃ってポートモレスビーに出撃した日を調べると、
5/2、5/3、5/12、5/17、5/18、5/26、5/27、5/29の計8日あったことが判ります。

両方の一致日(=中島少佐+3羽烏の出撃日)を見ますと・・・5月17日 しかありません。
従って、記録上からは、「5/17」こそ編隊宙返り実施日であった可能性が最も高いとは言えそうです。
また、指揮官機の誤記録はまずあり得ませんので、
少なくとも坂井氏が記述されている5/27は記憶違いと断定してよいでしょう。

台南空 パイロット


が・・・この5/17説には腑に落ちない点が幾つか存在します。

1、まず5/17の編成ですが、『台南空飛行機隊 戦闘行動調書』によれば当日の編成は

 西澤・・・第1中隊 第1小隊 2番機(指揮官・中島少佐の直衛機)
 太田・・・第2中隊 第1小隊 2番機(第2中隊長・山下大尉の直衛機)
 坂井・・・第2中隊 第3小隊 1番機(小隊長)

となっており、坂井氏の記述(中島少佐直衛2番機=坂井、3番機=西澤)とは大きく異なります。
因みに、坂井氏の書かれている編成は記録を見る限り5月中には発生していません。


2、また、同日はエンジン被弾した山口馨中尉機が帰還途中に墜落する悲劇が起こっており、
坂井氏はこれを5/17の出来事として詳細に記述しておりますし、山口中尉機を見送った後
本隊とともにラエへ帰当したと述べています。
同じ日に3羽烏が例の編隊宙返りをやらかしていた?とはどうしても考えにくいですし、
本隊に20分遅れて帰還したという記述とも完全に矛盾します。

特に2番目の山口中尉機墜落の話・・・
これがどうも引っかかってしまい、私としては5/17はあり得ないのでは?という気がしてなりません。

 ________

そこで気になってくるのが、
『最強撃墜王』に記述のある5/20です。
この日は太田氏の出撃記録がありませんし、出撃機数(15機)、ラエ基地発時刻(0600)、
モレスビー上空進入時刻(0700)も坂井氏の記述とは合致しませんが、
P-39エアラコブラとの小戦闘があった様なことが記されており、これは一致します。
さらに気になるのは、この『最強撃墜王』の刊行時期が2009年と非常に新しいことです。
著者・武田信行氏には5/20に関する何らかの「確証」があったのではないかと考えられる訳ですが、
それは何か・・・?

 ________

ここまで考えて ほぼ完全に行き詰まりました。www 疲れたし・・・ Orz

やはり鍵を握るのは連合国側の目撃証言だが・・・。
実は『坂井三郎空戦記録』では、このエピソードの最後に( )囲みで以下の記述が書き加えられています。(以下引用)
『 「旧版改訂版あとがき」にある元オーストラリア兵スペンス氏、
その後アメリカで会見した戦闘機パイロットたちの中にも、この宙返りを見たとの証言者がいた』
・・・?!?
暇があればこっち方面も少しづつ調べてみたいですが・・・
誰か面白い情報をご存知でしたら是非教えてくださいませ。



台南空メモリアルTシャツ(新バージョン)


■ 以下の旧商品は販売を終了しておりますが、画像をクリックしていただくと商品情報を閲覧できます。

死んでいった名もない人々 2010/12/14

今『沖縄 シュガーローフの戦い』(ジェームス・H・ハラス著/猿渡青児 訳/光人社NF文庫 )という本を読んでいます。
沖縄戦・首里攻防戦における激戦地の1つ、「シュガーローフ・ヒル」( 日本側呼称:「五二高地」または「安里五二高地」)をめぐる戦闘をアメリカ第6海兵師団の側から描いた戦記なのですが、実戦を体験した膨大な前線兵士達の証言・回想をちりばめながら構成されていることが本書の特徴です。

