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戦闘407・初代隊長 林喜重大尉 その3  2011/12/16

これで最終回となる予定だった林大尉シリーズですが、
書きはじめたらまたまた長くなってしまい・・・次回(その4)で完結といたします。

■ 「菊水作戦」発動、「343空」鹿屋進出決定


3月26日の「天一号作戦」発動にともない多くの戦闘機隊は5航艦指揮下に入り、続々と鹿児島の航空基地へ集結していた。「601空」(百里原)零戦隊・紫電隊、「252空」(茂原・館山)零戦隊、「210空」(明治基地)零戦隊・紫電隊、「302空」(厚木)零戦隊、「352空」(大村)零戦隊など、内地の主要戦闘機隊が特攻掩護のために大動員された形である。


4月1日
、ついに米軍は沖縄本島への上陸を開始した。同日、海軍は5航艦による「菊水作戦」を発動する。

「菊水作戦」とは沖縄周辺海域に集結する米艦艇群への大規模な航空特攻であった。
4月6日発動の「菊水1号作戦」を皮切りに沖縄戦終結後の6月下旬まで計10次に渡って実施された本作戦により、海軍だけで1300余名が散華することになる。


4月1日、「343空」は有力な制空戦力として3航艦から5航艦へ編入され、部隊は逐次 鹿屋基地へ進出することとなった。
源田司令は「343空」の任務について「特攻隊突撃路啓開」という言葉を使っているが、その主旨は「特攻機援護」ではなく、敵戦闘機群を引きつけて制空戦闘を行うことにより特攻機の進撃を容易化しようというものである。「343空」では奄美大島・喜界島空域での制空戦闘を想定していたが、これは10~15分の全力戦闘を含め紫電改の航続距離限界に近い進出点であった。


一方、特攻機来襲に苦慮した米軍は、B-29による南九州各飛行場への空襲作戦を検討していた。
同作戦は4月中旬から本格化するのだが、「343空」に対しては前述の「特攻隊突撃路啓開」に加え、B-29邀撃任務も加えられることとなるのである。


□ 4月 6日 : 「菊水1号作戦」発動 (以後11日まで継続)

移動準備中のため松山に在った「343空」は同作戦には参加していないが、先発して偵察飛行隊「801空」に編入されていた偵4の2機がこの日早くも未帰還となった。


4月7日午後、沖縄突入を目指した大和を旗艦とする第1遊撃部隊は東シナ海で敵艦載機群と交戦した。敢闘むなしく大和は沈没し、作戦は中止された。



■ 第1回喜界島制空戦闘 ~ 菅野隊奮戦も出撃機の1/3を失う


□ 4月 8日 : 「343空」司令部 鹿屋進出( 源田司令、志賀飛行長、戦闘701分隊士・坂井三郎中尉 )

□ 4月10日 : 戦闘301主力( 菅野大尉指揮 )、戦闘701先遣隊( 山田良市大尉指揮 )、鹿屋進出

◀ 戦闘301 菅野隊長機 「A 343 15」
この写真は1945年(昭和20)4月10日、戦闘301が鹿屋へ進出する直前に松山基地で撮られたものといわれている。胴体の斜め2本帯は隊長機を示しており、菅野隊長機のそれは黄色に塗られていた。この帯を描く時、菅野は整備科員にこう語っていたという
『 黄を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ 』

□ 4月12日 : 「菊水2号作戦」発動、「343空」制空戦闘初出撃

5航艦編入後の「343空」初出撃となったこの日、菅野大尉指揮の44機(戦闘301・36機、戦闘701先遣隊・8機)が出撃待機していた。しかし、エンジン不調により2機が発進不能となり、離陸後さらに8機が引き返したため、奄美群島へ向かう菅野隊の総数は34機に減ってしまう。

喜界島を含む奄美群島はすでに米空母戦闘機隊の完全な哨戒圏内に入っており、敵の真っ只中に突っ込む制空隊にとってこの戦力減は予想外の痛手であった。菅野隊は喜界島上空で敵艦載機群80機以上と激しい戦闘を行い撃墜23機を報告するのだが損害もまた大きく、10機が未帰還となっている。
※この日の時点では、戦闘701・407主力は松山で進出準備中であり、林大尉、鴛淵大尉もまだ松山にあった。



この日、神雷部隊が初めて「桜花」による敵艦攻撃に成功(駆逐艦1隻撃沈)、特攻機も米艦艇群に相当な被害を与えている。「菊水2号作戦」は15日まで続けられ、特攻機は黙々と沖縄方面に消えていった・・・



