愛すべき “ 雷撃の神様 ”
村田重治大佐を偲ぶ
対米英戦初期、海軍航空隊には多くの名指揮官・名人搭乗員たちが きら星の如く名を連ねていました。その中で 雷撃の神様 と呼ばれた男、それが艦攻操縦員・村田重治少佐(戦死後大佐、海兵58期)です。海軍航空隊屈指の操縦技術を有しながら偉ぶるところは微塵も無く、泰然自若とした「仏」(ほとけ)を思わせる人柄から「ぶつ」「ぶつさん」「ぶつおやじ」 などと呼ばれ、上官・部下の誰からも親しまれ信頼された村田少佐。彼は又、周囲の緊張を和らげるため 常にユーモアを振りまき続けた“気配りの人”でもありました。
今回はそんな村田少佐に敬意を表し、最後の戦闘となった 昭和17年10月26日の 南太平洋海戦 における村田小隊の勇姿を背面バックプリントにデザインさせていただきました。前面ワンポイントデザインは、村田隊長機への航空魚雷取付作業風景を想像で描いています。
■ デザイン解説 ■
【 前面 】 魚雷装備作業
隊長機 九七艦攻「EI-301」号機へ「九一式魚雷 改三」を取付ける雷爆員、整備員、搭乗員たち。「Oct.26 1942」は南太平洋海戦の日付です。
【 背面 】 「テーッ!」 決死の雷撃
昭和17年10月26日「南太平洋海戦」において雷撃を敢行する村田小隊。中央先頭が村田隊長機です。魚雷投下の瞬間を前方より捉えたかったため、 敵空母(ホーネット)の描画は断念しました。
■ 九七艦攻とともに雷撃に生き、雷撃に死す
村田重治大佐
大東亜戦争前、既に雷撃の第一人者であった彼は、昭和15年秋から横須賀航空隊にて浅海面魚雷発射実験に従事し、後に真珠湾で威力を発揮した「安定器付・九一式魚雷 改二」の開発に貢献します。その後 昭和16年9月、源田参謀の肝入り人事により「臨時飛行隊長兼分隊長(雷撃担当)」として「赤城」に着任、実践部隊を猛訓練で鍛えながら浅海面雷撃法をほぼ完成させ、真珠湾作戦では第一次攻撃隊 / 雷撃隊指揮官としてその責任を見事に果たしたのでした。
快進撃を続けた機動部隊も 昭和17年6月、ミッドウェイで大敗北を喫します。「赤城」被弾時、村田少佐は発艦直前の第2次攻撃隊・雷撃隊指揮官として甲板上にありましたが幸い怪我は無く、部下とともに消火活動に尽力した後「総員退去」とともに海へ飛び込んでいます。
その後「翔鶴」飛行隊長へ転身した村田少佐を待っていたのは、ガダルカナル争奪戦でした。8月の「第2次ソロモン海戦」では、艦爆隊の活躍で「エンタープライズ」を中破させるも沈没には至らず、結局 雷撃隊に出撃命令は下りませんでした。少佐は “ 爆撃だけでは敵空母にとどめを刺し得ない ”旨、航空参謀に進言しています。800㌔雷装の97艦攻は行動半径が限られ、また魚雷自体が貴重な兵器であったことから、その運用は慎重にならざるを得ないというのが司令部側の偽らざる心境だったでしょう。第3艦隊情報参謀だった中島親孝少佐(当時)は著書「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」(光人社NF文庫)の中で、この時の状況を以下の様に記しています。『 距離が三百カイリあって、艦攻には無理なので、艦爆と零戦だけで攻撃することにし、艦爆二十七機、零戦十機を発進させた 』
そして10月26日、ガダルカナル島の東方サンタクルーズ諸島沖で、4度目の日米空母決戦となる「南太平洋海戦」が勃発します。第一次攻撃隊指揮官として「翔鶴」を飛び立った少佐は、雷撃隊を率いて米空母「ホーネット」に肉薄攻撃を敢行しましたが、魚雷投下直前(または直後)に被弾炎上し、「ホーネット」右舷前方へ体当たり自爆したと伝えられています。雷撃に生き、雷撃に死した34歳の生涯でした。
▲ 南太平洋海戦の米軍撮影写真。 巡洋艦上空をかすめてホーネットへ向かう九七艦攻。魚雷がハッキリと見える。
少佐機は魚雷を放ったか否か、またそれが命中したか否かについては異なる記述が見られ 真相は不明のようですが、誰よりも雷撃を熟知していた少佐が射点を外すはずは無く、彼が投下レバーを引いた以上、それは間違いなく命中したのだ・・・と作者は信じたいです(合掌)