沖縄戦については過去に
沖縄決戦-高級参謀の手記 』( 八原博通 著 / 読売新聞社 / 1972年 ※現在絶版?)
沖縄 非遇の作戦 異端の参謀八原博通 』(稲垣武 著 / 光人社 / 1998年)
の2冊を読んだことがありますが、これらは沖縄守備第32軍司令部の動向を知る上での貴重な資料です。
特に当時第32軍高級参謀として作戦指導の中枢にあった八原博通・元陸軍大佐の著書は、
沖縄戦における日本軍司令部側の実態をほぼ明らかにしているといってよいでしょう。

しかし、これはあくまで上級司令部の話であり、沖縄戦全体の一側面を照らしたに過ぎません。
最前線の「現場」ではどのような戦闘が繰り広げられていたのか?
残念ながら日本側に詳しい資料は少ないようです。
その意味でこの『 沖縄 シュガーローフの戦い 』は、
ごく一端ではありますが前線状況を知るうえでの有効な著作のひとつとは言えるでしょう。

さて、この本を読み進んでゆきますと・・・その凄惨な証言の数々に少しづつ気分が重くなってきます。
しかしこれらは戦争現場の状況を伝える貴重な情報ですので幾つか引用してご紹介しましょう。

■ 『 彼に目をやった瞬間、迫撃砲弾の破片が飛び散って、伏せている兵士の腰の上の部分が、まるで斧で叩かれたように、ざっくりと切り裂かれてしまった。明け方のひんやりとした空気の中、ぞっとするような傷口からは湯気が上がっていた。』 ☆ 5月10日朝 / 第22海兵連隊第3大隊 / チャールズ・ピュー1等兵

■ 『 「お前ら、いい加減にしろよ」と叫ぼうとしたヒューストンの言葉は、銃弾が骨と肉を砕く音でさえぎられた。2人のうち、後ろの男は完全な宙返りをしながら背中から倒れ込んだ。左目から鼻にかけて大きな穴があいており、血が吹き出していた。「牛乳瓶を逆さまにしたときのような、ゴボゴボという音がした」とヒューストンは回想した。』 ☆ 5月13日 シュガーローフ前面 / 第22海兵連隊G中隊 / ジャック・ヒューストン1等兵

■ 『 左翼面では、ナッコルと同じ時期に師団に補充兵として配属された若い海兵隊員が黄燐手榴弾を斜面の向こう側に投げた。ところが、日本兵がすばやくこれを投げ返してきたため、鮮やかな煙を出して爆発し、若い海兵隊員は溶解した黄燐をシャワーのように体中に浴びてしまった。彼の皮膚はとけて焼け落ち「誰か俺を殺してくれ!」と絶叫しながら周囲に懇願したが、誰も手を下せなかった。若い海兵隊員は悶絶しながら息絶えた。』
☆ 5月14日シュガーローフ稜線 / 第22海兵連隊K中隊 / ジャック・ナッコル1等兵

沖縄戦シュガーローフ写真


■ 『 平野部は多くの死体が散乱しており、シュガーローフから地面の上を歩かずに、死体の上だけを歩いても後方まで戻れそうな惨々たる状況だった。』
☆ 5月15日朝 シュガーローフ丘麓 / 第22海兵連隊G中隊 / ウィンデル・メジャー1等兵

■ 『 手榴弾は大きな弧をえがいてカーネットの機関銃に向かって飛んできたが、カーネットも同時に射撃を開始しており、手榴弾が空中を飛んでいる間に、この日本兵を斉射して切りさいた。日本兵は射殺され倒れたが、手榴弾はカーネットの足の間で炸裂した。足を見下ろしたカーネットは驚き、大きなショックを受けた。彼の右足は膝から下がなくなっていた。』 ☆ 5月15日シュガーローフ頂上 / 第22海兵連隊 / アール・カーネット1等兵

