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菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その5:海軍兵学校2号~1号生徒時代の逸話] 2011/05/11

菅野たち70期が江田島で2~1号生徒時代を過ごしていた昭和15年夏~16年秋の間、
日本を取り巻く国際情勢は急速に悪化し、対米英戦へと転がり落ちていくことになります。

昭和15年初頭、「日米通商航海条約」の失効など、中国を巡る日米関係は悪化の一途をたどっていました。
国難打開に軍・官の期待を背負って成立した「第2次近衛内閣」は「大東亜新秩序建設」を掲げ、日中戦争収拾と対米関係修復に乗り出しますが、援蒋ルート遮断のため9月22日に開始された「北部仏印進駐」と、それに続く「日独伊三国同盟」締結(9月27日)によって米国の対日敵視は決定的となり、屑鉄・鉄鋼の対日禁輸が決定されます。
翌16年4月、「日ソ中立条約」締結で“時の人”となった松岡外相の壮大な外交構想(日独伊+ソ連の4国で米国を牽制)も所詮はドイツ頼みの他力本願戦略に過ぎず、その甘い見通しは6月の「独ソ開戦」により吹き飛んでしまいます。
この頃すでに米国は対日戦を期した政策にシフトしていたと思われ、7月28日の「南部仏印進駐」開始は米国にさらなる制裁のキッカケを与えることとなり、米国は石油禁輸を決定。いわゆる「ABCD包囲網」が形成されるに至り、日本の指導者たちは、自衛のための対米英戦しか道は残されていない~という判断を下すことになります。

日米関係
ルーズベルト   蒋介石     宋慶齢     スターリン    毛沢東     松岡洋右    近衛文麿

日中戦争泥沼化に始まったこの流れは、日本外交および国策決定の稚拙さを体現するものですが、一方では、ソ連と深く連動して日本を中国大陸の消耗戦に引きずり込んだ中国国民党(蒋介石)・中国共産党(毛沢東)のしたたかな動きと、米国の冷徹な戦略に振り回された(してやられた)という見方もできるのではないでしょうか。

今回は3学年(2号生徒)、4学年(1号生徒)時代です。

以下は『最後の撃墜王』の中で紹介されている兵学校時代の菅野さんのエピソードです。
印象にのこったものを出来る限り時系列に並べ変え、解説と私なりの感想を加えました。
※『 』囲みは本書からの引用
 

□ 2号生徒時代 (昭和15年8月~16年5月)

■ 夏期休暇(昭和15年8月)

後輩や近所の子供たちを相手に、阿武隈川で水泳指導に精を出す。
弱いものをかばう優しさや面倒見の良さは相変わらずで、皆が「直さん」と慕っていた。

■ 「日独伊三国条約」締結の詔書奉読式 (昭和15年9月30日)

『 9月30日、兵学校では日独伊三国条約締結の詔書奉読式が行われ、
吉田善吾海軍大臣の訓示が伝達された 』


  ▲ 吉田海軍大臣
吉田海軍大臣は9月3日海軍病院へ緊急入院し、5日に辞任。
後を継いだ及川大将が三国同盟に同意しています。
一般に、吉田は最後まで三国同盟に反対し、陸軍との軋轢による心労で倒れたと言われておりますが、真相は不明。
この時期、6月のフランス降伏を受け、米国では「第3次ビンソン法案」及び「スターク案」が成立しており、米海軍の大増強が現実のものとなります。すなわち、同年7月~9月にかけて正規空母(エセックス級)11隻、軽空母(インディペンデンス級)9隻が発注されたわけですが、海軍大臣として米海軍大拡張への対応策に苦悩したことが吉田を病院送りにした主要因だったのではないでしょうか?
なお、吉田の病気は一般に「神経衰弱」などと言われますが、
「自殺未遂」の可能性も取り沙汰されています。

兵学校生徒に政治的教育はなされませんが、日中戦争長期化、日米関係悪化、そして欧州戦線の推移など、激動する世界情勢に生徒たちが興味を持っていたことは明白で、図書館や休日の倶楽部で新聞・雑誌等を通じてある程度の情報は入手していたはずです。
菅野はヒトラーをどう見ていたか?非常に興味深いのですが、碇義朗氏は以下の様に記しています。

『 菅野がこの日の行事をどう受けとめたかは知る由もないが、おそらくシラケた気分だったのではないか。
このときからおよそ2年前の中学時代の日記に、菅野はフランスの英雄ナポレオンについて
「もののあわれを知らない唯物論者だから嫌い」と書いており、日独伊三国同盟の実質的なリーダーである
ドイツ総統のヒトラーもこの点で彼のテイストには合わないはずだし、形式的で内容の空疎な大臣訓示なるものも菅野の心を打ちはしないからだ 』

■ 分隊編成替え (昭和15年11月)菅野:12部・48分隊(赤レンガ生徒館へ移動)

