真珠湾攻撃の雷撃隊 2013/12/12
「12月8日」はもう過ぎてしまいましたが、
毎年この時期になりますと「真珠湾作戦」関連本を読み返したりしております。
攻撃隊総指揮官・淵田美津雄さんの貴重な文献 『 真珠湾攻撃 』 ( 河出書房 )
航空参謀・源田實さんの 『 真珠湾作戦回顧録 』 ( 文春文庫 )
雷撃隊指揮官・村田重治さんの伝記 『 海軍魂 』 ( 山本悌一朗著、光人社 ) などなど
今回少し気になった点がありましたので、以下に記してみます
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真珠湾作戦における主要打撃兵力は雷撃、水平爆撃、降下爆撃の3つですが、
この中で最も戦果を期待されていたのは 雷撃 で、奇襲成功時には一番最初に攻撃をかける決まりになっていました。
ただ、攻撃隊が真珠湾に突入する直前まで、雷撃隊を率いる 村田少佐 の胸中には一抹の「気がかり」があったのではないかと思います。それは、目標艦群が 防雷網 を張っていた場合の対処です。
「防雷網」とは 魚雷攻撃から艦艇を守るための金属製ネットで、これを両舷に展張するものであった。19世紀末に英海軍が採用し始めたのが最初だが、展張・収納にかかる膨大な時間・労力と、展張中は低速でしか航行できないこと、攻撃側である魚雷の進化 ( 網切りカッター 「破網器」 の魚雷頭部への装備、さらには火薬の爆発力でカッターを射出する 「 爆発破網器 」 の登場 )、また艦自体で衝撃吸収する技術の発達 ( バルジ装着、液層防御、多縦壁防御など )により、その有効性は徐々に失われ、各国とも第1次大戦を境にほぼ廃止に動いている。「防雷網」衰退後は、単艦防禦からより進んだ港湾・泊地防禦へと進歩し、「防潜網」などがこれに代わることとなっていった。なお、「防雷網」を最後まで採用していたのは日本海軍で、昭和9年頃まで使用されていたようである。
【左】
防雷網(Anti-Torpedo Nets)を展張する英国艦艇
かなり手のかかる装備であったことが一目で判ります。従って、真珠湾攻撃時において「防雷網」自体はすでに“時代遅れ”ではあったのですが・・・
敵が艦隊防禦に完璧を期すると想定した場合、その可能性は否定できないものだったのかも知れません。
源田航空参謀、淵田総隊長の両名ともこの「防雷網」対策にかなり頭を悩ませていました。
※ 抜粋が長いため心苦しいのですが、以下にご紹介させていただきます。
■ 源田航空参謀 : 「真珠湾作戦回顧録」より抜粋
『 雷撃に関するもう一つの難問は、敵が舷側に魚雷防御網を張っていた場合と、もう一つは、真珠湾内に阻塞気球を揚げていた場合である。~(略)~ 防御網を展張されていたならば、まず手はない。網切器については、航空技術廠や横須賀航空隊に依頼して、いろいろと実験研究をしてもらったのであるが、どうしても沈度が大きくなり、真珠湾攻撃には間に合わなかったのである。~(略)~ 飛行機隊としては、前衛機が防禦網に穴をあけ、後続機がその穴を通して魚雷を走らせることまで考えたのであるが、もし実際に防御網が展張されていたとすれば、雷撃の成功は望み得なかったであろう。』
■ 淵田総隊長 : 「真珠湾攻撃」より抜粋
『 この雷撃はだれでもやれるというものではない。
また、敵が防御網をはっていたら、その計画は水泡に帰してしまう。』
そして、雷撃隊指揮官・村田少佐の伝記『海軍魂』(山本悌一朗著、光人社)には、以下の記述が見られます。
『 魚雷防御網を張っている敵艦への雷撃が、効果がないのは当然である。
その時の方法はただ一つ、先頭機が肉弾となって防御網を爆破するか、全機が敵艦に体当たり攻撃をする。
つまり肉弾特攻攻撃を敢行するよりほかに方法がなく、この攻撃方法については、当初から村田重治の腹は決まっていた。源田航空参謀も、淵田、村田の考えに承認を与えたが、これは源田、淵田、村田という三人の男だけの了解事項とし、上層部にはいっさい相談しなかった。』
