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菅野 直(かんの なおし)を偲ぶ [その2:中学時代]  2011/04/26

343空・戦闘301飛行隊長として勇名をはせた菅野直(かんの なおし)大尉。
とかく勇猛果敢さがクローズアップされる菅野さんですが、どのような人物だったのでしょうか?
伝記『最後の撃墜王』(碇 義朗 著、光人社)の記述に基づき、その生涯をご紹介しています。


□ 宮城県「角田中学校」時代
(昭和9年4月入学 ~ 13年11月 海軍兵学校合格まで)

この時期、世界恐慌による不景気はなお尾を引き、さらに昭和12年7月の「盧溝橋事件」を発端に日中は全面戦争へと突入していきます。本格的戦時体制へと社会が移行してゆく中、菅野少年は最終的に「海軍兵学校」と「陸軍士官学校」をW受験することになるのですが、いわゆる“熱血軍国少年”では全然なかったようです。

菅野少年は中学末期の約2年間日記をつけており、その人間像を知る上で大きな資料となっています。
その中で最も鮮やかに浮かび上がるのは「文学少年」としての姿であり、仲間たちと文学論・人生論などを語り合う日々が生き生きと記されています。また、同じ東北出身の歌人・詩人である石川啄木(明治19年~45年)への憧憬は非常に深く、『 啄木という人は自分のような人ではなかったか 』とまで記す傾倒ぶりでした。
約2年間の日記中に短歌124首、詩10篇近くを残し、河北新報(東北地方最大の新聞)歌壇へも多数投稿する入れ込みようで、「文学の道」に進むことを熱望していたのは明らかだったと思われます。

そんな菅野少年に軍人になる決心をさせたのは、主に家庭の事情だったとされています。
兄が米沢高等工業へ進学、妹2人も高等女学校へ進学する予定であり、裕福な菅野家でもこの負担は大きかった。
学費のかからない学校への進学を模索する菅野少年は、中学4年時に満州国立「建国大学」への推薦入学を希望しますが、中学校側に受理されず、ひと悶着起こしています。この時、彼の頭の中で「海軍兵学校」「陸軍士官学校」受験がほぼ確定されるのですが、海軍志望や飛行機への関心などは全く無かったようです。

このように学業優秀な文学少年でもあった菅野さんですが、
生来の明朗快活さと奔放な行動力、純粋な信念に基ずく正義感は相変わらずでありまして、
ある下級生は当時の菅野少年を次のように評しています。
『 やることが奇抜で、我々の想像もつかないことをやった。
ケンカをすれば絶対負けなかったし、修身とか素行の点はあまりよくなかったかも知れないが、人気は絶大だった。』

以下は『最後の撃墜王』に記されている中学時代の出来事から個人的に印象深いものを選び、
出来る限り時系列に並べ替え、私なりに解説・感想を加えたものです。
※ ■は文学的事象、□はそれ以外の出来事。『 』囲みは引用

■ 中学1年から短歌をつくり始める ( 昭和9年、中学1年 )

既に石川啄木の影響を受け始めていたていたと思われ、
文学仲間の友人たちと互いの作品を評価しあっていた。

□ 運動会で先生を振り切る ( 学年不明 )

運動会でサボっていた?菅野少年。
風紀係の体育の先生に見つかり追いかけられるが、
観衆環視の中、グラウンド3周余を全力疾走して「追手」を振り切る。
体は小さかったがとてもすばしっこく、運動神経抜群だったとのこと。
この当り、後の戦闘機乗りとしての適性に通じるものが感じられる。

□ 肝試しで奇行的?悪戯 ( 学年不明 )

学校生徒の親睦組織「尚友会」主催の「試胆会」(いわゆる肝試し)に参加する。
夜、お寺に行って自分の名前を筆で書き、字が震えていなければ合格という趣向であったが、
菅野少年が寺に行くと、硯(すずり)と筆はあったが水が無い。
そこで、なんと硯に小便!をして墨をすり、立派に署名して帰ってきたとのこと。
行動が大胆というよりも、その発想が尋常ではない。まさに「奇抜」とはこのことか?