生徒採用数大幅増への対応で、12個教班(部)は変わらずだが1部の編成が3分隊から4分隊となり、
総分隊数は36分隊から48分隊へと増加した。
菅野は最終の12部・48分隊となり、卒業まで同分隊で過ごすこととなる。

■ 72期生徒入校 (昭和15年12月1日)

兵学校では各学年をこう呼んでいた ~
「鬼の1号、むっつり2号、おふくろ3号、がき4号」
つまり、「がき」の4号の世話をするのは「おふくろ」3号の役割で、「鬼」の1号は全てに睨みを効かせながら特に「がき」4号をしごく。2号はいわゆる「中堅」で比較的気楽な立場であり、これが「むっつり2号」の所以であった。

72期の入学で4号の指導から解放された70期は、1号からの制裁も少なくなった。
2号から1号にかけて、菅野は徐々に本来の茶目っ気を発揮し始める。

■ 48分隊の「3人組」

菅野の48分隊には同期が9人いたが、津屋寛氏、渋谷勝哉氏と特に仲がよかったようである。

同分隊同期のひとりは次のように回想する。

『(同分隊は)総じて言えばおとなしい人間が集まっていただけに、
菅野(チョク)津屋寛(ツヤカン)渋谷勝哉(シブカツ)の小柄な3人組の活発さが目立った。
子供のような人なつっこい笑顔が特徴だった菅野は、才気煥発な津屋寛とともに機敏で運動神経が発達し、
この2人はすでに兵学校時代からパイロットの適性を備えていた。・・・
この3人は仲がよく、よくからかい合ったりしていた。東北弁で菅野が悪口を言うと、津屋寛や渋谷がやり返すが、菅野のほうが口が達者で2人束になってもかなわない。すると見ていておかしいくらい2人はムキになったが、この3人のおかげでわれわれの間には笑いが絶えなかった。
1号になってから、他分隊の3号を盛んに殴っていたのもこの3人だった 』

■ 「航空派遣教育 / 第1回」初めて飛行機操縦を体験 (昭和16年2月 於:岩国航空隊)

1週間に渡る飛行訓練で最終的に「単独飛行」を許された者は各分隊2名程度だったそうだが、
1週間で単独とは何という早さ!全く驚きである。
菅野がこの中に入っていたかは不明であるが、多分ダメだったのでは?
しかし、菅野はこの時、航空志望を明確に決意したに違いない。

■ 69期の卒業繰り上げ決定 (昭和16年2月)

本来7月だった69期の卒業だが、日米関係緊迫化にともなって4カ月早まり、3月25日と決定される。
70期の4学年進級は約2カ月後の5月30日となったが、これは69期の急な卒業で70期の学科進度が
追いつかなかったことによる。

■ 69期繰り上げ卒業 (昭和16年3月25日)

■ 草鹿 任一(くさか じんいち)中将、校長着任 (昭和16年4月12日)

中将の着任訓示。
『(兵学校教育の目的は)戦に強い軍人をつくり上げることにある』
『単に強いだけではいけない。それにはまず正しい心を養うことが第一である』


▲ 校長時代の草鹿中将

 
草鹿中将は今までの校長とは違い生徒との触れ合いを心掛け、
訓練にもよく顔を出した。そのため、生徒からは“任(じん)ちゃん”と呼ばれて親しまれたらしい。

※草鹿中将は大東亜戦争勃発後、「第11航空艦隊司令長官 兼 南東方面艦隊司令長官」としてラバウルに赴任。終戦までラバウルで指揮しています。

□ 1号生徒時代 (昭和16年5月30日~11月15日)

■ 70期、4学年(1号)へ進級 (昭和16年5月30日)

最上級となった70期だが、肝心の4号生徒となる73期は12月まで入ってこない為、
4号生徒不在の変則状態がしばらく続くことになる。

■ 乗艦実習 (昭和16年6月9日より1週間) 軽巡「北上」

■ 潜水艦実習 (昭和16年6月17日)

■ 「航空第1次身体検査」 (昭和16年7月18日)

■ 「航空派遣教育 / 第2回 」 様々な機上作業を体験 (昭和16年7月21日~25日、於:岩国航空隊)

1人でも多くの学生を航空科に引っ張るために行われた、ある意味「サービス的」な体験訓練である。
前回の操縦作業に続き、今回は索敵・偏流測定・射撃・雷爆撃などの機上作業を体験し、
菅野の航空志望はますます強くなったに違いない。

90式2号機上作業練習機
 ▲ 菅野たちが訓練に使用した 三菱「90式2号機上作業練習機」

■ 70期の繰り上げ卒業決定 (昭和16年7月31日)

この日の「内示」により70期の卒業は11月15日と決定される。
ほぼ予想されていた事態で生徒たちに動揺は無く、むしろ「いよいよやるぞ!」という気分であったようだ。

