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次回作品は林喜重大尉の紫電改です  2011/11/08

先日ようやく次回作品を印刷工場に入稿いたしました。
これから色校正ですので販売開始は11月末頃になる予定です。

さて、今回作品のテーマは

第343海軍航空隊・戦闘407「天誅組」初代飛行隊長、林喜重大尉 です。

碇義朗氏の著書『最後の撃墜王』等によりその大胆勇猛な人物像が伝わる「戦闘301」隊長・菅野大尉、海兵同期の直木賞作家・豊田穣氏による『蒼空の器』でその生涯が描かれた「戦闘701」隊長・鴛淵大尉に比べると、知名度はやや低い林隊長ですが・・・
源田指令が「仁の人」と称した名隊長は343空を語るうえで絶対欠かせない存在ですので、343空・紫電改Tシャツを創るに当ってはこの3名の初代飛行隊長をモチーフにすると最初から決めておりました。
従いまして、これで同シリーズはひとまず(?)終結となります。

今回はメインデザインをバックプリントとし、前面はシンプルなワンポイント
構図は、林隊長が戦死された昭和20年4月21日の米陸軍第21爆撃兵団・B-29との戦闘をイメージして描いております。
メインコピー「天誅剣」は戦闘407の隊名「天誅組」と343空部隊名「」を合体させて創りました。
※Tシャツカラーはブラックのほか、アーミーグリーンなどを検討中(悩)


林隊長につきましては今後日記にてご紹介していきますね。

次回作経過報告です  2011/11/19

現在制作中の「343空紫電改 / 戦闘407 林喜重隊長バージョン」(仮称)ですが、
本日2回目のサンプルが上がってまいりました。

まだ細かいカラー修正点がありますので、最終制作入りは来週からですね。
発売時期は断言できないのですが、なんとか11月中にリリースできればと思っております。

▲ 「アーミーグリーン」バージョンのサンプル(背面)です。
発売は「アーミーグリーン」「ディープブラック」の2色予定

戦闘407 初代飛行隊長・林喜重大尉 その1  2011/11/27

「343空」指令・源田大佐はその著書 『 海軍航空隊始末記 』 の中で、3人の初代飛行隊長それぞれの人物像に関し様々な記述をされておりますが、概略は以下の様な感じです。

    ▲ 源田實大佐         ▲ 鴛淵孝大尉         ▲ 菅野直大尉          ▲ 林喜重大尉

□ 戦闘701隊長・鴛淵孝大尉(海兵68期)

比較的おとなしく、性格温厚な好青年であるが、戦闘時には激しい闘志とともに先任隊長として殆んど文句のつけようの無い指揮誘導を見せた。そのため部下からの信頼も厚く、隊員たちは「この隊長とともに死す」ことを誇りに感じているようであった。

□ 戦闘301隊長・菅野直大尉(海兵70期)

性格は「やんちゃ」、勇猛果敢にして戦闘技量も抜群であった。常に自ら先頭に立って奮戦しながらも列機への気配りを忘れない希有な飛行隊長であったため、歴戦の老練パイロットを含む多くの部下たちを完璧に掌握・統率していた。

□ 戦闘407隊長・林喜重大尉(海兵69期)

温厚な鴛淵大尉、やんちゃな菅野大尉の中間の性格で、どちらかと言えば無口で地味なタイプであるが、非常な部下想いで隊員たちとの絆は親兄弟に近いものがあった。おとなしい半面、一度目標を決めたら梃子(てこ)でも動かない“芯の強さ”が持ち味だった。

これらはあくまで源田司令から見た印象ですが、当らずも遠からずといったところなのでしょう。


◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇


さて、本日より数回に分けて林喜重大尉の戦歴などを紹介していきたいと思います。
初回は「343空 / 剣部隊」に辿り着くまでの道のりです。


■ 林 喜重(よししげ ※)大尉

※「きじゅう」と読む方もいらっしゃるようです。本当はどっちなのでしょうか?

□ 1920年(大正9)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれる。
□ 「鎌倉町立 第二尋常高等小学校」「神奈川県立 湘南中学校」卒業

■ 海軍兵学校(第69期)から戦闘機専修へ


□ 1938年(昭和13) 4月:「海軍兵学校」入校(第69期)
※鴛淵生徒は68期で1期先輩、70期の菅野生徒は1期後輩に当る

□ 1941年(昭和16) 3月:「海軍兵学校」卒業

□ 重巡「那智」乗組み、アモイ(現:中国福建省・厦門)・パラオ方面航海で実戦訓練、4月以降は重巡「摩耶」乗組み

□ 1941年(昭和16)11月: 「霞ケ浦航空隊」入隊 / 第37期飛行学生
   1942年(昭和17) 8月: 「大分航空隊」入隊 / 戦闘機専修飛行学生
   1943年(昭和18) 1月: 中尉任官
  〃   2月: 「大分航空隊」での戦闘機教程修

■ 「251空」( 旧「台南空」)配属、激闘のラバウルへ


林中尉は戦闘機教程修了とともに「251空」配属となる。 
「251空」とは、ラバウルから後退し豊橋で錬成中だった旧「台南空」で、副長・小園安名中佐が昇格して指令となっていた。ラバウル帰還組搭乗員の中には大野竹好中尉(海兵68)、大木芳男飛曹長、西澤廣義上飛曹、遠藤桝秋一飛曹、
山崎市郎平一飛曹などがおり、3月には「343空 / 剣部隊」で先任飛行隊長となる鴛淵中尉(海兵68)が分隊長として着任している。

□ 1943年(昭和18)5月    : 「251空」 ラバウル再進出
□      〃     5月14日 : 「251空」 初出撃 オロ湾在伯艦船爆撃隊直接援護

「251空」は零戦33機が出撃、「751空」陸功18機によるニューギニア・ブナ近くのオロ湾攻撃を直衛した。
実戦初出撃の林中尉は大野竹好中尉の第4中隊・第2小隊長として参加している。

◀ 1943年(昭和18年)5月中旬、ソロモン空域を編隊飛行する「251空」の零戦22型群。この編隊の中に林中尉もいたのだろうか?

