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帝都防空の要「302空」 その(2)  2014/10/19


302空概説、2回目は沖縄戦勃発から終戦までを追います。


帝都防空の要「海軍第302航空隊」(さんまるふた) その(2)



■ 沖縄戦勃発、相次ぐ九州への派遣

4月、沖縄戦勃発とともに菊水特攻作戦が始まると、同作戦援護のため関東防空専任の302空に対しても相次いで派遣命令が下ります。まず4月上旬~中旬にかけて零戦1個分隊が笠ノ原へ派遣されて南西諸島方面制空に従事、次いで九州全域の航空基地へ集中爆撃を開始したB-29群に対抗するため、4月下旬~5月中旬にかけて雷電19機が鹿屋基地へ進出します。B-29邀撃に有効とされた雷電は332空、352空からも派遣され、集成雷電隊「竜巻部隊」を名乗りました。竜巻部隊はエンジン不調に悩まされながらも健闘し、P-51がほとんど現れなかった幸運も奏功してB-29撃墜確実8機(ほぼ確実4機含む)、撃破46機を報告していますが、302空雷電隊はその半数を超えるB-29撃墜確実5機(不確実2含む)、撃破31機を報告して気を吐きました。

【 左 】 笹沢等一飛曹(甲飛11期)

302空雷電隊・鹿屋派遣隊の中でも出色の活躍を見せたのが笹沢一飛曹でした。まず4月28日に鹿屋上空でB-29を1機撃墜の後、さらに撃墜確実1機を追加、そして翌29日にも3機に白煙を曳かせて撃破3を追加しています。

左の画像は終戦間際の7月に上映された最後の「日本ニュース」の一コマで、笹沢一飛曹が空戦方法を質問している場面です。※ この後に赤松貞明中尉の空戦指導が収録されています。
NHKアーカイブス「日本ニュース 第254号」海の荒鷲「雷電」戦闘機隊



■ 必死の防戦も空しく

一方、帝都防空では5月24未明および25~26日深夜にかけての夜間迎撃で大戦果が挙がりました。東京西部地区を襲ったB-29延べ1000機に対して陸海軍防空戦隊は全力で邀撃、302空夜戦隊(月光、銀河、彗星夜戦、零夜戦)が撃墜24機、撃破14機を報告したのです。しかし、必死の反撃にもかかわらず東京はほぼ全域が焼野原と化すこととなりました。この3日に渡る作戦で実に40機以上のB-29を喪失した米軍でしたが、その後も5月末~6月中旬にかけて主要都市への空襲は続き、横浜、大阪、神戸が相次いで灰塵に帰していきます。

【 左 】 中芳光上飛曹(丙飛4期)

零式水上観測機(ゼロカン)操縦者として熾烈なソロモン航空戦を戦い抜いた中上飛曹は、経験に裏打ちされた空戦技術と不屈の闘志を併せ持った強者でした。本土帰還後は陸上機に転科して直ぐに彗星を乗りこなし、「302空」彗星夜戦隊トップの戦果を上げるとともに下士官搭乗員の要として精神的支柱の役割も果たしています。常にコンビを組んだ偵察員・金沢久雄中尉(飛行予備学生13期)との「中-金沢ペア」の活躍は有名で、昭和20年2月10日の彗星12戊型によるB-29初撃墜を皮切りに、終戦までの累計戦果はB-29撃墜5機、撃破4機に達し、302空でも3本の指に入る功績を上げました。



■ 最後の戦い ~ 終戦

沖縄特攻に“最後の一撃”を託した海軍でしたが米軍に大損害を与えるには至らず、沖縄戦終盤以降は本土決戦に備えた戦力温存体勢へと移行します。302空でも出撃は極度に制限され、小松、前橋などへの戦力分散温存が進められました。ところが、原爆投下、ソ連参戦と急速に悪化する戦況下において、大本営海軍部は戦力温存から機動部隊攻撃へと方針を変更、東北~関東沖の敵機動部隊への特攻攻撃を命じます。302空には通常攻撃による夜間爆撃が下令され、8月13日夜、月光、銀河、彗星約20機が800㌔および250㌔爆弾を抱いて関東沖の敵機動部隊に向かいましたが、目標を発見できずに3機が未帰還となりました。

