■ 世界最高性能を誇った二式大艇の軌跡 ■
【 背景 】 ワシントン軍縮条約以降、水上主力艦を対米英比6割に制限された海軍は不足分を航空戦力で補う方針を決定し、昭和12年、九六式陸攻の後継機「十二試陸上攻撃機」(中攻、G4M、後の一式陸攻)を三菱に発注、翌13年には中島飛行機に『十三試大型陸上攻撃機』(大攻、G5N)、川西航空機に 『 十三試大型飛行艇 』 (大艇、H8K)の試作命令が出されました。しかし、命を受けた川西設計陣は驚愕します。最大速度440km以上、攻撃時航続力約6500km、800kg魚雷×2 または1t爆弾×2を装備可能といった破天荒な海軍要求は、中島に同時発注された陸上機「大攻」と同一だったのです。つまり海軍は、本来なら長距離洋上哨戒・偵察を主任務とすべき大型飛行艇を艦隊決戦時の攻撃兵力として位置付けていたのでした。
【 開発 】 白紙からの設計を余儀なくされた川西設計陣でしたが、創意工夫と試行錯誤の末、見事に“攻撃大艇”を完成させました。飛行性能実現のために採用された縦長の艇体形状、水上滑走・離着水時の安定性を確保する艇底形状と飛沫を押さえる「かつおぶし」、航続距離・高速度の両立を狙ったアスペクト比9の肩持式テーパー翼など、多彩な新機軸を盛り込んだ艇体は全長28mの四発巨人機として結実し、昭和初期以来、飛行艇一筋に歩んできた川西技術陣の集大成となる機体が誕生したのです。飛行艇の世界水準を遥に超える「十三試大型飛行艇」は対米英開戦2ヵ月後の昭和17年2月5日、「二式飛行艇」(H8K)として制式採用されました。
▲ 離水直前の「十三試大型飛行艇 」試作機 制式採用前後の昭和17年2月、川西航空機・甲南工場沖の大阪湾におけるテスト風景。すでに滑水状態に入っており、数秒後に離水したと思われる。
【 初実戦 】 直ちに横浜空、東港空、14空への配備が決定されましたが、大型機のため川西の生産効率は上がらず、昭和17年中に完成した機体は僅か13機のみ。しかし、初実戦は唐突に訪れました。長大な航続力を買われ、第二次真珠湾攻撃「K作戦」に横浜空の2機が起用されたのです。昭和17年3月4日、マーシャル諸島を発した大艇2機は途中潜水艦による洋上補給を受け、3月5日深夜オアフ島を爆撃して無事帰還を果たします。視界不良により実戦果ゼロに終わったものの、海軍は二式大艇による攻撃用法に手ごたえ(過信)を掴んだのでした。
▲ 第二次真珠湾攻撃「K作戦」直前 クェゼリン環礁付近で潜水艦からの洋上補給訓練を実施する横浜空の二式飛行艇「Y-71」号機。真珠湾の復旧作業妨害が「K作戦」の目的だった。
【 苦闘、そして終戦 】 昭和18年に入ると南方へ進出した二式飛行艇部隊の活動が始まり、ソロモン方面では802空(旧14空)による米軍要地エスピリッツサント島、カントン島への夜間爆撃が繰り返され、南西方面でも851空(旧東港空)が豪本土への夜間偵察・爆撃作戦を展開しました。しかし悪化の一途を辿る航空消耗戦の渦中、大型飛行艇による積極作戦は縮小を強いられ、昭和18年末以降その活動は航続距離を活かした夜間洋上哨戒・索敵・偵察や作戦輸送、人員救助といった飛行艇本来の任務に向けられることとなります。孤立したラバウル、ブーゲンビル島や比島からの要員救出や夜間哨戒・索敵に奮闘する一方、比島戦、沖縄戦では敵夜間戦闘機による未帰還機が続出し、飛行艇部隊は次々と解散に追い込まれていきました。そして昭和20年3月、梓特別攻撃隊銀河隊をウルシー泊地へ長距離誘導した詫間空所属機の活躍が最後の輝きとなります。
▲ 昭和20年3月8日、「第二次丹作戦」参加のため鹿児島・鴨池基地に進出する梓隊を見送る詫間基地隊員 総員見送りに応え、搭乗員が機上で手を振っている。同作戦は3月11日に決行され、大艇は梓特別攻撃隊・銀河隊をウルシー泊地西方約50kmに位置するヤップ島まで誘導する大任を果たした。
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