この頃、ソロモン・東部ニューギニア方面ではいつ果てるとも無い航空消耗戦が続いていた。
4月上旬〜中旬、母艦航空隊(瑞鶴、瑞鳳、飛鷹、隼鷹)と基地航空隊合同による航空撃滅戦 「い号作戦」が4次に渡って実施されたが、連合軍に大損害を与えるには至らず、逆に航空機61機と零戦搭乗員15名を失った。( ※ 連合軍側の損失は航空機喪失17機だが、搭乗員戦死は3名であった )さらに4月18日、悲劇が起きた。ラバウルからブインへ前線視察に飛んだ山本連合艦隊司令長官機が待ち伏せ攻撃により撃墜されてしまったのである。

4月下旬、連合軍はガダルカナル島北西洋上のルッセル島に飛行場を完成させ、中部ソロモンに於ける日本軍の重要拠点ニュージョージア島・ムンダ飛行場への圧迫を強めはじめる。

これに対し第1基地航空部隊は中部ソロモンでの航空劣勢を打開すべく、「ソ」作戦および「セ」作戦を発動する。
第1次「ソ」作戦6月7日に実施され、80機を超える零戦隊がルッセル島へ侵攻した。

□   〃   6月 7日 : 第1次 「ソ」作戦 / 「251空」「204空」「582空」 零戦81機でルッセル島を攻撃

林中尉は「251空」第3中隊・第2小隊長として参加、初撃墜を記録 ( P-39エアラコブラ × 1 )
この日、零戦隊は13機と搭乗員9名を喪失する手痛い損害を被った。連合軍側の損失は戦闘機8機であったが、搭乗員喪失はゼロでる。またこの戦闘では「台南空」以来の強者・遠藤桝秋一飛曹が未帰還となり、「204空」柳谷謙治二飛曹は右手首に重傷を負いムンダに不時着している。
 


◀ 林中尉初撃墜の相手、ベル P-39 エアラコブラ
エンジンを操縦席後方に配置したいわゆる“ミッドシップ機”で、通常の翼内機銃に加えプロペラ軸内を通してスピンナー先端に37mm機関砲を装備する米陸軍期待の戦闘機であった。しかし排気タービンの装備に失敗したため中高度以上での性能(特に加速力)が悪く、零戦の脅威とはならなかった。1941〜44年までに9500機余りが製造されているが、大半はソ連軍に送られている。


□   〃    6月12日 : 第2次 「ソ」作戦 / 「251空」「204空」「582空」 零戦77機で再度 ルッセル島を攻撃

林中尉は「251空」第1中隊・第2小隊長として参加するが、発動機不調により単独帰還している。

□   〃    6月16日 : 「セ」作戦 / 「251空」零戦30機、「204空」零戦24機、「582空」艦爆24機、零戦16機で
                          ガダルカナル島ルンガ泊地の敵艦船群を攻撃

艦爆の強襲により商船2隻を撃破するも艦爆隊は出撃機半数以上の13機を失う大損害を蒙り、零戦隊も15機を失う。連合軍側の損害は戦闘機喪失6機、搭乗員5名であった。林中尉は大野竹好中尉(海兵68期)の第1中隊・第2小隊長として参加し、F4U、P-39と交戦している。
この日「251空」では、林中尉と海兵同期の香下孝中尉、操練14期のベテラン・大宅秀平中尉、「台南空」以来のエース・大木芳男飛曹長など7名が未帰還となり、「204空」では飛行隊長・宮野善治郎大尉(海兵65期、戦死後2階級特進で中佐)が行方不明となっている。

6月30日未明、ニュージョージア島ムンダ飛行場の対岸、レンドバ島へ米軍が上陸を開始すると、ラバウル航空隊は即日反撃を開始する。 『 ムンダを失えばラバウルは守れない 』 これが第1基地航空隊の認識であった。

□   〃    6月30日 : レンドバ島敵輸送船団攻撃 雷撃隊直掩

「251空」零戦24機は航空魚雷搭載の陸攻26機を直掩してレンドバ島の敵輸送船団を強襲したが、飛行隊長・向井一郎大尉、大野竹好中尉、さらに林中尉と海兵同期の橋本光輝中尉など貴重な基幹搭乗員を含む8名を失う衝撃的な結果となってしまった。陸攻隊の被害はさらに悲劇的なもので、出撃26機中、18機が撃墜されるという壊滅的損害であった。林中尉はこの攻撃には参加していない。

8月上旬ムンダ飛行場はついに連合軍の手に落ち、しぶとく防戦に務めていた陸軍歩兵229連隊はコロンバンガラ島へ後退、短期間のうちに拡張整備されたムンダ飛行場には米海兵隊の戦闘機隊が大挙進出した。これにより中部ソロモン喪失は決定的となり、航空消耗戦の主舞台はブーゲンビル島、そしてラバウルへと移ってゆくのである。

以降も「251空」はラバウル戦闘機隊の中核としてソロモンの空戦を戦うのだが、基幹搭乗員を多数失い、戦力は急激に消耗していった。

9月1日付けで「251空」は夜間戦闘機隊へと改編され、昼間戦闘機搭乗員は「201空」「204空」およびサイパンでの戦力回復を終えて9月上旬〜中旬にラバウル再進出が決まっていた「253空」などへ転属となった。
林中尉は鴛淵大尉、西澤上飛曹らとともに「253空」への転出命令を受ける。

□ 〃  10月 : 「253空」へ転出。分隊長拝命

圧倒的な組織兵力で中部ソロモン・東部ニューギニアへ侵攻する米軍を阻止すべく、ラバウル航空隊は全力出撃を続けたのであるが、まさに「寡衆敵せず」、精鋭戦闘機隊は急速に消耗していった。

林中尉は鴛淵大尉、西澤上飛曹らとともに過酷な戦闘をしぶとく生き抜いたのであったが・・・
「251空」「253空」の行動調書を眺めると、林中尉の出撃回数(基地上空哨戒含む)は50回を超えており、まさに「よくぞ生き残った!」という言葉しかない。※ 因みに「ラバウルの魔王」西澤上飛曹の出撃回数は60回を越えている(!)

□ 〃  10月末 : 鴛淵大尉と共に 「厚木航空隊」 転勤となり、「大分航空隊」発令の西澤上飛曹らと内地へ帰還

■ 本土帰還、戦闘407飛行隊長へ


この時「厚木航空隊」では9月に戦闘機専修を修了したばかりの菅野中尉を含む第38期飛行学生の戦闘機専修組が錬成に励んでいた。従って短い期間ではあるが、後の「343空 / 剣部隊」初代飛行隊長3人が奇しくも同隊に在籍していた可能性が高く、 ラバウル帰りの鴛淵大尉、林中尉が実戦未経験の菅野中尉を指導した可能性もゼロではないと思うのだが・・・?

