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戦闘407・初代飛行隊長 林喜重大尉 その2  2011/12/07

「343空」が松山で猛訓練に励んでいた昭和20年1〜3月は、マリアナ基地B-29による日本本土空襲が激化し始めた時期である。1月にカーチス・ルメイ少将が司令官に着任して以来、米陸軍・第21爆撃兵団(XXIBC)の戦略は軍需産業への昼間高高度精密爆撃から主要都市への焼夷弾による夜間無差別爆撃へと変貌しつつあり、悲劇的な「東京大空襲」(3月9〜10日)はまさにその始まりとなった。



▲ 焼夷弾による夜間無差別爆撃を推進した
第21爆撃兵団司令官 カーチス E . ルメイ少将

▼ M69収束焼夷弾
日本家屋の焼失を目的に開発されたクラスター爆弾。
M69焼夷弾38発を内蔵し、空中でバラバラに分離して落下する。同弾が屋根を貫通して着弾すると、時限導火線がTNT爆薬を炸裂させてナパーム(ジェル状の油脂)に着火、ナパームは炎を上げながら周囲に飛び散り、火災を急速に拡大させる。明らかに非戦闘員を爆撃目標とした「悪魔の兵器」であった。



米海軍・海兵隊の動きも加速度を増し、2月16日には硫黄島に上陸を開始、2月16日、25日には機動部隊艦載機が関東・東海地区を空襲、沖縄決戦を前に西日本への来襲は避けられない見通しとなりつつあった。


■ 松山上空大空戦


綿密なチームワークによる編隊戦闘を目指す源田大佐が想定する「343空」の錬成完了目標は「5月」であったが、急速に切迫・悪化する戦況下、彼らに十分な錬成期間は許されなかった。米機動部隊ウルシー出撃の情報を得た源田司令は剣部隊による全力迎撃を決意、3月10日頃から「343空」は警戒態勢に入り、各戦闘機隊は邀撃待機を開始する。


□ 3月18日 : 米機動部隊九州南部を攻撃、「343空」全力出撃

彩雲偵察隊が土佐沖南方に敵機動部隊を発見、戦闘701・鴛淵大尉を総指揮官とする3飛行隊計72機が邀撃に上がるが、敵機群は九州南部だけを襲ったため会敵には至らなかった。しかし、1両日中の呉方面来襲は必至であり、この日の出撃はよい「予行演習」となったのではないか。
「いよいよ明日だ」 全隊員の士気は最高潮に達していたであろう。


□ 3月19日 : 「343空」初実戦 〜 松山上空大空戦

この日未明、彩雲による索敵で敵機動部隊艦載機の動向を把握した「343空」では、日の出前に上空直掩隊の「紫電」7機が発進、次いで0700 戦闘701、戦闘407、戦闘301の順に計50機の紫電改が編隊離陸していった。

戦闘701・407は高度を取りながら豊後水道方面へ移動、最後に発進した戦闘301は、菅野隊長の判断で高度を取る時間を稼ぐため先発2隊を追わず、呉方面へと向かう。

一方、この日の攻撃目標・呉軍港を目指す米艦載機群の総数は戦・爆・攻連合約350機で、先頭の戦闘機部隊は四国南岸・豊後水道を北上しつつあった。高空で待ち受ける「343空」は続々と侵攻してくるF6F、F4U群を邀撃、伊予灘・四国北西部・呉上空に渡る広範囲な空域で激烈な空中戦が展開される。

「戦闘407」林大尉は15機を率いて鴛淵大尉の戦闘701とともに伊予灘〜四国北西部空域で米戦闘機群と乱戦を繰り広げたが、2番機遠藤上飛曹が自爆、自身も降着脚が降りてしまうアクシデントに見舞われ、やむなく岩国飛行場へ不時着する。その後すぐに敵銃撃下の松山飛行場へ飛び戻った大尉は部下の下鶴、中島両上飛曹を率いて再出撃すべく可動3機の補給を急いだ。しかし発進直前にF4Uの銃撃を受け、機上にいた中島上飛曹は戦死、飛行機3機も破壊されてしまう。目前で部下を殺された林隊長の心情はいかばかりだったか・・・!このあと林隊長は再出撃寸前の市村分隊長から「紫電」を半ば強引に譲り受けて単機出撃し、F6F撃墜1機を報告している。


この日「343空」が報告した総合戦果は、空戦撃墜52機、地上砲火撃墜5機の計57機撃墜に上り、久々の「勝ち戦」に隊内は大いに沸いたという。味方の実損害は「343空隊誌」によると、空戦による戦闘機喪失15機、搭乗員戦死17名(自爆した彩雲の3名を含む)であった。


