戦闘407・初代隊長 林喜重大尉 その4 2011/12/22
■ B-29邀撃戦のはじまり
4月6日の「菊水1号作戦」発動以来、絶え間なく来襲する特攻機に頭を悩ませていた米軍は、ついに超戦略兵器「B-29」の九州方面への本格投入を決定する。在九州飛行場の無力化を目的とした大規模な反復爆撃作戦が計画され、それまで主要都市・軍産施設に対する戦略爆撃に任じていたマリアナ基地B-29主力の矛先は九州へ向けられることとなった。同作戦は4月17日の第1回空襲を皮切りに5月11日まで約1カ月・計16回に渡って実施され、述べ約1700機のB-29が九州各地の航空基地を反復爆撃することになるのであった。
このような評価をするのは個人的に複雑なのだが・・・
約1か月の間、B-29主力部隊を九州の航空基地爆撃に拘束したという事実は、特攻隊の大きな成果であったと考えられる。3月9/10日の「東京大空襲」に端を発した大都市への焼夷弾無差別爆撃はその後、3月11/12日名古屋市、3月13/14日大阪市、3月16/17日神戸市、3月18/19日再び名古屋市、と連続的に実施され、多数の一般市民が業火に晒されていった。だが、米第21爆撃兵団はこの5回の空襲で焼夷弾をほぼ使い切ったため、その後1カ月あまり市街地への無差別爆撃は行われていない。再開されたのは4月15/16日で、東京・川崎に300機以上が来襲している。しかし、直後に九州航空基地爆撃作戦が開始されたため、市街地への焼夷弾無差別爆撃は5月中旬まで実施されることは無かったのであった。
当時、日本の主要都市では学童疎開が最終段階に入っていたことなども考慮すれば、この1カ月間の「猶予」の持つ意味は大きい。特攻隊の英霊は国民多くの命を救ったのだ、と私は思う。
※ 当然であるが、「特攻」という攻撃手法自体、決して命令してはならないものである。
◀ 空襲予告ビラ 1945年(昭和20)7月頃から全国主要都市上空で散布されたもののひとつ。標的となる都市名が多数書かれており、実際に約半数の都市で空襲があったという。反対面には日本国民に向けたメッセージが印刷され、時期と場所により多数のバージョンが存在する。 左のビラの場合、アメリカの敵は日本国民ではなく軍部であること、家族や親族の命を守るため表記した都市から一刻も早く避難せよとの警告などが記されている。 ※これらのビラを拾った場合、読まずに警察に提出することが国民の義務とされていた。『内務省令第6号 敵の図書等に関する件』により、 所持した場合3ヶ月以上の懲役 又は10円(現在の約16,000円くらい)以下の罰金。内容を第3者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役という罰則が定められていた。 |
3月に硫黄島へ進出し、父島・母島への攻撃を繰り返していた米陸軍・第7戦闘機兵団の P-51ムスタングは4月に入って日本本土上空へ現れはじめる。P-51 + B-29の戦爆連合による初空襲は4月7日であった。この日、91機のP-51が中島武蔵製作所を目指すB-29約100機を護衛して飛来、、撃墜20機を報告している(損失2機)九州作戦発動前日の4月16日にはB-25の航法支援によりP-51約100機が鹿屋基地へ侵攻するが、慣れない洋上長距離飛行のためか戦果なしで4機を喪失した。九州作戦でのB-29は飛行場への爆撃精度を上げる目的で「昼間・中高度爆撃」を選択していたため、P-51による掩護はかなり効果的だと思われるのだが、結果的に同作戦中 P-51が帯同飛来したのは4月26日の1回のみであった。この原因については個人的によく判らないのだが・・・この時期まだ不慣れだったと思われる洋上長距離飛行のリスクを回避したのか、もっぱら九州方面の天候による問題だったのか、あるいは硫黄島への帰投に問題があったのか?