その後「厚木空」が1944年(昭和19)2月に実施部隊「203空」に改編されると、3人は別々の部隊へと異動してゆく。

鴛淵大尉 → 「203空」( 旧 「厚木空」 ) 戦闘304・飛行隊長
林  中尉 → 「361空」 戦闘407 ・ 飛行隊長兼分隊長(後に「221空」に編入)
菅野中尉 → 「343空 (初代)」 分隊長
※ 実施部隊初配属

□ 1944年(昭和19)3月 1日 : 大尉任官

□    〃     3月15日: 「361空」 戦闘407・飛行隊長兼分隊長

香取基地(千葉県)で編成された戦闘407を率い、鹿児島基地で練成を開始。
新鋭戦闘機「紫電」装備の予定であったが機材受け入れは進まず、結局は零戦隊編成となる。
マリアナ失陥後の7月、戦闘407は2航艦麾下の戦闘機部隊「221空」へ編入され、次なる決戦地・比島方面への進出が迫ってきた。

■ 比島進出、レイテ決戦末期の航空戦に参加


□ 1944年(昭和19)10月23日 : 戦闘407は「221空」他3飛行隊とともに、台湾経由でルソン島アンヘレス基地(クラーク飛行場群のひとつ)に進出

この日から3日間に渡って繰り広げられた「レイテ沖海戦」に合わせ、遂に「神風特攻」も発動されるが米軍の反攻をくい止めることは出来ず、連合艦隊機動部隊は消滅する。残存海軍機は基地航空隊だけとなり、攻撃は特攻に頼るほか術が無くなっていった。

徹底的な敗北となった「レイテ決戦」の末期状況において、後の「343空 / 剣部隊」3人の飛行隊長はそれぞれクラーク地区を拠点に奮闘していたのだが、日々悪化・混乱を極める戦況下、広大なクラーク地区航空基地群の中で顔を合わせる機会は無かったと思われるが、果たしてどうだったのか・・・?

菅野大尉 / 「201空」戦闘306 飛行隊長 ・・・ マバラカット西飛行場  7月より比島航空戦参加、11月中旬頃本土帰還
鴛淵大尉 / 「203空」戦闘304 飛行隊長 ・・・ バンバン飛行場  10月22日進出、負傷により11月下旬本土帰還
林  大尉 / 「221空」戦闘407 飛行隊長 ・・・ アンヘレス 10月23日進出、12月、隊と共に本土帰還

林大尉は戦闘407を率い、機動部隊攻撃、レイテ進攻、基地防衛邀撃などを指揮。10月末にはホロ島に進出し、米軍がレイテ島タクロバン飛行場への戦闘機輸送拠点としていたモロタイ島に夜間奇襲銃撃を敢行するなど、末期状況の比島で苦闘を続けるが・・・12月、戦闘407は内地帰還命令を受ける。


■ ふたたび本土帰還、「343空(2代)」へ


□ 1945年(昭和20)12月上旬 : 戦闘407、笠ノ原基地(鹿児島)へ帰還

□     〃     12月中旬 : 他隊からの転勤者を加え出水基地(鹿児島)に終結、「紫電」による訓練を開始

□     〃     12月25日 : 「343空(2代)」編成される

□ 1945年(昭和20)1月26日 : 戦闘407を率い松山基地へ進出、「紫電改」での訓練を開始

12月25日の隊編成と同時にいち早く松山に進出した菅野大尉の戦闘301、鴛淵大尉が新任飛行隊長として1月8日に松山着任、中旬までに隊員集結を完了した戦闘701に対し、戦闘407の松山進出はやや遅れ気味であったが、このあたりの理由はよくわからない。松山基地側受け入れ態勢の問題であろうか?



▶ 次回は昭和20年3月19日の「343空 / 剣部隊」初実戦から、鹿屋進出までをご紹介します。

戦闘407・初代飛行隊長 林喜重大尉 その2  2011/12/07

「343空」が松山で猛訓練に励んでいた昭和20年1〜3月は、マリアナ基地B-29による日本本土空襲が激化し始めた時期である。1月にカーチス・ルメイ少将が司令官に着任して以来、米陸軍・第21爆撃兵団(XXIBC)の戦略は軍需産業への昼間高高度精密爆撃から主要都市への焼夷弾による夜間無差別爆撃へと変貌しつつあり、悲劇的な「東京大空襲」(3月9〜10日)はまさにその始まりとなった。



▲ 焼夷弾による夜間無差別爆撃を推進した
第21爆撃兵団司令官 カーチス E . ルメイ少将

▼ M69収束焼夷弾
日本家屋の焼失を目的に開発されたクラスター爆弾。
M69焼夷弾38発を内蔵し、空中でバラバラに分離して落下する。同弾が屋根を貫通して着弾すると、時限導火線がTNT爆薬を炸裂させてナパーム(ジェル状の油脂)に着火、ナパームは炎を上げながら周囲に飛び散り、火災を急速に拡大させる。明らかに非戦闘員を爆撃目標とした「悪魔の兵器」であった。



米海軍・海兵隊の動きも加速度を増し、2月16日には硫黄島に上陸を開始、2月16日、25日には機動部隊艦載機が関東・東海地区を空襲、沖縄決戦を前に西日本への来襲は避けられない見通しとなりつつあった。


■ 松山上空大空戦


綿密なチームワークによる編隊戦闘を目指す源田大佐が想定する「343空」の錬成完了目標は「5月」であったが、急速に切迫・悪化する戦況下、彼らに十分な錬成期間は許されなかった。米機動部隊ウルシー出撃の情報を得た源田司令は剣部隊による全力迎撃を決意、3月10日頃から「343空」は警戒態勢に入り、各戦闘機隊は邀撃待機を開始する。


□ 3月18日 : 米機動部隊九州南部を攻撃、「343空」全力出撃

彩雲偵察隊が土佐沖南方に敵機動部隊を発見、戦闘701・鴛淵大尉を総指揮官とする3飛行隊計72機が邀撃に上がるが、敵機群は九州南部だけを襲ったため会敵には至らなかった。しかし、1両日中の呉方面来襲は必至であり、この日の出撃はよい「予行演習」となったのではないか。
「いよいよ明日だ」 全隊員の士気は最高潮に達していたであろう。


□ 3月19日 : 「343空」初実戦 〜 松山上空大空戦

この日未明、彩雲による索敵で敵機動部隊艦載機の動向を把握した「343空」では、日の出前に上空直掩隊の「紫電」7機が発進、次いで0700 戦闘701、戦闘407、戦闘301の順に計50機の紫電改が編隊離陸していった。

戦闘701・407は高度を取りながら豊後水道方面へ移動、最後に発進した戦闘301は、菅野隊長の判断で高度を取る時間を稼ぐため先発2隊を追わず、呉方面へと向かう。

一方、この日の攻撃目標・呉軍港を目指す米艦載機群の総数は戦・爆・攻連合約350機で、先頭の戦闘機部隊は四国南岸・豊後水道を北上しつつあった。高空で待ち受ける「343空」は続々と侵攻してくるF6F、F4U群を邀撃、伊予灘・四国北西部・呉上空に渡る広範囲な空域で激烈な空中戦が展開される。

