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空母「飛龍」ミッドウェー海戦Tシャツ / 97艦攻友永隊、ヨークタウンを雷撃!



逆襲の飛龍、ここにあり


真珠湾作戦以来 不敗を誇った日本海軍機動部隊でしたが、米空母殲滅とミッドウェー島攻略を企図した M I作戦 ( ミッドウェー海戦、現地時間1942年6月4〜6日 )で制式空母4隻を一挙に喪失する大敗北を喫し、ここに日米戦の攻守は所を変えることとなりました。その一方、加賀、赤城、蒼龍の被弾後に発揮された第二航空戦隊司令官・山口多聞少将の不屈のリーダーシップと空母「飛龍」攻撃隊の激闘は深い感銘と共に戦史に刻まれています。

■ ミッドウェー海戦 推移概略 ■ ※ 長文のためページ末尾に掲載しました。クリックで移動します。


■ デザインコンセプト ■

今回は飛龍の孤軍奮闘を少しでも遺すべくデザインを検討しました。【 前面 】には空母全体を描く狙いで、水平爆撃を回避する飛龍の雄姿をデザインしております。【背面】は飛龍から米空母に飛び立った2つの攻撃隊 〜 第二次攻撃隊(艦爆隊、指揮官:小林道雄大尉)、 第三次攻撃隊(雷撃隊、指揮官:友永丈市大尉))〜どちらをモチーフとするかで悩みましたが、文字通り“飛龍最後の攻撃隊”となった友永隊を選びました。被弾炎上しながらも執念で空母ヨークタウンを雷撃する友永大尉操縦の97艦攻です。 ■ 全体色調は派手さを抑えたセピアトーンで統一、Tシャツカラーはホワイトのみとなります。



B17から撮影された写真を参考に、高速航行で水平爆撃を回避する飛龍の雄姿をデザインしました。描かれている飛龍の姿は小さいのですが、ここに第二航空戦隊司令官・山口多聞少将、艦長・加来止男大佐 以下1100余名の兵(つわもの)たちが乗り組んでいる、と想像していただければ幸いです。

■ 水平爆撃を回避する飛龍

6月4日(以下現地時間)、夜明け前にミッドウェー島基地を離陸したB17×15機は南西方面から接近する日本軍輸送船団へ向かう途中、日本空母発見の報を受けて目標を変更、0700過ぎ、機動部隊上空に姿を現しました。3機ずつの5個編隊で高度5000mから飛龍、赤城を爆撃しましたが、命中弾なしに終わっています。

【 右 】 B17の水平爆撃を回避する飛龍
艦尾の着艦識別文字 「ヒ」と 飛行甲板前部に描かれた敵味方識別「日の丸」が鮮明に写っており、艦橋前には待機中と思われる零戦2機が確認できる。

 

■ 飛行甲板に描かれた「日の丸」と「着艦識別文字」

ミッドウェー海戦時、第一航空艦隊4空母(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)の飛行甲板には巨大な「日の丸」が描かれていました。1ヵ月前の珊瑚海海戦時、翔鶴艦爆隊が薄暮の中で米空母レキシントンを母艦と誤認して着艦しそうになるアクシデントが発生したため、敵味方識別向上の目的で急遽決定された処置でしたが・・・大きな「日の丸」は急降下爆撃機にとって格好の目標でしかなく、これを見た米軍パイロットは不思議がったと云います。ミッドウェー海戦後、日の丸表示は廃止されました。

また、日本空母の飛行甲板後部には同型艦への誤着艦防止のために「着艦識別文字」がカタカナ表記で描かれていました。作者の知る限り、ミッドウェー海戦時の写真で確認できるのは赤城「ア」と飛龍「ヒ」で、模型やイラストなどに散見される加賀「カ」や蒼龍「サ」(サフリフ)の真偽はよくわかりません。ただ、加賀「カ」には乗員の方の証言があるそうです。

 

▲ ミッドウェー海戦時、B17が撮影した赤城
左艦橋なので赤城か飛龍だが、飛行甲板前部に飛龍とは異なる白地に描かれた「日の丸」があり、後部には「ア」らしき文字が確認できるため、ほぼ赤城で間違いないと思われる。



