愛すべき知将、343空 戦闘701 飛行隊長
鴛淵(おしぶち)孝大尉
長崎県北松浦出身。海兵68期、飛行学生36期
■ 昭和17年2月から6月にかけて大分空で戦闘機を専修。その後 同航空隊付兼教官を経て、昭和18年春、ラバウルより帰還して内地再編中だった251空( 旧「台南空」)配属となる。豊橋基地での練成では西澤廣義上飛曹など“ラバウル帰り”の猛者たちに鍛えられた。
[ 鴛淵さんはラバウル「台南空」に配属されていなかった?]
鴛淵さんの実践部隊初配属は昭和17年7月頃、ラバウル「台南空」であったとする記述は多々見られ、ラバウルで海兵先輩の笹井中尉と再会し、短期間ではあるが坂井三郎一飛曹の指導を受けたとの記事も目にします。しかし、当時の「台南空飛行機隊行動調書」に鴛淵さんの出撃記録は皆無のうえ、海軍士官の発令記録にも台南空配属を示す情報は全く見当らず、ラバウルでの集合写真にもその姿は発見できません。
■ 翌昭和18年5月、251空 分隊長としてラバウルへ進出。※ 同隊には飛行学生卒業直後の林喜重中尉(後の戦闘407飛行隊長)の姿もあった。
■ 5月14日、東部ニューギニア(オロ湾)進攻に参加。初陣を飾る。
■ ラバウル、ブインを拠点に出撃を重ねるも、251空の戦力は2カ月余りで1/3まで低下する。
■ 同年9月、西澤廣義上飛曹らとともに253空へ転属、分隊長を勤める。11月、大尉進級。
■ 内南洋方面への脅威が増す中、在ラバウル航空隊主力はトラック島へ後退するが、鴛淵大尉は西澤飛曹長などともに内地帰還の命を受け、厚木航空隊に転勤
■ 203空(旧厚木空)先任分隊長を経て、昭和19年4月、戦闘304飛行隊長に抜擢されて千島に展開。
■ 10月、捷号作戦発令にともない戦闘304を率いて鹿児島へ進出、沖縄・台湾方面へ出撃の後、10月下旬にはフィリピン・ルソン島のバンバン基地(クラーク基地群のひとつ)へ進出。僚隊の戦闘303などと合同してレイテ方面への出撃を繰り返す。
■ 11月初旬、レイテ島タクロバン飛行場攻撃の際に地上砲火で右足を負傷し、セブ島へ不時着。治療の為内地送還となるが、帰還直前の11月下旬、足を引きずって戦闘304指揮所を訪れ、部下に別れを告げる。
■ 内地帰還・療養の後、12月25日、343空・戦闘701飛行隊長を拝命。翌昭和20年1月、松山に着任。
■ 空中指揮官として奮戦敢闘を続けるも、昭和20年7月24日、豊後水道上空邀撃戦で未帰還となる。その最期はいまだに不明。
享年25歳。
鴛淵大尉の総撃墜数は6機と記録されていますが、その真価は実戦経験に裏打ちされた編隊指揮能力にあり、優れたリーダーシップこそが彼の真骨頂であったと伝えられています。また、周囲から多大な信頼と尊敬を集めた「人格者」としても広く知られ、戦闘301宮崎勇少尉は戦後、回顧録「還って来た紫電改」の中で以下のように伝えています。
『 学業、技量、人格ともにすぐれた青年士官の鑑のような人であった。かといって、エリート風を吹かすわけでは決してなく、育ちのよさというのだろうか、そばにいるだけで、人の気持ちをやわらげるような雰囲気をもった人だった 』
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