「戦闘407」林大尉は15機を率いて鴛淵大尉の戦闘701とともに伊予灘〜四国北西部空域で米戦闘機群と乱戦を繰り広げたが、2番機遠藤上飛曹が自爆、自身も降着脚が降りてしまうアクシデントに見舞われ、やむなく岩国飛行場へ不時着する。その後すぐに敵銃撃下の松山飛行場へ飛び戻った大尉は部下の下鶴、中島両上飛曹を率いて再出撃すべく可動3機の補給を急いだ。しかし発進直前にF4Uの銃撃を受け、機上にいた中島上飛曹は戦死、飛行機3機も破壊されてしまう。目前で部下を殺された林隊長の心情はいかばかりだったか・・・!このあと林隊長は再出撃寸前の市村分隊長から「紫電」を半ば強引に譲り受けて単機出撃し、F6F撃墜1機を報告している。


この日「343空」が報告した総合戦果は、空戦撃墜52機、地上砲火撃墜5機の計57機撃墜に上り、久々の「勝ち戦」に隊内は大いに沸いたという。味方の実損害は「343空隊誌」によると、空戦による戦闘機喪失15機、搭乗員戦死17名(自爆した彩雲の3名を含む)であった。


米軍記録では、この日「343空」と戦闘したことが確実な6個飛行隊の報告した総撃墜数は50機にのぼるが、これが本当ならば「343空」はわずか1日で壊滅していたことになり、とんでもない誤認戦果である。一方、実損失は空戦による飛行機喪失10機、搭乗員戦死・行方不明8名(捕虜3名含む)なので、「343空」報告の撃墜57機もこれまた事実とはかなり異なっているようだ。


結果的に日米双方とも空戦にありがちな「誇大戦果報告」となっているが、このことは当日の戦闘がいかに「乱戦」であったかを物語っているとはいえまいか。

■ 「天一号作戦」発動


3月20日、大本営は「天号作戦」を下令、次期米軍主攻勢方面別に以下4つの作戦が準備されることとなる。陸海軍の総力を挙げた航空特攻により、米軍に大出血を強いることが目的であった。

天一号作戦 : 沖縄方面
天二号作戦 : 台湾方面
天三号作戦 : 東南支沿岸方面
天四号作戦 : 海南島・仏印方面

この作戦に対する認識は陸・海軍で大きく異なっている。本土決戦(決号作戦)を想定する陸軍にとっては、その準備期間を稼ぐための「天号作戦」であった。一方海軍は本土決戦の前に最後の決戦において勝利は望めないまでも連合軍側に大出血を強要することにより、少しでも有利な講和実現に望みを託していた。
この戦争において陸軍と海軍は最後まで一致団結することは無かったのだが、国家存亡の危機に直面してなお国策を統一できない当時の日本の指導者達たるや、まさに何をかいわんやである。※ ただし、極めて日本人的な状況であったということもできる。


3月25日 米軍が沖縄慶良間列島に上陸を開始すると、翌26日、連合艦隊は「天一号作戦」(沖縄方面)を発動する。


3月19日の大空戦の後、「343空」各飛行隊は戦闘401(徳島基地)からの補充員を加えて再編成を行っていたが、
「天一号作戦」にともなう同隊の5航艦編入と南九州進出はほぼ決定的となった。

前年10月、レイテ島において初めての航空特攻が行われて以来「菊水作戦」発動までの5か月あまりの間に、陸軍では約280名、海軍では既に1000名近い若者たちが航空特攻によって散華していた。しかし、一撃講和・本土決戦の幻影にすがる大本営は非情の作戦を続行するのである。膨大な尊い命を犠牲にしてしまったが故に、英霊に応えるためにも一矢報わねば・・・という感情は個人的に理解できないではないが、国策としてはやはり常軌を逸しているとしか言いようがない。天皇陛下に止めていただきたかった〜などと愚考するのは私だけだろうか・・・


□ 3月28日 : 剣部隊、「燃料消費計測飛行」を実施

この日、新任務(特攻掩護制空)に対応するため、紫電改による「燃料消費計測飛行」がおこなわれた。

林大尉指揮の紫電改12機が松山〜大分間を2時間半飛行し、その結果、奄美大島・喜界島方面での制空飛行が可能(限界)であることが検証される。

しかし、この実験飛行で林隊長は苦渋を強いられることとなった。4番機をつとめた部下の松村育治飛長(特乙1)が松山基地到達前に不時着し、火傷により片目を失ってしまったのである。


□ 3月29日 : 戦闘407、哨戒飛行中に災難

3月28日午後、米艦載機群が鹿屋方面に来襲したため、翌29日黎明、戦闘407の1隊が哨戒飛行に発進した。
しかし離陸直後、とんでもないアクシデントに見舞われる。

なんと、編隊飛行中の紫電改をグラマンと見誤った戦艦「大和」を含む第1遊撃部隊がこれを砲撃したのである。海上からの予期せぬ「攻撃」を受けた戦闘407では、2機が爆風にあおられて一気に1000mほど高度を落としたが危うく墜落は免れた。基地からの緊急指示で全機無事に松山飛行場に帰着したが、2〜3機が軽い損傷を受けていた。同隊指揮官は林大尉であったと思われる。

第2艦隊旗艦・戦艦「大和」はこの日未明、広島湾兜島沖を抜錨して伊予灘まで航行して反転、夕刻防府沖に投錨している。戦闘407を砲撃したのは大和護衛の「第2水雷戦隊」(旗艦「矢矧」、司令官:古村啓蔵少将))であったことは間違いないようで、『 ドキュメント戦艦大和 』(吉田満 / 原勝洋)によれば同戦隊戦闘詳報に以下の記載があるという。

『 3月29日、第1遊撃部隊は黎明時敵襲必至と判断、対空警戒を厳に航行中、伊予灘において0556頃、敵味方不明機を発見。砲撃、2機撃墜(343空紫電隊と判明)』

「大和」を含む第1遊撃部隊が沖縄水上特攻に出撃する8日前のことであったが、この日の時点では沖縄への「水上特攻」は全く俎上に上っていなかった。


▶ 次回(最終回)は鹿屋進出後の「343空」と、林大尉戦死までをご紹介します。

戦闘407・初代隊長 林喜重大尉 その3  2011/12/16

これで最終回となる予定だった林大尉シリーズですが、
書きはじめたらまたまた長くなってしまい・・・次回(その4)で完結といたします。

■ 「菊水作戦」発動、「343空」鹿屋進出決定


3月26日の「天一号作戦」発動にともない多くの戦闘機隊は5航艦指揮下に入り、続々と鹿児島の航空基地へ集結していた。「601空」(百里原)零戦隊・紫電隊、「252空」(茂原・館山)零戦隊、「210空」(明治基地)零戦隊・紫電隊、「302空」(厚木)零戦隊、「352空」(大村)零戦隊など、内地の主要戦闘機隊が特攻掩護のために大動員された形である。


