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菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その8 : 初代 「343空」時代] 2011/09/16

紫電改精鋭部隊「343空」戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。 とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか? 伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。 ※ 『 』 囲み は同書からの引用です。

「343空(初代)」時代 (昭和19年2月〜7月)

■ ついに実戦部隊配備へ

昭和18年9月、菅野たち「第38期戦闘機専修飛行学生」37名は大分空での実用機教程を卒業しますが、すぐに実戦部隊配備とはならず、陸上機・母艦機にわかれてさらに内地部隊での実戦訓練が続きました。陸上機グループの菅野は「厚木航空隊」で錬成に励んでいます。

「厚木航空隊」は昭和18年4月開隊の基地航空隊戦闘機搭乗員養成部隊でしたが、戦局悪化に対応して翌昭和19年2月20日付けで実施部隊「203空」となります。

これに伴って飛行学生たちも配置転換となり、菅野は「343空(初代)」(通称「隼」、後の「剣部隊」とは異なる)分隊長を命じられ、いよいよ実戦部隊への配属となりました。「343空(初代)」は、昭和19年1月に鹿児島で編成されたばかりの防空戦闘機部隊で、海軍が航空決戦兵力と位置付ける大本営直轄「第1航空艦隊」(1航艦)に編入されていた部隊のひとつです。時に菅野中尉22歳!

■ テニアン進出

「343空(初代)」指令は竹中正雄中佐(海兵51期)、飛行隊長は水上戦闘機出身の尾崎伸也大尉(海兵68期)、60余名の搭乗員のうち熟練者は一握りに過ぎず、前年11月に練習機教程を修了したばかりの甲飛(甲種飛行予科練)10期生が大部分を占めるという陣容につき、少なくともあと半年以上の練成が必要な部隊でした。

しかし・・・急速な戦局悪化は「343空(初代)」に練成の遑(いとま)を与えてくれません。

菅野が入隊する直前、昭和19年2月17〜18日の米機動部隊空襲によるトラック基地壊滅に危機感を深めた連合艦隊司令部は、決戦兵力として練成中の1航艦を急遽指揮下に組み入れ、各部隊に対し全力でのマリアナ諸島進出を下令します。「343空(初代)」では4月中のマリアナ諸島進出が決定されました。菅野の入隊直後さらに悲報は続き、2月23日、米機動部隊がマリアナ諸島を急襲し、すでに進出済みの1航艦部隊がほぼ壊滅してしまいます。

※ この時マリアナに進出していた1航艦部隊は戦闘機部隊「263空<豹>」、彗星艦爆部隊「532空<鷹>」、陸攻部隊「761空<龍>」などの各先発隊でしたが、1航艦指令・角田中将の無謀とも言える攻撃命令によって多くが未帰還となりました。この時、テニアンの1航艦司令部では、攻撃を主張する角田中将と、全機一時退避を具申する淵田先任参謀との間に激しいやり取りが行われています。

通常半年以上かかるところを2カ月で仕上げざるを得なくなった「343空(初代)」の練成(鹿児島基地)は当然ハードなものとなり、菅野分隊長の熱血指導は猛烈を極めましたが、若い搭乗員達の技量は目に見えて上がっていったといいます。

鹿児島での練成当時の菅野について、343空整備分隊士・小林秀江中尉(機関52期)は以下の様に語っています

『 菅野さんに初めて会ったのは鹿児島基地だったが、もう勝手知ったという感じで大きな顔をしていた 』

急速錬成中のこの時期、若手をしごく分隊長としては決して弱気は見せられない訳で、ある意味「必要な態度」だったかも知れません。しかしまぁ・・・菅野さんの“でかい態度”は天性の持ち味?なので、そのような「計算」はもちろんなかったでしょう(笑)


「343空(初代)」のテニアン島進出は3月末より3陣に分かれて行われ、ほぼ予定通り5月1日までに進出を完了します。
菅野は第2陣の24機を率いて木更津から出発しますが、慣れない長距離飛行に数機が手前の島に不時着してしまい、無事テニアンに着いたのは20機足らずでした。この時菅野は報告や後の手はずを整えるや単機で飛び立ち、日没後の危険な夜間着陸の時刻まで部下の捜索を続けています。

