紫電改操縦員の体験談 その2 2014/12/09
前回の日記では笠井さんの戦歴紹介だけに終わってしまいました。
今回はその講演内容について書かせていただきます。
講演の冒頭、笠井さんはこのように仰いました。
「私は右翼でも左翼でも、もちろん軍国主義者でもありません。
上官の命令に従い、ただ無我夢中で戦った者であります。」
若干16歳で自ら海軍航空隊に志願され、ひたすら国のために戦い続けた笠井さん。
戦闘ご経験者の談話は多くの刊行物等に紹介されておりますが、やはり生でお話を聞くのは「違う」と実感しました。
そして貴重な声を聞いた者は・・・それを他に伝える、または残す努力をする使命を帯びるのだと私は思います。
ということで、私の記憶に残る限り以下に書かせていただきます。
が、何分拙い記憶ですので・・・明白な間違い等があれば是非ご指摘いただきたく思います。
※ なお、以下の記述は私が記憶を元にまとめたもので、笠井さん本人の発言という訳ではありません。
■ 短かった徳島航空隊での延長教育
通常なら最低半年はかける延長教育(戦闘機専修)だったが、僅か20日余りの訓練で実践部隊(263空)配属となった。記憶では96式艦戦に2~3回、零戦に5~6回搭乗しただけで、当時の技量は離着陸が出来る程度。
そんな状態のまま実践部隊へ放り込まれた。
■ 初めての洋上長距離飛行
マリアナ方面への長距離飛行では、行けども行けども見渡す限りの大海原と雲だけで孤独を感じたが、
湾曲した水平線を見て、生まれて初めて「地球が丸い」ことを実感した。
■ 南洋に来た!
グァム島では椰子の木、原住民、モンキーバナナなど初めて見るものばかりで「南洋に来た」実感があった。
現地の物は勝手に収穫できないため原住民にタバコやお菓子を渡して取ってもらったが、椰子のジュースは最高に美味しかった。
■ 初空戦
グアム島でB-24を邀撃したが、敵機が大きかったせいか照準がうまくいかず、杉田兵曹にこっぴどく怒られた。
■ ヤップ島でのB-24邀撃戦
・ 大型爆撃機編隊を攻撃する際は先頭機を攻撃すると後続機の防禦火網にやられる可能性が高いため、
編隊後尾のいわゆる「カモ番機」に狙いをつけ、これに全機で反復攻撃を加えるのが常だった。・ 直上方背面攻撃は敵の編隊火網をかいくぐる最上の戦術だった。
攻撃方法は難しく、恐ろしかったが、(菅野大尉に)「やれ」と言われたら、やるしかなく、覚悟を決めた。・ 空戦中、甲飛10期同期生2名(冨田隆治一飛曹、松尾哲夫一飛曹)の体当たり自爆を機上から目撃したが、
「かわいそう」「悲しい」といった感情は一切湧かなかった。
「よぉし、やった!明日は俺がやったる!」これしかなかった。
■ 零戦受領のため本土帰還
中島飛行機工場(群馬県太田市)に並ぶ大量の零戦を見て喜んだが、ほとんどがエンジン未装備でガッカリした。完成した機体から順に試験飛行を行い、不具合チェック→修正を繰り返したが、調整作業は思うように進ます、
結局太田には10日ほど駐留したと思う。
■ 「第二神風特別攻撃隊 忠勇隊」を直掩
・ ニコルス基地からの出撃直前、特攻隊員の中に甲飛同期の野々山尚一飛曹を発見して言葉を交わした。
「頼むで」「まかせとけ」といったごく短い会話だったと記憶している。・ レイテ湾上空で特攻機の突入を確認した時、彼らへの同情は全く感じなかった。
瞬間湧き上がってきたのは「よくぞやった!待っとれよ、次は俺の番や!」この意気あるのみだった。・ 特攻を見届けた者の一人として
「特攻隊の英霊に感謝の念を抱かない者は、日本人ではない。」※ この日笠井さんはお話されませんでしたが・・・杉田兵曹と笠井さんを含む戦闘306甲飛同期数名は特攻出撃を201空・玉井中佐(副長)に直訴しています。しかし願いは容れられず、後日帰国命令が下りました。
■ 本土帰還、横須賀で菅野大尉の指揮下に入る
・ 横須賀では当初、任務は「マル大」(桜花)の直掩だと教えられた。
・ 追浜で紫電11型による訓練に入ったが、ある日、黄色に塗装された紫電改が1機だけ配備された。
搭乗してその高性能に感動するとともに「よぉし!これでグラマン(F6F)に勝てる!」と確信した。
■ 常に必勝の念で
戦争中、“日本は負けるかもしれない”などと考えたことはただの一度も無かった。
その一方、いくら墜としても次々にやって来る米軍の物量に対しては驚きに似た感情があった。
「いったい、どないなっとるんや?」
■ 杉田兵曹
・ とても豪快な人柄で「酒」も教えてもらった。
・ 列機を非常に大切にした人で、徹底した編隊飛行訓練でしごかれた。
常々、杉田兵曹は列機に対してこのように言っていた。
「俺について来い。敵機は俺が落とす。列機は俺と同様に射撃すれば協同撃墜になる。」・ 喜界島制空戦闘で編隊からはぐれてしまい、その後F6Fと戦闘、敵2機は白煙を曳き急降下していった。
単独帰投の後、急いで指揮所にて申告した。「ただ今帰りました。2機撃墜!」
その直後、先に帰っていた杉田兵曹の怒声がさく裂した。
「馬鹿野郎!あの2機は白煙を曳いてはいたが落ちてはおらん!墜ちたのを確認したのか!」
司令の目前で2~3発鉄拳制裁を受けたが、列機の動きを見ていてくれた杉田兵曹の凄さを実感した。・ 杉田兵曹が山本長官機護衛零戦隊の1機であったことは戦後になってから知った。
■ もっと紫電改があれば!
紫電改は本当に優秀だったが、いかんせん機数が揃わなかった。
零戦のように大量生産が出来ていれば、もっと米軍を痛めつけることが出来たはず。
▲ ありがとうございましたm(_ _)m 笠井上飛曹さま、いつまでもお元気で
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88歳になる笠井さんですが今もって益々意気軒昂、熱意に溢れたその語り口には本当に引き込まれてしまいました。
笠井さんの証言映像はネット上にいくつか存在しますが、NHKの戦争証言アーカイブスにロングイタビューが2本収録されています。是非ご覧くださいませ。
■ NHK戦争証言アーカイブス 笠井智一さんインタビュー
「特攻機の護衛」
「特攻死した同期たち」