4月1日
、ついに米軍は沖縄本島への上陸を開始した。同日、海軍は5航艦による「菊水作戦」を発動する。

「菊水作戦」とは沖縄周辺海域に集結する米艦艇群への大規模な航空特攻であった。
4月6日発動の「菊水1号作戦」を皮切りに沖縄戦終結後の6月下旬まで計10次に渡って実施された本作戦により、海軍だけで1300余名が散華することになる。


4月1日、「343空」は有力な制空戦力として3航艦から5航艦へ編入され、部隊は逐次 鹿屋基地へ進出することとなった。
源田司令は「343空」の任務について「特攻隊突撃路啓開」という言葉を使っているが、その主旨は「特攻機援護」ではなく、敵戦闘機群を引きつけて制空戦闘を行うことにより特攻機の進撃を容易化しようというものである。「343空」では奄美大島・喜界島空域での制空戦闘を想定していたが、これは10〜15分の全力戦闘を含め紫電改の航続距離限界に近い進出点であった。


一方、特攻機来襲に苦慮した米軍は、B-29による南九州各飛行場への空襲作戦を検討していた。
同作戦は4月中旬から本格化するのだが、「343空」に対しては前述の「特攻隊突撃路啓開」に加え、B-29邀撃任務も加えられることとなるのである。


□ 4月 6日 : 「菊水1号作戦」発動 (以後11日まで継続)

移動準備中のため松山に在った「343空」は同作戦には参加していないが、先発して偵察飛行隊「801空」に編入されていた偵4の2機がこの日早くも未帰還となった。


4月7日午後、沖縄突入を目指した大和を旗艦とする第1遊撃部隊は東シナ海で敵艦載機群と交戦した。敢闘むなしく大和は沈没し、作戦は中止された。



■ 第1回喜界島制空戦闘 〜 菅野隊奮戦も出撃機の1/3を失う


□ 4月 8日 : 「343空」司令部 鹿屋進出( 源田司令、志賀飛行長、戦闘701分隊士・坂井三郎中尉 )

□ 4月10日 : 戦闘301主力( 菅野大尉指揮 )、戦闘701先遣隊( 山田良市大尉指揮 )、鹿屋進出

◀ 戦闘301 菅野隊長機 「A 343 15」
この写真は1945年(昭和20)4月10日、戦闘301が鹿屋へ進出する直前に松山基地で撮られたものといわれている。胴体の斜め2本帯は隊長機を示しており、菅野隊長機のそれは黄色に塗られていた。この帯を描く時、菅野は整備科員にこう語っていたという
『 黄を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ 』

□ 4月12日 : 「菊水2号作戦」発動、「343空」制空戦闘初出撃

5航艦編入後の「343空」初出撃となったこの日、菅野大尉指揮の44機(戦闘301・36機、戦闘701先遣隊・8機)が出撃待機していた。しかし、エンジン不調により2機が発進不能となり、離陸後さらに8機が引き返したため、奄美群島へ向かう菅野隊の総数は34機に減ってしまう。

喜界島を含む奄美群島はすでに米空母戦闘機隊の完全な哨戒圏内に入っており、敵の真っ只中に突っ込む制空隊にとってこの戦力減は予想外の痛手であった。菅野隊は喜界島上空で敵艦載機群80機以上と激しい戦闘を行い撃墜23機を報告するのだが損害もまた大きく、10機が未帰還となっている。
※この日の時点では、戦闘701・407主力は松山で進出準備中であり、林大尉、鴛淵大尉もまだ松山にあった。



この日、神雷部隊が初めて「桜花」による敵艦攻撃に成功(駆逐艦1隻撃沈)、特攻機も米艦艇群に相当な被害を与えている。「菊水2号作戦」は15日まで続けられ、特攻機は黙々と沖縄方面に消えていった・・・



□ 4月13日 : 林隊長以下 戦闘407主力、鹿屋進出

□ 4月14日 : 鴛淵隊長以下 戦闘701主力、鹿屋進出。この日をもって「343空」の鹿屋移動は完了した。



■ 戦闘301の至宝・杉田上飛曹、壮烈な戦死


□ 4月15日 : 敵艦載機、鹿屋を襲撃


翌16日より開始される「菊水3号作戦」での制空出撃が予定されていた「343空」では、戦闘301の8機が緊急離陸に備えて待機する一方、整備員達は翌日の全力出撃に向けて機体整備に余念がなかった。

一方、一向に衰えを見せない特攻機の波状攻撃を憂慮した米軍は艦載機による飛行場掃射を計画、この日1315、F6F約90機が3空母より発艦、主要特攻基地と見られていた鹿屋及び串良へと向かいつつあった。

1450、電探報告により敵機接近を知った鹿屋基地では源田司令が緊急発進を命じるが、すでに敵機群は基地上空に到達しつつあった。
『 行くな、杉田。もう間に合わない!』
戦闘701・坂井三郎少尉の制止を振り切り、真っ先に発進した杉田上飛曹であったが・・・離陸直後を上空から、しかも複数機で襲われては如何に歴戦の兵でもどうしようもなかった。杉田が発進を開始したまさにその時、本部指揮所では源田司令が「発進中止」を命じるのだが、間一髪で間に合わなかったのである。まだ21歳という若さであった。

杉田を追って発進した3番機・宮沢豊美二飛曹もまた離陸直後に撃破され、飛行場東側の松林に墜落、戦死した。緊急発進待機8機のうち、この時離陸できたのは杉田、宮沢の2機だけで、他機は発進直前にF6Fのロケット弾攻撃を受けたため全員が退避している。

昭和19年4月「263空」で出会って以来、1年に渡り杉田の列機として戦い、この日も2番機に配されていた戦闘301・笠井智一上飛曹は、この時の模様を『343空隊誌』の寄稿文「杉田上飛曹と私」の中で以下の様に書いている。※ 余談であるが、先月たまたま電話でお話しをさせていただいた「南レク 紫電改展示館」ご担当者によれば、笠井さんは今もお元気でいらっしゃるとのことです。詳しくはこちらを → 紫電改展示館PRブログ

『 「 敵編隊鹿屋に向かって北上中 」 の情報が入り、直ちにエンジン試運転もそこそこに1、3番機が猛然と砂ぼこりをあげ、杉田兵曹は後をふり返り上空を指しながら、離陸を始めた。その時、7〜8機のグラマンが銃撃をしながら急降下してきた。もちろん離陸機に向かってである。私はハッ !! と思った。私も直ちに離陸すべくチョーク(車輪止)を外す合図をしたとたん、ロケット弾が炸裂し翼に大穴。もうこれまでと機外に飛び出そうとふと離陸していった方向に目をやった。アッ !! そこに信じられない光景が・・・。グラマンの一撃で杉田機は、グラッとかたむき黒煙とともに飛行場の端に突込むのが目に入った。「杉田兵曹」 私は声にならない大声をあげた 』