1942年6月4日1030過ぎ・・・加賀、蒼龍、赤城の相次ぐ被弾に茫然自失となった一航艦司令部を尻目に、勇将・山口多聞少将 率いる飛龍はただちに米空母に向けて進撃を開始しました。飛龍の放った第二次攻撃隊、第三次攻撃隊は米空母ヨークタウンを大破して一矢を報い、さらに残存機による第四次薄暮攻撃隊を編成します。しかし、発艦待機中に米急降下爆撃機の集中攻撃を受けて4発を被弾、鬼神の如き飛龍の反撃も終わりを迎えることとなりました。

背面デザインでは、最後の反撃となった第三次攻撃隊における 指揮官機(友永丈市大尉機)の奮戦を想像で描きました。空母ヨークタウンの右舷後方から迫った友永機はF4Fの邀撃で炎上しながらも執念で魚雷を投下、この直後海面に突入します。右舷後方より放たれた魚雷はヨークタウンの左回頭でかわされますが、この変針は左舷後方から突入しつつあった第2中隊(橋本敏雄大尉指揮)に好射点を与える結果となり、魚雷2本が命中.。大破したヨークタウンは総員退艦に追い込まれました。
■ 記録性を高めるため、友永機の「ト連送」発信時間を現地時間、日本時間で併記しています。


■ 空母「飛龍」飛行隊長 友永丈市大尉

  海兵59期、飛行学生25期。 昭和17年4月、友永大尉は空母「飛龍」飛行隊長として富高基地に着任します。「加賀」艦攻操縦員として支那事変に参加した後、長く練習航空隊教官職にあった大尉にとって4年ぶりの実戦部隊復帰でした。直後に訪れたMI作戦(ミッドウェー作戦)では、盲腸に伏した赤城飛行隊長・淵田美津雄中佐に代わり、第一次攻撃隊(ミッドウェー島攻撃隊)総指揮官を任されます。6月4日早暁、赤城、加賀、飛龍、蒼龍 計4隻の空母から発艦した第一次攻撃隊108機を率いてミッドウェー島を強襲した後、「第二次攻撃の要あり」を打電しました。

赤城、加賀、蒼龍の脱落後は、第三次攻撃隊指揮官として97艦攻(雷装)10機、零戦6機を率いて再出撃、未帰還となりました。享年31歳。友永機を邀撃したヨークタウン第3戦闘機中隊隊長 ジョン・S・サッチ少佐の証言によれば、空母ヨークタウンの右舷後方から迫った友永機はF4Fの銃撃に炎上しながらも執念で肉薄を続行、海中に墜落する寸前に魚雷を投下したとのことです。友永機の魚雷はヨークタウンにかわされますが、この直後、第2中隊(橋本敏男大尉指揮)の放った魚雷4本中2本が左舷に命中。ヨークタウンに致命的打撃を与えました。

【 友永大尉の片翼燃料出撃について 】
第一次攻撃(ミッドウェー島空襲)の際、友永機(BI-310)はF4Fの銃撃によって左翼主タンクを撃ち抜かれていましたが、第三次攻撃でも同じ機体で出撃しました。機を替えるよう懇願・進言した機付整備員や飛行士に対し、友永大尉が笑顔で返したとされる言葉がいくつか残されています。「右翼タンクの燃料さえありゃあ、十分さ」 「1機たりとも攻撃機数を減らすのはもったいない」 「燃料は片道分ありゃあ、十分だよ」。ここから“友永大尉は死ぬつもりだった”との解釈もなされていますが、作者はちょっと違和感を感じています。97艦攻には左右両翼にそれぞれ主タンク(350ℓ)と補助タンク(225ℓ)があり、従って片翼のみだと575ℓとなりますが、これでも雷装状態で3時間30分ほどの飛行が可能です。そしてこの時、米空母との距離は約90カイリ(約167km)と報告されていましたので、冷静な友永大尉は片翼燃料だけでも往復可能と理解していたはずです。もちろん、攻撃隊長として命に代えても魚雷を命中させる覚悟だったでしょうが、後席には偵察員、電信員も乗っており、決して死ぬ気で出撃したわけではなかったように思うのですが・・・。

海軍兵学校時代はスポーツ万能で鳴らし、部隊では「トモさん」の愛称で呼ばれた友永大尉。戦後、部下たちの証言によってその人となりが伝えられています。〜 「寡黙で小事にとらわれず、黒白の決断はキッパリしていた」 「情の深い、侠気(おとこぎ)のある上官」 「ぼくとつ剛毅で飾り気がなく、親分肌の人柄」(合掌)