一方、73期の入学予定は12月で変更無く、鍛えるべき4号生徒を迎える前に卒業することとなった70期は、
73期を「幻の4号」と呼んだ。
後に飛行学校などで偶然顔を合わせた時、ここぞとばかりに「修正」を加えた者もいたようだ。

同期生徒の回想
『 このため73期が飛行学生で霞ケ浦航空隊にやって来たとき、幻の4号を鍛えてやるといって
教官になっていた関(行男)や脇(延清)がだいぶ彼らをやったらしい 』

■ 最後の夏期休暇 (10日間)

■ 「弥山(みせん)登山係」として分隊を指揮

宮島の主峰「弥山」(海抜530m)を分隊別競争で駈け登る「弥山登山」は海兵名物の一つであり、各分隊とも2か月ほど前から訓練を重ねてこれに備える。48分隊「弥山係」だった菅野は11月の本番に向けて分隊を指揮し、兵学校裏の「古鷹山」で休日返上の猛訓練を繰り返していたようである。

■ 「航空第2次身体検査」~ 航空志望を正式申請 (昭和16年9月13日 於:岩国航空隊)

肺活量、脈拍、血圧、視力、聴力、立体視覚のほか、台に乗って回される平衡感覚?検査なども行われる。
検査終了後に航空志望調査が行われたが、採用してもらおうと必死の生徒たちの中には
超熱望」「白熱的熱望」「太平洋海戦的熱望」などと書き込んだ者がいたという。

ここで菅野は何と書いたか?文才溢れる彼のことだから、かなり個性的な文言を書いたことは想像できるのだが、今となっては知る術は無い。

■ 艦隊実習 (昭和16年10月5日~)

■ 原村野外演習 (昭和16年10月27日~11月1日)

広島県原村の演習場で最後の陸戦訓練を行う。
最上級の菅野は斥候長として下級生を指揮している。

■ 最後の分隊別競技「弥山(みせん)登山」 (昭和16年11月5日)

「弥山係」として分隊を鍛えてきた菅野は相当張り切ったに違いない(競技結果は記載なし)

43分隊3号生徒の回想
『 弥山登山がそれほど苦痛なくやれたのは、菅野さんに鍛えてもらったおかげ 』

海兵_弥山MAP

 

▲ 現在の「宮島・弥山マップ」 ※「宮島松大汽船」様サイトより転載
兵学校生徒たちは宮島桟橋に上陸後、「もみじ歩道」(紅葉谷公園)あたりに整列し、
時間をずらして分隊ごとにスタート。山頂までの到達時間で順位を競ったと思われます。
紅葉谷公園の茶屋「もみじ荘」には「海軍兵学校御用達」の古い木看板が残っています。

※この日、御前会議で対米交渉最終案が決定され、軍令部は連合艦隊に対し作戦準備実施を命じる
大海指第一号」を発令しているのだが、もちろん兵学校生徒たちは知る由もない。

■ 70期生徒卒業 (昭和16年11月15日)

天皇陛下名代の高松宮殿下臨席の元、第70期の卒業式が行われる。
恩賜の短剣”を授与された成績優秀者6人の内、最優秀(クラスヘッド)は平柳育郎生徒であった。

菅野の成績は如何に?と考えるが・・・
1号時、菅野は48分隊であったが、「分隊伍長」(室長)「伍長補」(副室長)には任命されておらず、
430余名の中で100位以内には入っていなかった可能性が高い。出世に無関心?な菅野はハンモックナンバーを気にしていなかったようであるし、ガリ勉はやらなかったようだが、それでも結構上位にはいたのではないか?
 

勝利の基礎_DVD
70期の卒業式や学校生活の様子は、
国策映画『勝利の基礎』(昭和17年)に収録されていますが、
残念ながらこの中に菅野さんを発見することは出来ませんでした。
海兵名物「棒倒し」のシーンなどではどこかに映っているはずなのですが、
人数が多いのと、画質が悪いため全く判別不能です(ガッカリ)

◀ DVD 『 空の少年兵 / 勝利の基礎 』(角川エンタテインメント)

少尉候補生となった70期卒業生は表桟橋より戦艦「榛名」および練習艦「阿多田」に分乗し、各配属艦へと送られた。菅野は「榛名」に乗船し、同期生20名とともに佐伯湾の戦艦「扶桑」に乗り組んでいる。

真珠湾作戦に参加する高速戦艦「比叡」「霧島」配属の候補生37名(「比叡」18名、「霧島」19名)は、
夜行列車で横須賀へ向かい、ひとまず全員が「比叡」に乗艦した。
その後11月19日、東京湾外で会合した「霧島」に候補生を移乗、そのまま両艦とも単冠湾へ向かっている。
※この時「比叡」には真珠湾作戦の新兵器「浅海面航空魚雷」の尾部(フィン)が搭載されていたという。


◎ 次回は霞ヶ浦航空隊「第38期飛行学生」時代の菅野さんです。

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