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艦上偵察機「彩雲」Tシャツ



韋駄天「彩雲」 、東奔西走!



■ 急務だった高速偵察機開発

 日米交渉が破綻しつつあった昭和16年秋、海軍は敵制空権下でも作戦可能な高速偵察機の開発を決定し、国中が大戦果に沸いていた翌17年1月末、中島飛行機に 十七試艦上偵察機 の試作を命じました。その要求性能は最高速度 648km/h (高度6000m)、航続距離 4630km (過荷重状態) という空母発着可能な三座機にとって過酷なものでしたが、当時実用化の目途が立ちつつあった小直径・離昇2000馬力発動機 十五試ル号 ( 後のハ45 / 誉 ) が前途を開きます。

 中島の試算では高度6000mで648km/h を実現するには2000hpが必要でしたが、同高度における誉の出力は1600hpに過ぎず、約400hpが不足します。中島技術陣はこの不足分を機体設計で補うべく奮闘し、翌18年4月、試作1号機を完成させました。誉22型 [ 21型の性能向上型 : プロペラ軸を延長して強制冷却ファンを装備 ] を搭載してカウリング先端を絞るとともに前面開口部面積を削減、離陸・上昇時の推力増を計る 3.5m×VDM4翅 幅広プロペラ、増速効果を生む推力式単排気管、正面面積を極限まで絞った細い胴体、中島独自の層流翼と平滑度に優れた厚板構造、さらに親子式ファウラーフラップ、エルロンフラップ、前縁スラットなど強力な高揚力装置を備えた機体は まさに中島の技術結晶そのものでした。
『 試製彩雲 』 と呼称された同機は海軍審査中に実用機日本最速度となる654km/hを記録して駿足の片鱗を示します。

 

【左】 量産型の標準となった
「試製彩雲」増加試作11号機

直径3.5mプロペラ採用によって長い主脚が必要となったが、薄い層流翼の前桁には収納スペースが無く、主脚は翼中央部(前後主桁間)に収容された。一方、車輪は機体重心より前に出さなければならず、結果、前方に傾斜した独特の形状となっている。

 その後 計19機に及ぶ試作・増加試作機で審査が重ねられた結果、量産機 彩雲11型の発動機には比較的安定供給が見込まれた誉21型が採用され(プロペラ軸延長と強制冷却ファンは廃止)、重量増や振動が懸念されたVDM4翅プロペラは信頼性の高い3.5m×ハミルトン定速3翅 に換装されました。その後出力制限なども加わり 最高速度は609km/h に低下したもののF6Fヘルキャットとはほぼ互角、大型増槽装備時の航続距離5300kmは単発艦上機世界最長であり、発艦能力に難点はあるものの十分な優秀機と判定され、19年春から生産がスタートします。海軍は艦上機としての完成をひとまず先送りとし、切迫する南方戦線への陸上機としての投入を優先したのです。


■ 試作機、最前線に飛ぶ

 量産機の登場を待たず、彩雲の初陣はすぐに訪れました。次期決戦「あ号」作戦に伴い、米機動部隊の動静を探る挺身偵察に彩雲試作機の投入が決まったのです。直ちに7機が121空(雉部隊)に編入され、3機がテニアン島へ進出しました。

 挺身偵察は昭和19年5月末~6月中旬にかけて151空(トラック島)の二式艦偵と共同で実施されました。121空は飛行隊長 千早猛彦少佐(偵察)を中心に、トラック島、ナウル島を中継地としてマーシャル諸島 メジュロ環礁への往復5000kmにおよぶ長距離偵察を3度敢行し、米第58機動部隊のメジュロ出撃をキャッチします。この報により、グアム、テニアン、ペリリューの一式陸攻隊によるメジュロ夜間雷撃は出撃寸前で中止されました。一方、米機動部隊の次期進攻目標をパラオ方面と過信していた海軍中枢は在マリアナ航空部隊主力を同方面へ急転進させましたが、6月11日、米機動部隊は突加マリアナ方面に現れます。2日に渡る大空襲によって基地航空部隊は壊滅状態に陥り、テニアン基地にあった千早少佐は空襲の合間をぬって彩雲で索敵に出たまま未帰還となりました。