■ 総指揮官機 97艦攻「B I-310」

友永大尉の乗機は2度の出撃とも「BI-310」であったことが知られていますが、その尾翼塗装に関しては様々なイラストが存在するようです。今回デザインでは、友永大尉とともに第一次攻撃に参加した飛龍艦攻隊 電信員・金沢秀利さんの著書 『 空母雷撃隊 』 に記されていた一文「 尾翼を黄一色で塗りつぶし、赤線三本を巻いた指揮官機 」を参考にさせていただきました。また、友永機を撃墜したサッチ少佐によれば、その尾翼には「ブライト・レッド・インシグニア」(輝かしい赤線の入った指揮官マーク)が見えたとのことです。
※ 「 B 」は第二航空戦隊、「 I 」は一番艦(=飛龍)を意味しています。

 

■ “損害担当艦” 空母ヨークタウンの奮闘

5月27日午後、珊瑚海海戦で爆弾1発を被弾した空母ヨークタウンは真珠湾に帰投しますが、日本軍のミッドウェー侵攻を察知していた太平洋艦隊司令長官 ニミッツ提督の厳命を受け、わずか3日間の突貫工事で応急措置を施した後、ミッドウェーに向けて出撃しました。そして6月2日、先発したエンタープライズ、ホーネットとミッドウェー島北方海面で合流、日本機動部隊を待ち受けたのです。しかし6月4日早朝から始まった海戦では、飛龍の反撃を一身に受けることとなりました。まず第二次攻撃隊(小林道雄大尉指揮、99艦爆隊)の空襲で爆弾3発を被弾します。必死の消火活動と甲板補修作業によって2時間後には機能を回復しましたが、その40分後、今度は第三次攻撃隊(友永隊)の魚雷2本が命中し、総員退艦へ追い込まれました。( この時、日本側は2隻目の空母を撃破したと判断していましたが、実はヨークタウンを2度攻撃していたのです。)その後米軍はヨークタウンを救うべく駆逐艦を派遣、懸命の作業が続けられました。しかし翌6月5日昼過ぎ、密かに接近していた伊168潜水艦の雷撃によって致命的ダメージを受け、6月7日早朝ついに海面から姿を消しました。長時間浮かび続けたため同艦の戦死者は58名に止まっています。

  【 左 】 第二次攻撃隊の空襲直後、炎上するヨークタウン
飛龍第二次攻撃隊(小林隊、99艦爆隊)の空襲で3発を被弾したヨークタウンは推進力を失って洋上に停止したが、ここから奇跡的な回復力を見せた。迅速な消火活動と飛行甲板の応急補修によって約30分で発着艦機能を取り戻し、さらにボイラーも次々復活させて2時間後には速力20ノットにまで回復。この迅速な復旧は、友永隊に無傷の空母と誤認させる予期せぬ効果を生み、結果的にエンタープライズ、ホーネットへの攻撃を防ぐこととなった。


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■ カラー : ホワイト ■ サイズ : S〜XXXL
価 格 : S〜XXL・・・¥4000(税込)、XXXL・・・¥4100(税込)
■ 使用Tシャツ:クロスステッチOE1116
■ 素材 : 綿100% 6.2オンス 16/_ 天竺
■ プリント手法 : 淡色インクジェット印刷(前・背面とも)


空母「飛龍」ミッドウェー海戦Tシャツ / 97艦攻友永隊、ヨークタウンを雷撃!

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【 ミッドウェー海戦 推移概略 】

■ ミッドウェー島攻撃隊発進

1942年6月4日(現地時間)日の出前、ミッドウェー島北西600kmに進出した赤城、加賀、飛龍、蒼龍、計4隻の空母から第一次攻撃隊108機(ミッドウェー島攻撃隊、総指揮官:空母飛龍飛行隊長 友永丈市大尉)が飛び立ち、ついにミッドウェー海戦の戦端が開かれました。この時点で旗艦「赤城」の一航艦司令部は米空母の動向を全く把握できていなかったにもかかわらず、部内には“ 敵空母は出てこないだろう ”との楽観した雰囲気があったと云います。0520、一航艦司令部は発光信号によって各艦へ敵情判断を伝えました。「本日敵機動部隊出撃の算なし〜」
しかし、実際には危機が忍び寄りつつあったのです。


