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「伊400型潜水艦&晴嵐」Tシャツ



運命に翻弄された巨大潜水艦


潜水空母構想  対米戦直前、日本海軍の潜水艦兵力は邀撃漸減作戦における先遣隊と位置付けられていました。すなわち、航続力を活かして敵艦隊の動向を探り、機会があれば雷撃を加えて艦隊決戦を有利に導くという役回りです。一方、開戦劈頭の真珠湾奇襲によって旧来構想を覆した山本五十六連合艦隊司令長官は潜水艦戦略においても新しい可能性を参謀に打診していました。
 攻撃機を搭載した超大型潜水艦群でアメリカ東海岸を空襲できないものか?
すでに海軍は小型水偵搭載潜水艦を保有していましたが、あくまで偵察力向上を目指したものでした。しかし、この超大型潜水艦は偵察機ではなく攻撃機を搭載して直接航空攻撃をかける、文字通りの「潜水空母」だったのです。こうしてハワイ作戦直後から「潜特」(伊四〇〇型)と命名された世界最大の潜水艦建造計画がスタートします。その骨子は、地球1周半に相当する4万浬の航続力を持ち、航空魚雷または800kg爆弾を装備した特殊攻撃機2機を搭載する巨大潜水艦を多数整備するという、既存の潜水艦常識を覆すものでした。

迷走する建艦政策  長官肝入りの潜水空母開発計画は異例の速度で進展し、昭和17年5月には早くも艦型が決定します。航続距離3万浬(約5万5千km)の実現には膨大な燃料搭載が必要なため巨大化した艦体は基準排水量3500t、全長は122mに達し、さらに上甲板には攻撃機収容のための巨大な水密格納筒と全長26mにおよぶカタパルトが配置されました。ミッドウェー海戦直後の昭和17年6月末に18隻建造が正式決定され、翌昭和18年1月には1番艦「伊400」が呉工廠にて、4月に2番艦「伊401」が佐世保工廠で起工されます。しかしその後、山本長官の戦死、ソロモン方面の戦況悪化によって18隻の建造計画は5隻へと大幅縮小され、最終的に3隻へ激減してしまいます。ところが、混乱最中の昭和18年末、米軍補給線に重大なダメージを加える目的で潜水空母艦隊によるパナマ運河爆撃作戦が決定されたのでした。これに伴い、「伊400」「伊401」の搭載機数を2機から3機へと増加させ、さらに巡潜2隻(伊13、伊14)の潜水空母への改装(晴嵐2機搭載)が決りましたが、元々複雑な構造に設計変更も加わって建造は難航し、1番艦「伊400」の就役は起工から約2年後の昭和19年末にずれ込むこととなります。


 

【 パナマ運河爆撃作戦 】

昭和20年5月、第一潜水隊と631空より連合艦隊司令部に上申された潜水空母4隻(伊400、伊401、伊13、伊14)による計画概要は以下のようなものだったと云います。攻撃時期は8月上旬または9月上旬の月明期の黎明とされ、攻撃方法は緩降下爆撃とされましたが、確実を期す631空では全機体当りを想定していました。

(1) コロンビア沖を北上、パナマ南方150〜200浬まで潜航接近
(2) 4艦一斉に浮上、フロートなし・800kg爆弾装備の「晴嵐」10機
 を射出して急速潜航
(3) 「晴嵐」編隊は超低空でカリブ海に進出、反転して北方より
 パナマ運河に接近
(4) 大西洋側ガトゥンロックの最上段閘門(こうもん)を爆砕
(5) 攻撃終了後「晴嵐」は予定海面に胴体着水。
 潜水艦は搭乗員を収容して避退。機体は海没放棄。

※ 左図は『 伊四〇〇と晴嵐 全記録 』 (学研) 61ページ掲載の図を元に、一部変更を加えて描きなおしたものです。

特殊攻撃機「晴嵐」  一方、搭載される「一七試特殊攻撃機M6」の開発は新鋭艦爆「彗星」を手がける愛知航空機に命じられ、主な要求項目は、着脱式フロート、折りたたみ翼、カタパルト射出、800kg爆弾または魚雷搭載 というものでした。「彗星」の改良型として臨んだ愛知でしたが、主翼折りたたみに無理があることや800kg懸架に対する機体強度不足(彗星の搭載爆弾は500kg)が判明、結局一からの設計となります。エンジンは「彗星」で不具合を多発させていた「熱田(アツタ)」(ダイムラーベンツの液冷エンジン「DB-601A」の国産化)を敢えて採用しますが、これには伊四〇〇型での格納運用を想定し水冷機ならではの利点 〜 流線型機首による空気抵抗減少、エンジン始動の迅速化、プロペラと魚雷の間隔確保 〜 を活かす狙いがあったと云われます。設計は建造中の伊四〇〇型と密に連携を取りながら進められ、昭和18年11月に試作1号機が完成、「晴嵐」と呼称されました。試験飛行、追加試作機で高性能を発揮した「晴嵐」でしたが、連続して東海地方を襲った大地震(東海地震、濃尾地震)や空襲被害によって生産は進まず、「晴嵐」部隊 631空への供給は20機に止まりました。

