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帝都防空の要「302空」 その(1) 2014/10/18


雷電Tシャツのモチーフとさせていたたいた海軍初の防空戦闘機部隊「302空」ですが、
本日から2回に分けてその概要を書きたいと思います。
1回目は、編成(昭和19年3月)から昭和20年3月頃までです。



帝都防空の要「海軍第302航空隊」(さんまるふた) その(1)



■ 「302空」編成 B-29本土空襲迫る

昭和19年7月のサイパン島陥落によって、マリアナ諸島からの超兵器B-29による本土空襲が急速に現実味を帯びてきます。しかしその一方、陸海軍ともに限られた航空戦力を捷一号作戦(フィリピン決戦)に優先投入せざるを得ない切迫状況にあり、結果的に本土防空は後回しにされた感がありました。そして、本土防空を担う陸軍が防空組織の改編を進めつつあった昭和19年春~夏にかけて、海軍では3つの本土防空戦闘機隊が誕生します。関東防空「302空」、呉地区防空「332空」および佐世保・長崎・大村地区防空「352空」がそれで、小園安名中佐(後に大佐)を指令とする302空(厚木基地)は最も強力な防空戦闘機隊として期待されていました。

これら3つの防空戦闘機隊へは昭和19年4月以降「雷電」の配備が進められましたが、エンジンや主脚の故障多発、視界不良、高い着陸速度などから操縦員に敬遠され、習熟訓練は思うように進展しない状況が続きます。

マリアナ基地発のB-29空襲が始まった昭和19年11月時点における302空の戦力は以下の通りで、陸軍も含めた首都防空部隊中最大の戦力を有していたと思われます。

302空戦力表

【 左 】 302空指令・小園安名大佐(海兵51期)

ラバウル「251空」指令時代に夜間戦闘機「月光」を誕生させた小園大佐は、斜め銃の発案者であるとともに熱烈な信奉者として知られています。302空では小園指令の命によって夜戦隊すべての機体に斜め銃が装備され、さらに昼間邀撃担当の雷電、零戦にまで装備を要求して周囲を惑わせました。その異常なまでの想い入れは搭乗員を集めて言い放ったと伝わる次の言葉に表れています。
 「斜め銃に反対の者はこの基地から出ていけ」



■ 北九州で上った対B-29初戦果

関東防空が主任務の302空ですが、その初戦果は北九州で上がります。昭和19年6月、中国・成都発のB-29による北九州空襲が始まると、302空は佐世保空の要請を受けて夜間戦闘機「月光」3機を大村に派遣、8月20日の夜間邀撃において日中戦争以来のベテラン・遠藤幸男大尉機が撃墜2機、不確実撃墜1機、中破2機の戦果を挙げました。これは海軍防空戦闘機隊による対B-29初戦果であり、遠藤大尉は「B-29撃墜王」として一躍マスコミの寵児となります。しかし大尉の実際の報告は中破3機、小破2機であり、陸軍に対抗した佐世保鎮守府による戦果水増しが指摘されています。

【 左 】 遠藤幸男大尉(乙飛1期)

遠藤大尉はラバウル「251空」以来の月光操縦員で、302空では昭和19年8月20日の北九州邀撃戦において海軍防空戦闘機隊初のB-29撃墜を記録しました。以後は戦果を重ねる度に新聞・雑誌などで報道され、同航空隊きっての有名人となります。しかし昭和20年1月14日、遠州灘上空でB-29撃墜1機を報告後に被弾炎上、偵察員・西尾治上飛曹とともに脱出しましたが落下傘が開かず墜落、2名とも壮烈な戦死を遂げました。戦死後二階級特進で中佐、享年29歳。遠藤ペアの対B-29総戦果は撃墜6機・撃破10機とされています。



■ 八丈島派遣隊、前進邀撃ならず

昭和19年11月に入り、関東上空に偵察型B-29「F13」が姿を現し始めると、302空は陸軍の早期警戒レーダー「電波警戒乙」が設置されていた八丈島月光3機(11月中旬に1機追加して4機となる)を派遣します。敵機群が本土へ達する前に洋上で一撃を加えようという理にかなった戦術で、月光隊は翌20年1月まで約2ヵ月間に渡り同島に駐留を続けましたが、レーダーの精度不足、月光の機数不足や天候不良などにより遂に交戦機会は訪れず、前進邀撃は空振りに終わっています。



■ 関東上空、高空の苦闘

昭和19年11月24日を皮切りにマリアナ基地発のB-29による昼間空襲が本格化すると、302空は陸軍防空戦隊とともに全力邀撃を続け、高空戦闘に慣れるとともに戦果を拡大していきました。12月3日の邀撃戦では雷電隊がB-29撃墜3機を報告、さらに敵の爆撃目標が中京地区へと拡大したことで足の長い月光隊も戦果を挙げ始めます。しかし、レーダー警戒網が本土に近すぎるため初動が遅れてしまう致命的要因に加え、1万メートル前後の高空を高速飛来する敵編隊の補足攻撃は全ての日本機にとって至難の業であり、毎回の全力出撃にもかかわらずB-29群に決定的ダメージを与えることは出来ませんでした。この時期、陸軍防空戦隊は“空対空体当り”を目指す「震天制空隊」を編成して決死的邀撃を敢行しましたが、302空では採用されていません。

