最後ノ水偵 「瑞雲」 奮戦ス
【 水上機王国、日本海軍 】 古今東西、日本海軍ほど水上機を重視しかつ開発・運用した軍隊は見当たりません。日華事変における「九五式水上偵察機」の万能的活躍にその可能性を見出した海軍は、以後大東亜戦争終戦に至るまで様々な水上偵察機(水偵)の開発を続けました。その飽くなき挑戦は大東亜戦争の主力となった傑作機 「零式三座水上偵察機」 「零式水上観測機」を生み出し、偵察・空戦・攻撃能力のさらなる向上を追求した 「紫雲」(高速強行偵察)、「瑞雲」 (急降下爆撃)、「晴嵐」(潜水艦搭載 特殊攻撃機)へと至ります。 ▼
初期の侵攻作戦時には大いに活躍した水偵も、制空権を喪失した後期以降は苦境に立たされました。 |
今回は苛酷な戦場で奮闘した水上機搭乗員の方々に敬意を表し、日本海軍最後の制式水偵(※)で「水爆」(水上爆撃機)の異名を取った「瑞雲」(E16A1)をテーマとしてデザインさせていただきました。モチーフは昭和19年10月のフィリピン進出以来終戦まで一貫して瑞雲部隊を運用し続けた「海軍第634航空隊」(634空)です。
【 前面 】 25番(250㌔爆弾)を抱いて離水する「瑞雲」 |
25番(250㌔爆弾)を抱いて離水する634空「瑞雲」
“水上機らしさ”が最も際立つ「離水シーン」をデザインしてみました。
胴体下の250㌔爆弾は目立たせるために実際よりやや大きく描いております。 |
◆ ◆ 愛知 水上偵察・爆撃機「瑞雲」 ◆ ◆
昭和15年2月、愛知航空機に試作内示された「十四試二座水上偵察機」※の海軍要求は ● 指定発動機=当時最高出力レベの三菱「金星」50型系 1300hp ● カタパルト射出常用 ● 250㌔爆弾による急降下爆撃実施容易 ● 格闘戦に優れる ● 最大速度250ノット(時速463km)● 航続距離1400海里(約2600km 偵察重量)など、フロートを下げた水上機では到底実現困難と思われる苛酷なものでした。 昭和17年5月、愛知技術陣は苦心の末、以下のような新機軸を盛り込んだ試作機完成にこぎつけます。
□ 空力的に優れたスマートな機体を追求し、フロート支柱はワイヤー補強の無い片持ち式とする
しかし、この時点で海軍の予定からはすでに1年以上の遅れが出ていました。
水上機としては稀にみる高性能を持つ「瑞雲」は航空戦艦「伊勢」搭載の“艦爆兵力”として期待されましたが、急激な戦局悪化で母艦搭載による運用は実現せず、基地航空兵力としてフィリピン決戦、沖縄決戦に投入されることとなります。量産は愛知航空機と日本飛行機が担当し、終戦までに256機が生産されました。 |
キャビテに帰還した634空「瑞雲」と迎える整備員たち
レイテ決戦から実戦投入された634空 瑞雲隊 第4航空戦隊( 航空戦艦「伊勢」「日向」)の艦爆兵力として昭和19年5月に編成された634空でしたが、6月の「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)には間に合わず、その後 台湾沖航空戦(10月12~16日)が発起すると母艦から分離して台湾へ進出、さらに「捷一号作戦」の発動を受けて10月下旬にフィリピン・ルソン島へ前進します。 マニラ湾南東岸のキャビテ水上機基地に展開した634空瑞雲隊は、数日遅れで進出したもう一つの瑞雲部隊「801空・偵察301飛行隊」(偵301)を指揮下に入れ、レイテ島・ミンドロ島方面への夜間攻撃・索敵を繰り返しますが人員・機材の消耗は激しく、翌昭和20年1月上旬、米軍のルソン島リンガエン湾上陸開始とともに搭乗員には台湾・本土への脱出命令が下されました。このフィリピン戦で失われた瑞雲搭乗員は100名以上に上ると言われています。 構図は、キャビテ水上基地に無事帰還を果たした瑞雲を想像で描いています。整備員も含め、出来る限り多くの「人間」を描きたかったため、このような絵となりました。
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◆ ◆ マニラ湾の要衝 ・ キャビテ軍港 ◆ ◆
マニラ湾内に突き出た半島は絶好の艦隊泊地としてスペイン統治時代から活用され、米西戦争後はアメリカ海軍が管理、大東戦争戦争勃発に伴って日本海軍が進出しました。現在はフィリピン海軍の基地として使われています。 |
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◎ 使用Tシャツ : クロスステッチ OE1116 |