菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その6:戦艦「扶桑」~霞ケ浦航空隊 時代] 2011/05/21
紫電改精鋭部隊「343空」戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。
※『』囲みは引用
□ 戦艦「扶桑」乗組み時代(昭和16年11月15日~17年5月頃)
昭和16年11月15日「海軍兵学校」を卒業して少尉候補生となった菅野は、翌昭和17年6月1日に第38期飛行学生として「霞ケ浦航空隊」に入隊するまでの約半年ほどの間、第1艦隊・第2戦隊の戦艦「扶桑」に同期20名とともに乗り組んでいます。
12月8日ついに太平洋戦争が始まりますが、「扶桑」を含め足の遅い第1・第2戦隊の戦艦群は作戦参加せず、
柱島で待機しました。真珠湾攻撃直後、「扶桑」は機動部隊帰路警戒のため「長門」「陸奥」「山城」「伊勢」「日向」などとともに出撃しますが、支援不要となり小笠原列島付近で反転、柱島へ帰投します。その後も第1戦隊、第2戦隊に実戦出動は無く、ときおり瀬戸内海近海で砲術訓練を実施する程度でした。それでも「警戒態勢」につき半年近く上陸は許可されず、菅野ら候補生たちは元気を持てあましていたことでしょう。
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▲ 昭和16年4月、呉にて注排水試験中の戦艦「扶桑」 「捷1号作戦」で西村艦隊に編入され、比島沖海戦で初めて実戦参加する。昭和19年10月25日 スリガオ海峡で魚雷数本を受けて沈没(合掌) |
「扶桑」での菅野の配置は砲術科で右舷機銃群指揮官でした。
自ら簡易射撃計算盤を考案するなど活躍していたようですが、大艦艇での組織的職務は自由奔放な菅野にとって
あまり面白くなかったかも知れません。心はすでに「飛行学生」に飛んでいたのかも・・・
■ やんちゃぶり発揮~内規を破ってこっそり酒盛り
候補生は艦内禁酒であったにもかかわらず、同期の小島光造氏などを自室に誘っては従兵に「口止め」して
酒を楽しんでいた。角田中学校からの同期・小島光造氏の回想
『 彼のおかげではじめて酒を飲んだが、少しの酒ですっかり酔ってしまい、クルクル目がまわった。
菅野は平然としていて、どうやらだいぶ以前から飲んでいたらしかった 』意義を感じない規則や形式は平気で無視する!菅野の性分がよく出ています。
米英戦勃発直後の緊迫感の中・・・相当なリラックスぶりですが、上官にばれないところも“菅野らしい”です。
兵学校時代の休日、そうとう鍛えていたに違いない。
■ 一匹狼?
扶桑乗組み同期生の回想
『 「扶桑」での菅野はやや一匹狼的なところがあり、
グループ行動に加わったという印象はもとより、その種の写真も残っていない 』大勢の乗組員達とともに組織的に動くというのは菅野の性分に合わなかったのでしょうか。
□ 第38期飛行学生・霞ケ浦航空隊 時代(昭和17年6月1日~昭和18年1月末)
昭和17年6月1日、菅野を含む70期候補生139名は少尉任官とともに第38期飛行学生として霞ケ浦航空隊に入隊しました。※飛行学生急増に練習機の数が追いつかないため、70期候補生の内41名が半年後入隊の第39期へ回されていますが、この中には関行男大尉、中津留達雄大尉などが含まれています。
入隊直後の6月5~7日、海軍はミッドウェーで大敗北を喫しますが、飛行学生に真実は伝えられなかったでしょう。
飛行学生は第1飛行隊・第2飛行隊に分けられ、それぞれ飛行場中央格納庫から北側半分、南側半分を使用して訓練を実施しました。飛行長は佐多直大中佐、飛行隊長は第1飛行隊が岩城邦宏少佐(海兵59期)、第2飛行隊は桧貝襄治少佐(海兵57期)。教官として指導に当ったのは海兵の先輩67~69期の飛行学生優秀修了者たちでした。