米軍記録では、この日「343空」と戦闘したことが確実な6個飛行隊の報告した総撃墜数は50機にのぼるが、これが本当ならば「343空」はわずか1日で壊滅していたことになり、とんでもない誤認戦果である。一方、実損失は空戦による飛行機喪失10機、搭乗員戦死・行方不明8名(捕虜3名含む)なので、「343空」報告の撃墜57機もこれまた事実とはかなり異なっているようだ。


結果的に日米双方とも空戦にありがちな「誇大戦果報告」となっているが、このことは当日の戦闘がいかに「乱戦」であったかを物語っているとはいえまいか。

■ 「天一号作戦」発動


3月20日、大本営は「天号作戦」を下令、次期米軍主攻勢方面別に以下4つの作戦が準備されることとなる。陸海軍の総力を挙げた航空特攻により、米軍に大出血を強いることが目的であった。

天一号作戦 : 沖縄方面
天二号作戦 : 台湾方面
天三号作戦 : 東南支沿岸方面
天四号作戦 : 海南島・仏印方面

この作戦に対する認識は陸・海軍で大きく異なっている。本土決戦(決号作戦)を想定する陸軍にとっては、その準備期間を稼ぐための「天号作戦」であった。一方海軍は本土決戦の前に最後の決戦において勝利は望めないまでも連合軍側に大出血を強要することにより、少しでも有利な講和実現に望みを託していた。
この戦争において陸軍と海軍は最後まで一致団結することは無かったのだが、国家存亡の危機に直面してなお国策を統一できない当時の日本の指導者達たるや、まさに何をかいわんやである。※ ただし、極めて日本人的な状況であったということもできる。


3月25日 米軍が沖縄慶良間列島に上陸を開始すると、翌26日、連合艦隊は「天一号作戦」(沖縄方面)を発動する。


3月19日の大空戦の後、「343空」各飛行隊は戦闘401(徳島基地)からの補充員を加えて再編成を行っていたが、
「天一号作戦」にともなう同隊の5航艦編入と南九州進出はほぼ決定的となった。

前年10月、レイテ島において初めての航空特攻が行われて以来「菊水作戦」発動までの5か月あまりの間に、陸軍では約280名、海軍では既に1000名近い若者たちが航空特攻によって散華していた。しかし、一撃講和・本土決戦の幻影にすがる大本営は非情の作戦を続行するのである。膨大な尊い命を犠牲にしてしまったが故に、英霊に応えるためにも一矢報わねば・・・という感情は個人的に理解できないではないが、国策としてはやはり常軌を逸しているとしか言いようがない。天皇陛下に止めていただきたかった〜などと愚考するのは私だけだろうか・・・


□ 3月28日 : 剣部隊、「燃料消費計測飛行」を実施

この日、新任務(特攻掩護制空)に対応するため、紫電改による「燃料消費計測飛行」がおこなわれた。

林大尉指揮の紫電改12機が松山〜大分間を2時間半飛行し、その結果、奄美大島・喜界島方面での制空飛行が可能(限界)であることが検証される。

しかし、この実験飛行で林隊長は苦渋を強いられることとなった。4番機をつとめた部下の松村育治飛長(特乙1)が松山基地到達前に不時着し、火傷により片目を失ってしまったのである。


□ 3月29日 : 戦闘407、哨戒飛行中に災難

3月28日午後、米艦載機群が鹿屋方面に来襲したため、翌29日黎明、戦闘407の1隊が哨戒飛行に発進した。
しかし離陸直後、とんでもないアクシデントに見舞われる。

なんと、編隊飛行中の紫電改をグラマンと見誤った戦艦「大和」を含む第1遊撃部隊がこれを砲撃したのである。海上からの予期せぬ「攻撃」を受けた戦闘407では、2機が爆風にあおられて一気に1000mほど高度を落としたが危うく墜落は免れた。基地からの緊急指示で全機無事に松山飛行場に帰着したが、2〜3機が軽い損傷を受けていた。同隊指揮官は林大尉であったと思われる。

第2艦隊旗艦・戦艦「大和」はこの日未明、広島湾兜島沖を抜錨して伊予灘まで航行して反転、夕刻防府沖に投錨している。戦闘407を砲撃したのは大和護衛の「第2水雷戦隊」(旗艦「矢矧」、司令官:古村啓蔵少将))であったことは間違いないようで、『 ドキュメント戦艦大和 』(吉田満 / 原勝洋)によれば同戦隊戦闘詳報に以下の記載があるという。

『 3月29日、第1遊撃部隊は黎明時敵襲必至と判断、対空警戒を厳に航行中、伊予灘において0556頃、敵味方不明機を発見。砲撃、2機撃墜(343空紫電隊と判明)』

「大和」を含む第1遊撃部隊が沖縄水上特攻に出撃する8日前のことであったが、この日の時点では沖縄への「水上特攻」は全く俎上に上っていなかった。


▶ 次回(最終回)は鹿屋進出後の「343空」と、林大尉戦死までをご紹介します。

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