□ 4月13日 : 林隊長以下 戦闘407主力、鹿屋進出

□ 4月14日 : 鴛淵隊長以下 戦闘701主力、鹿屋進出。この日をもって「343空」の鹿屋移動は完了した。



■ 戦闘301の至宝・杉田上飛曹、壮烈な戦死


□ 4月15日 : 敵艦載機、鹿屋を襲撃


翌16日より開始される「菊水3号作戦」での制空出撃が予定されていた「343空」では、戦闘301の8機が緊急離陸に備えて待機する一方、整備員達は翌日の全力出撃に向けて機体整備に余念がなかった。

一方、一向に衰えを見せない特攻機の波状攻撃を憂慮した米軍は艦載機による飛行場掃射を計画、この日1315、F6F約90機が3空母より発艦、主要特攻基地と見られていた鹿屋及び串良へと向かいつつあった。

1450、電探報告により敵機接近を知った鹿屋基地では源田司令が緊急発進を命じるが、すでに敵機群は基地上空に到達しつつあった。
『 行くな、杉田。もう間に合わない!』
戦闘701・坂井三郎少尉の制止を振り切り、真っ先に発進した杉田上飛曹であったが・・・離陸直後を上空から、しかも複数機で襲われては如何に歴戦の兵でもどうしようもなかった。杉田が発進を開始したまさにその時、本部指揮所では源田司令が「発進中止」を命じるのだが、間一髪で間に合わなかったのである。まだ21歳という若さであった。

杉田を追って発進した3番機・宮沢豊美二飛曹もまた離陸直後に撃破され、飛行場東側の松林に墜落、戦死した。緊急発進待機8機のうち、この時離陸できたのは杉田、宮沢の2機だけで、他機は発進直前にF6Fのロケット弾攻撃を受けたため全員が退避している。

昭和19年4月「263空」で出会って以来、1年に渡り杉田の列機として戦い、この日も2番機に配されていた戦闘301・笠井智一上飛曹は、この時の模様を『343空隊誌』の寄稿文「杉田上飛曹と私」の中で以下の様に書いている。※ 余談であるが、先月たまたま電話でお話しをさせていただいた「南レク 紫電改展示館」ご担当者によれば、笠井さんは今もお元気でいらっしゃるとのことです。

『 「 敵編隊鹿屋に向かって北上中 」 の情報が入り、直ちにエンジン試運転もそこそこに1、3番機が猛然と砂ぼこりをあげ、杉田兵曹は後をふり返り上空を指しながら、離陸を始めた。その時、7~8機のグラマンが銃撃をしながら急降下してきた。もちろん離陸機に向かってである。私はハッ !! と思った。私も直ちに離陸すべくチョーク(車輪止)を外す合図をしたとたん、ロケット弾が炸裂し翼に大穴。もうこれまでと機外に飛び出そうとふと離陸していった方向に目をやった。アッ !! そこに信じられない光景が・・・。グラマンの一撃で杉田機は、グラッとかたむき黒煙とともに飛行場の端に突込むのが目に入った。「杉田兵曹」 私は声にならない大声をあげた 』


碇義朗著 『 最後の撃墜王 』 に杉田上飛曹の火葬に関する記述があるのだが・・・
これが事実であればあまりにも悲壮なので以下に引用させていただく。この様子を目撃したと思われる菅野隊長の胸中やいに・・・! 戦争とは真に無慈悲極まりないものである(悲)

『 戦死した杉田の遺体は一晩安置されて翌日の昼ごろ、火葬に付されたが、鉄道の枕木を並べて火葬の最中に空襲があり、P51ムスタングのロケット弾攻撃で杉田の遺体が吹っ飛んだという。最後まで壮絶な杉田の終焉であった。』


◀ 杉田庄一少尉 (丙飛3期)
新潟県出身。昭和15年、15歳で海軍に志願。
17年3月飛練卒業とともに「6空」(後の204空)配属となり、ミッドウェイ海戦に参加。その後「204空」とともにソロモン進出、12月初撃墜(B-17)を記録。18年4月、山本連合艦隊司令長官機を護衛する零戦隊6機に選ばれるが、杉田の健闘もむなしく長官機は撃墜されてしまう。その後も鬼神の如く出撃を繰り返すが、8月26日全身火傷を負って本土帰還。大村空教官を経て19年3月「263空」へ異動してマリアナ、カロリンを転戦の後、7月「201空」に転じ比島航空戦に参加。この時菅野大尉と出会っている。翌20年1月、「343空」戦闘301飛行隊へ編入され、同隊の中核戦力として、また菅野大尉の用心棒として活躍した。菅野隊長に心服していたことは有名で、隊長の悪口を言うものに殴りかかったという逸話の持ち主。死の直前の昭和20年春、多数撃墜者として表彰されているが、その公認記録は撃墜110機(個人撃墜70機、共同撃墜40機)に及ぶ。闘魂の権化のような人物像が伝わる一方、空中では歴戦搭乗員に相応しい“したたかな”状況判断力をいかん無く発揮した。「戦(いくさ)上手」とはまさに杉田のための言葉であろう。死後2階級特進で少尉となった。