■ 米海軍の情報力 と 日本海軍の油断

膨大な暗号解読情報の集約によって日本軍の攻撃開始日・地点をほぼ正確に掴んでいた米太平洋艦隊司令部は 5月末、虎の子の空母3隻(エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン)を真珠湾から出撃させていました。6月2日、3隻の空母はミッドウェー島北方海面で合流、虎視眈々と攻撃機会をうかがっていたのです。

一方、日本海軍も米空母の動向を掴むべく策を講じていました。しかし、二式大艇による真珠湾偵察「第二次K作戦」は中継地となるフレンチフリゲート礁の警戒が強化されたため中止のやむなきに至り、ハワイ〜ミッドウェー間に合計15隻の潜水艦を投入する哨戒計画も索敵線への到達が遅れたため、米空母3隻はすでに通り過ぎた後でした。しかし攻撃前夜、大きなチャンスが訪れます。機動部隊はるか後方を航行していた旗艦 「大和」 の敵信班がミッドウェー北方海面に米空母の呼び出し符号を傍受したのです。山本長官は「一航艦に転電する必要はないか」と幕僚に検討させますが、黒島参謀の「無線封止中でもあるし、赤城でも受信しているだろう」との判断により一航艦への発電は見送られました。しかし、この呼び出し符号を赤城では傍受しておらず、後に黒島参謀は「私の大きな失敗の一つ」と述べています。さらに同じ頃、「飛龍」敵信班も近距離に米空母の呼び出し符号を捉えていましたが、なぜかこの情報も山口多聞少将以下 二航戦司令部には到達していません。

その他、日本側には随所に緊張感の欠如が散見されます。まずは索敵の軽視が挙げられるでしょう。二段索敵を適用せず一段のみとしたのは「敵空母は出てこない」との油断によるものとしか思えませんし、その索敵機(7機)の発進は軒並み遅れ、米機動部隊を最初に発見することとなる利根4号機にいたっては約30分も遅延しています。さらに、ヨークタウン部隊を発見しうる索敵線を担当した筑摩1号機は天候不良のため雲上飛行していたことが判明(基本索敵高度は海上500m)、見落としの可能性が指摘されています。また同機は米艦上機(艦上爆撃機SBD)と空戦していましたが、艦上機との遭遇は米空母の存在を示唆しているにもかかわらず、この重大情報を打電していません。

参加部隊全体におよぶ機密保持の欠如も目に余るものがありました。街の散髪屋が次期攻略目標(ミッドウェー)を知っていた逸話などが有名ですが、出撃前、ミッドウェー攻略部隊司令部が横須賀郵便局宛てに発信した平文電報はその最たるものでしょう。「 六月中旬以降当隊宛ノ郵便物ノ転送先ハ『 ミッドウェー 』ニ送ラレタシ」。これを傍受した米太平洋艦隊司令部では、あからさまな機密漏洩に偽電ではないか?と真剣に検討したそうです。

そして何より致命的だったのは、第一航空艦隊司令部中枢が慢心していた事実でしょう。5月上旬 「大和」 で行われた 「MI作戦図上演習」 時、敵機動部隊の空襲を受けた際の対応をたずねた連合艦隊宇垣参謀長に対し、一航艦航空甲参謀・源田中佐はこう言い放っています。「鎧袖一触ですよ」


■ 日本機動部隊、発見される

6月4日 0400、日本機動部隊が第一次攻撃隊を発進させる30分前、ミッドウェー島から11機のPBY飛行艇が日本空母捜索に飛び立ちました。そして0534、ついに日本機動部隊を発見、さらに10分後、ミッドウェー島に向けて進撃中の第一次攻撃隊を発見します。空襲警報が発令されたミッドウェー島からはただちに戦闘機20数機が邀撃に飛び立ち、TBF雷撃機、B26爆撃機(雷装)、SB2U艦爆、SBD艦爆 など計34機が日本機動部隊攻撃に離陸、さらに日本軍輸送船団に向かっていたB17爆撃機15機も目標変更して日本空母群へ向かいます。一方 米空母3隻からは、日本機動部隊が攻撃隊を収容し第二次攻撃を準備している隙を突くべく、0700〜0838にかけてSBD艦爆、TBD雷撃機、F4F戦闘機 計150余機が飛び立っていきました。日本機動部隊は空母航空戦における勝利の要諦=先制を許したのです。