同じく 整備分隊士・小林中尉 の回想

『 ロクでもない指揮官も少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った 』

鹿児島ではそのでかい態度に困惑?していたと思われる小林中尉ですが、ここでは印象が変化しています。
“目下や弱い者を守る”性分は少年時代から菅野さんの特徴で、「大きな態度」と相まって部下を心服させる魅力となっていたようです。
因みに小林中尉は海軍機関学校52期(昭和17年11月卒)で、海兵同期は71期。菅野さんは海兵70期(昭和16年11月卒)なので1年先輩ということになりますね。

テニアン島「第1飛行場」に展開した「343空(初代)」は、哨戒任務をこなしながら戦闘訓練を続け、5月中旬の時点では、零戦53機を保有して1航艦最有力部隊といえる存在でした。しかしテニアン布陣も束の間、戦局の変化によって彼等は
更に移動することとなります。

■ パラオ諸島へ転進〜マリアナ決戦勃発

1944年2月のマーシャル諸島攻略、トラック島大空襲、マリアナ諸島空襲以降、米軍の進撃スピードは上がり、3月は要衝・パラオ諸島を空襲、さらに4月にはニューギニア北端・ホーランジアに上陸を開始しました。

一方、連合艦隊司令部では米軍の次期大攻勢を5〜6月と予期し、これに対処する「あ号作戦」を策定するのですが、その基本構想にあたる「Z作戦指導腹案」は3月31日に起こった「海軍乙事件」によって米軍の手に渡っていました。

連合艦隊司令部の思惑は西カロリン(ヤップ・パラオ)方面での決戦であり、軍令部はマリアナ方面への米軍来襲は時期尚早と判断していたようです。従って、マリアナ方面(グアム、サイパン、テニアン)の兵力を強化して米軍主攻勢を西カロリン方面に誘導し、基地航空兵力の急速戦略機動と機動部隊との連動によって決戦を行うというのが「あ号作戦」の骨子でした。5月3日、「あ号作戦要領」は古賀大将の後を継いだ豊田連合艦隊司令長官によって各部隊へ下達されます。

5月25日、ニューギニア西部のビアク島へ米軍が上陸を開始すると、「343空(初代)」はパラオ方面への展開を命じらます。1個中隊の8機を残置部隊として残し、尾崎飛行隊長・菅野を含む零戦37機はパラオ諸島南端のペリリュー島へ進出、6月9日には完成したばかりのパラオ本島・アイライ基地へ移動し、パラオ諸島全体の防空任務に着きました。

ところが、その直後の6月11日、攻略部隊を含む米大艦隊が突加マリアナ方面に姿を現します。空母29隻を基幹とし、艦艇約470隻、航空機約1350機、海兵隊を中心とする攻略部隊約17万5000人という圧倒的大兵力でした。グアム、サイパン、テニアン各島に大規模な空襲が行われ、13日、連合艦隊は「あ」号作戦決戦用意を発動します。

この時まで日本海軍は、マッカーサー軍のビアク島進出を契機と捉え、ビアク島及びパラオ諸島方面へ敵機動部隊主力を誘致して決戦を行うつもりで同方面へ航空兵力を集中させていた最中で、結果として見事に裏をかかれたことになりました。15日朝には米軍攻略部隊がサイパンおよびテニアンへ上陸を開始し、同日、豊田長官は「あ」号作戦決戦発動を下令しました。

この事態に菅野たち在パラオの「343空(初代)」に対しては、パラオ方面防空を行いながら、ヤップ島を基点としてグアムと往復しつつのマリアナ戦線への参加 が命じられます。これを受け6月17日、尾崎大尉指揮の零戦12機がヤップ島へ前進、同日夕よりマリアナ方面への出撃を開始しますが、19日にはグアム上空の空戦で尾崎大尉が被弾・不時着し、病院搬送中に死亡しました。この日生起した「マリアナ沖海戦」で連合艦隊は完敗してマリアナ防衛は事実上不可能となり、24日、大本営はサイパン島の放棄を決定します。

その後も「343空(初代)」はヤップ・グアムを基地として邀撃やサイパン沖の米艦船攻撃を続行しますが、急激に消耗し、6月28日、「343空(初代)」生存者はパラオ本島アイライ基地に集合し、その後7月10日付で同航空隊は解隊となりました。菅野たち残存搭乗員はフィリピン・ダバオの「201空」へ編入されることになります。