【右】 テニアン島で米軍に鹵獲された
121空の彩雲1号機、機番号 「21-101」

完全に焼け落ちた大格納庫が攻撃の凄まじさを物語っています。同機を「試製彩雲」増加試作1号機とする戦史書もありますが、発動機とプロペラ(増試1号機であれば4翅?)が取り外されているため判然としません。

そして素晴らしいことに・・・
2018年、同機の垂直尾翼が日本人飛行機愛好家の尽力によって74年ぶりの本土帰還を果たしています。
※ 現在は青森県立三沢航空科学館が管理しています。

 

 その後生起したマリアナ沖海戦(6/19~20) は日本機動部隊の完敗に終わりましたが、その最中、彩雲の高速性能を象徴する出来事がありました。硫黄島からサイパン偵察に飛んだ横空の彩雲増加試作機がP-38の追尾を振り切って離脱し、この時打たれた報告電が後世に伝わることとなりました ・・・ 『 われに追いつく敵戦闘機なし 』


■ 海軍の目となり東奔西走

 量産機・彩雲11型の部隊配備は昭和19年夏頃から始まりますが、その供給ははかどらず、さらに部隊では発動機不調や故障多発によって訓練もままならない状況が頻発しました。一方、マリアナ失陥に続きフィリピンに危機が迫る中、彩雲による長距離強行偵察への期待は大きく、19年秋以降、彩雲を装備した偵察飛行隊の奮戦が始まります。
試作機 ・増加試作機を運用した121空と横須賀空を除き、彩雲11型を駆使した主要部隊は以下の通りです。


偵3 (偵察第3飛行隊)、 偵4、 偵11、 偵12、 偵102、 第302海軍航空隊

※ 各隊の活動概要は長文となってしまいましたので、当ページ末尾に記載いたしました。


 

【左】 大型落下増槽を装備してタキシングする
偵11の彩雲11型(鹿屋基地)

地上滑走時の彩雲は前方視界が悪いため、操縦員は苦労したという。座席の上に立ち上った偵察員が機内交話機(咽喉送話器)で操縦員に進行方向を指示するのだが、操縦員はフットバーに足が届くギリギリまで座席を上げて操縦桿を伸長し、風防前面の起倒式遮風板を起こしてプロペラ後流を防ぎながら機を進めなければならなかった。


 一方、母艦航空隊では601空 偵察第61飛行隊に彩雲の装備が予定されていました。過荷重状態での離陸距離を短縮すべく 昭和19年夏~秋にかけて補助推進ロケットによる実験が行われましたが、台湾沖航空戦と戦捷一号作戦(フィリピン決戦)で母艦航空隊(653空、634空)がほぼ壊滅してしまったため、偵61は解隊となります。なお、空母信濃の公試運転時(19年11月12日、東京湾)に紫電改、流星とともに彩雲の艦上運用実験機が着艦テストを行った記録がありますが、詳細はよく判っていないようです。その信濃は11月29日に米潜の雷撃を受けて潮岬沖に沈み、8月に竣工した雲龍、天城も半年の内に失われ、彩雲が母艦から作戦運用される機会は一度も訪れませんでした。


 彩雲は誉発動機の不調から性能低下や故障が多発し、稼働率もかなり低かったと云われます。しかし、戦争後期の過酷な状況下において貴重な偵察情報を多数友軍にもたらした実績は抜群であり、間違いなく殊勲甲の機体であったと思います。なお、貴重な偵察機として重宝された彩雲も戦争末期には特攻機としての運用が検討されていました。昭和20年6月、爆装彩雲による特攻航空隊・723空が横須賀で開隊され木更津で錬成に入りますが、訓練未了のまま終戦を迎えています。彩雲の総生産機数は約460機。終戦時には意外と多く約170機が国内に残存していました。