一方、ホノルル総領事館の森村正書記生(吉川猛夫 予備役少尉)からは刻々と真珠湾の状況が送られ、「A情報」として機動部隊へ伝えられていました。攻撃前日、すなわちハワイ時間12月6日、森村さんは2つの電報(午前の第1報、および最終の総領事電第254号「至急報」)を発信していますが、最初の第1報に 防雷網に関する報告 が見られます。
『 阻塞気球ナシ。戦艦ハ魚雷防御網ヲ有セズ。』
この報告が村田少佐を喜ばせたことは容易に推測できます。しかしこれは攻撃前日の流動的敵情に過ぎず、目標艦を自ら目視確認するまではやはり「気がかり」だったのではないでしょうか。実際、第1報にて真珠湾在泊を確認されていた空母2隻は、最終「至急報」では夕方までに出港して不在であることが報告されています。
ここで、ハワイ攻撃集団・第一波の編成表(↓)を見てふと気付くことがありました。
雷撃隊だけ頭に「特」の標記があるのです。
真珠湾の地形・水深(約12m)を想定し、雷撃隊が猛訓練の末に辿り着いた 浅海面雷撃法 は以下の2つで、
この方法以外では真珠湾での雷撃成功は困難というギリギリの判断でした。
■ 第一法 ・・・ 発射高度 : 10~20m 発射時機速 : 160ノット(時速約300km) 機首角度 : 0度
■ 第二法 ・・・ 発射高度 : 7m 発射時機速 : 100ノット(時速約190km) 機首角度 : 上4.5度
イメージとしては、
高度約40mで水平直進 → 発射直前に海面ギリギリまで降下 → 同時に魚雷発射( 目標距離 500~600m )
というもので、一連の機速は時速200~300kmの低速飛行ということになります。
このことは地上砲火や敵戦闘機の格好の目標になることを意味しています。
(※ それを防ぐために零戦隊、艦爆隊があるわけですが)
従ってよほどの奇襲に成功しない限り、雷撃隊は魚雷投下前に壊滅的ダメージを負う可能性が多分にありました。
ただでさえリスクの高い攻撃法に加え、万一「防雷網」展張の場合は体当りも辞さない覚悟!
なぜ雷撃隊だけ「特」なのか?その理由を私は知らないのですが・・・
そこには様々な意味が込められているような気がしてなりません。
「特」の意味をご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教授いただきたく思っております <(_ _)>
「 ワレ、敵主力ヲ雷撃ス、効果甚大 」
源田さんは 村田隊長の電文に接した時の気持ちを回想し、以下のように書かれています。
『 この電報を受け取った時ほどうれしかったことは、私の過去にはない。』
コメント
■ トップ10商品
トップ10商品■ > ねよ様 ・・・
> ねよ様情報ありがとうございます。
やはり真珠湾の雷撃任務は「特攻」だったのですね。
実は昨日(12/19)大阪市内で催された真珠湾攻撃の雷撃隊員(空母飛龍・特第四攻撃隊 偵察員) 城武夫(しろ たけお)さんの講演会に行ってまりました。96歳でいらっしゃいますが、背筋もシャンとされているし、声も明瞭、とてもお元気そうでした。そして講演後、ご親族さまの許可を得てほんの少しだけですがお話をさせていただきました(!)
当然「特」の件をお尋ねしたのですが、飛龍隊に於いてはそのようなお達しは無かったようだ~とのことでした。説明のため、「これは村田重治大佐の伝記ですが・・・」と言った時、村田さんの名前を聞かれたとたん、城さんは「おぉ~」と懐かしそうな笑みを浮かべておられました。
■ コメントがうまく送れな・・・
コメントがうまく送れなくて、同じ文面2回目です。だぶって投稿されてたら、すみません。雷撃隊の「特」の意味。「防御網が張ってあった場合、体当たりしなくてはならない特別攻撃隊だから」「日本で特攻隊の名称を初めて冠せられた隊」だと、淵田さんの本か何かで読んだ記憶がありますが…。間違ってたらごめんなさい??!