菅野は第2飛行隊に配属され、後に343空で一緒に戦うことになる光本卓雄氏と同隊となっています。
▲ ネット上の画像や資料を元に描いた“想像図”ですので、正しいかどうかは・・・責任が持てません(謝)
教程は最初の3カ月ほど座学が続き、9月頃から飛行訓練に入ります。
訓練機「93式陸上中間練習機」(通称:赤トンボ)は複座・複操縦機構を備えており、前席に学生、後席に教官が搭乗して訓練が進められました。1か月ほどで全員が単独飛行へ移行し、その後「基本特殊飛行」「編隊飛行」「計器飛行」「応用特殊飛行」と進み、翌年(昭和18年)正月の長距離移動訓練(伊勢神宮参拝を兼ねた1泊2日の教程)の後、教程卒業となります。
菅野は徐々に本領を発揮し始めてはいますが、操縦の基礎を学ぶこの段階ではまだ大人しかったようです。
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▲ 笑顔で訓練の順番を待つ 菅野少尉と菅井努少尉(右) |
■ 特殊飛行訓練で疲労困憊
特殊飛行とは、垂直旋回、宙返り、失速反転、急反転、横転、錐揉み等のいわゆる「スタント飛行」です。操作が複雑なうえ強烈なGがかかるため、肉体的疲労は想像以上。
さすがの菅野も少々参っていたようで、当時撮った写真(◀ 左)の裏に次のように書き込んでいます。『 Stant ハ終ワッタ アーヘバッタ 目ガクラム 』
■ 訓練中に「遊覧飛行」を楽しむ!
学生ペアによる訓練時、菅野はとんでもない事をやらかしています。
その日の訓練は、学生同士が操縦と航法を交代で行うというものでしたが・・・
なんと菅野は独断で“東京遊覧飛行”をやってしまうのです。同期生・村上武氏の回想
『 霞が浦で菅野とペアで飛びました。で、彼が操縦で私が同乗して訓練飛行をやっていたとき、
菅野が 『 村上、ちょっと東京方面へ遊覧飛行をやってこようじゃないか 』 といい出した。
普段は訓練空域が決まっていて、それより外に出てはいけないことになっている。それを出て行ったわけです。訓練の時は、学生だから70ノットとか75ノットの巡航速度しか出さないのを、彼はエンジンを全開にして翼を風にゆるがせながら全速力で飛んで時間までに帰ってくるというのをやった。
それで本人は 『 飛行機というのは最大限まで性能を活用せんといかんのだ 』 といってケロッとしている。
大胆不敵な奴だなぁと思いました 』普通の人間ならば「時間内に帰れなかったら?」「規則違反をして万一事故でも起こしたら?」~といった抑制思考が働くのでしょうが、菅野は違うようです。全て計算したうえで、絶対に事故は起こさないし、必ず時間内に戻ってこれる十分な自信が菅野にはあったのでしょう。こういったケースではアクシデントが起きやすいものですが、アッサリやってのけてしまうところは正に本領発揮といったところです。
また、飛行機は目的を達成するための機械にすぎない~という合理的戦略思考がすでに形成されている事も驚きです。「畏れ多くも大元帥陛下から下賜された飛行機を・・・」などと諭す者が隊内に存在したかもしれませんが、菅野は鼻で笑っていたことでしょう。
昭和18年1月末、菅野は霞ケ浦航空隊での第38期飛行学生を卒業。
2月1日、戦闘機専攻学生として大分航空隊へ入隊します。
※同期入隊には、後に「剣部隊」で一緒になる林啓次郎(林喜重大尉戦死後、戦闘407飛行隊長)と光本卓雄(戦闘407分隊長)がいます。
菅野さん実戦配備まで、まだあと1年。
◎ 次回は大分航空隊・戦闘機専攻学生時代です。つまり「デストロイヤー」菅野さん
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