■ 第2回喜界島制空戦闘 ~ 編隊連携できず!手痛い敗北を喫す


4月16日、予定通り「菊水3号作戦」が発動された。今回も海陸軍計400機を超える大規模特攻が計画され、海軍では爆装零戦に加え99艦爆、97艦攻、双発陸攻「銀河」、さらには最新鋭の艦爆「彗星」と艦攻「天山」も特攻機となっている。陸軍では爆装「隼」を主力に、完全に旧式化した97戦、99高錬、99襲撃機のほか、第一線機の「疾風」も投入された。


□ 4月16日 : 「343空」 2回目の制空出撃 ~ 林大尉、痛恨の空戦

今回の編成は総指揮官・鴛淵大尉の下、林大尉、菅野大尉もそれぞれの中隊を率い、総勢40機による出撃が予定されていた。しかし、直前に戦闘407の4機が発進取り止めとなり、さらに離陸後3機が引き返したため、制空隊の実数は33機に減ってしまう。

0635鹿屋を発進した制空隊は、トカラ列島上空を通過して奄美大島を目指した。しかし、この時すでに米空母のレーダーは制空隊を補足していた。ホーネット、バターン両空母からの無線指示により奄美大島方面へと北上したF6F計20機は0800先に日本機(制空隊)を発見、高度を取りながら攻撃態勢を整えつつあった。

制空隊は奄美大島南端で左旋回して喜界島上空を飛行中の0815、約500m上空に敵機群を発見する。先頭の鴛淵中隊は高度を取るために急上昇に移ったのだが、ここで後続2中隊との連携が取れず、結果的に鴛淵中隊と林・菅野中隊は完全に分離してしまうこととなった。(この時なぜか鴛淵隊長との無線が通じなかったとも言われている)この直後、林中隊・菅野中隊の紫電改25機は劣位戦のままF6F20機との空戦に突入してゆくのだが、無線による増援要請を行っていた敵方にはさらに8機が加わり、戦闘は終始グラマン優勢で進んでいった。

一方、敵味方ともに見失ってしまった鴛淵中隊はついに最後まで戦闘に参加することが出来ず、奄美大島東北端高度7500mで哨戒飛行を行うにとどまっている。

この日の戦闘結果は悲痛なものであった。「343空」の損害は自爆・未帰還計9機を数え、搭乗員9名を喪失したのである。戦果の方はF6F撃墜3機が報告されているが、米軍記録では損失は飛行機喪失2機(パイロット救助)のみであり、その2機も戦闘による喪失ではないという。

▲ 『 源田の剣 』(ヘンリー境田・高木晃治 共著)247頁掲載の地図をアレンジして描いています。

降着脚収納不能となった3月19日の「松山上空大空戦」に続き、林大尉はこの日も悪戦苦闘の日となった。
今度は落下増槽が落ちないアクシデントに見舞われ、動きの取れない林機は列機とともに低空に追いつめられて苦境に陥ったのである。何とか逃げ切って無事帰投した林隊長であったが、戦闘407は隊長直卒列機全3機を含む未帰還6名を出す結果となってしまう。しかもその中には比島航空戦以来の列機・小竹等飛長(特乙1)が含まれており、責任感が人一倍強く、部下想いの林隊長にとってはまさに痛恨の空戦となった。

碇義朗著『 紫電改の六機 』によれば、帰投後ひとり自室にこもり思いつめる林の様子に異常を感じた菅野大尉が志賀飛行長に報告し、飛行長は源田司令とともに林を慰めたという。これが良かったか悪かったのか、誰も知る由はない。しかし、このことが逆に林隊長への更なるプレッシャーとなってしまった可能性は否めない。

一方、鴛淵大尉も総指揮官としての「責任」を痛感しており、『最後の撃墜王』に帰投時の様子が描かれている。

『 基地に帰着した鴛淵は、飛行機から降りると駈けつけた用務士の中島大次郎少尉には目もくれず、そのまま大地に寝転がって目をつむっていたという 』

次回は本当に最終回
林大尉戦死までの最後の5日間をご紹介します。

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