■ デザインコンセプト ■

偵察機 ・偵察員といえば地味なイメージは否めませんが、彼らは常に「正確な情報を持ち帰る」重大使命を負っていました。空戦装備はほとんど無に等しく、頼みは自らの高速のみ。彩雲が活動した最後の1年は敵制空権下での強行偵察が多く、未帰還機も多数に上ります。命懸けの出撃に挺身した偵察飛行隊搭乗員の方々に敬意を表し、このTシャツをデザインいたしました。

  【前面デザイン】 ・・・ オリジナル彩雲ロゴと有名な電文
  【背面デザイン】 ・・・ 出撃準備を進める搭乗員、整備員たち

 
 
 



彩雲のエピソードに必ず登場する有名な電文 『 我に追いつく敵戦闘機なし 』 とオリジナル制作ロゴを組み合わせました。同電文には諸説あり、「我に追いつく敵機なし」「我に追いつくグラマンなし」 などもよく目にしますが、真実は不明のようです。今回は同電文を発信したと思われる機の操縦員・広瀬正吾飛曹長の回想録から 「 敵戦闘機なし 」 を採用いたしました。なお、同回想録によれば 広瀬機がサイパン島上空で遭遇したのは2機編隊のP-38だったとのこと。電文の起案者はもちろん広瀬飛曹長ではなく、機長(偵察員)の樋口清治少尉であったと云われています。





昭和20年元旦、千葉県・香取飛行場にて撮られた貴重な写真を参考に、出撃準備中の彩雲11型 (762空 偵察第11飛行隊) と搭乗員、整備員たちの姿を描いています。既に比島決戦は絶望的状況を呈し、マリアナ諸島からのB-29による本土空襲が本格化しつつあった昭和20年正月・・・彼らが戦況をどこまで知っていたかは不明ですが、決死の偵察行に臨む搭乗員たちの使命感は如何ばかりだったか?そんな想いで眺めていただければ幸いです。

 




【 榎本整備大尉が残した 貴重な写真史料 】

今回デザインのきっかけは 故・榎本哲(さとし)整備大尉が戦争全期に渡って撮り続けた貴重なショットを整理した写真集 『 海鷲とともに 』 (平成12、文林堂) に収録されている多数の「彩雲」画像でした。撮影当時、榎本大尉は偵察第11飛行隊の整備分隊長を勤めていました。


▲ 貴重な戦場写真集 『海鷲とともに』 右は今回デザインの参考とさせていただいた写真のひとつ。
同書解説によれば、無線柱に軍艦旗や日章旗を括りつけているところから、昭和20年の飛行初めと思われ、撮影日は昭和20年元旦である可能性が高いとのこと。一連の写真には3機の彩雲が写っており、2機の機番号が確認できる(762-13、762-20)

762空の戦時日誌によれば、昭和20年元旦、マリアナ諸島偵察のため彩雲3機が香取から硫黄島へ進出しており、一連の写真に写っているのはその3機であると云われています。その後3機はどうなったか?「偵11飛行隊行動調書」1月2日の記録に硫黄島発の彩雲3機編成が見られ、香取から移動した3機である可能性が高いと思われます。同行動調書によれば、1月2日に硫黄島からマリアナ方面偵察に向かった彩雲は2機で、1番機はサイパン島上空で消息を絶ち、2番機はグアム島偵察ののち硫黄島へ帰投したと記録されています。

実は3年ほど前、同写真をTシャツデザインに使用可能か出版社に問い合わせたことがあります。編集者からの返事は、榎本大尉、奥さまともに故人につき確認不能とのことで、その時はTシャツ化を断念しました。しかし、あまりにも見事な情景写真ゆえ、その後も戦史研究者さま方に見解を伺うなど情報収集を続けた結果、榎本大尉による一連の写真(榎本コレクションとも呼ばれます)に関しては著作権をあまり気にする必要はない、との個人的結論に達しました。 とはいうものの、さすがに写真構図をそのまま流用するのは気が引けましたので、今回は逆視点から線画で描き直し、搭乗員、整備員の人数、配置にも大幅な変更を加えています。