□ 4月17~18日 : 「343空」 鹿屋から 第一国分 へ移動、B-29九州航空基地爆撃作戦開始
4月17日午前中、「343空」は鹿屋から約40km北方の「第一国分飛行場」へと移動する。この措置は源田司令の発案によっておこなわれたが、その理由は鹿屋進出後に発覚した以下の様な問題点にあった。
① 5航艦司令部のある鹿屋には多くの部隊が集中・混在しているため、迅速な編隊離陸が困難
② 鹿屋は日本軍警戒網に近すぎるため、余裕を持った邀撃指示が出せない
特に②に関しては、杉田上飛曹をむざむざ戦死させてしまったことが指令の心に大きく響いていたのであろう。
▲ 1945年(昭和20)3月18日の鹿屋飛行場、右は被爆中である。ともに米海軍機による航空写真
新しい基地へ移動した「343空」であったが・・・その日の午後、B-29の空襲を受けることとなった。この日午後 九州を襲ったB-29の総数は6群・118機で、目標は鹿屋ほか南九州の主要6飛行場であった。
第一国分は1430頃から爆撃を受けたのであるが、驚くべきことに完全な奇襲であったという。源田司令は自著『海軍航空隊始末記』の中で以下の様に記している。『 この基地に移って間もなく、飛行場の指揮所で雑談などしている時に、突如としてB29の編隊が来襲した。「上空敵機」の報に、急いで外に出て見ると、青空を背景に数機の大型機編隊が見えた。警報も何もないままに突然見えたのであるから、最初は味方の中攻かと思ったが、「どうも違っているようだ」 』
奇襲爆撃を受けた「343空」では人員被害は無かったが滑走路に損害を受けたようで、この日「343空」はB-29邀撃に出撃していない。B-29群は全機が無事帰還している。
翌4月18日、九州地方は曇天であったが、前日を上回る約130機のB-29が来襲し、鹿屋、国分、大村、太刀洗、新田原、笠ノ原、出水、宮崎などに空襲を加えた。「343空」は邀撃出動した模様であるが、この日の編成・戦果について明確な記録は残っていないようである。ただし地上被害に関しては『 三四三空隊誌 』に記述されている。
爆撃を受けた第一国分飛行場では、たまたま爆弾が戦闘407の列線へ多数落下したため、周囲にいた同隊の整備兵達が犠牲となっている(戦死2名、重軽傷9名)
またしても最大被害を蒙ったのは戦闘407であった。16日の空戦における部下6名喪失に続き、今度は空襲による地上員の戦死・・・林隊長の心中は如何ばかりだったか。
□ 4月19~20日 : B-29攻撃法で激論
4月19・20日の両日、九州上空は悪天候であったため第21爆撃兵団はB-29の出撃を取りやめている。
従来の「特攻隊進路啓開」任務に加え「B-29邀撃」も求められていた「343空」では、連日「B-29攻撃法」について議論が交わされていた。もともと対戦闘機を目的に編成され錬成を重ねてきた「343空」紫電改部隊に、いきなり大型爆撃機邀撃を命じること自体が無理な注文ではある。しかも相手はただの大型機ではなく、重装甲と強力な編隊火網をもつ難敵中の難敵「超・空の要塞」であった。
大型機攻撃に実績と確信を持っていた菅野大尉は自らが編みだした「前上方背面垂直攻撃」を力説するが、林大尉は垂直に近い後上方攻撃を主張して互いに譲らず、鴛淵大尉も危険度の高い菅野の攻撃法には賛同しなかった。結局、隊としての結論には至らず、「やってみて、その実績の上で決めよう」となったという。
4月20日、林大尉と菅野大尉は再びB-29について議論を交わすのであるが、源田司令は自著『海軍航空隊始末記』の中で、その時の模様を “ 後に菅野大尉から聞いた話 ” として以下の様に記している。『 4月20日、何等の獲物もなくて帰って来た林大尉は、戦闘301の菅野大尉に言った。
「明日、撃墜出来なかったら俺はもう帰ってこないぞ」
「そんなにまでする必要はないでしょう。運が悪くて堕ちない時は仕方がないじゃないですか。また次の機会にやれば良い」
「いや、君はそれで気が済むかも知れないが、俺には我慢できない。1機も射墜せなければ帰ってこない」
これには菅野大尉もちょっとむっとした。
「あなたがそれ程までに言われるなら、そうしなさい。私も墜さなければ帰ってこないことにします」
こんなやりとりがあったことは、彼(林大尉)が戦死した後に、菅野大尉から聞いて知った。』※ 4月20日にB-29の出撃記録は無いのだが、単機または少数機による偵察があったのだろうか?