■ 『 シュガーローフの麓にあった溝に伏せていたアーブ・ゲハート1等兵からは、空を背景にした丘のシルエットが見えていた。「みなが両手一杯の石を放り投げたように、いろんな物が飛びかっているのが見えた」と彼は回想した。「手榴弾や、迫撃砲弾や、それ以外にもいろんな物がとんできて、そこら中で破裂していた」用水路の中はすでに海兵隊員の死体が目一杯つまっていた。』
☆ 5月15日シュガーローフ丘麓 / 第22海兵連隊D中隊 / アーブ・ゲハート1等兵

■ 『 すると突然、一人の日本兵が丘の頂上に立ち上がり、「バンザイ!」と叫んだ。(中略)日本兵は手榴弾をヘルメットに叩きつけ発火させようとしたが、明らかに不良品だったようで、ヒューズに点火するかわりに、その場で爆発して頭を吹き飛ばしてしまった。この光景を目撃した海兵隊員達は「わははは、ざまみろ!メイド・イン・ジャパン!メイド・イン・ジャパン」と大爆笑した。』 ☆ 5月15日シュガーローフ頂上 / チャールス・ミラー分隊

■ 『 俺たちが突撃したとき、死体を踏まずに丘を登るのは不可能だった。我々のもジャップのもね。そこにはたくさんの男たちがいたけど、しかし様子はよくなかったよ。まるで臭い生ゴミの山を登るような感じだったからね。』 ☆ 5月18日 / 第22海兵連隊D中隊 / アーブ・ゲハート1等兵

■ 『 ホーバスが日本軍の迫撃砲と手榴弾の攻撃を避けるためしゃがんでいると、彼の手前の地面でなにかがゴソゴソ動き出した。すると突然、軍刀を振りあげた日本軍の将校が起き上がり、隣の蛸壺の海兵隊員の首を背後から切り落とそうとした。「M1ライフルの弾倉がからになるまで、やつの背中に撃ち込んだよ」とホーバスは語った。』 ☆ 5月18日深夜シュガーローフ頂上 / 第22海兵連隊D中隊分隊長 / チャールス・H・ホーバス伍長

■ 『 夜の間、海兵隊員たちは誰かが彼らの正面にいるのに気がついた。(中略)音はどんどん近づいてきた。海兵隊員の一人がおぼろげな影にむけて銃を発射してみたところ、その影は倒れた。「ジャップだったんだ」とゲハートは語った。「やつの足には包帯が巻かれていた。片方の足は撃たれていたんだ。頭にも包帯が巻かれていた。そのため片方の目しか見えなかった。おまけに腕も包帯が巻かれて、三角巾でつられていた。でも彼は手榴弾を持っていた。彼は満足に歩くこともできず、足を引きずりながらやってきたんだ」彼らが聞いた音は、不自由な足を地面に引きずり、よろめきながら彼らに向かってきた音だった。のちに海兵隊員がこのときの出来事を話すさいに、この不運な亡霊の様な男を「ミイラ男」と名づけて呼んだ。』 
☆ 5月19日黎明シュガーローフ頂上 / 第22海兵連隊D中隊 / アーブ・ゲハート1等兵

ここまで読んでいただいた方は複雑な気持ちになっておられるかもしれません。
ご紹介したのはごく1部ですが、これらはみな1945年5月10日から19日にかけて、
わずか1km四方に満たない地域で行われた戦闘での出来事です。
身をもって体験した兵士達の証言こそ、戦争の「実態」を伝える唯一の手段でありましょう。



また本書にはアメリカ兵の証言として、日本軍兵士の「最期」が多く語られています。
沖縄戦に限らずですが、日本軍将兵の多くは戦闘記録を残さずに戦死・玉砕あるいは自決してしまったため、
現場を伝える日本軍側の証言や記録(特に証言)は極めて少ないのが実情です。
生還された方々も、「敗戦」という現実に対する責任感と「生き残ってしまった」といった複雑な罪悪感・葛藤感、
そしていろんな意味で“極限”であったと思われる強烈な「戦場体験」、さらには戦後を支配した反軍的風潮などにより、口を閉ざされてしまったケースが多いのではないでしょうか。