【 デザインの主要参考文献 】
● 航空ファン イラストレイテッド 2000 WINTER No.109 「海鷲とともに」 (榎本哲、文林堂) ● 「日本海軍の艦上機と水上機」 (川崎まなぶ、大日本絵画) ● 「写真集 日本の偵察機」 (雑誌「丸」編集部編) ● 「神雷部隊始末記」 (加藤浩、学研) ● 「丸メカニック No.15 艦上偵察機 彩雲」 (潮書房) ● 「世界の傑作機 艦上偵察機 彩雲」 (文林堂) ● 「彩雲のかなたへ」 (田中三也、光人社) ● 「最強戦闘機 紫電改」 (丸編集部編) ● 「丸」 2012 10月号 「決戦空母雲龍型」 ● 「太平洋戦争航空史話(下)」 (秦 郁彦、中公文庫) ● 「台湾沖航空戦 T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘」 (神野正美、光人社NF文庫) ● 「日本軍用機 写真総集」 (丸編集部) ほか




オープンエンド糸のざっくりした風合いのヘビーウェイトTシャツ、リブはダブルステッチ

    ■ 素材 : 綿100% 、6.2オンス 16/_天竺 (オープンエンド)
    ■ カラー : フロストスカイ、ストーン
    ■ サイズ : S、M、L、XL、XXL、XXXL(ストーンのみ)
    ■ 印刷手法 : シルクスクリーン印刷 (前・背面とも)

艦上偵察機「彩雲」Tシャツ

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【 彩雲装備偵察飛行隊の活動概要 】

※ 書籍、雑誌記事などを元に個人的にまとめたものですので、過度に信用なさらないようお願いします。

◆ 最初に彩雲を受領した偵察飛行隊は木更津の偵11(偵察第11飛行隊)でした。19年8月下旬、T攻撃部隊に組み入れられ、一部を鹿屋に派遣。その後 彩雲の保有数は徐々に増えていきます。
9月23日、硫黄島経由でサイパン島イスリイ飛行場 (日本領時のアスリート飛行場) の高高度写真撮影に初めて成功し、同飛行場の滑走路が大型機発着のため約3,000mに延長中であることが判明します。
10月4日には2機がサイパン島へ飛んで丹作戦の事前偵察を行いますが、米機動部隊はすでに西方に移動した後で、攻撃は中止となります。同時期、偵11は20機を超える彩雲を装備していました。
その後10月10日、762空(T攻撃部隊)に編入されて鹿屋に移動。台湾沖航空戦やフィリピン決戦では米機動部隊索敵に出撃を繰り返します。

◆ マリアナ方面の偵察を引き継いだ 偵12 は11月9日、硫黄島経由でグアム島の写真偵察に成功します。写真判読の結果、B-29 約30機の進出が確認されました。
さらに11月14日、4機を木更津から硫黄島へ進出させ、11月中旬~下旬にかけてトラック島を中継地にグアム3回、サイパン2回、ウルシー2回の偵察に成功します。
※ この間の11月20日、801空 の二式飛行艇によってトラック島へ彩雲用大型増槽が緊急空輸されています。

◆ マリアナ発 B-29による東京初空襲 2日後の11月26日、偵12 の彩雲2機は硫黄島に進出し、翌11月27日、第一御楯隊 ( B29地上撃破を任務とする零戦隊12機 ) をサイパン島へ誘導しました。1番機は戦果撮影のため予定時間を超えてサイパン上空にとどまったものの確認できずに帰投しましたが、2番機は未帰還となります。※ 零戦隊11機はイスリイ飛行場、コブラー飛行場への奇襲に成功し、機銃掃射によりB-29 2機を破壊、7機を大破させましたが全機未帰還となりました。

◆ その頃フィリピンでは3つの偵察飛行隊、偵3偵4偵102 が二式艦偵で奮闘を続けていました。
12月中旬、偵4 に待望の彩雲が配備されたものの消耗は激しく、3飛行隊隊とも翌20年1月末までに台湾へ後退します。