▲ 多様な資料を元に描いた自作MAPですので、信憑性にはご注意くださいませ(謝)

◀ グアムで戦死した「343空(初代)」飛行隊長・
尾崎大尉の乗機とされる零戦52甲型「43-188」号機

戦後グアムで発見された同機は米国の好意で1964年日本に返還され、修復のあと航空自衛隊浜松基地・浜松広報館「エアーパーク」に展示・保存されています。

この間、菅野分隊はヤップ島に展開していたと思われますが、マリアナ方面への出撃はなかったようです。
ビアク島方面から連日のように来襲する大型爆撃機に対する邀撃戦が菅野の「主戦場」でしたが、
ここで大型機に対する独自の攻撃法をあみ出しています。菅野の初空戦はこの時期でした。

※ 菅野としてはマリアナ方面へ出撃したかったのではないか?などと勝手に想像してしまいますが・・・
『最後の撃墜王』にはこの時の菅野の心情に関する記述はありません。

■ 大型機攻撃法「前上方背面垂直攻撃」をあみ出す

菅野のいたヤップ方面におもに来襲したのはニューギニア北部のビアク島を基地とする米陸軍4発大型爆隻機「B24」リベレーターで、その重装甲と強力な編隊火網により撃墜するのは至難の業でした。大型機に対しては後上方から射撃を加えるというのが当時の一般的な攻撃方法でしたが、米軍の12.7ミリ機銃は直進性がよく、先にやられてしまいます。

爆撃機撃墜を任務としながら成果が思うように上がらず、戦闘機隊の士気も低下気味・・・このような状況下、菅野の「負けず嫌い」が頭をもたげます。兵学校時代の相撲競技で大きな相手に対して「足取り」を得意としていたように、菅野には"勝つためには手段を選ばず"といった行動が見られますが、"目標達成のためには何が必要か"という現実的思考力に優れていたとも言えるでしょう。

◀ 昭和19年、ヤップ島上空を飛行する米陸軍13AFの
コンソリデーテッド「B-24」リベレーター(※解放者)

1942年末より「B-17」に代わって配備が開始され、「B-29」投入まで太平洋戦争の主力爆撃機として活躍した。速度、航続距離、爆弾搭載量、すべてにおいて「B-17」を上回る同機は汎用性にも優れ、対潜哨戒機、輸送機としても活用されている。「B-17」「B-29」に比べて影が薄い?のはなんとも不思議であるが、終戦までの生産機数は両機を遥かに凌駕する約19000機に上り、まさに“米軍主力爆撃機”と言える機体です。

まず、菅野が実践した方法は以下の様なものでした

 々眦拑1000メートルで反航
◆‥編隊を45度の左下に見たところで機体を背面に入れて急降下
 背面急降下のまま射撃しながら敵編隊の中に垂直に突っ込む
ぁ々況眤仂鬱,慮緤を抜けて離脱

直上からの攻撃は敵機のほとんどの銃座から死角となり、攻撃中に被弾する可能性は低くなりますが、高度な修正射撃能力が要求されることになります。

ところが、敵側もすぐに対抗策を講じます。
射撃後に戦闘機が通過する爆撃機後方の空間に予め弾幕を形成しておくというやり方で、戦闘機はここを通過するときに被弾してしまいます。

そこで、菅野はさらに新手を考案し、実践します。

 銑までは同じですが、今度は爆撃機の後方ではなく、敵機の主翼と尾翼の間を抜けるようにしたのです。
これにより殆んどの銃座は弾幕を作れなくなりますが、敵機と衝突する確率が増え、高度な反射神経と恐怖心に打ち克つ強靭な精神力・集中力が要求されます。

さらに菅野はこれでもまだ満足せず、敵機主翼の前方(!)を抜けるようにしたといいます。

菅野はこの戦法を駆使してヤップ島でB24を含む大型機をかなり撃墜・撃破したようです。当時ヤップ島方面で防空・哨戒活動をしていた戦闘機隊は菅野の「343空(初代)」だけではもちろんなく、「201空」「265空」「331空」なども随時作戦していましたが、菅野の攻撃法は米軍パイロットたちにインパクトを与えていたようで、菅野機は隊長機を示す胴体の黄色帯から「イエローファイター」と呼ばれて恐れられたといいます。

◀ 前方上方から見た「B-24」と零戦のスケール比較

「B-24」は機首、機上、下方、両側面、機尾に合計10丁の12.7ミリ機銃を装備し、その編隊火網は強力そのものでした。菅野さんは背面急降下をしながらこのような光景を見ていたのでしょうか?