碇義朗著 『 最後の撃墜王 』 に杉田上飛曹の火葬に関する記述があるのだが・・・
あまりにも悲壮なので以下に引用させていただく。この様子を目撃したと思われる菅野隊長の胸中やいに・・・!「戦争」とは真に無慈悲極まりないものである(悲)

『 戦死した杉田の遺体は一晩安置されて翌日の昼ごろ、火葬に付されたが、鉄道の枕木を並べて火葬の最中に空襲があり、P51ムスタングのロケット弾攻撃で杉田の遺体が吹っ飛んだという。最後まで壮絶な杉田の終焉であった。』


◀ 杉田庄一少尉 (丙飛3期)
新潟県出身。昭和15年、15歳で海軍に志願。
17年3月飛練卒業とともに「6空」(後の204空)配属となり、ミッドウェイ海戦に参加。その後「204空」とともにソロモン進出、12月初撃墜(B-17)を記録。18年4月、山本連合艦隊司令長官機を護衛する零戦隊6機に選ばれるが、杉田の健闘もむなしく長官機は撃墜されてしまう。その後も鬼神の如く出撃を繰り返すが、8月26日全身火傷を負って本土帰還。大村空教官を経て19年3月「263空」へ異動してマリアナ、カロリンを転戦の後、7月「201空」に転じ比島航空戦に参加。この時菅野大尉と出会っている。翌20年1月、「343空」戦闘301飛行隊へ編入され、同隊の中核戦力として、また菅野大尉の用心棒として活躍した。菅野隊長に心服していたことは有名で、隊長の悪口を言うものに殴りかかったという逸話の持ち主。死の直前の昭和20年春、多数撃墜者として表彰されているが、その公認記録は撃墜110機(個人撃墜70機、共同撃墜40機)に及ぶ。闘魂の権化のような人物像が伝わる一方、空中では歴戦搭乗員に相応しい“したたかな”状況判断力をいかん無く発揮した。「戦(いくさ)上手」とはまさに杉田のための言葉であろう。死後2階級特進で少尉となった。



■ 第2回喜界島制空戦闘 〜 編隊連携できず!手痛い敗北を喫す


4月16日、予定通り「菊水3号作戦」が発動された。今回も海陸軍計400機を超える大規模特攻が計画され、海軍では爆装零戦に加え99艦爆、97艦攻、双発陸攻「銀河」、さらには最新鋭の艦爆「彗星」と艦攻「天山」も特攻機となっている。陸軍では爆装「隼」を主力に、完全に旧式化した97戦、99高錬、99襲撃機のほか、第一線機の「疾風」も投入された。


□ 4月16日 : 「343空」 2回目の制空出撃 〜 林大尉、痛恨の空戦

今回の編成は総指揮官・鴛淵大尉の下、林大尉、菅野大尉もそれぞれの中隊を率い、総勢40機による出撃が予定されていた。しかし、直前に戦闘407の4機が発進取り止めとなり、さらに離陸後3機が引き返したため、制空隊の実数は33機に減ってしまう。

0635鹿屋を発進した制空隊は、トカラ列島上空を通過して奄美大島を目指した。しかし、この時すでに米空母のレーダーは制空隊を補足していた。ホーネット、バターン両空母からの無線指示により奄美大島方面へと北上したF6F計20機は0800先に日本機(制空隊)を発見、高度を取りながら攻撃態勢を整えつつあった。

制空隊は奄美大島南端で左旋回して喜界島上空を飛行中の0815、約500m上空に敵機群を発見する。先頭の鴛淵中隊は高度を取るために急上昇に移ったのだが、ここで後続2中隊との連携が取れず、結果的に鴛淵中隊と林・菅野中隊は完全に分離してしまうこととなった。(この時なぜか鴛淵隊長との無線が通じなかったとも言われている)この直後、林中隊・菅野中隊の紫電改25機は劣位戦のままF6F20機との空戦に突入してゆくのだが、無線による増援要請を行っていた敵方にはさらに8機が加わり、戦闘は終始グラマン優勢で進んでいった。

一方、敵味方ともに見失ってしまった鴛淵中隊はついに最後まで戦闘に参加することが出来ず、奄美大島東北端高度7500mで哨戒飛行を行うにとどまっている。

この日の戦闘結果は悲痛なものであった。「343空」の損害は自爆・未帰還計9機を数え、搭乗員9名を喪失したのである。戦果の方はF6F撃墜3機が報告されているが、米軍記録では損失は飛行機喪失2機(パイロット救助)のみであり、その2機も戦闘による喪失ではないという。

▲ 『 源田の剣 』(ヘンリー境田・高木晃治 共著)247頁掲載の地図をアレンジして描いています。

降着脚収納不能となった3月19日の「松山上空大空戦」に続き、林大尉はこの日も悪戦苦闘の日となった。
今度は落下増槽が落ちないアクシデントに見舞われ、動きの取れない林機は列機とともに低空に追いつめられて苦境に陥ったのである。何とか逃げ切って無事帰投した林隊長であったが、戦闘407は隊長直卒列機全3機を含む未帰還6名を出す結果となってしまう。しかもその中には比島航空戦以来の列機・小竹等飛長(特乙1)が含まれており、責任感が人一倍強く、部下想いの林隊長にとってはまさに痛恨の空戦となった。

碇義朗著『 紫電改の六機 』によれば、帰投後ひとり自室にこもり思いつめる林の様子に異常を感じた菅野大尉が志賀飛行長に報告し、飛行長は源田司令とともに林を慰めたという。これが良かったか悪かったのか、誰も知る由はない。しかし、このことが逆に林隊長への更なるプレッシャーとなってしまった可能性は否めない。

一方、鴛淵大尉も総指揮官としての「責任」を痛感しており、『最後の撃墜王』に帰投時の様子が描かれている。

『 基地に帰着した鴛淵は、飛行機から降りると駈けつけた用務士の中島大次郎少尉には目もくれず、そのまま大地に寝転がって目をつむっていたという 』

次回は本当に最終回
林大尉戦死までの最後の5日間をご紹介します。

戦闘407・初代隊長 林喜重大尉 その4  2011/12/22


■ B-29邀撃戦のはじまり


4月6日の「菊水1号作戦」発動以来、絶え間なく来襲する特攻機に頭を悩ませていた米軍は、ついに超戦略兵器「B-29」の九州方面への本格投入を決定する。在九州飛行場の無力化を目的とした大規模な反復爆撃作戦が計画され、それまで主要都市・軍産施設に対する戦略爆撃に任じていたマリアナ基地B-29主力の矛先は九州へ向けられることとなった。同作戦は4月17日の第1回空襲を皮切りに5月11日まで約1カ月・計16回に渡って実施され、述べ約1700機のB-29が九州各地の航空基地を反復爆撃することになるのであった。