帝都防空を自負する302空搭乗員たちの戦意は最後まで衰えず、終戦日の8月15日午前、森岡寛(ゆたか)大尉指揮の零夜戦8機と別働の雷電4機が神奈川県上空でF6F群と交戦して撃墜1機を記録(未帰還3機)、これが最後の空戦となりました。



【 左 】 森岡寛(ゆたか)大尉(海兵70期)

艦爆操縦員(宇佐空)から戦闘機に転科した森岡大尉が302空に着任したのは昭和19年4月でした。厳しい戦闘機訓練を経て零夜戦隊分隊士となった大尉は昭和19年11月5日の初空戦で偵察型B-29「F-13」に一連射を加え、302空で初めて「F-13」に攻撃を加えた操縦者となります。しかし翌昭和20年1月23日、豊橋上空のB-29邀撃戦で左手のひらを吹き飛ばされる重傷を負ってしまいます。片手操縦で陸軍飛行場に不時着した大尉は病院で左手首より下を切断されますが、傷口の完治しないうちに厚木基地へと戻り、302空残留を訴えました。2月末、小園指令の計らいで異例の零夜戦分隊地上指揮官(分隊長)として302空に残留することとなった大尉は左手に義手を付けて再起を目指し、わずか2ヵ月後の4月23日、義手での零戦操縦を成功させて執念の返り咲きを果たします。義手の空中指揮官として復帰した大尉の活躍は凄まじく、終戦までの約4ヶ月間のあいだに撃墜2機(P-51、F6F)、協同撃墜1機(カタリナ飛行艇)、撃破2機(B-29、PB4Y)を報告しました。8月15日、玉音放送の約1時間前に森岡大尉が藤沢上空で上げたF6F撃墜1機は 302空最後の戦果として記録されています。



■ 小園司令、徹底抗戦を叫ぶ

玉音放送直後、降伏を断固拒否する小園指令は厚木航空部隊の「独立」を宣言、陸海軍全部隊に徹底抗戦を呼びかけました。俗に言う「厚木航空隊事件」の勃発です。天皇陛下のご意向を受けた海軍上層部による説得が繰り返されましたが、結局大佐は強制連行・病院監禁となり、事態は約1週間で収束することとなりました。厚木から離陸・脱出して最後まで抵抗した零戦・彗星・彩雲など32機の搭乗員たちもほどなく原隊に戻されています。

※ 10月に行われた海軍最後の軍法会議において、小園大佐には無期禁錮刑が言い渡されます。7年後の1952年、平和条約発効とともに大赦令によって赦免・釈放となり、故郷・鹿児島で農業を営みながら余生を過ごしました。1960年11月25日、脳溢血にて死去(享年58)



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



302空の累計戦果は撃墜破150機以上と伝えられ、
その奮戦は陸海軍防空戦闘機部隊の中でも特筆されるものであったと言えるでしょう。

主要参考文献

  ■ 『 本土防空戦 』(渡辺洋二、1997、朝日ソノラマ)
  ■ 『 迎撃戦闘機 雷電 』(碇義朗、2006、光人社)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊 』(秦郁彦・伊沢保穂、2010、大日本絵画)
  ■ 『 日本海軍戦闘機隊2 エース列伝 』(秦郁彦・伊沢保穂、2011、大日本絵画)
  ■ 『 世界の傑作機 海軍局地戦闘機「雷電」』(1996、文林堂)
  ■ 『 世界の傑作機 ボーイングB-29』(1995、文林堂)
  ■ 『 航空ファンイラストレイテッド「写真史」 302空 』(渡辺洋二解説、1997、文林堂)
  ■ 『歴史群像 太平洋戦争シリーズ 局地戦闘機 雷電』(2000、学研)
   ほか

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■ 黄冰楠到此一游

黄冰楠到此一游
名前 | 2023-07-19 01:57 |
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