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次回作品テーマは 川西「紫電21型」( 紫電改 )です。  2011/03/27

久々の店長日記ですが、地震関係で何かあったわけではございません。少し体調を崩しておりました。

さて、現在次の作品をデザイン中ですが、モチーフは 零戦の実質的後継機として戦争末期に一瞬の光芒を放った
川西局地戦闘機「紫電21型」( 通称:紫電改 )です。

戦史がお好きな方は、紫電改とくれば すぐに343空「剣部隊」を思い起こすとともに、
タイプの異なる3人の名飛行隊長たちも脳裏に浮かぶのではないでしょうか?


 
戦闘701「維新隊」飛行隊長
鴛淵 孝(おしぶち たかし)大尉

海兵68期(昭和15年8月卒)昭和17年7月、台南空(ラバウル)配属、ガダルカナル航空戦に参加。11月、消耗した台南空とともに内地帰還。18年5月、251空(旧台南空)分隊長としてラバウルへ再進出し、熾烈なソロモン航空戦を生き抜く。その後253空に転属。19年4月、203空(旧厚木空)戦闘304飛行隊長となり、フィリピンへ進出。11月、レイテ島タクロバン飛行場攻撃時右足を負傷、治療のため12月本土帰還。昭和20年1月、新編343空・戦闘701飛行隊長として松山に着任。7月24日、豊後水道上空の迎撃戦にて未帰還。
 

戦闘407「天誅組」飛行隊長
林 喜重(はやし よししげ)大尉

海兵69期(昭和16年3月卒)初実戦部隊は251空。18年5月、ラバウルに進出しソロモン戦線で出撃を重ね、10月、253空分隊長。11月、厚木空付教官として内地帰還。19年2月、221空に転出、戦闘407飛行隊長となりフィリピン進出。12月内地帰還。鹿児島・出水基地で訓練後、昭和20年1月末、隊を率いて松山基地へ移動、新編343空に合流。4月21日、B29撃墜確認後、鹿児島県出水郡折口海岸に不時着水するも衝撃による頭蓋底骨折により戦死。
 

戦闘301「新選組」飛行隊長
菅野 直(かんの なおし)大尉

海兵70期(昭和16年11月卒)初実戦部隊は343空(初代)昭和19年3月、分隊長としてテニアン進出。マリアナ沖海戦直前にフィリピン方面へ移動し、201空戦闘306分隊長としてB24など大型機迎撃に活躍。一時内地帰還後、10月フィリピンへ戻り、主に特攻機直掩任務に従事。昭和19年末内地帰還、新編343空・戦闘301飛行隊長に着任。昭和20年8月1日、屋久島近辺にて機銃筒内暴発を起こし未帰還。

343空創設の発案者であり司令でもあった源田実大佐(当時大本営海軍部作戦参謀)は、
同航空隊の意義について自著 『 海軍航空隊始末記 』 の中で以下の様に記しています。

『 戦争に負けているのは、海軍が主役をしている海上戦に負けているからである。海上戦に負けるのは航空戦で圧倒されているからである。航空戦が有利に展開しない原因は、わが戦闘機が制空権を獲得できないからだ。つまり、戦闘機が負けるから戦争に負けるのだ。(中略)何とかして精鋭無比な戦闘機隊を作り上げ、たとい数は少なくても良いから、見つけた敵機を片端から射落して、敵の航空部隊に対する脅威となるような部隊を持ってみたい。この部隊の戦闘を突破口として、怒涛のような敵の進撃を喰止めなければならない。』

実戦部隊・軍令部参謀として海軍航空作戦を主導してきた源田大佐のこの言には首を傾げたくなります。
大佐は作戦のみならず、戦闘機開発にも大きな影響力を及ぼした海軍航空の重要責任者でありましたが、
戦争後期の航空劣勢に至らしめた自らの指導責任を全く認識されていないかのような記述です。
※源田大佐の評価には様々なものがあるようですが、ここで詳しくは述べません。
 

◀ 川西 局地戦闘機「紫電21型」
中翼式だった「紫電11型」を低翼式に再設計し、欠点であった降着装置の不具合と視界不良を改善した。昭和20年1月制式採用。「誉」発動機の不調は相変わらずであったが、600km/h近い速度と20正―4丁の重武装は、当時の連合軍戦闘機に対抗できるレベルにあった。
写真は昭和20年4月、松山基地の紫電21型群。胴体2本斜帯の「343-A-15」機は戦闘301飛行隊長・菅野大尉の乗機。

 

昭和19年末 松山基地にて開隊した343空は、源田司令の構想通り「局地迎撃機動」に特化した編成となります。
3戦闘飛行隊(701、407、301)に加え、高速偵察機「彩雲」で編成された偵察第4飛行隊(偵4)を編入し、通信隊(空中無線電話)と練成部隊(戦闘401/徳島基地分遣隊)も装備されました。搭乗員は当時フィリピン方面および内地に残存していたベテランパイロットの多くが招集されています。
新鋭戦闘機「紫電改」の優先供給を受け、当時における最強戦闘機部隊の一つであったことは間違いありません。

しかし、343空が戦略的に活動できたのはごく初期だけでした。
圧倒的な物量・技術・人材の総合戦略をもって押し寄せる米軍に対し、その作戦目的は特攻機援護および爆撃機迎撃を中心とした消耗戦へと変貌し、勇敢に戦った精鋭達も1人また1人と大空に散っていったのです。

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