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次回作品は2月5日になります  2011/01/31

結局2月に、しかも5日になってしまいました。<(_ _)>

前に日記で書きましたが、今回はTシャツ2タイプで制作しております。

1、通常のコットンTシャツ / シルクスクリーン印刷 4色
2、ポリエステルのドライTシャツ / 淡色インクジェット印刷

印刷手法が違うのはそれぞれの素材に合わせたからですが、
両方ともなかなかイイ感じで出来あがりそうです。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■


さて、今回のモチーフ、戦艦「大和」の知名度について考えてみました。

現在において「大和」は誰でも知っております。
しかし、戦時中はどうだったのでしょうか?

大和型戦艦2艦(大和、武蔵)の存在は超軍機であったため
海軍関係者を除き、その存在を知る者はごくわずかであったと考えられます。
そのため、一般国民が報道によって初めて「大和」「武蔵」の存在を知ったのは、
戦後1カ月あまりたった昭和20年9月29日の新聞記事だと言われています。

以下はその紙面です。
※「終戦前後2年間の新聞切り抜き帳」より転載させていただきました。

戦艦大和新聞記事

偲ぶ六万噸の二巨艦 新鋭「武蔵」「大和」壮烈に果つ

昭和11年の軍縮条約廃棄とともにわが海軍は取り敢えず四隻の新型戦艦の建造実現に移った。即ち第一号艦「大和」が昭和十二年十二月八日呉海軍工廠の船台に最初の龍骨が据えられ、さらに越えて昭和十三年三月二十九日長崎三菱造船所で第二号艦「武蔵」が着工された。

(第三号艦、第四号艦は途中空母に改造された)新鋭戦艦の建造は当時世界の視聴をあつめたが、海軍部内でも極秘に附され呉工廠の船台の周囲には巨大な金網が張られ建造に従事した工員たちは秘密保持のために宣誓が行われるなど厳重を極めたものであったが、一部工員たちの間には「怪物」といふあだなで呼ばれていた。

これが建造にあたってはわが艦政本部の知能が総動員され、建造には四ケ年の長年月と莫大な費用を要し、第一号艦は海戦直前の十二月中旬竣工「大和」と命名され、第二号艦「武蔵」は開戦二年目の昭和十七年八月五日竣工「大和」「武蔵」の二新鋭をもって第一戦隊が編成された。

 当時大平洋戦は漸く苛烈の度を加へ、わが戦艦陣は十七年秋の数次にわたるソロモン海戦で「比叡」「霧島」二戦艦を喪なひ、さらに十八年春、戦艦「陸奥」が瀬戸内海で謎の爆沈を遂げ、さらに「日向」が後部砲塔の爆破事件など相次ぐ事件で相当の痛手を蒙ってゐた際であり、二新鋭戦艦の第一戦参加は海軍初のホープとして絶大の清新味を加へたのであった。

 両艦の要目について海軍部内限りの発表によれば、排水量四万二千噸、速力二十五ノット、四十センチ砲九門、十五・五センチ副砲十二門、十二・七センチ高角砲十二門、探照灯八基、馬力九万馬力、機関艦本式十二基、タービン四軸、と発表されたが、実際の排水量は六万二千噸、速力三十二ノットで主砲は十八インチに近い巨砲をのせていた。両艦とも見た目は極めて巨大艦といった感じがするが、その後方に曲線を描いた線とスマートな前橋は遠望すればよく重巡と間違はれたといはれる。

 中前砲塔側はじめ総ての重要な部分は強靱な装甲に覆はれ絶対不沈と称され特にその有する対空砲火は空軍に対しても絶対威力をもつともいはれてゐた。これは「大和」がサイパン海戦の際主砲弾を以て一挙に十数機の編隊を撃墜したと伝へられるが、しかし数々の武勲を秘めた両戦艦も優秀なる米空軍の前には絶対不沈といふことがあり得やうもなく「武蔵」は昭和十九年十月二十六日比島近海「大和」は本年四月二十九日沖縄近海でそれぞれ米空軍により壮烈な最期を遂げた。

 沖縄海上特攻隊は「大和」を旗艦(伊藤整一中将[当時]坐乗)の小数部隊であり米空軍の攻撃は「大和」に」集中され蜂の巣のやうになった同艦は最期に大爆発を起こし一瞬のうちに沈没したが九死に一生を得て生還した M少将 の話によれば「当時私は前橋の戦闘艦橋にゐたが沈没の最後の一瞬まで傾斜を感じなかった」とその壮烈な最期を語ってゐる。




起工日、就役日、排水量に事実と多少の食い違いがありますが、1番大きな違いは沈没日です。
「武蔵」の沈没は昭和19年10月24日ですが、記事では26日となっており、
「大和」(4月7日沈没)の場合はもっとズレが大きく、4月29日と記されています。

また、記事中で証言されているM少将とは
大和前艦長で、当時 第2艦隊参謀長だった 森下信衛(もりした のぶえ)少将のことでしょう。
森下少将は大和沈没が決定的な状況となった時、伊藤整一中将に「総員上甲板」を具申した人で
艦とともに沈もうとする部下達を殴りつけて退艦させました。駆逐艦「冬月」に救助されて生還しています。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■

ちなみに、
4月6日〜7日の水上特攻部隊に関する大本営発表は以下の通り。

■ 大本営発表(昭和二十年四月八日十七時)

一、我航空部隊並ニ水上部隊ハ四月五日夜来
  反復沖縄本島周辺ノ敵艦船並ニ機動部隊ヲ攻撃セリ
  本攻撃ニ於テ
 (一)我方ノ収メタル戦果
   撃沈 特設空母母艦二隻、戦艦一隻、
       艦種不詳六隻、駆逐艦一隻、輸送船五隻
   撃破 戦艦三隻、巡洋艦三隻、艦種不詳六隻、輸送船七隻
 (二)我方ノ損害
   沈没戦艦一隻、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻

二、右攻撃ニ参加セル航空部隊並ニ水上部隊ハ
   孰レモ特別攻撃隊ニシテ右戦果以外ソノ戦果
   ノ確認セラザルモノ尠(すく)ナカラズ  


戦果に関しては相変わらずの“大本営発表”ですが、
大和隊の損害についてはほぼ正しく発表しております。

(二)我方ノ損害 にある
沈没戦艦一隻 というのが「大和」、巡洋艦一隻が 軽巡洋艦「矢矧」のことでしょう。
駆逐艦三隻 これは4隻が正しい。

また、注目は「二」でして、
航空部隊・水上部隊とも「特別攻撃隊」すなわち「特攻」であると発表していることです。
前回日記にも少し書きましたように、特攻死は「二階級特進」が通常措置ですが
大和隊戦没者にはこの適用はなされておりません。
人数が膨大であり、航空特攻に比べて戦没者名の確認が困難という事情もあるのかと思われますが、
やはりこの処置はおかしいですね。




戦艦「大和」の沖縄特攻を見送る零式水上観測機 / コットンTシャツ

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