■ かっこいい軍人への憧れ? ( 昭和12年1月1日の日記、中学3年 )

正月、学校の軍事教練教官・井上少佐の盛装に感銘を受ける。
『 僕も一つ軍人にならんと志を堅くした 』
石川啄木はかつて海軍兵学校生徒の軍服姿を見て軍人志望を志した事があり、
これを知っていた菅野少年の心も啄木同様に?揺れ動いたのかも知れない。

■ 友情論を記す ( 昭和12年1月3日の日記 )

『 我々は喜びは共にせずとも、悲しみだけでも共にするようになりたきものなり 』
この頃、菅野少年の周りには多くの「親友」がおり、それはまた文学サークル的色彩の濃い仲間たちであった。

■ 中学4年生進級。進学組へ進む ( 昭和12年4月14日の日記、中学4年 )

『 勉強できる身は幸福だと思う 』
困窮する東北地方の農村事情を知っていたのであろう。

□ 先生を袋叩き ( 学年不明 )

人格者として尊敬していた井上少佐(軍事教練教官)の悪口を言ったある先生に抗議した菅野少年、
どのような経緯をたどったか定かではないが、最終的にその先生を袋叩きにしてしまう。
父が呼ばれて厳重注意を受けるも、最後まで「自分は悪くない」と主張した。
学校側に権威があった当時では信じられない「大事件」だったが、何故か数日の停学処分で済んでいる。
父が元警察署長ということも影響したのだろうが、この軽い処分、不思議ではある。
信念のためには相手が誰であろうとも暴力も辞さず、ある意味心根が「純粋」なのだろう。

□ 軍人になると宣言 ( 時期不明、中学4年進級後のある日 )

家族と進路を話し合った際、
『 お兄ちゃんは大学に進んだ方がいい。僕は軍人になるから・・・ 』 と宣言する。
しかし、心底から軍人志望だったかは大いに疑わしい。
家計に負担をかけまいとする、菅野少年なりの決意表明だったのでは?

■ 尊敬する井上教官、中国戦線へ応召される ( 昭和12年9月10日の日記 )

師を想う短歌8首を記している。
※この数週間後の10月18日、井上少佐は上海で戦死するのだが、
不思議なことに菅野少年の日記に関連する記載は無い。

■ 啄木への想い ( 昭和12年9月14日の日記 )

『 「吸」という字を書きければ、啄木の「啄」という字に似てしまうかも 』
友人によれば、菅野少年の啄木論は「浪漫的感傷詩人」といった一般的評価レベルではなく、相当に深いものであったらしい。

菅野直_啄木◀ 明治の詩人、石川啄木。
   何となく菅野さんに似ていないでもない。

□ 新設の満州国立「建国大学」への推薦入学を希望 ( 昭和12年秋頃? )

級友・小島光造氏(後に菅野と共に海兵へ進む)と2人で、 次春より開学される満州国立「建国大学」への推薦入学を希望するが、5年生を優先する学校側はこれを受理せず、断念を余儀なくされる。
この時、学校側に敢然と抗議した菅野少年は自宅謹慎処分に・・・!
「建国大学」は推薦入学制をとっており、もし推薦されていれば成績優秀な菅野少年は間違いなく合格していたと思われる。
学費免除以外に、なぜ「建国大学」を選んだのか?
その理由は定かでは無いが、国外に新天地を求めるあたりはいかにも菅野さんらしい発想と言えそうだ。
この挫折により、いよいよ「海軍士官学校」「陸軍士官学校」受験が現実味を帯びてくる。

菅野直_建国大学

 ◀ 満州国立「建国大学」 1940年(昭和15年)の写真。

  1938年(昭和13年)5月、新京(現:長春)に開学された
  満州国直轄国立大学。民族協和を掲げ、満州国を担う
  エリート育成が目的とされた。1945年(昭和20年)8月、
  満州国崩壊とともに閉学。卒業生約1500名。

■ さらに深まる啄木への想い ( 昭和13年1月の日記 )

『 大きいことをいうかも知れぬが、啄木という人は 自分のような人ではなかったか 』
ここまで入れ込むとは、全くもって凄い境地である。

□ 海士・陸士へ入学出願 ( 昭和13年6月頃、中学5年 )

■ 明治維新の志士を想う ( 昭和13年7月2日の日記 )

自己を顧みずに国事に奔走した維新の志士3名(吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲濱)を挙げ、功績を讃える。

□ 「海兵」身体検査に合格 ( 昭和13年7月25日 )

この日、全国48か所の試験場にて一斉に行われる。
菅野少年は仙台市の宮城県立・宮城男子師範学校にて受験。

□ 「海兵」学術・口頭試験に合格 ( 昭和13年8月5日~9日、宮城試験場 )

5日間に渡って実施された「数学Ⅰ」「数学Ⅱ」「英語」「物理・化学」「国語・漢文」「日本史」「作文」「口頭試問」試験にパスし、「最終試験継続者」となる。ここから家庭調査などでさらに絞り込まれるため、まだ正式合格ではない。因みに、宮城試験場での受験者総数・約200名に対し、「最終試験継続者」は42名。狭き門である。

□ 氾濫する阿武隈川を決死の渡泳横断 ( 昭和13年8月31日・9月1日 )

台風で阿武隈川が氾濫する中、戸惑う生徒達の渡橋(木造の角田橋)を助けた後、自分は橋から激流に飛び込み対岸まで約300mを泳ぎ渡って登校。下校時にはさらに増水した濁流をまたも泳ぎ切って帰宅。
菅野少年は日記に『 決死的渡泳断行、コースを変じて辛くも帰る 』と淡々と記しているが・・・
この翌日、警察官2人が視察中に濁流にのまれて死亡しており、本当の意味で「決死的」な行動であったと思われる。何故あえてこのような無茶を決行したのだろうか?