◆ 12月中旬、鹿屋の 偵11 は香取に移動して同月下旬からマリアナ方面への偵察活動を再開します。翌20年2月にかけて延べ12機を投入して グアム、サイパンへの偵察を反復、さらにトラック島を前進拠点に米機動部隊の集合拠点であったカロリン諸島ウルシー環礁の偵察に成功しました。
この間 偵11 の主力は20年1月下旬、沖縄戦にそなえて再び鹿屋に進出します。

◆ 米軍がルソン島リンガエン湾への上陸を開始した20年1月上旬、偵12 は木更津から台南に進出してマニラ・クラーク地区、リンガエン湾方面への偵察を繰り返します。
その後3月中旬、米機動部隊による沖縄本島空襲が本格化すると、同方面への偵察、機動部隊索敵、戦果確認などに従事しました。

◆ フィリピンから帰還した 偵3 は兵力を回復して国分基地に展開していましたが、20年1月、挺身偵察のため一部搭乗員を 偵12 に派遣した後、木更津に移動。錬成を行いつつ偵察、哨戒に従事していましたが、3月25日付で一式陸攻装備の夜間哨戒隊・偵707に改編されました。

◆ フィリピンより戻った 偵4 は、20年2月1日付で 松山の343空(二代)編入となり、奇兵隊と命名されました。紫電改部隊の初陣となった3月19日、早朝に発進した彩雲3機は四国南方沖を北上する米機動部隊をいち早く発見して味方の迎撃に貢献しましたが、高田少尉機が自爆未帰還となります。その後343空とともに鹿屋に進出しました。
沖縄戦勃発後の5月、偵4 は343空を離れて171空(鹿屋)に転属します。

◆ 2月上旬、木更津で戦力回復中の 偵102偵3 にウルシー挺身偵察が命じられ、ただちに派遣隊4機が硫黄島経由でトラック島へ飛びました。途中1機が失われて3機となりますが、この3機が大きな成果を収めます。3月上旬のウルシー偵察で、硫黄島上陸を支援した米機動部隊が帰投しているのを発見。この情報が基となり3月11日に 「第二次丹作戦」 (爆装銀河隊によるウルシー特攻) が決行されましたが、銀河隊の突入は日没後となったため十分な戦果をあげることは出来ず、3月14日、米機動部隊は同泊地を出撃して九州へと向かいます。その後トラック派遣隊の活動は5月上旬まで続き、ウルシー7回、ブラウン環礁2回、マリアナ1回の偵察に成功しました。
偵102 はトラック派遣隊を送り出した後、木更津を根拠地に偵察、索敵、哨戒に従事して終戦を迎えます。

◆ 3月下旬、米機動部隊が沖縄方面へ来襲すると、鹿屋の 偵11 は本土東方海域への索敵・偵察に連日出撃。3月18日~21日、米機動部隊の九州・呉方面来襲によって生起した九州沖航空戦では、連日の索敵接触によって米機動部隊の動向を捕捉し続けましたが、3月21日に決行された神雷部隊による第1回桜花攻撃は無念の失敗に終わります。この間 偵11 の損害は甚大で、3月18日~24日の1週間で搭乗員12組を失っています。
沖縄戦が始まると 偵11 は鹿屋に転進してきた 偵4 とともに索敵、偵察、戦果確認、電探欺瞞などに奮闘しました。

◆ トラック島に孤立した派遣隊は8月17日に予定された嵐作戦 ( 伊400・401潜の晴嵐6機によるウルシー特攻 ) に備え、8月15日にウルシー泊地偵察を予定していましたが、終戦により作戦は中止となりました。

◆ 厚木基地の帝都防空部隊 302空 では昭和19年11月以降、偵察員席に斜め銃を装備した彩雲夜戦を少数機運用しています。標準装備は20ミリ斜め銃×2門でしたが、20年6月には“斜め銃発案者”小園司令の直令によって30ミリ斜め銃×1門の機体も1機造られました。30ミリ銃搭載機の出撃は20年8月1日夜のB-29邀撃戦1回のみで、10発近く射撃したものの戦果不明とされています。終戦まで粘り強く戦った302空でしたが、彩雲夜戦による敵機撃墜・撃破の記録はありません。

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