「ミイラ男」になってもなお突撃した日本兵、自らの手榴弾で呆気なく爆死してしまった日本兵・・・
彼等は本書にその最期が残されているだけ、まだ「まし」なのかもしれません(涙)

敵味方関係なく、
戦場において“誰の記憶にも、何の記録にも残ることなく死んでいった人々”の「心情」を想う時、
ただただご冥福をお祈りし、2度とこのような事が繰り返されないことを願うばかりです。

沖縄戦MAP


最後に
沖縄戦におけるアメリカ軍の驚異的な後方医療体制について書いておきます。
アメリカ軍負傷者の後送は迅速に実施された為、負傷兵の致死率は3%以下に抑えられました。驚くべき数字です。
これを支えたのは戦場の衛生兵や後送部隊だけではなく、患者の重症度を判断し素早くグアムやハワイ(真珠湾)の
病院へ送る空輸システム、さらには膨大な量の「献血」でした。
アメリカ国家を挙げておこなわれた献血による血液は冷凍されてグアム経由で沖縄に空輸されており、
沖縄戦のアメリカ第10軍では実に57,000リットルの血液が使われたとのことです。
この膨大な量は人間1人の全血液量を仮に4リットルとすれば、なんと14,250人分の血液量に当ります。

このような国家と戦争をしていたんですね我が国は・・・。




■ シュガーローフの戦いと現在の当地の状況などはこちらのサイトで非常に詳しく知ることが出来ます。
ご興味のある方は是非見てください。→ 『 沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る「戦闘戦史」 』

■ 参考文献
『 沖縄 シュガーローフの戦い 』(ジェームス・H・ハラス 著/猿渡青児 訳 / 光人社NF文庫 )

来年1月は日本陸軍Tシャツで 2010/12/17

いよいよ今年もあと半月。
皆様もなにかとお忙しいことと思います。

当サイトをオープンしましたのは本年6月ですので
まだ半年しか経っておりませんが、色々なことがありました。

会社に所属して仕事に追われる日々から
自分で計画し行動する環境に変えたわけですが・・・
元来「克己力」(※)に欠ける?私としましては正直結構しんどい www
この状況を"楽しめる"よう、少しづつ前進していきたいですね。

※「克己」(こっき)・・・自分に打ち勝つこと。心の中に起こる欲望を意志の力によって制御すること。

さて、来年1月の新作Tシャツですが
今まで制作していなかったジャンル、「日本陸軍」でいこうと思っています。



↓ 「独立混成 妙見山バーベキュー中隊」忘年会(1次会)

BBQ小隊

※ 右奥・・・中村中隊長

12/25〜26頃、新作アップの予定です。 2010/12/19

先週末、プリント会社を訪問して次回作品の校正刷りを確認してきました。

いつもお世話になっているこの老舗の印刷会社は「プリズマ」といいまして、
私と同じ大阪市東淀川区内にあり、直線距離で約3km。
※オリジナルTシャツプリントのプリズマ

市バスに乗ることにし、最寄りのバス停で時刻表を確認していると、
バスを待っていた人に突然話しかけられました。

「あんた、どこ行かれますの?