鴛淵大尉、林大尉、菅野大尉の3人はそれぞれ兵学校1期ちがいであった。菅野は、兵学校時代すでに人格者として知られていた2期先輩の鴛淵には一目置いていたようであるが、1期先輩の林とはよく議論していたという。これは菅野の奔放な性格によるのだろうが、林の温厚さも手伝っていたのではないだろうか。またこの2人は、同じ飛行隊長として互いにライバル的な感覚もあったとのこと。18日にB-29の空襲を受けた際、指揮所にいた2人は退避せず、椅子に座って“我慢比べ”をやっていたという逸話もある。
■ 4月21日、B-29編隊来襲 「343空」出撃
4月21日は晴天であった。満を持していたサイパン・テニアン・グアムの3個爆撃飛行団(73BW、313BW、314BW)のB-29計252機が九州を目指して発進した。
一方、第一国分では0600~0620にかけて鴛淵大尉総指揮の下、25機の紫電改が飛び立っていった。
この日の編成は以下の通りである。
▲ 『源田の剣』(ヘンリー境田、高木晃治 共著)276~277頁掲載の編成表を元に作成しています
上掲編成表の通り、林大尉は第1中隊・第3小隊長として出撃しているのだが、『源田の剣』によればこの編成には次のような裏話があったという。
当日の戦闘407編成案を作成したのは分隊士の本田稔飛曹長であったが、林大尉を出撃から外し、自らが第3小隊を率いる案を作っていた。戦闘407編成以来 林隊長を支えてきた本田としては、喜界島戦闘で列機を多数失い冷静さを欠いた状態で林隊長を出撃させてはならないというベテランとしての判断があったのだ。
しかしB-29撃墜に執念を燃やす林隊長はこれを認めず、隊長命令で本田飛曹長と入れ替わったのである。
「編成替えついでに、本田飛曹長が第3小隊・第2区隊に入ってくれていたら・・・」
「343空でも指折りの実力者・本田飛曹長がいれば隊長を守れたのではないか?」
~などと短絡的な発想をしてしまう自分がちょっと嫌になる Orz
■ 林隊長、執念の追撃と戦死
0700頃、林区隊は福山(国分基地南東、現:霧島市福山町)上空を高度6000mで北西進するB-29の一群を発見し、すぐさま攻撃に入った。しかしこの機動に列機がついてこれず、結果的に単機分離することとなってしまう。出水方面へと向かう「B-29」19機編隊に喰らい付いた林機は執拗に攻撃を加え続けた。その後、戦闘301本隊と離れ単機哨戒中の清水一飛曹が出水上空で合流し、2機で攻撃を加え続ける。
そしてついに・・・林隊長は基地に向け報告する「B-29 1機撃墜!」 しかしこの直後、隊長は消息を絶った。
林隊長と清水一飛曹が交戦したB-29群は、出水基地を爆撃目標とした第313飛行団・第504爆撃集団(313BW・504BG)の一部であると思われる。この日出撃したB-29総数は252機にのぼり、爆撃目標は「太刀洗」「新田原」「大分」「笠ノ原」「鹿屋」「宇佐」「国分」「串良」「出水」などであった。
▲ 『源田の剣』『紫電改の6機』『最後の撃墜王』『三四三空隊誌』などの情報を参考に、全くの想像で描いた図ですので信憑性は?です(謝)B-29の進入路については、多数の悌団がそれぞれの目標を目指し時間差を持って飛来しているため、詳細がわからず記入できませんでした。