人命尊重を重視する米軍から見れば菅野隊の攻撃はまさに"命知らずの自爆的攻撃"であり、恐怖を覚えるのも無理からぬことでしょう。しかし菅野にとっては自爆的攻撃などではまったくなく、このような攻撃が現実的に可能だと判断して実践していただけでしょう。菅野の初実戦がヤップ島に来てからということを考えると、やはり戦闘機乗りとしての特質を高いレベルで備えていたと言えるのではないでしょうか?

この戦法について後に菅野本人から知らされた2人の飛行学生同期の証言を以下に紹介しましよう。


※ 菅野はフィリピン「201空」時代の昭和19年9月末〜10月下旬の間、飛行機調達の為に内地へ一時帰還しており、この2人との会話はその間のものです。

 香取穎男(かとり ひでお)中尉

マリアナ沖の敗北から帰投して徳島基地で機動部隊再建のための搭乗員訓練中、菅野と再会。

菅野 『 香取よなぁ。敵の大型機というのはよう墜せんよ。よほど考えなければいかんな 』

香取 『 で、貴様どうしたんだ?』

そこで大型機攻撃法の開陳となったが、あまりにも危険な方法なので驚いた香取が聞き返した。

香取 『 オイ、貴様、そんなこといったって本当に出来るのか? 』

菅野 『 できる。イヤ、絶対にこれをやらなければダメなんだ 』


□ 森岡 寛(もりおか ゆたか)大尉

厚木基地で訓練中、菅野の訪問を受ける。

森岡 『 よく来たな。貴様、ヤップ島にいたんじゃなかったのか。あっちでのうわさは大分聞いたぞ 』

菅野 『 いや、フィリピンから零戦を取りに帰って来たんだ。
     ところで貴様はたしか艦爆だと思ったが、何でここで戦闘機に乗ってるんだ?』

森岡 『 戦闘機搭乗員が足りないというんで転科したんだ。それで今はB29の邀撃戦闘の訓練をやっている 』

菅野 『 そうか。俺はヤップでB24と何度も対戦して俺なりの対大型機戦法をあみ出したんだ。
     今からそれを貴様に教えてやろう。大型機というのはな、セオリーどおりまともに後上方攻撃なんかした
     ら、こっちがやられてしまうから、俺は敵さんの前方で背面になって射撃しながら垂直にダイブするんだ。
     もちろん、ぶつからないように敵さんの前をかわる。へたをすればぶつかるから怖いが、向こうはもっと恐
     ろしいはずだ。それで慌てて回避しようとしたB24が僚機と空中衝突し、2機一緒に墜としたこともある 』

このあと2人はすぐ零戦2機で離陸し、菅野はその攻撃法を森岡相手に実践して見せた。
森岡が戦慄したのは言うまでもない。

森岡大尉の回想

『 それが菅野君を見た最後だった。彼の教えてくれた前上方背面垂直攻撃は、302空でも訓練を重ねて昭和19年11月から始まったB29の邀撃戦に威力を発揮することになった 』

◀ 森岡 寛 大尉(海兵70期)

艦爆搭乗員訓練の後、艦爆教官(宇佐航空隊)となり、その後戦闘機に転科して1944年(昭和19年)4月、厚木基地「302空」に着任しました。ベテランエース・ 赤松貞明少尉らの厳しい指導を受けて急速に技量を上げ、同年末に第2飛行隊隊長となります。1945年(昭和20年)1月、B29との空戦で左手首を失う重傷を負いますが、短期間の入院の後「鉄鉤」の義手を付けて空戦に復帰し、不屈の闘志で終戦まで戦い続けました。大尉は8月15日午前中(玉音放送前)にもF6Fヘルキャット1機撃墜を記録しています。

■ ■ ■ ■

昭和19年7月10日、「343空(初代)」の消耗解隊にともない、「201空」へ編入された菅野は、本隊のあるダバオに移ります。次回からはフィリピンおよび一時帰国時の菅野さんを順次ご紹介していきます。

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