菅野直_角田橋

▲ 菅野直少年の「決死的渡泳横断」現場、現在の様子。確かに300mはありそうだ。
  当時木造だった角田橋も、今は立派な鉄橋となっている。

■ 仙台で文芸書大量購入 ( 昭和13年9月4日の日記 )

『 我が心の文学的潤いの欠乏に由る 』
海兵の受験勉強でやや疲れたのだろうか?
読書に飢えていたようであるが、
「文学的潤いの欠乏」とは・・・文章が上手すぎる。

□ 「陸士」身体検査に落ちる ( 昭和13年9月 )

陸士の方は身体検査で引っかかり、学科試験へ進めなかった菅野少年。
ただ、海兵の方がうまくいっていたせいか、気落ちは無かったようで、
日記での言及はほとんどなく、級友の健闘を祈る旨が淡々と記されているのみ。 

■ ナポレオンを鋭く批評 ( 昭和13年9月14日の日記 )

『 ナポレオンが自分の興味を湧き立たせない理由は、彼は物のあわれを知らない唯物論者であるからだ。』
少年にして恐ろしい程の洞察力とは言えまいか?

□ 海兵合格をほぼ確信 ( 昭和13年9月20日 )

身元調査の為、自宅に憲兵が来訪。

■ キリストに興味? ( 昭和13年9月24日の日記 )

『 キリストを研究すればある程度彼の偉大な精神言行を認めざるを得なくなる。・・・機会があればバイブルを読んでみようと思う。』

■ 文学への想い ( 昭和13年9月26日の日記 )

オスカー・ワイルド『 獄中記 』に触れ、
『 自分が感動した句は、“我に自由と花と書物と月があれば、我は幸福なり”である。』 と記す。
どこまでも文学好きな菅野少年の本音であろう。

■ 漢口陥落に心躍るも・・・ ( 昭和13年10月27日の日記 )

中国の要衝・漢口陥落を祝う提灯行列に参加する。
軍を讃える詩「詠漢口陥落」を記す一方、
「こころ」と題した詩の中で 『 自分の心は文を好む 』 と微妙な心情を吐露している。

菅野直_提灯行列

▲ 漢口占領を提灯行列で祝う大坂市民。【 写真週報・1938年11月9日号 掲載 】
[左] 街に繰り出し、万歳を叫ぶ若者たち。 [右] 大阪城の祝賀イルミネーションと提灯行列の灯り。
南京占領~漢口攻略と、国民挙げての大騒ぎであったらしい。

□ 海兵合格電報来る ( 昭和13年11月3日 )

「明治節」(現:文化の日)のこの日、海兵合格電報が届く。『カイヘイゴウカク イインチョウ』
角田中学からの「最終試験継続者」3名の内、最終合格者は菅野と小島光造氏の2名であった。

□ 「海兵採用予定通知書」届く ( 昭和13年11月9日の日記 )

日記に海兵合格に関する記述は全く無い。
ただ、親戚の方?より合格祈念の腕時計を贈られたことが記されているのみ。
そしてこれが最後の日記であった。

こうして、菅野少年は晴れて海軍兵学校第70期生徒に合格したわけですが・・・
日中戦争長期化のおり、士官の早期大量養成を要した海軍の決定により、
この第70期から入校日が12月1日に繰り上げられていました
通常であれば翌年春入校のところですが、第70期は採用から入校まで3週間ほどしか猶予がなく、
菅野少年は親族や友人達への挨拶や送別会など、慌ただしい時を過ごしたようです。

昭和13年11月末、菅野少年は小島光造氏とともに夜行列車を2本乗り継ぎ、2昼夜かけて呉へ移動、
12月1日の海兵入校式を迎えることになります。

この時点で菅野少年の頭の中にあったのは、「海軍で国の為に尽力するのだ」という漠然とした決意のみであって、
ましてや航空への興味などはまったく存在しなかったと思われます。
無論、中国との戦争が将来「大戦争」(対米英戦)へ発展しようなどとは、
菅野少年のみならず殆どの一般国民には考えも及ばなかったことでしょう。

次回は「海軍兵学校」時代の菅野さんです。

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