 

【 「晴嵐」増加試作機の1機 】

水冷倒立V型エンジンならではの流麗な機首形状がよく判る写真です。しかし「熱田(アツタ)32型」は完成された発動機ではなく、エンジン停止などの不具合を頻繁に起こしました。一方、昭和19年末、20年1月と連続して大地震が東海地方を襲い、さらに度重なるB-29の空襲など、愛知航空機の生産現場にも災難が続いたため、結局実用機の生産は20機に終わっています。

攻撃目標変更、ウルシーへ  昭和19年末から翌20年1月にかけて相次いで竣工した「伊400」「伊401」はその後完成した「晴嵐」2機搭載の「伊13」「伊14」とともに4艦でパナマ運河攻撃部隊「第一潜水隊」を編成、6月初旬、能登半島七尾湾に終結して631空との合同訓練に入りました。急速浮上→「晴嵐」組立・射出→急速潜航→再浮上→「晴嵐」揚収を繰り返す猛訓練の末、20分以内で3機連続射出が可能になったといいます。「晴嵐」による攻撃方法は800kg爆弾による緩降下爆撃とされましたが、実戦ではフロートなしで出撃し爆弾もろとも体当りを行う〜このことは搭乗員を含め631空全体で暗黙の了解となっていました。そんな訓練最中の6月末、攻撃目標が米機動部隊の前進基地ウルシー泊地へと変更されますが、背景には絶望的な戦況下「降伏の前に一矢報いたい」という海軍上層部の意向があったとも云われています。作戦変更の結果、ウルシー攻撃には「伊400」「伊401」の2艦(晴嵐6機)を充て、「伊13」「伊14」は偵察機「彩雲」をトラック島へ輸送して直前偵察に当ることとなります。出撃を間近に控えた7月20日、第一潜水隊司令と631空指令を兼ね、自らも指揮官として「伊401」に坐乗・出撃する有泉龍之助大佐は攻撃隊搭乗員に短刀を授与するとともに、晴嵐による特攻を 神龍特別攻撃隊 と呼ぶことを宣言しました。
※ 「神龍」は司令官・有泉龍之助大佐の「龍」を取って命名されたと云います。

▲ 晴嵐を搭載した伊14 七尾湾での貴重な戦中写真。格納筒から翼を折りたたんだ晴嵐2機が引き出されている。

攻撃直前に終戦  7月23日夜、「伊400」「伊401」(有泉司令官座乗)は陸奥湾大湊を出撃、ウルシー南東100浬の会合点を目指しました(会合予定日は8月14日夜だったと云われています)「伊400」は8月14日に会合海域に到達しますが、「伊401」は米艦隊を避けて東方に迂回していたため両艦は会合できず、相互の交信もままならぬまま8月15日を迎えます。翌16日、海軍総隊司令長官発「停戦命令」に続き 第六艦隊からの帰投命令を受信した両艦は浮上航行で本土を目指し、晴嵐や魚雷など搭載兵器はすべて海中投棄されました。8月末、東北沖で両艦は相次いで米海軍に拿捕され、「伊401」では有泉司令官が拳銃自決を遂げています。その後、横須賀で整備を行った両艦は「I-400」「I-401」と艦表示を変え、米人クルーによってハワイへと回航されました。

 

【 終戦を迎えた伊400 】

昭和20年8月27日夜、「伊400」は仙台沖で米駆逐艦「ブルー」に拿捕されましたが、3機の晴嵐は同日朝、全乗組員が見守る中、クレーンによって海中に沈められていました。色々な意味で“きわどい”タイミングだったといえましょう。

写真は拿捕された翌日、8月28日に米軍によって撮られた「伊400」。海軍総隊司令部からの命令により、艦橋トップには黒色三角旗(ワレ降伏ノ用意アリ)が翩翻(へんぽん)と翻っている。

■ デザインコンセプト ■

潜水空母としての特殊性にスポットが当たりがちな「伊四〇〇型」ですが、ウルシー作戦時、この巨大潜水艦には約200名の人員が乗組んでいたのです。そこで、一人でも多くの「兵士」を描くため、背面デザインの構図には模型箱絵のような「晴嵐」射出発艦シーンではなく、あえて射出訓練中の前甲板風景を選びました。しかし、「伊四〇〇型」「晴嵐」はともに軍事機密でしたので戦中写真はほとんど残存せず、ましてや射出訓練時の人員配置・人数などを推し量ることができる資料などあるはずがありません。途方に暮れてしまいましたが・・・幸いにも!実際に射出訓練を目撃されていた元「伊400」乗組員さまのご意見をお聞きする機会に恵まれ、なんとか絵にすることができました。前面はシンプルなワンポイントで、日本海軍潜水艦乗員徽章と「伊400」艦橋セイルに展張された艦番号標識を再現しています。

【 前 面 】・・・ 潜水艦乗員徽章と「伊400」艦番号標識
【 背 面 】・・・ 「晴嵐」射出訓練中の前甲板風景



 