■ 第二次攻撃の要あり

第一次攻撃隊を送り出したのち、日本の4空母では米機動部隊出現に備えた定石装備が進められていました。すなわち、赤城、加賀では97艦攻への魚雷装備、飛龍、蒼龍では99艦爆への艦船攻撃用徹甲弾装備です。ところがほぼ作業が完了しつつあった 0700、ミッドウェー島攻撃を終えた第一次攻撃隊 総指揮官・友永大尉から電信が入ります。
『 第二次攻撃の要あり 』

夜明け前東方に放った7機の索敵機から米空母に関する情報は何ら入っておらず 「敵空母は出てこない」との思い込みを更に強くしていた一航艦司令部はミッドウェー島再攻撃を決意し、0715 待機攻撃機の爆装転換を命じます。この時点で赤城、加賀の97艦攻は雷装、飛龍、蒼龍の99艦爆は艦船攻撃用徹甲弾を装備していましたが、これらすべてを陸用爆弾に換装せよとの指示でした。( ※ 南雲長官が爆装転換を命じたのは0715ですが、それ以前に赤城、加賀では雷装→爆装作業が飛行甲板上で進められていたとの証言があります。) 同じ頃、すでに機動部隊上空にはミッドウェー島からの米攻撃機群第1波が来襲していましたが、B 17×15機による高空からの水平爆撃はすべて回避され、勇敢に突進した雷撃機群も直衛零戦隊に阻止されて命中ゼロに終わります。


■ 米空母出現

ところが爆装転換を命じた約15分後の0728、索敵機(利根4号機)から意外な報告電が入ります 『 敵らしきもの10隻見ゆ 』。米軍の日本機動部隊発見から遅れること約2時間、初めて敵艦隊の存在を知ったのでした。思いもよらぬ敵の出現、しかし空母の有無は不明・・・司令部は先に出した爆装転換を覆します 『 敵艦隊攻撃準備、攻撃機雷装そのまま 』。 相次ぐ兵装変更発令に各母艦の格納庫は大混乱に陥りました。

この時、ミッドウェー島を発した米攻撃機群の第2波が来襲、さらにB17も再び上空に現れますが、またしても直衛零戦隊の目覚ましい活躍によって次々と排除されていきました。零戦隊の弾薬補給・発着艦に飛行甲板が使われたため、兵装転換は主に格納庫内で進められていましたが、敵襲回避に激しく動揺する艦内での作業は困難を極めたことでしょう。さらに空戦の最中、友永大尉の第一次攻撃隊が続々と帰還し始めましたが、対空戦闘中につき上空待機を命じられます。

そして0820、利根4号機より決定的な続報が届きます 『 敵はその後方に空母らしきもの一隻伴う 』 。この時、飛龍の山口司令官は直ちに発光信号を発し、現装備(陸用爆弾)のまま速やかに攻撃隊を発艦すべし、と強く具申しましたが、これを黙殺した司令部は 第一次攻撃隊収容後に第二次攻撃隊を発艦させる苦肉の策を取ります。第二次攻撃隊発艦を優先すれば十分な護衛戦闘機は付けられず、なにより着艦待機中であった第一次攻撃隊の燃料切れを恐れていたのです。また、利根4号機が打電した敵空母の位置はまだかなり遠く、時間的余裕があったこともこの判断を後押ししていました。しかし、利根4号機が報じた敵空母の位置は実際より大きく北方にずれており、米空母は想像以上に接近していたのです。
※ この時の一航艦司令部の判断は後世まで物議を醸すこととなりました。戦に勝つことに徹した冷徹とも取れる山口司令官の意見具申、温情が絡み危機感を欠いたとも言える一航艦司令部の判断・・・当時の状況下において いずれが的を得ていたかは今なお話題に上ります。


■ 3空母被弾

1時間半に及んだミッドウェー島からの五月雨的攻撃が終了したのは0835頃、この時 日本機動部隊は全く無傷の状態でした。ただちに第一次攻撃隊の収容が始まり、0910 収容完了。いよいよ第二次攻撃隊が飛行甲板に並べられ始めた 0930頃、米空母から発進した艦載機がついにその姿を現します。しかし、かれらは大きなミスを犯していました。発艦後の空中集合に失敗したため大編隊による進撃体制が取れず、各隊が場当たり的に攻撃を開始したのです。