見ると、黒いブルゾン?にスパッツ、故・ミヤコ蝶々さんのような大きな色つきメガネをかけた、
見た感じ70歳代の小柄なお婆さんでした。

ミヤコ喋々

私 「ああ、区役所あたりまでですけど。」
婆 「あ〜、それやったらもうすぐ来ます。最終駅やから25分で行きますわ、区役所やったら。
   アタシは途中で降りるけどな。

私 「あ、そうですか。しかし、今日は寒いですねぇ」
婆 「全然寒ないわ。アタシな、90歳
私 「90!?お若いですね〜」
   ※実際、90歳には見えない。
婆 「90歳で一人暮らし!今日はな、○○町の池田銀行までお金振り込みに行きますねん。
私 「大変ですねぇ。でも振り込みくらいやったら最近はインターネットで簡単に出来ますから、
   わざわざ出掛けんでも、息子さんか娘さんかに頼んでやってもらったらええんとちゃいますか?」
婆 「それがアカンねん。そないして家に閉じこもっとたらな、あっと言う間にボケてしまいますねんで。
私 「あ、なるほど。それでわざわざ動かれてるんですか!凄いですね。
   90歳というと、大正生まれですよね?色々と大変だったでしょう?」
婆 「そらそ〜や。もう、爆弾は落ちて来るし、飛行機に乗ってるアメリカ兵の顔まで見えましたわ!
私 「はぁ〜・・・。顔が見えるということは、戦闘機ですかね?」
   ※しまった!つい癖でマニアックな展開にしてしまった。
婆 「そう、戦闘機!
   ※即座に返答されたのでビックリした。海軍機か?それともP-51ムスタングかな?
   「カツオブシみたいな形してましたか?」って聞いてみようかとも思ったが、嫌な予感がしたのでやめた。
私 「ご無事でよかったですねぇ。大阪も結構爆撃されましたから・・・」
婆 「あんた方はよう知らんかもしれんけど、戦争中は大阪もそ〜ら大変やったんやで!
私 「・・・そうでしょうねぇ。あっ、バス代っていくらでしたっけね?」

バス停の時刻表を見に行こうとすると

婆 「100円よ、あんたはひゃくえん!アタシは年寄りやさかいタダやけどな、フフッ


その時、バスがやってきて会話は途切れました。
ガラガラに空いていたので、最後尾の端っこに座る。
例のお婆さんは前方の席に座り、知り合いらしきお年寄り達と話し込んでいる様子です。
バスが停留所に止まる度に新しいお年寄りが乗り込んできて次々と話の輪が膨らんでゆく。
聞いていると(というか否応なしに聞こえてくる)、病院とか病気関係の話題が多いようだが、
スナップ」?の話でも盛り上がっている。これは明らかに「SMAP」のことだろう。

さて、例のお婆さんはとあるバス停で降車したのですが、
降りる際、最後部の私に向かって大声でこう怒鳴りました。

「あんたは最後まで乗ってなアカンよ!最後で降りや!」


う〜ん・・・。「大阪のおばーさん」恐るべし!www
まぁしかし、理屈から考えれば
最強と謳われる「大阪のオバハン」がさらにパワーアップするワケだから、当然といえば当然か?

★ 次回Tシャツ「ポートモレスビー編隊宙返り」は12月25〜26日ごろアップの予定です。

みなさま 良いお年を  2010/12/31

本年6月、商品数5点でスタートした「Osabetty's」ですが
その後黙々と新作Tシャツを追加し、12月末ようやく15作品に達しました。
7か月間で10作品追加ということで、かろうじて「最低月1作品」ペースは守れています。

さて、次回作品は来年1月末の予定ですが
モチーフのひとつに「日本軍戦車」を予定しております。

大東亜戦争に於いては
アメリカ軍のM3スチュアート・M4シャーマン戦車にほとんど歯が立たず、
バズーカ砲などの対戦車砲にもいいように撃破され、
戦果としては全くいいところなく壊滅していった日本陸軍戦車隊ですが、
戦車兵・整備兵達は他兵科同様、決死の覚悟で戦っていたわけです。

攻撃力・防御力両面において全く対抗出来ない相手と知りながらの戦闘。
これはほぼ「特攻」と同等と考えてよいと思います。
文字通り「鉄の棺桶」に乗って死んでいった戦車兵達。
彼らの心情、いかばかりだったか・・・!?


97式中戦車チハ



来年もマニアックに行きますよ!



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