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疾風 と 紫電改  2016/12/21

このところ私的に色々と重なりまして、Tシャツデザインになかなか時間が取れない状況が続いております。
我ながらキャパシティの少なさを痛感しているところですが、決して完全中断している訳ではございませんので、どうか今後とも気長に見守ってくださいませ <(_ _)>


などと言いながら、いま一番気になっていることは・・・

なぜ陸軍四式戦闘機「疾風」の認知度は低いのか?

だったりします (^^;


零戦や隼の人気に敵わないのは当然と言えますが、同じエンジン(ハ45、海軍呼称:誉)を搭載した紫電改(紫電二一型)に水をあけられている現状は ちょっと寂しいですね。

戦後巻き起こった戦記・零戦ブームから派生した343空・紫電改人気は今も健在で、個性的な3人の飛行隊長や隊員たちにも興味が集まり、毎年戦史書籍・雑誌などで話題を提供し続けています。一方、疾風は実質的にレイテ航空決戦の主力戦闘機であったにもかかわらず、その認知度はかなり低いのです。

ということで、両機をザックリと大雑把かつ無分別に比較してみました。

陸軍 「疾 風」

海軍 「紫電改」

制式採用

昭和19年4月

昭和20年1月

生産機数

約 3500機

約400機
※ 紫電(紫電11型)は約1000機

実戦参加時期

昭和19年8月〜終戦

昭和20年3月〜終戦

作戦地域

中国大陸、台湾、フィリピン、蘭印
仏印、ビルマ、本土(沖縄特攻含む)

本土

配備部隊数

30個戦隊以上

ほぼ343空のみ(戦闘301、701、407)

漫画化

「紫電改のタカ」(1963〜65 少年マガジン)
「紫電改のマキ」(2013〜 月刊チャンピオンRED)

映画化

「太平洋の翼」(東宝、1963)

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ヒット数

キーワード 「疾風 陸軍」 
144,000件

キーワード 「紫電改 海軍」
473,000件


■ 陸軍の期待を背負い、レイテ航空決戦に臨んだ「疾風」 ■


海軍の紫電改は3個戦闘機隊(戦闘301、701、407)から成る343空(剣部隊)での集中運用体制が整備・後方支援も含めて高く評価されています。一方、疾風の本格デビューはフィリピン航空戦で、この時陸軍は、少数機出撃を余儀なくされたニューギニアでの戦訓を活かし、戦闘機機種ごとの集中運用によって決戦に臨もうとしていました。具体的には、各戦隊の疾風、隼を機種別に再編し、使用飛行場群を区別して補給・整備の効率化を図ることにより 多数機同時出撃を実現しようという構想です。象徴的な疾風部隊としては、レイテ決戦最中の昭和19年10月末、ネグロス島に集結した第30戦闘飛行集団が挙げられるでしょう。「皇(すめら)部隊」と称された飛行第200戦隊を中核に、飛行第1、第11、第22戦隊などの5個戦隊から成る同集団は100機以上の疾風を集中運用することになっていました。


フィリピン航空決戦要図

しかし陸軍航空隊にとっての誤算は、これら戦闘機部隊の進出が天候不良や機体トラブルなどによって遅延してしまい、肝心の初期航空戦に集中投入できなかったことでした。( もちろん、最大の責任はルソン決戦からレイテ決戦へ急遽方針変更した大本営にあるのですが・・・ ) 10月20日にレイテ湾に上陸を開始した米軍はタクロバン飛行場などの滑走路整備に約一週間を費やしており、P-38などの陸軍機が本格的に進出を開始したのは10月27日でした。この間、レイテ湾を守る米航空兵力の主力は護送空母群のF4F、アベンジャーといった比較的組しやすい?相手だっただけに・・・出遅れの代償は大きかったと言えましょう。  ※ 歴史に If は禁物ですが、もしこの時期に大規模な戦爆連合によってレイテ湾を反復強襲し、敵輸送船団や物資集積所に大損害を与えることができていれば、レイテ島争奪戦の様相は少し変わっていたかも知れません。

さらに、初動の遅れにより 戦場が近かったことが裏目に出てしまいました。 レイテ決戦における陸軍航空部隊の根拠地・ネグロス島からレイテ島までは 220km余しかなく、疾風部隊が集結しつつあった頃、海軍航空隊の根拠地・セブ島を含めたレイテ島西方一帯はすでに激しい空戦場と化していたのです。このため、第30戦闘飛行集団の整備員多数を乗せてマニラを飛び立った輸送機がF4Fに撃墜される悲劇が起こります。もともとトラブルの多い発動機(ハ45)に加えて貴重な整備員の喪失、整備器具・部品・機関砲弾・落下増槽・通信機器など戦略物資を載せた輸送船も次々と海没し、さらに連日の飛行場爆撃を受けて疾風部隊の稼働率は急激に低下していきました。特攻が常態化する中、 レイテ方面の日本陸海軍戦闘機隊は増援を受けつつ必死の奮戦を展開、昭和19年12月初旬まではP-38 L、B24を中心とる米陸軍 第5空軍を相手に有効な戦闘を続行しています。しかしその後、米38機動部隊のF6F、さらに海兵隊のF4U も参入するに至り、彼我の戦力差は開く一方となりました。そして12月15日、米軍はセブ島、ネグロス島をスルーしてミンドロ島へ上陸を開始します。こうして大本営の甘い見通しから発動されたレイテ決戦構想はわずか1か月で崩壊、米軍のルソン島西岸・リンガエン湾への上陸はもはや避けられない事態となったのです。


■  ■  ■  ■


昭和20年3月19日のデビュー戦(松山上空航空戦)が今も語り継がれる紫電改に対し、過酷なレイテ島争奪戦で本格的初実戦を迎えたがために、目立った戦果を上げることが出来なかった疾風・・・やはり不運だったのでしょうか。



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