撃墜報告を入れた時、すでにエンジンに被弾し垂直尾翼先端も吹き飛ばされていた林機は操縦不能に陥っていた。大尉は阿久根海岸沖に不時着を敢行するのだが・・・落下増槽を付けたままであったため機首から海面に突っ込む形となり、顔面を計器盤に打ちつけた大尉は頭蓋骨骨折で即死する。(ほとんど墜落に近かったとも伝わっている)
30分に及ぶ追撃戦の末の壮絶な戦死であった。
戦闘前に増槽を落とすのが空戦の常であるが、今回大尉は長時間の追撃戦闘を見越し、わざと落とさなかったものと思われる。それでは、不時着時に何故落とさなかったのだろうか?喜界島制空戦闘の時のように故障で“落ちなかった”のだろうか?それともB-29撃墜の歓喜のあまり気付かなかったのだろうか?戦闘407は松山進出の直前まで出水基地で練成を重ねている。従って、周辺の地勢は熟知していたはずであり、だからこそ遠浅の阿久根海岸へ着水を試みたと想像するのだが・・・今となっては全く知る術は無い。
林大尉と共に戦った戦闘301・清水俊信一飛曹(丙11)もまた散華している。エンジンに被弾した清水機は蕨島北方海面に墜落、清水一飛曹は機と共に海没したのであった。
この日「343空」の戦果報告はB-29撃墜2(1機共同)撃破2であるが、米軍記録ではこの日喪失したB-29は皆無であった(!)
■ 慰霊碑
林大尉の遺体は阿久根海岸の松林で火葬に付され、翌日隊員たちに遺骨が渡されました。
大尉が荼毘に付されたその場所には、現在3つの石碑が建っています。
『故林少佐戦死之地』と刻まれた林喜重隊長の慰霊碑、その奥に、林隊長と戦闘407飛行隊戦没者および清水俊信一飛曹(戦闘301)の英霊を鎮魂する二つ碑文です。戦闘407ご生存隊員の皆さま及び関係者の方々のご尽力で綺麗に整備されているとのこと。
やはり林隊長は「仁の人」ですね。~~いつか御礼を伝えに参らねばと思っております (合掌)
▶ 「343空」の死闘はまだまだ続くのですが、林隊長シリーズはここまでです。
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コメント
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> ザイドリッツ様ご指摘ありがとうございました!
細かいところまで見ていただき感謝しております。
画像解説コピーは近く変更させていただきます。
■ 興味深く拝見させてもら・・・
興味深く拝見させてもらっています。所で3月18日付けの爆撃中の鹿屋基地の写真は鹿屋基地の東にあった笠野原基地の写真です写真を撮影した米軍のキャプションの付け間違いです。■ >見張り員さま ・・・
>見張り員さま旧年中は本当にお世話になりありがとうございました。
今年もよろしくお願い申し上げます。
ご存知の通り昨年末、靖国神社に放火するという信じがたい暴挙が何者かによって行われました。誰がやったのかは判りませんが、“気に入らないから壊す”という単純かつ幼稚な行動を起こす人間が存在することは悲しい限りです。
今の時代、表面上は平和に見えますが、人間の心は非常に危機的状況にあるのかもしれませんね (,,-_-)
■ こんばんは あの当時の・・・
こんばんはあの当時の日本人の「意地」を見るような気がいたします。
あの頃の日本人は今のように瑣末なことにこせこせしないでこうした大きなことを成し遂げたということが私には尊敬と顕彰に値するのです。
今年一年大変お世話になりました。
また来年もどうぞよろしくお願いいたします。
よいお年をお迎えくださいませ。