634空「瑞雲」デザイン中 その5 印刷工場に入りました 2013/11/09
先週末、元海軍中尉 Kさんに今回のデザインを見ていただきました。
そもそも今回「瑞雲」をテーマとしたきっかけはこの方との出会いでしたので、
製版・印刷段階へ進む前に必ず一度チェック?していただくつもりでおりました。
何を仰られるか、内心多少の不安があったのですが・・・
デザインをご覧になった瞬間に一言 「おぉ、瑞雲じゃ!」
誠にホッといたしました。
私が最も心配していた搭乗員・整備員の服装も違和感は殆ど無いとのこと。
また、Kさんのご記憶により、634空の主要発着エリアはキャビテ南側海面であったことがほぼ判明したのは大きな収穫でした。これが逆側(北側)であった場合、ルソン島をバックとする現在の背景デザインは使えなくなってしまうからです。
ということで、デザイン微調整の後、原稿はすでに印刷工場へ入っております。
Kさんとお会いするのは今回で3度目となりますが、相変わらず91歳とは思えない“お元気ぶり”でした。
このよく使われる「お元気」という言葉、Kさんの場合は相応しくないかもしれません。
何故かと言いますと・・・「お元気」どころでは無いからです。
伸びた背筋、しっかりとした足取り、正確な記憶力、明朗快活な口調・・・まさに驚異的!
万一私が90歳まで生存できたとしても、Kさんのようなご老人になるのはまず不可能でしょう。
さて、そのKさんの戦歴を簡単にご紹介しておきましょう。
昭和18年 9月 大学卒業
海軍飛行予備学生(第13期)合格
「三重海軍航空隊」入隊(基礎教程)昭和19年 1月 「青島海軍航空隊」入隊(偵察機の練習航空隊)
5月 海軍少尉 任官7月 第7艦隊 重巡洋艦「最上」
同艦艦載機「零式水上偵察機」搭乗員(偵察)10月 「最上」乗員としてレイテ沖海戦「スリガオ海峡海戦」に参戦(西村艦隊)
砲戦で大破炎上した「最上」は追撃の航空攻撃によって停止し、その後自沈。
駆逐艦「曙」に救助され、マニラへ上陸。
※ 同艦乗組員1200名、救助されたのは約400名
マニラ湾キャビテに進出していた「第634海軍航空隊」に転籍
水上偵察・爆撃機「瑞雲」機長として対艦爆撃に多数出撃12月 「第1航空艦隊」に転籍
昭和20年 1月 マニラ湾より2式大艇にて台湾東港(とうこう)飛行場へ撤退
4月 「鹿屋海軍航空隊」に転籍 特攻出撃命令を待つ
「大井海軍航空隊」(静岡県小笠郡、偵察員養成の練習航空隊)に転籍
予備訓練生への航法訓練教官に従事5月 海軍中尉任官
8月 終戦、除隊
基地残務整理に従事
凄まじいご経験をされたKさん、
戦場での生死の境目はただ「運だけ」と実感を込めて仰っておられましたが・・・
様々なお話を聞いておりますと、Kさんの偵察員としての秀逸さが大いに感じ取れるのです。
遭遇する敵機が艦載機か陸上機かによって分かれる対応、常に燃料消費を考慮した飛行計画、
敵艦対空戦闘力の見切り(駆逐艦の対空砲は殆ど当らないが、巡洋艦以上は手ごわい、など)、
そして、爆撃方法はもちろん、偏流測定など当時の航法手法・理論を今でも完璧に記憶されている明晰な頭脳・・・
フィリピン「634空」での激務をくぐり抜けてご生存できたのは、決して「運だけ」ではなく、
Kさんの機長としての冷静な判断力が少なからず影響していた、と私は思っています。
そしてその判断力は同乗する操縦員の命も救ったことになります。
▼ ニュース映像に残る キャビテ水上機基地の「634空」瑞雲隊
昭和19年10月末頃だろうか?