このような評価をするのは個人的に複雑なのだが・・・
約1か月の間、B-29主力部隊を九州の航空基地爆撃に拘束したという事実は、特攻隊の大きな成果であったと考えられる。3月9/10日の「東京大空襲」に端を発した大都市への焼夷弾無差別爆撃はその後、3月11/12日名古屋市、3月13/14日大阪市、3月16/17日神戸市、3月18/19日再び名古屋市、と連続的に実施され、多数の一般市民が業火に晒されていった。だが、米第21爆撃兵団はこの5回の空襲で焼夷弾をほぼ使い切ったため、その後1カ月あまり市街地への無差別爆撃は行われていない。再開されたのは4月15/16日で、東京・川崎に300機以上が来襲している。しかし、直後に九州航空基地爆撃作戦が開始されたため、市街地への焼夷弾無差別爆撃は5月中旬まで実施されることは無かったのであった。
当時、日本の主要都市では学童疎開が最終段階に入っていたことなども考慮すれば、この1カ月間の「猶予」の持つ意味は大きい。特攻隊の英霊は国民多くの命を救ったのだ、と私は思う。
※ 当然であるが、「特攻」という攻撃手法自体、決して命令してはならないものである。


◀ 空襲予告ビラ
1945年(昭和20)7月頃から全国主要都市上空で散布されたもののひとつ。標的となる都市名が多数書かれており、実際に約半数の都市で空襲があったという。反対面には日本国民に向けたメッセージが印刷され、時期と場所により多数のバージョンが存在する。
左のビラの場合、アメリカの敵は日本国民ではなく軍部であること、家族や親族の命を守るため表記した都市から一刻も早く避難せよとの警告などが記されている。
※これらのビラを拾った場合、読まずに警察に提出することが国民の義務とされていた。『内務省令第6号 敵の図書等に関する件』により、 所持した場合3ヶ月以上の懲役 又は10円(現在の約16,000円くらい)以下の罰金。内容を第3者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役という罰則が定められていた。


3月に硫黄島へ進出し、父島・母島への攻撃を繰り返していた米陸軍・第7戦闘機兵団の P-51ムスタングは4月に入って日本本土上空へ現れはじめる。P-51 + B-29の戦爆連合による初空襲は4月7日であった。この日、91機のP-51が中島武蔵製作所を目指すB-29約100機を護衛して飛来、、撃墜20機を報告している(損失2機)九州作戦発動前日の4月16日にはB-25の航法支援によりP-51約100機が鹿屋基地へ侵攻するが、慣れない洋上長距離飛行のためか戦果なしで4機を喪失した。九州作戦でのB-29は飛行場への爆撃精度を上げる目的で「昼間・中高度爆撃」を選択していたため、P-51による掩護はかなり効果的だと思われるのだが、結果的に同作戦中 P-51が帯同飛来したのは4月26日の1回のみであった。この原因については個人的によく判らないのだが・・・この時期まだ不慣れだったと思われる洋上長距離飛行のリスクを回避したのか、もっぱら九州方面の天候による問題だったのか、あるいは硫黄島への帰投に問題があったのか?


□ 4月17〜18日 : 「343空」 鹿屋から 第一国分 へ移動、B-29九州航空基地爆撃作戦開始

4月17日午前中、「343空」は鹿屋から約40km北方の「第一国分飛行場」へと移動する。この措置は源田司令の発案によっておこなわれたが、その理由は鹿屋進出後に発覚した以下の様な問題点にあった。


5航艦司令部のある鹿屋には多くの部隊が集中・混在しているため、迅速な編隊離陸が困難
鹿屋は日本軍警戒網に近すぎるため、余裕を持った邀撃指示が出せない

特に△亡悗靴討蓮⊃田上飛曹をむざむざ戦死させてしまったことが指令の心に大きく響いていたのであろう。

▲ 1945年(昭和20)3月18日の鹿屋飛行場、右は被爆中である。ともに米海軍機による航空写真


新しい基地へ移動した「343空」であったが・・・その日の午後、B-29の空襲を受けることとなった。

この日午後 九州を襲ったB-29の総数は6群・118機で、目標は鹿屋ほか南九州の主要6飛行場であった。
第一国分は1430頃から爆撃を受けたのであるが、驚くべきことに完全な奇襲であったという。源田司令は自著『海軍航空隊始末記』の中で以下の様に記している。

『 この基地に移って間もなく、飛行場の指揮所で雑談などしている時に、突如としてB29の編隊が来襲した。「上空敵機」の報に、急いで外に出て見ると、青空を背景に数機の大型機編隊が見えた。警報も何もないままに突然見えたのであるから、最初は味方の中攻かと思ったが、「どうも違っているようだ」 』

奇襲爆撃を受けた「343空」では人員被害は無かったが滑走路に損害を受けたようで、この日「343空」はB-29邀撃に出撃していない。B-29群は全機が無事帰還している。



翌4月18日、九州地方は曇天であったが、前日を上回る約130機のB-29が来襲し、鹿屋、国分、大村、太刀洗、新田原、笠ノ原、出水、宮崎などに空襲を加えた。「343空」は邀撃出動した模様であるが、この日の編成・戦果について明確な記録は残っていないようである。ただし地上被害に関しては『 三四三空隊誌 』に記述されている。
爆撃を受けた第一国分飛行場では、たまたま爆弾が戦闘407の列線へ多数落下したため、周囲にいた同隊の整備兵達が犠牲となっている(戦死2名、重軽傷9名)
またしても最大被害を蒙ったのは戦闘407であった。16日の空戦における部下6名喪失に続き、今度は空襲による地上員の戦死・・・林隊長の心中は如何ばかりだったか。


□ 4月19〜20日 : B-29攻撃法で激論

4月19・20日の両日、九州上空は悪天候であったため第21爆撃兵団はB-29の出撃を取りやめている。

従来の「特攻隊進路啓開」任務に加え「B-29邀撃」も求められていた「343空」では、連日「B-29攻撃法」について議論が交わされていた。もともと対戦闘機を目的に編成され錬成を重ねてきた「343空」紫電改部隊に、いきなり大型爆撃機邀撃を命じること自体が無理な注文ではある。しかも相手はただの大型機ではなく、重装甲と強力な編隊火網をもつ難敵中の難敵「超・空の要塞」であった。

大型機攻撃に実績と確信を持っていた菅野大尉は自らが編みだした「前上方背面垂直攻撃」を力説するが、林大尉は垂直に近い後上方攻撃を主張して互いに譲らず、鴛淵大尉も危険度の高い菅野の攻撃法には賛同しなかった。結局、隊としての結論には至らず、「やってみて、その実績の上で決めよう」となったという。


