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「ツィタデレ作戦」(クルスクの戦い)について  2010/07/25

「スターリングラード攻防戦」に続き独ソ戦の決定的転換点となったのが、19437月の「クルスクの戦い」である。

独ソ戦3年目の1943年春、中央ロシアにおける独ソ両軍戦線には、幅200キロ奥行き150キロに及ぶ「クルスク突出部」と呼ばれる前線が形成されていた。

ドイツ軍はこの突出部に対する南北からの挟撃包囲作戦 『ツィタデレ(城砦)』 を計画するのだが、これはヒトラー独特の政治的判断によるものであった。実際、ドイツ国防軍中枢で積極的に賛成する者はほとんどおらず、第9軍司令官・モーデル上級大将、装甲兵総監・グデーリアン上級大将、軍需大臣・シュペーアらは攻撃自体行うべきではない(自殺行為である)という見解を示したが、ヒトラーは強引に作戦実施を決定する。

また、ソ連側防備体制をある程度把握していた南方軍集団司令官マンシュタイン元帥は実行延期による状況悪化を危惧し、遅くとも5月中の作戦実施を具申している。

当時の
ヒトラーにとっては東部戦線の主導権を奪回するという戦略的目標もさることながら、当時イギリスと接触していた中立国トルコや東欧枢軸諸国の動揺を抑える政治的戦略としての「大勝利」が必要だったのであり、戦闘の「切り札」としては実戦配備間近だった新型中戦車「パンター」(豹戦車 / 更羸鐚屐砲よび重駆逐戦車「フェルディナント」(エレファント)に大きな期待をかけていた。だが、ヒトラー自身この作戦に不安を抱いていたことは明白で、5月の時点で再考を求めたグデーリアンに対してこう答えている。

君の言うことは、全くもって正しい。この計画の事を考えると、私自身も胃がひっくり返りそうになるのだ!

クルスクの戦い

しかし、期待の新型戦車「パンター」の部隊配備は5月末と遅れたうえ、エンジン系初期不良の続発により訓練さえままならない状態に陥ってしまう。この結果、ヒトラーによって作戦開始日は何度も延期され、最終的に75にまでずれ込んでしまうことになる。


一方、連合国側より刻々と情報を入手あるいは巧妙に盗み取っていたソ連側は、ドイツの攻勢計画をほぼ正確に把握しており、クルスク突出部およびその東方地域に幾重ものバックフロント(対戦車陣地)・地雷原を構築しつつ急速な戦力増強を進めていた。同時期に編成された「ステップ軍管区」(ステップ方面軍)は、まさにこのドイツの攻勢に備えた予備軍として新設されたものである。

また「対独単独講和」をカードに米英を揺さぶり、武器貸与法を結ばせた(194110月)スターリンのしたたかな手腕も特筆もので、米国から送り込まれる大量の兵站物資はこの頃から徐々に戦場でその効果を表し始めていた。ソ連軍の機械化・自動車化がドイツ軍をはるかに凌駕していたのも支援による効果が大きい。

さらに、諜報活動によって「日本独ソ戦不介入」を的確に判断し、ソ満国境の精鋭部隊を欧州戦線へ投入できていたこともこの戦力増強に少なからず影響していたと思われる。


つまりは、この時点でドイツ側の目標である「迅速な挟撃包囲殲滅作戦」はすでに幻と化していたといえよう。
しかも両軍中枢ともほぼ正しくその可能性を理解していたという、誠に妙な?状況であった。

75早朝、ドイツ軍は陸・空の総力を挙げて攻撃を開始する。

ドイツ軍が同作戦に投入した主要戦車は以下の通り。

弦翆羸鐚 ・・・・・・・・・・・・・・・・841輌

更翆羸鐚屐屮僖鵐拭次廖ΑΑΑΑΑΑΑ200輌 (南部戦区のみ)

差羸鐚屐屮董璽ーガー機廖ΑΑΑΑ143輌

●重駆逐戦車「フェルディナント」 ・・・ 89輌(北部戦区のみ)


※戦闘詳細は情報不足でとても書けませんので、以下はドイツ軍中心の大まかな推移です。
<(_ _)>


ドイツ軍の激烈な攻勢に対し、用意周到に準備していたソ連軍は執拗に反撃。
北部戦区は攻勢2日目にして早くも膠着状態となる。
南部戦区に於いては、ドイツ軍は巧妙な機動で敵戦車を次々と撃破しつつ見事な戦車整備能力も発揮して前進するが、周到に構築された縦深陣地・地雷原と湯水の如く湧いてくる敵戦車群・空軍の人海戦術的反撃の前に
その前進スピードは鈍り、戦況は急速に泥沼の消耗戦へと変貌してゆく。
(※710地中海戦域において、連合軍のシチリア島上陸作戦が開始される。)
712、“史上最大の戦車戦”とされる「プローホロフカの戦い」が生起。
これによりソ連軍予備兵力「ステップ方面軍」の一部を引きずり出し、痛打を加えたドイツ軍だったが・・・
陸・空を大量の敵味方が交錯する苛烈な戦闘の末、第2SS装甲軍団の進撃は阻止される。
さらに同日、北部戦区全域にわたりソ連軍の総反撃が開始され、もはや作戦目標の達成は絶望的となった。
713、ヒトラーは「ツィタデレ作戦」の中止を発令するとともに、プローホロフカで奮闘中の第2SS装甲軍団(3師団)を即座にシチリアへ送るよう命令を下すが、この無茶な指令は間もなく撤回されている。
(ヒトラーはイタリアの枢軸離脱を極端に恐れていたといわれる。)
その後も南部戦区での戦闘は継続され、南東部ではドイツ軍ケンプフ軍支隊・第3装甲軍団の進撃が続いていたが、
715、ヒトラーは再び南部戦区での攻撃中止を命令。

こうして10日間にわたった「ツィタデレ作戦」はドイツ軍の戦略的完敗で幕を閉じる。

クルスクの戦いクルスクの戦い

以後、東部戦線においてドイツ軍が主導権を奪回する機会は2度と訪れず、終戦まで絶望的な防御撤退戦を余儀なくされることになる。多くの歴史家が指摘しているように、ドイツにとって「ツィタデレ作戦」の実施はまさに『終わりの始まり』だったのかもしれない。



主な参考資料

『クルスクの戦い / 戦場写真集 南部戦区 19437月』(J・ルスタン+N・モレル著、大日本絵画発行)

『「歴史群像 2007 2月号No81 / ツィタデレ作戦』

『第2次世界大戦ブックス15 ドイツ機甲師団』(ケネス・マクセイ著、加登川幸太郎・訳、サンケイ出版)


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