最初に来襲した雷撃機群は直衛零戦隊によって次々と撃墜され、投下された魚雷もことごとく回避されました。しかし・・・零戦隊が低空に降りたためがら空きとなった上空から 遅れて到着したSBD(急降下爆撃機)約40機が突入、加賀、蒼龍、赤城が相次いで被弾炎上します。時に1023〜1025、わずか数分の出来事でした。通常なら 2〜3発の被弾で空母は大破しないのですが、飛行甲板上の艦載機が次々に爆発、さらに相次ぐ兵装転換で格納庫内に残置されていた多数の爆弾・魚雷が立て続きに誘爆を起こし、これが致命傷となったのでした。


■ 飛龍の逆襲

3空母の被弾に狼狽する一航艦令部を尻目に、山口司令官に率いられた飛龍はただちに敵空母に向けて進撃を開始します。1058、小林道雄大尉を指揮官とする第二次攻撃隊(99艦爆18機、零戦6機)が発進。筑摩5号機の無線誘導に導かれた攻撃隊は敵空母(ヨークタウン)に爆弾3発を命中させましたが、小林大尉以下多数が未帰還となりました。見事に誘導任務を果たした筑摩5号機はその後、南東方に新たな敵空母(エンタープライズまたはホーネット)を発見、敵情打電を繰り返す中、ふっつりとその報告は途絶えます。

1331、新たな敵空母を求めて友永丈市大尉指揮の第三次攻撃隊(97艦攻雷装10機、零戦6機)が発進。ところがその直後、飛龍に着艦した蒼龍二式艦偵の報告により、2隻と想定していた敵空母は3隻であることが判明します。飛龍艦橋に重苦しい空気が漂う中、友永隊からは無傷の空母1隻に対して魚雷2本命中の報告が入りますが、友永隊長以下多数が帰らぬ人となりました。 ※ 友永隊が攻撃した空母は、小林隊に撃破された後、驚異的な修復能力を発揮して機能を回復していたヨークタウンでした。つまり同じ空母を2度攻撃していたのです。

「これで残る敵空母は1隻!」(※本当は2隻) 闘志衰えぬ飛龍では、最後の敵空母と刺し違えるべく、残存機による第四次薄暮攻撃隊(99艦爆5機、97艦攻4機、零戦10機)を編成します。発進は1800とされ、満身創痍・疲労困憊の搭乗員たちに束の間の休息が訪れました。しかし、鬼神のごとき飛龍の奮戦もついに終焉の時を迎えます。1700過ぎ、無傷の米2空母(エンタープライズ、ホーネット)から飛来した急降下爆撃隊の集中攻撃を受けて4発を被弾、ついに力尽きたのでした。

同日深夜、総員退艦が命じられ、駆逐艦「風雲」への移乗が始まります。翌5日0430、約720名が退艦を完了しましたが、山口司令官と艦長・加来止男大佐は艦に残り、飛龍と命運を共にしました。0510、処分のため駆逐艦「巻雲」から魚雷が撃ち込まれましたが、飛龍はその後も浮き続け、沈没は0900頃と云われます。公式記録によれば、沈没位置は「北緯31度27.5分、東経179度23.5分」。

 

【 左 】 被弾翌朝、白煙を吐きながら漂流する「飛龍」

よく知られる左写真2枚は米軍撮影ではなく、被弾翌日の6月5日(現地時間)早朝、空母「鳳翔」の索敵機(96式艦攻)が漂流する「飛龍」を偶然発見して撮影したもの。爆風で吹き飛ばされ艦橋前方に突き刺さった前部エレベーターが被害の凄まじさを物語っている。

この時、索敵機は甲板上で手を振る生存者数名を確認している。第一航空艦隊司令部は生存者救助と飛龍の雷撃処分のため直ちに駆逐艦「谷風」を差し向けたが、米軍の航空攻撃に阻まれて現場到着は夕刻となり、ついに飛龍の姿を発見することは出来なかった。沈没は午前9時頃と云われる。

実は、総員退却後も飛龍には艦底の機関科員を中心に60名以上の兵員が取り残されていた。沈没時に脱出できたのはわずか39名で、彼らは短艇で15日間漂流した後、6月19日に米水上機母艦「バラート」に収容されている。漂流中4名が力尽き、救助されたのは35名であった。

飛龍が波間に沈んだ頃、ヨークタウンはまだ海上に浮いていました。米軍は駆逐艦数隻と掃海艇1隻を派遣、貴重な空母をハワイに曳航すべく懸命な作業が続けられていたのです。しかし 1331、密かに接近していた伊168潜水艦の魚雷2発が命中。なお半日以上浮き続けたヨークタウンでしたが、7日払暁、静かに沈んでいきました。

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