4月20日、林大尉と菅野大尉は再びB-29について議論を交わすのであるが、源田司令は自著『海軍航空隊始末記』の中で、その時の模様を “ 後に菅野大尉から聞いた話 ” として以下の様に記している。

『 4月20日、何等の獲物もなくて帰って来た林大尉は、戦闘301の菅野大尉に言った。
「明日、撃墜出来なかったら俺はもう帰ってこないぞ」
「そんなにまでする必要はないでしょう。運が悪くて堕ちない時は仕方がないじゃないですか。また次の機会にやれば良い」
「いや、君はそれで気が済むかも知れないが、俺には我慢できない。1機も射墜せなければ帰ってこない」
これには菅野大尉もちょっとむっとした。
「あなたがそれ程までに言われるなら、そうしなさい。私も墜さなければ帰ってこないことにします」
こんなやりとりがあったことは、彼(林大尉)が戦死した後に、菅野大尉から聞いて知った。』

※ 4月20日にB-29の出撃記録は無いのだが、単機または少数機による偵察があったのだろうか?

鴛淵大尉、林大尉、菅野大尉の3人はそれぞれ兵学校1期ちがいであった。菅野は、兵学校時代すでに人格者として知られていた2期先輩の鴛淵には一目置いていたようであるが、1期先輩の林とはよく議論していたという。これは菅野の奔放な性格によるのだろうが、林の温厚さも手伝っていたのではないだろうか。またこの2人は、同じ飛行隊長として互いにライバル的な感覚もあったとのこと。18日にB-29の空襲を受けた際、指揮所にいた2人は退避せず、椅子に座って“我慢比べ”をやっていたという逸話もある。


 

■ 4月21日、B-29編隊来襲 「343空」出撃


4月21日は晴天であった。満を持していたサイパン・テニアン・グアムの3個爆撃飛行団(73BW、313BW、314BW)のB-29計252機が九州を目指して発進した。

一方、第一国分では0600〜0620にかけて鴛淵大尉総指揮の下、25機の紫電改が飛び立っていった。
この日の編成は以下の通りである。

▲ 『源田の剣』(ヘンリー境田、高木晃治 共著)276〜277頁掲載の編成表を元に作成しています

上掲編成表の通り、林大尉は第1中隊・第3小隊長として出撃しているのだが、『源田の剣』によればこの編成には次のような裏話があったという。

当日の戦闘407編成案を作成したのは分隊士の本田稔飛曹長であったが、林大尉を出撃から外し、自らが第3小隊を率いる案を作っていた。戦闘407編成以来 林隊長を支えてきた本田としては、喜界島戦闘で列機を多数失い冷静さを欠いた状態で林隊長を出撃させてはならないというベテランとしての判断があったのだ。
しかしB-29撃墜に執念を燃やす林隊長はこれを認めず、隊長命令で本田飛曹長と入れ替わったのである。

「編成替えついでに、本田飛曹長が第3小隊・第2区隊に入ってくれていたら・・・」
「343空でも指折りの実力者・本田飛曹長がいれば隊長を守れたのではないか?」
〜などと短絡的な発想をしてしまう自分がちょっと嫌になる Orz


 
■ 林隊長、執念の追撃と戦死


0700頃、林区隊は福山(国分基地南東、現:霧島市福山町)上空を高度6000mで北西進するB-29の一群を発見し、すぐさま攻撃に入った。しかしこの機動に列機がついてこれず、結果的に単機分離することとなってしまう。出水方面へと向かう「B-29」19機編隊に喰らい付いた林機は執拗に攻撃を加え続けた。その後、戦闘301本隊と離れ単機哨戒中の清水一飛曹が出水上空で合流し、2機で攻撃を加え続ける。
そしてついに・・・林隊長は基地に向け報告する「B-29 1機撃墜!」 しかしこの直後、隊長は消息を絶った。

林隊長と清水一飛曹が交戦したB-29群は、出水基地を爆撃目標とした第313飛行団・第504爆撃集団(313BW・504BG)の一部であると思われる。この日出撃したB-29総数は252機にのぼり、爆撃目標は「太刀洗」「新田原」「大分」「笠ノ原」「鹿屋」「宇佐」「国分」「串良」「出水」などであった。


▲ 『源田の剣』『紫電改の6機』『最後の撃墜王』『三四三空隊誌』などの情報を参考に、全くの想像で描いた図ですので信憑性は?です(謝)B-29の進入路については、多数の悌団がそれぞれの目標を目指し時間差を持って飛来しているため、詳細がわからず記入できませんでした。


撃墜報告を入れた時、すでにエンジンに被弾し垂直尾翼先端も吹き飛ばされていた林機は操縦不能に陥っていた。大尉は阿久根海岸沖に不時着を敢行するのだが・・・落下増槽を付けたままであったため機首から海面に突っ込む形となり、顔面を計器盤に打ちつけた大尉は頭蓋骨骨折で即死する。(ほとんど墜落に近かったとも伝わっている)
30分に及ぶ追撃戦の末の壮絶な戦死であった。

戦闘前に増槽を落とすのが空戦の常であるが、今回大尉は長時間の追撃戦闘を見越し、わざと落とさなかったものと思われる。それでは、不時着時に何故落とさなかったのだろうか?喜界島制空戦闘の時のように故障で“落ちなかった”のだろうか?それともB-29撃墜の歓喜のあまり気付かなかったのだろうか?戦闘407は松山進出の直前まで出水基地で練成を重ねている。従って、周辺の地勢は熟知していたはずであり、だからこそ遠浅の阿久根海岸へ着水を試みたと想像するのだが・・・今となっては全く知る術は無い。

林大尉と共に戦った戦闘301・清水俊信一飛曹(丙11)もまた散華している。エンジンに被弾した清水機は蕨島北方海面に墜落、清水一飛曹は機と共に海没したのであった。

この日「343空」の戦果報告はB-29撃墜2(1機共同)撃破2であるが、米軍記録ではこの日喪失したB-29は皆無であった(!)


■ 慰霊碑


林大尉の遺体は阿久根海岸の松林で火葬に付され、翌日隊員たちに遺骨が渡されました。
大尉が荼毘に付されたその場所には、現在3つの石碑が建っています。
『故林少佐戦死之地』と刻まれた林喜重隊長の慰霊碑、その奥に、林隊長と戦闘407飛行隊戦没者および清水俊信一飛曹(戦闘301)の英霊を鎮魂する二つ碑文です。戦闘407ご生存隊員の皆さま及び関係者の方々のご尽力で綺麗に整備されているとのこと。
やはり林隊長は「仁の人」ですね。〜〜いつか御礼を伝えに参らねばと思っております (合掌)

▶ 「343空」の死闘はまだまだ続くのですが、林隊長シリーズはここまでです。

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