【 左 】 坪井庸三大尉(飛行予備学生9期)

雷電を乗りこなした坪井大尉は302空でも指折りの活躍を見せました。昭和19年12月3日の邀撃戦においてB-29初撃墜を記録、翌昭和20年2月12日には犬吠岬上空で偵察型B-29「F13」を撃墜する殊勲を上げます。さらに米艦載機群が大量来襲した2月16日にはF6F撃墜2機(協同撃墜1含む)を記録して雷電が戦闘機戦をこなし得ることを実証しました。4月1日、またも「F13」を撃破した坪井大尉でしたが、離脱中に被弾して墜落、戦死を遂げます。



■ 米軍、戦術を変更

当初は航空機工場を主目標とした昼間高々度精密爆撃に徹していた米軍ですが、日本側の執拗な反撃に加え、曇天が多く天候にも恵まれなかったこと、さらに偏西風(ジェットストリーム)による異常高速化に秘密兵器・ノルデン爆撃照準器が対応できないなど、一向に満足な爆撃効果を上げることができませんでした。その一方、B-29の損失は決して少ないものではなく、昭和20年1月27日の中島飛行機・武蔵製作所への昼間空襲で9機、2月10日の中島飛行機・太田製作所への昼間爆撃では空襲開始以来最悪の12機を喪失しています。そして、サイパンの第21爆撃集団(21thBG)司令官がハンセルからルメイへと交代した昭和20年3月頃から爆撃戦術を転換し、夜間低高度焼夷弾爆撃を多用し始めます。



■ 敵戦闘機に苦戦

ここで、今まで活躍の場が少なかった302空の夜戦隊(斜め銃装備の零夜戦・月光・銀河・彗星夜戦)が徐々に本来の力を発揮して戦果を挙げ始めます。しかし、硫黄島をめぐる戦闘が始まるとF6Fを中心とした米艦載機群が関東に大挙して来襲、さらに同島陥落以降はP-51ムスタング編隊が飛来するに至って、斜め銃しか持たない夜戦隊は昼間作戦には使えなくなり、雷電、零戦の被害もまた増大していきました。当初は航法能力の関係でB-29に随伴していたP-51ですが、徐々に戦闘機隊単独の昼間襲撃も常態化していくこととなります。対戦闘機空戦に不慣れだった日本軍防空部隊は苦境に追い込まれましたが、302空・赤松貞明少尉(のちに中尉)など一部ベテラン操縦員たちは例外的な活躍を見せています。

米艦載機が大挙して関東に来襲した昭和20年2月16~17日の両日、零戦隊を指揮して邀撃に上った赤松少尉F6F撃墜4機、撃破2機を記録、後日には雷電でP-51撃墜も記録しており、その空戦技量は伝説的とさえ言われています。


【 左 】 赤松貞明中尉(操練17期)

日中戦争を13空・12空などで過ごし大東亜戦争勃発時は3空に所属していた歴戦の兵・赤松中尉は、その抜群の空戦技量に粗野な素行?も相まって、士官からも一目置かれる“知る人ぞ知る”存在でした。302空では雷電を熟知した操縦員の一人として出撃するかたわら、磯崎千利中尉などとともにその操縦法を指導しました。赤松中尉が最も口やかましく言ったのは「速度を落とすな」で、雷電の持つ優れた加速性と上昇力を活かす一方、零戦の感覚でスロットルを絞ればたちまち失速・墜落の危険性が増すことを指摘しています。また、「深追いするな」「俺から離れるな」といった口癖は、空戦に対する膨大な経験値と絶対的自信を示すものでしょう。14年に渡る戦闘機生活を生き抜いた赤松中尉の飛行時間は6000時間を超え、撃墜総数は自称350機(!)ですが、実数は27機程度と判定されているようです。

★ 長くなるので本日はここまでです。明日は終戦までの戦いを概説させていただきます。

主要参考文献

  ■ 『 本土防空戦 』(渡辺洋二、1997、朝日ソノラマ)
  ■ 『 迎撃戦闘機 雷電 』(碇義朗、2006、光人社)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊 』(秦郁彦・伊沢保穂、2010、大日本絵画)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊2 エース列伝 』(秦郁彦・伊沢保穂、2011、大日本絵画)
  ■ 『 世界の傑作機 海軍局地戦闘機「雷電」』(1996、文林堂)
  ■ 『 世界の傑作機 ボーイングB-29』(1995、文林堂)
  ■ 『 航空ファンイラストレイテッド「写真史」 302空 』(渡辺洋二解説、1997、文林堂)
  ■ 『歴史群像 太平洋戦争シリーズ 局地戦闘機 雷電』(2000、学研)
  ほか

局地戦闘機「雷電」302空Tシャツ

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