海軍潜水学校卒業者にのみ貸与された熟練潜水艦乗りの証(あかし)「潜水艦乗員徽章」(バッジ)と、「伊400」の艦橋両舷に展張された艦番号標識「イ400」を当時の写真などを参考に復刻デザインしました。
※「伊400」ではウルシーからの帰途、艦橋両サイドに艦番号標識を取付けに行った作業員2名が海中に転落し、内1名が行方不明となる痛恨事が起きています。ウルシー作戦における「伊400」唯一の犠牲者でした。

 


【右】 「伊四〇〇型」 3番艦 「伊402」の艦番号標識

最後の潜水空母「伊402」は、「伊400」「伊401」がウルシーに向けて大湊を出撃した翌日、昭和20年7月24日に佐世保工廠にて竣工しました。直ちに第一潜水隊に編入されましたが、もはや実戦の機会は無く、翌昭和21年4月1日、五島列島沖合で米海軍により爆破処分されています。

 



■ 熟練の証 「潜水艦乗員徽章」 ■



 

特殊な技術・知識が求めらる潜水艦乗員の養成には徹底した専門教育がおこなわれ、その中心に存在していたのが「海軍潜水学校」でした。潜水艦乗員を目指す者は必ず術科学校の普通科あるいは高等科を修了する必要があり、さらに艦艇や潜水艦で一定の勤務経験を積んだ後に潜水学校へと送り込まれました。その卒業者に貸与されたのが潜水艦乗員徽章で、まさに潜水艦乗りとしての高い技量と熟練度を示すものでした。着用位置は右脇腹と決められていたようですが、その理由・由来は定かではありません。対米開戦後は潜水艦乗員数を秘匿する目的で配布は停止されますが、物資の欠乏も少なからず影響していたのではないでしょうか。

徽章中央には日本海軍潜水艦創設期の明治34年、「給排気昇降筒」(後のシュノーケル)実験中に事故のため沈んだ「第六号艇」が配置されています。この事故により艇長・佐久間勉大尉以下14名を失った海軍はシュノーケル開発を中止する決断を下しました。



昭和20年6月、能登半島七尾湾での第一潜水隊と631空による「晴嵐」射出訓練の様子を想像で描いています。 この時期、「伊400」「伊401」各艦には飛行科員を含め約200名余りの兵員が乗組んでいましたが、その内 訓練時艦外に出るのは飛行科員(搭乗員、整備員など)と対空機銃員・砲員など40〜50名名ほどだったそうです。射出訓練における前甲板の人員配置などを想定できる史料は皆無でしたが・・・幸運にも、実際に射出訓練を機銃甲板から目撃しておられた元「伊400」乗組員の方に詳細をお聞きする機会に恵まれましたので、なんとかここまで「想像」することができました。

『 急速浮上、飛行機射出発艦用意!』 の号令で始まる訓練では、
急速浮上 ⇒ 格納筒から「晴嵐」引き出し ⇒ 主翼展張 ⇒ フロート装着 ⇒ カタパルト発進 ⇒
着水した「晴嵐」の揚収 ⇒ フロート取り外し ⇒ 主翼折りたたみ ⇒ 格納 ⇒ 急速潜航

という一連の作業が繰り返され、特に浮上から「晴嵐」発進までの時間短縮に重点が置かれました。「伊701」艦長・南部伸清少佐の手記によれば、『 訓練につとめた結果、3機連続射出も20分以内になった 』 とされています。本番(実戦)ではフロートなしで飛び立つことになっていましたので、10分程で可能と見られていたようです。

七尾湾内には攻撃目標であったパナマ運河ガトゥン閘門(こうもん)の実物大木製模型が設置され、「晴嵐」隊はこれを目標に緩降下爆撃訓練を繰り返しました。(実際には体当りすることになっていた) 訓練中だった6月下旬、攻撃目標がウルシー泊地へと変更されますが、攻撃方法(体当たり爆撃)に何ら変更はありませんでした。

 




■ 「晴嵐」格納と射出発艦のメカニズム ■

「伊四〇〇型」潜水艦における「晴嵐」の格納・射出に関しましては多数の戦史関連書籍に紹介されておりますが、これがなかなか・・・文章や画像だけでは上手く説明できないのですね (- _ -;)

そこで、解説のためにFLASH動画を創ってみました。間違っている部分もあるかと思いますが、私の知りうる限りの範囲ですので・・・その点はどうかご了解くださいませ <(_ _)>

▼ ボタンを押すと動画がスタートします ▼

※ 細部をご覧になりたい場合は、画面を右クリックして「拡大」を選びますと拡大されます。左ドラッグで表示範囲を調整してください。






オープンエンド糸のざっくりした風合いのヘビーウェイトTシャツ、リブはダブルステッチ

    ■ 素材 : 綿100% 、6.2オンス 16/_天竺 (オープンエンド)
    ■ カラー : ホワイト、ディープブラック
    ■ 印刷手法 : 前面・背面とも = 淡色/濃色インクジェット印刷

「伊400型潜水艦&晴嵐」Tシャツ

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4,000円 (税込)

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