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スリガオ海峡に眠る英霊 2014/10/20


昨日の日曜日、戦艦扶桑、山城 戦没70周年慰霊祭に参加させていただきました。
場所は両戦艦「艦内神社」の氏神さま「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう / 京都府八幡市)、
爽やかな秋晴れの下、参拝者40名を超える盛況でした。

戦艦「山城」「扶桑」の氏神さま、石清水八幡宮

キッカケは元「瑞雲」搭乗員のK元海軍中尉(以降K中尉と略させていただきます)から届いた案内状でした。
K中尉には「瑞雲Tシャツ」制作時にアドバイスをいただくなど大変お世話になりました。
その後、幾度か慰霊祭へのお誘いをいただいたのですが、私の怠慢から参加できず、
内心恥ずかしく思っていたところでしたので・・・今回は救われた想いです。

K中尉は 昭和18年9月、大学卒業とともに「海軍飛行予備学生 第13期」に応募され、
国家国民を守るため自ら海軍航空隊を志願された方です。

三重空、青島空での訓練を経て、昭和19年7月 重巡「最上」水偵偵察員(零式水上偵察機)として着任、同艦とともにレイテ沖海戦に参加しました。戦艦「山城」「扶桑」重巡「最上」を中核とする西村艦隊は、10月24日深夜〜翌黎明にかけてスリガオ海峡突破に猛進しましたが、米海軍の待ち伏せ攻撃を受けて「扶桑」「山城」は沈没、多数被弾した「最上」も翌朝の航空攻撃で航行不能となり処分(自沈)されます。K中尉を含む「最上」生存者約700名は駆逐艦「曙」に救助されてマニラへ移送されました。

上陸後、K中尉はマニラ湾キャビテ水上機基地に展開中だった「634空瑞雲隊に転籍となり、今度は水上爆撃・偵察機「瑞雲」の機長(偵察員)としてレイテ方面への出撃を重ねることとなります。2か月余りで100名以上の瑞雲搭乗員が戦死したと言われる苛酷な状況の中でK中尉は辛くも生き残り、台湾(東港)を経て昭和20年4月に内地帰還を果たしました。しかし、そこで待っていたのは鹿屋基地での特攻待機でした。死を覚悟したK中尉でしたが、航法訓練教官として大井空への転籍が決り、九死に一生を得て終戦を迎えます。


今年で92歳(のはず)となられたK中尉ですが、
記憶力、語り口ともに微塵の衰えも無く、その意気軒昂ぶりにはただ驚くばかりです。
慰霊祭後の懇親会では訓示も含め貴重なお話を聞かせていただきました。
ランダムですが、以下は私の記憶に基づくその概要です。

■ 実戦初配属が連合艦隊だったが、同期ではごく僅か(6名ほど)であり光栄に思った。

■ スリガオ海峡への進撃中、乗艦「最上」から見た「山城」「扶桑」はどうしてもその劣速が目立ち、
どこか頼りなげに映った。
 ※ 資料を見ると、当時「山城」「扶桑」両戦艦の速度は24〜25ノット、対して最上は37ノットとある。

■ ある映画で、攻撃を受けた空母艦上で服に火がついた搭乗員が転げまわる〜といったシーンがあったが、そのような光景を見たことは無い。実際の戦闘ははるかに凄惨で、爆弾や機銃が当たれば人間は肉塊・肉片となって飛散し、周囲は血の海、手足や首の無い戦死者や瀕死の重傷者がそこかしこに転がっている、というのが現実だった。

■ キャビテで「瑞雲」搭乗と決まった時は、最新鋭機で戦える喜びを感じた。
 ※ 「瑞雲」は水上機でありながら両翼に20正―藤可髻後席に13正―藤営鬚箸い戦闘機並みの武装を持ち、
   降下爆撃も可能だった。

■ 瑞雲の戦闘では正直何度も「恐怖」を感じたが、P−38に出くわさなかったのは幸運だった。
艦上機F6Fは数度やり過ごせば母艦に戻っていくが、陸上機のP−38はしつこく追ってくる傾向があった。

■ 戦場における生死の分かれ目は、艦艇乗組みの場合は運が100%、航空機の場合は運70%、技量30%だと感じた。航空機の場合は、相手(機種や艦種)と自機の状況(燃料残量や機位)を冷静に判断・対処する技量があれば切り抜けられる。この技量とはいわゆる「要領」も多分に含む。

■ 女性の社会進出奨励は結構だが、やはり日本女性の基本は良妻賢母。
そして、今の日本人はまず男がしっかりしなければならない。
「男が女を守る」これこそが日本人社会の良き伝統であり、基本である。

■ 戦後70年に至っても日本人は過去への反省を続けるばかりだが、もう「前」を向いていかねばならない。
 ※ 歴史捏造に対しては決然とした態度を取らねばならない、という意味だと解しました。



「スリガオ海峡海戦」で壊滅した西村艦隊の沈没艦艇は以下の通り。

◆ 戦 艦・・・「扶桑」「山城」
重 巡・・・「最上」
駆逐艦・・・「満潮」「朝雲」「山雲」

乗組員半数以上の約700名が救助された「最上」を除いて各艦艇の生存者は極端に少なく、
「扶桑」「山城」では乗員のほぼ全員、約3000名が戦死したと言われます。


今もスリガオ海峡に眠る英霊に感謝。




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戦艦山城の進水式

【 左 】 戦艦「山城」進水式の奉納写真

今回の慰霊祭では、昨年「石清水八幡宮」の倉庫で発見された「山城」の奉納写真2枚を見ることができました。ひとつは進水式時の「山城」(左画像)、もう一つは完成後の艦体全貌を捉えたものです。

「扶桑」「山城」は日本海軍が初めて建造した“超ド級戦艦”で、完成時の大正初期においては、排水量はもちろん、艦型、兵装ともに世界最大・最強の戦艦でした。



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